Monthly Archives: June 2010


先日、PRAの友人であるロエル・ギリタンよりメールが入った。ロンドンで心臓の手術をしている姪の輸血ために1400ポンドの資金がいる。至急いくらでもいいから送金して欲しいというものだった。cc蘭にはこのメールが多数の人に送られていることが見て取れた。 私としては、先日、1ヶ月もの長期休暇を取ってカナダに旅行してきたばっかりのロエルに、たかだか1400ポンドのお金の融通が出来ないはずはないし、お 金の送り方も面倒くさそう、さらに2~3日前にPRAで彼に会ったばっかりなので、半信半疑で、とりあえずほっておいた。 そして次に入ったのが、次のメールだ。ロエルとは親交のある日本人退職者の方からだ。 “皆さん、お早うございます。お元気でお過ごしでしょうか。当地はやっと雨季に入り、一寸涼しくなりました。 ところで、日本では電話による「振込め詐欺」の被害が多く出ていることを知っていますが、Eメールでも「振込め詐欺」があることをお知らせしたいと思います。 昨朝、あるフィリピン人からEメールが届きました。メールのタイトルは「緊急なお願い」でした。彼は私がフィリピンの永住ビザ゛を取得する際にお世話に なった公務員で、その後、彼をイロイロの拙宅やタイの農園へ招待しりして親交を深めてきました。そのメールの内容は、彼の姪が心臓の手術をロンドンで受け なければならなくなったので、緊急にロンドンへ来た。しかし、輸血や手術の費用が莫大であるので、至急支援をお願いしたいというものでした。そして送金先 や受取人の名前(彼の名前)と住所も併記してあり、CC欄にはたくさんのアドレスが書かれており、それには私の別のアドレスも含まれていましたので、その メールを信頼し、なけなしのお金を近所にある指定の送金屋から送金すると同時に、送金したことをメールで彼に知らせました。 その直後、 彼から電話が掛かりました。彼は「私はロンドンにいない。マニラにいるよ。お金を送らないで!国家警察に事件を知らせる調書を出す。」というものでした。 彼は他の友人からの問合せで「振込め詐欺」に気付き、関係の友人に電話してきたのです。私は急いで送金屋へ行き、送金をキャンセルし、お金を払い戻しても らいましたが、送金手数料(800ペソ)の払い戻しはできませんでした。 […]

フィリピン版振込め詐欺にご注意 2010年6月30日


 6月23日、PRAの25回目の創立記念パーティに参加した。1985年マルコス政権下で誕生したPRAも立派な青年の年になった。さすが25回目の節目の年とあって、マニラ湾の埋立地に建つソフィテル。フィリピン・プラザという五つ星のホテルのボールルームを借り切って盛大に行なわれた。 レセプションはPRAの若手女子社員の担当だ。PRAの受付担当でおなじみのミネットやジェシーの顔もあった。左下はいつもお世話になっているバンク・オブ・コマースのジョセフとミネットのツーショット。  会場はボールルーム全室を借り切ったようで広大だった。会場いっぱいにテーブルが並べられ、ほぼ満席だ。しかし、このように席が固定されていると、参加者同士の交流がテーブルだけ限られてしまうのでどうかと思う。食事の方は前回と違い、会場の両側にビュッフェスタイルの食事が置かれ、ほとんど待つことなしに持ってくることができた。会場の外にも料理がおいてあって、お祭りに欠かせないレチョンもあった。この日は皆たらふく食べることができて満足の様子だった。しかし、ビールやワインは有料というのがまたPRAのせこいところだ。 催し物はバンドと学生の歌手が一人という寂しいものだった。ほとんどの時間はスピーチと20年勤続者の表彰、その他PRA関連の功労者の表彰、ラッフルなどが続いて盛り上がりを欠き、退屈して中途で帰る人が続出した。

PRA創立25周年記念パーティー 2010年6月25日



今年に入ってから、退職ビザを申請する方々の傾向に顕著な違いが出てきている。昨年はフィリピン人の妻を持ち、日本に見切りをつけて妻の国であるフィリピンで暮らそう、という方が目立ったが、本年度は下記の傾向が目立つ。 1. 昭和21~22年生まれの団塊の世代が、いよいよ動きだした。独身ないし単身で第二の人生をフィリピンでやってみようというのだ。奥さんは奥さんで好きに生きて、必ずしもご夫婦でフィリピンに住まおうとするわけでもない。 2.  30代あるいは40代の方で、ある程度の資産を持っている方たちが、夫婦、子供連れで移り住もうとしている。この方々は最低5万ドルを定期預金としなけ ればならないのだから、その年齢でそれだけの余裕の資金があるということだ。そして当然のことながら、フィリピンで何らかのビジネスを模索する。 3. 子育てをフィリピンで経験した駐在員の妻達が、亭主が日本へ帰国してもフィリピンに居残るケース 。   団塊の世代は、いつフィリピンにやって来るかと首を長くしていたところだ。3年前の60歳で動きだすかと思ったら、年金支払いの繰り延べの関係で、実質的 定年が63歳まで延長され、しばし顕著な動きがなかった。戦後の日本を担ってきた団塊の世代の老後の生活の選択肢は海外なのだ。  一方、若い資産家の方々は、日本の経済の先行きに不安を持ち、フィリピンに生活の拠点を移動することにより、自分達の資産ないし生活を防衛しようという考えのようだ。   確かに、小泉政権後の国政をつかさどる首相の在任期間は自民党、民主党合わせて、4人連続して1年に満たなかった。所詮、誰が首相になろうが閉塞された日 本の経済はどうしようもなく、いずれ破綻するのは目に見えている。極最近でもギリシャの国家財政の破綻により、ヨーロッパ中がパニックに陥ったように、国 家でさえ破綻する時代なのだ。アメリカがくしゃみをしたら、日本の経済は肺炎で入院してしまうだろうとさえ言われている。そのアメリカも黒人大統領オバマ […]

退職ビザ申請者の最近の傾向 2010年6月20日


どなたかが日本で亡くなった場合、ほとんどの場合、家族の方がいろいろ動いてことを運ぶ。しかしながら、独り身で滞在していることが多いフィリピンで は、誰か他人がことを運ばなければならないことも多々ある。その場合、多くのことが、家族の同意を必要とするから、なかなか難しい面がある。一方、例え家 族の方がフィリピンにやってきたとしても、なれない外国で色々ことを運ぶのは、言葉の問題もあいまって、大変難しい。  最近、家族の方がやってきた場合と、家族の方が誰も来られなかったケースについて、退職者の危篤に至ってから、死後までのお世話をする機会があったので、必要な手順や問題点、その対処法などをまとめてみた。 1. 危篤になったら   日本人が重病にかかるとフィリピンでももっとも高いとされるマカティ・メディカル・センターなどの一流病院に入院させられてしまう。その場合、治療費も含 めて毎日数万ペソの金がかかる。日本の健康保険は効くことは効くが、とりあえず立替払いをしなければならない。一方、当地の医療保険に入っていれば、 キャッシュレスのサービスもあるが、まだまだ普及していない。だから、まず入院させる前に財布の心配をしなければならない。ところがフィリピン人の多く は、日本人はお金持ちと思っているから、即座に一流病院に入れてしまう。あとから「あんな病院に入れたから、死んでしまった」などと家族から文句を言われ たくない、という思いもあるのだろう。  そのため、入院となったら、本人とともに周囲が初めに考えなければならないことは、どこまでの治 療あるいは手術をするかだ。その退職者の資産状況により、行なうべき治療の限界を見定めておかなければならない。そうでないと面倒を見た周囲の人が入院治 療費をかぶらなければならなくなってしまうことさえある。例え、家族の方が責任をとるとしても思いがけない負担になる。  フィリピンでは […]

退職者が死んでしまったら 2010年6月17日



 グリーンベルトといえば、高級店の並ぶマカティでも最もモダンな地区で有名だ。しゃれたレストランが建ち並ぶが値段も高級でちょっと気軽にお食事という わけには行かない。しかし、庭園に面していない裏側のレストランは、やはりしゃれてはいるが、値段がリーゾナブルな店が多い。 先日、ビ ザ発行待ちのご夫婦が、安い店を見つけたということで、招待されたのが中華料理の「グロリア・マリス」だ。超高級コンドミニアム、アヤラの「レジデンス・ グリーンベルト」あるいは「ニューワールド・ルネッサンス」側、エスペランサ通りにある「グロリア・マリス」は、かのジュピター通りの「ルートンマカオ」 と同等の値段で、安心して食事ができる本格的中華レストランだ。この日は、7人で、2600ペソ、一人当たり、400ペソに至らなかった。 先日、PRAのビザ発行部門の部長だったフィリップさんが日本に2年間留学するということなので、壮行会と私の相棒の赤ちゃんの顔見世を兼ねて食事を共 にした。日本語を特訓中のフィリップさんは片言の日本語で話しかけるが、まだまだ実用には程遠い。7月には広島に向けて出発するそうだが、頑張ってくださ い。 赤ちゃんの「キアン」はまだ2ヶ月ちょっとというのに髪はふさふさで、かなり大型のベイビーだ。外に出かけると全然泣かないで、終始ご機嫌だ。  エスペランサ通り沿いには有名な日本料理店「杉」が「グロリア・マリス」のすぐ近くにある。「杉」は本格的な日本料理だが、客はほとんどフィリピン人で いつも席待ちの人がいるぐらい繁昌している。値段は決して安くはなく、マカティ・スクエア近辺の日本料理店よりも高いくらいだ。 「グロリア・マリス」の両隣はインド料理の「ニューボンバイ」とステーキハウスの「テンダー・ボッブス」で表のメニューを見る限り、なかなかリーゾナブルな値段だ。こんど試してみたいと思う。  表に出ているメニュー(グロリア・マリスとテンダー・ボッブス)は細かくて見づらいが、クリックして拡大してみると、それぞれの料理の値段が 200~300ペソでとても安いことがわかると思う。グリーンベルトの庭園を散策した後、食事はちょっと裏に回って食べるのが高級感を安く楽しむコツのよ […]

格安中華料理店「グロリアマリス」の紹介 2010年6月16日


昨年来手がけているフィリピンで亡くなった退職者の遺産相続手続きのお手伝いで、私の相棒であるフィリピーナとともに日本に出張した。木曜出発して、金曜と月曜日に手続きを行ない、火曜には戻るという慌しいスケジュールだったが、かのフィリピーナは日本を満喫できたようだ。 この日の JL746便は伊豆七島に沿って北上し、遠くは伊豆半島、近くには房総半島がはっきりと認識することが出来た。地図で見ると島々は点々とあるが実際にみる と意外とくっつきあって見える。かつて100回以上は羽田や成田に降りていると思うが、伊豆七島をこんなに満喫するのは初体験だ。 初日の金曜日は、朝9時に渋谷のハチ公前で待ち合わせ、その後、公証役場へ向う。横浜を7時半ごろ通過したが、丁度ラッシュ時、駅を駆け足で行き交う 人々をながめて、驚きの声を上げている。東急東横線で渋谷へ向ったが、急行はぎゅうぎゅう詰めなので普通でゆっくり行ったが、マニラのLRTも朝は相当混 むらしい。ラッシュ時には女性専用車両があるのも同じだが、その女性専用車両が日本にもあるのを知らなかった私は、見渡して見ると男が誰もいないのを不思 議に思い、それが女性専用車両であることに気がつくのに数分を要し、次の駅であわてて車両を変えた。  日本での移動はほとんど鉄道だ。しかし外国人にとって切符を買うことが不可能であることがわかった。とにかく列車の料金表示が日本語だけなのだ。だからいくらの切符を買ったらよいのかわからない。しかしSuicaなら自動的に精算されるので、外国人はSuicaを買い求めて移動するのが良いだろう。   渋谷は私が高校時代、毎日通学した街。ハチ公は今でも健在だった。ハチ公の話をしてあげたら、これまた、いたく感激していた。帰りは新宿から横浜へ向ったが、座れないのでグリーン車へ行く。切符を切る車掌さんが女性というのは中々良い。  横浜では中学生や高校生に声をかけて、はいポーズ。英語で話しかけると彼らはパニクッて、二つ返事でOKしてくれる。私が声をかけたら、逃げ出すか、警察に突き出されてしまうだろうが、外国人にはめっぽう弱いのだ。 この日は私の自宅に招待したが、とりあえず住宅周辺の街とジャスコに案内。ほとんど人気のない街を見て、呆れ顔のポーズ。 スーパーの品数の豊富さときれいな陳列に、関心することしきり、しかし商品を買う人がほとんどいないので、これでやっていけるのかと、心配することしき り。しかし、試食は多いにウエルカムで、日本でお腹がすいたら試食で腹を満たせると、日本でのサバイバルにも自信を持った様子。 […]

フィリピーナの金なし日本紀行(その1)2010年6月13日



  土曜日は、雪を見たいというたっての希望で富士山へ向った。途中サービスエリアに立ち寄ると、行楽日和とあって大勢の人がやってきていた。そこでびっくりしたのが、清潔なトイレだ。公共のトイレでありながら、これだけ手入れのされたトイレはフィリピンなら五つ星ホテルくらいにしか見当たらない。子供用のトイレも芸術的なデザインとまで言える代物に脱帽の様子。 そして、数多くの、まるでモールのようなレストランやみやげ物売り場だ。もちろん試食には目がない。パン屋さんにもことの他、興味を示しているが、ゆくゆくはパン屋さんを経営することを夢見ているそうだ。  御殿場インターを降りたところで、フェラーリの隊列を見かけた。きっとフェラーリ同好会か何かの集まりだろう。数千万円もするような車を乗り回すなんて、日本にもお金持ちはいるようだ。ちなみに中古の軽自動車に乗ってでかけたのだが、我々の車以上にみすぼらしい車は見当たらなかった。 この日は曇りがちだったために富士山の頂上は拝めなかった。しかし、5合目まで来るとさすがに寒く、上着がないと表には出れない。富士山の5合目は標高2400mとあったが、これはマヨン火山の頂上に近い高度だ。  5合目からながめるとようやく待望の雪が見えた。しかし、産後間もない彼女としてはそこまで上るわけには行かず、次回のチャンスを待つことにした。 富士山の麓には多くのリゾート施設が出来ていた。リゾート牧場というので行ってみたら、ほとんど富士の裾野で生産している乳製品を売るだけの店で、当方がマヨン火山で展開しようと夢見ているリゾートファームとは程遠いものだった。 最後にたずねた白糸の滝、周囲は民家があるというのにここはうっそうとした森に囲まれ、意外に見ごたえがあった。 翌、日曜日は千葉の兄の家にでかけて行ったが、途中デズニーランドに立ち寄って、外だけを見てきた。中に入ったとしても、ほとんどの時間が待ち時間と聞いており、そんな無駄な時間をすごすことは、とても出来る相談ではない。そして車で走っていて、やたらと目に付いたのがトヨタのハイブリッドカー、プリウスだ。リッター30km近くは知るのだと話したら、目を丸くしていた。 千葉の北の方まで行くと、立派な農家が目立つ。これがファーマーの家だというと、またびっくり。是非フィリピンの人たちに見せたいというので、失敬して写真を撮らせてもらった。 この日の終わりは宿の近く、横浜中華街。マニラの中華街とは違って、完璧な観光地だが、そのど派手な外装に興味深く眺めていた。中国人の血を引く彼女だが、中国語も話せず、地元の中国人には別に興味がないようだった。

フィリピーナの金なし日本紀行(その2)2010年6月13日


横浜の石川町の街角ではごみ収集の様子や自動駐車場に注目。フィリピンなら必ず人がいるのに、ほとんどの駐車場が自動でお金を集金を行なっているのが彼女にとってはすこぶる珍しい。また、さらにタクシーの運転席と客の間のプラスチック板も興味深い様子だ。  フィリピン大使館の用事は予想外にスムーズに運んで時間が余ったので、依頼人の案内で浅草見物に行った。私としても高校以来40年以上振りだ。やはり外国人にとってはとても、ものめずらしいようで、彼女は写真写真と大はしゃぎだった。聞いてはいたものの、観光用の人力車がかなりの数出ていたが、かなりのもうけになるそうだ。       彼女はクリスチャンのはずだが、なぜかしっかり仏様にお祈りをしていた。お線香の煙のご利益もしっかり受け止めていた。フィリイン人は宗教的にあまり固くはないようだ。 このバスも浅草名物として運転されているのだろうか。なかなか良いデザインだ。   寿司は食べなれているとしても回転寿司はフィリピンにはない。この日は是非ということで回転寿司で昼食をとらせてもらった。これだけの寿司料理が次々と回ってくる様子は迫力ものだ。この光景に彼女もしごくご満悦の様子だ。 その後、人と会う約束があり、新宿の街をぶらついた。高校生は相変わらずミニスカートでロングが絶対のフィリピンから来ると、異様に移る。一方、マルイの売り子さんのドレスが気に入って一枚。  久しぶりにやってきた新宿は私が持っていたイメージとは全く重ならなかったが、この日、面会した人の案内で歌舞伎町に向ったとき、そこで初めてあのころの新宿に出会うことが出来た。私の新宿のイメージは歌舞伎町だったのだ。ここには雑踏と喧騒があり、マニラに通じるものがあり、なにかほっとする思いだった。新宿の名前はマカティのリトル東京の新宿ラーメンでおなじみの彼女も、歌舞伎町に大変親しみを持ったようだ。夜の歌舞伎町に案内してくれるということだったが、産後間もない彼女が、今日は歩きすぎてお腹が痛いというので、断念。一人で帰すわけにも行かないので、次回ということにして横浜に向った。湘南新宿ラインのおかげで横浜と新宿も近くなったので、次回、日本を訪問した際は是非夜の歌舞伎町を覗いてみたい。 火曜は帰国の日だ。この日の午前中、東京駅丸ビルで、退職ビザ関係のパートナーと面会した。投資コンサルタントの方々で、お客さんがフィリピンに注目し始めているそうだ。今後多くのお客さんとフィリピンを訪問する予定とのことで、今回の初顔あわせとなった。 いよいよ空港に向うが、東京駅の総武線のホームは地下5階。長いエスカレーターに地震がきたらどうしようと、緊張気味だった。空港のデューティフリーを覗いてみても、先日SHISEIDOブランドを大量に買い込んだマツモトキヨシの方が安いと見向きもしない。フィリピーナはコストに関してはすこぶる敏感なのだ。  いよいよこのJALでマニラへ向う。従来のジャンボと違い、あまりガソリンを食いそうにない機種で座席も2-3-2の7列と少ないが、その代わり満席だ。あれだけ湯水のようにお金をばら撒く経営をして破綻したJALだから、ちょっと締めれば悠々再生はできると思う。おかげで日本人のスチュワーデスがほとんどおらず、タイ人がほとんどだが、それも時代の流れだろう。

フィリピーナの金なし日本紀行(その3)2010年6月13日



6月1日、日本への出張から帰ってくると、フィリピンは雨季に突入していた。スコールではなく、まるで日本の梅雨のように雨がしとしと降り続く。雨が降っていないときはどんよりとした曇り空で、気温も大分下がっている。今年はエルニーニョの影響で3月~5月は連日35度を超える猛暑が続いたが、それがぱたりと止んでしまっていた。     6月5日は退職ビザを申請中のカップルをタガイタイに案内したが、マニラ近郊にこんなすばらしいところがあるとは、と多いに感激してた。一見逆説的だが、そして日本の夏はフィリピンに避暑にやってくるということが成り立つ、と納得していた。タガイタイもそしてスカイウエイからながめるマカティの摩天楼も厚い雲に覆われていた。  街は暑さしのぎに水を撒いたようで、今までの暑さを思い起こすとすこぶる快適だ。傘をさすほどの雨でもないので苦にならない。しかし、これからは時折強い雨になるので傘の準備は欠かせないだろう。私は日本から超軽量の折りたたみ傘で、四角い長めのメガネケースのような傘を買ってきて、常にポシェットに入れて歩くことにしている。

フィリピンは雨季に突入 2010年6月12日