Monthly Archives: May 2010


この日は、新しい車と赤ちゃんのデビューの日だった。私の相棒に赤ちゃんが誕生して約50日、そして前日、相棒の彼氏のカーネル(本名はバーナード・ヤンだが、国家警察の位がカーネル「大佐」なので、こう呼んでいる)に待望の新車が届いたのだ。赤ちゃんの初見せと車の初乗りを兼ねて、2年前に出来たパンパンガ・クラークのゴルフ・コース「Fontana & Apollon Korea Country Club」に出かけることになった。   この車、三菱モンテーロは車両価格は120万ペソだがVATなどが色々ついて、140万ペソになる。ちょっと訳があって友人から譲り受けることになったそうだが、頭金の20万ペソを借金で払い、のこり120万ペソを毎月2万ペソ、5年ローンで支払わなければならないそうだ(無利子というのがせめてもの幸いだが)。国家警察の幹部とはいえ、たったの3万ペソの月給、それに賄賂は絶対に受け取らないという潔癖漢だから、ローンの支払いは並大抵ではないだろう。 だから、私が退職者のツアーなどに利用させてもらって、レンタカー代を稼いでやらなければならないはめになりそうだ。ちなみに3列目に折りたたみ式の補助 椅子もあって、7人乗りのなかなかの優れものだ。フィリピンで、この手の車はトヨタのフォーチュナーやホンダのCRVの人気が高かったが、それを凌ぐ勢い の人気車が、このモンテーロなのだ。  このゴルフ・コースの責任者はカーネルの親友のジョセフ・カン(写真右後ろ)というフィリピン生まれの韓国人だ。彼はたったの29歳でこのゴルフ場の経営 を任されたエリートだが、もともとプロ・ゴルファーで、現在も韓国の国内ツアーには参加しているそうだ。しかもUP(University of the […]

クラークのFA. Koreaカントリークラブ訪問 2010年5月24日


ここのところ立て続けに同じ問題でPRAの受付から電話が入った。ある日本人の退職者が申請をしようとしているが、「50歳以上なので2万ドルの定期預 金で退職ビザを申請し、ビザを取得したあと、年金送金用の口座を開設しフィリピンで年金を受け取り、しかる後、年金証書とフィリピンでの年金受取の銀行証 明をPRAに提出して、差額の1万ドルを返却してもらいたい」ということを主張している。しかし、PRAはそれを認めていない、その辺のところを退職者に 説明して欲しいというのだ。このことはすでに年金申請に関するニュースで報告したが、要はPRAのルールを見る限り、退職者の主張はもっともなことで、 PRAがルールを便宜的に運用で違えているため、このような退職者の戸惑いを生じているのだ。  PRAのルールでは、年金スキーム(定期 預金1万ドル)で退職ビザを申請する場合、フィリピンで年金を受け取っている銀行証明を提出するよう求めている。もともと、ビザ無しで年金をフィリピンで 受け取ることは、銀行口座を開設できないから、手続き上無理な話だ。だからビザを取ってから年金をフィリピンで受け取り、その証明書をPRAに提出するし かない。鶏と卵のような関係で、年金スキームでビザを取るためには年金をフィリピンで受け取っていなければならない。一方、年金をフィリピンで受け取るた めにはビザを取った後でなければならない。PRAのルールは世界中の退職者に対しての一般的なもので、日本の場合には、このような矛盾が生じてしまう。だ から、この事態をPRAにしつこく申し出て、現在、「年金証書の翻訳(日本大使館で認証が必要)のみを提出して、年金の受け取りは日本でもかまわない」と いうことになっているのだ。  この辺はある程度暗黙の了解であって、退職者がホームページで調べたり、事前にPRAから聞きだして、正しく理解して、申請準備を行なうということは不可能に近いだろう。さらに上記のお二人の内のお一人のYさんは年金証書を日本から持ってこなかったので、急遽、翻訳してPRAに提出することも出来ず、今回の訪問での申請はギブアップせざるを得なかった。  さらにYさんは、銀行送金でも手間取った。PRAの紹介で、ユニオン・バンクを選定し、指示された送金要領にしたがって、送金をおこなった。それがフィリピンに来て みるとお金が到着していないのだ。ユニオン・バンクに聞いても要領を得ない。結局PRAが指示したユニオン・バンクのアメリカの経由銀行の口座番号が違っ […]

SRRVの申請:ある退職者の経験 2010年5月19日



 例年であれば5月の後半ともなれば、そろそろ雨季の気配がするのだが、今年は一向に猛暑が衰えない。フィリピンの乾季は11月から5月の半年、前半は暑くなくて過ごしやすい。特に1月~2月はエアコンも不要で、田舎なら毛布が欲しいくらいだ。  ところが今年の乾季はあまり涼しさを感ずることなく後半の猛暑になだれこんだ。そして、3月、4月、5月とほとんど連日35度を優に超える暑さなのだ。雲ひとつない空に輝く太陽は強烈だ。この暑さにはさすがにマニラッ子もぐったり、暑い暑いを連発して、日傘をさして歩いている人が目立つ。最近、お産をしてようやく復帰した相棒は昼間、滅多に外に出ることはない。                       この暑さは、エルニーニョの影響と言うが、一方の日本は4月になっても真冬並みの寒さが続いたと思えば、今度は真夏並みの暑さになったり、世界的に天候不順になっているようだ。おかげで日本ではキャベツが一個400円もするそうで、食糧危機なんてことが現実になるんじゃないかと危惧される。気候とは関係ないかも知れないが、日本では牛肉も口にするのがはばかれる昨今だ。  

フィリピンは猛暑続き 2010年5月19日


最近PRAに行くたびに創立記念日について招待状はもらったか、PRAの担当からは、たくさん出席してもらえるだろうか、などと聞かれる。今年は25周年とあってことの他、 熱心だ。6月23日の6時集合で、場所もマニラ湾の埋立地にあるプラザ・ホテルでわかりやすい。プラザ・ホテルのプール・サイドといえば、かつてお忍びの デート・コースとして有名だったところだ。例年の創立記念パーティはフィリピン人でさえもわからないややこしい所で行なわれて、いつも探すのに苦労したも のだが、今年は違うようだ。   私の事務所の住所は退職者がビザの申請をする時、仮の住所としてPRAに届けているためにたくさんの招待状が届いている。当方でもこれら退職者の最新の 住所は把握していないので、このブログを借りて連絡したい。6月4日までに予約が必要で、PRA(848-1412)に電話して、内線181のジェフある いは172のララに名前とSRRV番号を告げて欲しい。もしそれが難しい場合は当方にE-メールで連絡していただければ、PRAに代理で予約します。E- メールアドレス「kazutamishiga@yahoo.co.jp」    冒頭でも紹介したがプラザホテルは五つ星の有名ホテルだから知らない人はいない。最近改装して名前もソフィテル・フィリピン・プラザ・ホテルとなった。ブ エンディア通りをまっすぐ行ってロハスブルバード通りを横切り、二つ目の角を右に曲がればすぐだ。遠くからも良く見えるのでわかりやすい。今年はこれだけ 熱心なのだから、昨年のように食事はスナックだけで、アルコールは有料、しかもそれにありつくのに30分以上並ばなければならない、なんて無様なことはな いと思う。例年、日本人の出席者は数えるほどしかいないので、今年は色々な懐かしい顔に会えることを期待したい。

PRA創立25年記念パーティ 2010年5月15日



3年ほど前にPRA本体が隣のビルのシティバンク・センターの4階に移動して以来、受付(シティバンクタワー29階)と本体が離れて、書類等の受け渡し においては、紙一枚受け取るのに30分も待たされるなど不便を強いられてきた。以前のように受付のすぐそばにPRA職員がいれば、ちょっとややこしいこと など直接職員と話が出来たものが、いちいち4階と29階を行き来をしたり、電話で話をしなければならず、効率が著しく悪かった。それがやっと、PRA本体 がシティバンクタワーの29階に戻ってきたのだ。現状においては我々に関係の深い、ビザ・プロセッシング部門、サービス部門、マーケット部門などが移動済 みだが、いずれすべてが移動するとのことだ。そのため、受付のレイアウトも変更され明るい感じになった。入り口を入ってすぐ左にはNBIの出店が移動してきて、中々便利になった。    レセプションの後ろの部分は退職者が打ち合わせたりするゆったりしたスペースが設けられている。ここには元々会長室やミーティングルームがあったので、 GMなど偉いさんが移動してきたらこのスペースがなくなってしまうのではないかと危惧される。さらに受付の左奥は会議室でビザ発行などもここで行なわれて いる。 PRAスタッフの執務スペースはレセプションから左へ行ったところ、従来諸々の業者が入っていたところだ。元アグリパイ会長の発案と思われるが、ここでは、退職産業を振興させようと、退職者をマーケットとする業者が入って直接、営業をさせていたのだ。当初は多くの人が張り付いていたが、1年もしないうち にほとんど常駐する人がいなくなってしまった。人を貼り付けてもほとんど用事がないのだ。業者にとっては家賃だけ払わされてとんだ出費となってしまったよ うだ。  このスペースとは反対側、レセプションの右側のエリアにはPRI(PRA組合)が入っていたが、アグリパイ会長の更迭とともに胡散霧消してしまったようだ。私がPRAにいたころ、ずかずかと執務室に入ってきて大声を上げて張り 切っていた元通産大臣のオドネスPRI会長も、ここのところとんと見かけない。  ちなみに最近、PRAは通 […]

PRAが移動しました 2010年5月14日


 最近退職され、これからはプロカメラマンとして人生の後半をフィリピンで過ごそうとされている某大手電気会社出身の退職者を案内してマニラの南、バタン ガスの観光名所タガイタイそしてアニラオを案内した。タガイタイは言わずもがなの、マニラから1時間近傍のタアル火口湖の絶景を望む観光名所、あるいは別 荘地帯だ。タアル・ビスタ・ホテルの展望台はかつては自由に出入りできたのだが、現在はホテル宿泊者専用の展望台となっている。しかし、持ち前の図図しさ を発揮して、ホテルのレセプション、レストランを通り抜けて展望台へと向うと、退職者は眼前に広がる絶景に感激していた。     次に訪問したのがタガイタイの目玉、マホガニー・マーケットだ。タガイタイは果物、花木、牛肉などが名物だが、丁度パイナップルのシーズンで、大きいもの で3個、100ペソ、中位で4個、100ペソで、ジューシーで感激的においしい完熟パイナップルが買える。我が農場でも育ててみたいと、苗を一つ5ペソ、 100本を、付近のパイナップル畑で買い求めた。いつの日か農場でも、もぎたて完熟パイナップルを味わうことが出来ることを願って。        タガイタイを過ぎてバラヤン湾の海岸線に出ると、刃物やさんが目立つ。これもバタンガスの名物だ。日本では禁止されている飛び出しナイフやバタフライナイフが数百円で買える。子供のおもちゃにと買い求めたが日本に持ち込むことが可能かどうかわからない。(子供と言っても30歳を超えているので果たして喜んでもらえるかも疑問だが)  一旦バタンガス湾に出て、再度バラヤン湾に戻ると、そこはアニラオのビーチリゾートで30軒ほどのリゾートが建ち並んでいる。前回はイーグルポイントから 乗船してマリカバン島のセボック・ビーチへの入場料を取られたので、今回はアニラオ半島の根元の港から乗船して倹約することにした。ちなみにボート代は往 復で2500ペソ。1990年代は1000ペソ程度で半日使えたので、随分値上がりしたものだ。ボートは10人以上乗れそうな大きなもので、多少の波にも びくともしない。ここからはミンドロ島のプエルト・ガレラ方面に行く中型のボートも並んでいた。 […]

バタンガス取材 2010年5月13日



当たり前のツアーではつまらない、観光ガイドに載っていないフィリピンらしい所を、という新進気鋭のカメラマンのリクエストに答えて私なりのメトロマニ ラの名所旧跡を案内した。たった一日のツアーだから、要所を駆け足で回ったのだが、最後は歩けないくらいに疲れてしまった。   まず初めは、カーティマール・マーケット。パサイ・シティ、ブエンディア通りとタフト通りの交差点近くにあるが、ほぼメトロマニラの中心にある。そのため か、単なるウエット・マーケットではなく、数百軒はあろうかというペットショップ、日本・韓国食材店、自転車、靴などの専門店が集まる一大ショッピン街と なっている。モールに比べて種類も豊富で安いし、海産物もエビやイカ、ラプラプなどの高級食材が豊富だ。これは外国人やお金のあるフィリピン人が多く来る 証拠でもある。 次は、ありきたりだが、カメラマンがまだ行ったことがないそうなので、歴史地区のイントラムロスに向った。ここの目玉は世界遺産のサン・アガスティン教 会、カーサ・マニラそしてサンチャゴ要塞だ。サン・アガスティンの外部はペイントをやり直してやけに安っぽくなっていた。しかし、その内部は相変わらず荘厳だ。   イントラムロスの次はキアポ教会。あのブラックナザレを祀っていて、フィリピンでは一番庶民の信奉を集めている教会だ。この日は統一選挙前日とあって、教会の周りは選挙ポスターで埋め尽くされていた。   キアポ教会へ通じる道は門前町となっていて、多くの屋台と人で埋め尽くされている。特に各種食材が安く買えることでも有名だ。  キアポからチャイナ・タウンに向うと、そこはまさに中国人街だ。日本のチャイナタウンと違って、中国人向けの金製品を売る店や漢方薬を売る店が軒を連ねる。カメラマンによるとこの漢方薬が中国人が世界で活躍するエネルギーの源だそうだ。   […]

メトロマニラの取材 2010年5月13日


   5月10日、統一選挙がついに幕を閉じた。大統領選はアキノ上院議員の圧倒的な勝利に終わったが、毛並みと誠実さだけでは政治はできない、という落胆の声も聞かれる。エストラーダは貧困層の根強い支持で2位につけた。当初優位にいたビリヤールは子供にお金を渡しているところをスクープされたりして3位に失速。知識層が期待するテオドロ・ギボやゴードンは下位に甘んじた。副大統領はアキノ陣営のロハスとエストラーダの相棒であるマカティ市長のビナイの接戦だ。マカティ市長にはビナイの息子ジュンジュン・ビナイが当選した。  大統領選は2月10日、地方選は3月26日に選挙運動が開始されたが、その間、街はポスターであふれ、選挙の応援カーが走り回っていた。選挙運動は前々日の5月8日で終了し、9日は、選挙戦の加熱を防ぐために、アルコール類の販売や提供は例年通り禁止された。 5月8日、マニラの南のバタンガスに行ったおり、地元の市長候補を応援するパレードが大量の人を動員して行なわれていた。もちろんお金で雇われた人たちだろうが子供までが混ざって候補者のシンボルカラーのT-シャツを着てトラックやトライシクルに乗って行列をなしていた。おかげこちらは渋滞に往生した。 選挙当日、我が家のあるバランガイ・サン・アントニオに投票場に出かけてみた。そこには日本の投票場では信じられないような人ごみが出来ていた。私なら、この人ごみを見ただけで投票場をあとにするだろう。有権者リストに自分の名前を見つけて、それが自分であることの証明としてIDを見せ、そして初めて投票を許されるというなんともいえない稚拙なシステムに原因があるようだ。ちなみに有権者数は5千万に超え、投票率は75%だから4千万に近い人が投票したことになる。投票場は約37000箇所だから、一箇所あたり、千人だ。しかし、ここのような人口密集地帯では10倍の1万人くらいになるのではないか。      投票場ではGMAテレビの取材が行なわれていた。投票日の寸前まで不具合が報告されていた電子投票システムが本番でどうなるのか極めて興味深いところだったが、順調に機能していたようだ。     人が集まるところには必ず食べ物の屋台が出るのはどこの国でも同じだ。投票を終えるまでに2~3時間は優にかかるだろうから、喉が渇いたり、お腹がすくのは当然だが、日本の投票場では決してこんな光景は見られないだろう。こんな状態では投票する人はいなくなってしまうだろう。 投票場の近くには今回の選挙で副大統領に立候補しているビニャイ市長の自宅がある。この付近ではちょっと見られない豪邸だ。家の前では冷たいジュースを無料で配っている。当方も少々の喉が渇いたのでご相伴に預かったが、さらにテントの中では只で食事が取れるそうだ。だから選挙期間中は貧しい人も食には事欠かなかったそうだ。ビニャイの自宅の前は粗末な家で、子供達が選挙の様子を伺っていた。また、ちょっと年寄りの人に声を掛けられたが、彼らは票を買う仕掛け人だそうだ。投票権があれば1000ペソほどの臨時収入になるところだった。  ビニャイ市長の自宅の前には別の投票場(サン・アントニオ・ハイスクール)があり、ここにも多くに人が群れていた。赤いT–シャツを着ている人はビニャイ市長の運動員だ。この人たちが何を待って行列をつくっているのか皆目わからないが、皆はただひたすらに順番を待っている。皆、中々忍耐強い。ここでもカメラマンが準備をしているが、きっとビニャイ市長が投票場へあらわれるのを待っていたのだろう。  通りには警察官と兵士が銃を持って控えている。全国で37000ヶ所もある投票場に、これだけの人が待機しているとなると、全国で20万人以上の人が動員されていることになる。カメラをかまえると、是非プリントしてプレゼントしてくれとせがまれた。日本では執務中の警官は、写真を撮ることさえ許されないというのに、むこうから写真を撮ってくれと目で合図してきたのだ。 これは投票用紙のサンプル。大統領、副大統領、上院議員のすべての名前が記載され、その横の○を塗りつぶすようになっている。これはエストラーダ/ビニャイ陣営が作成して配ったものだから、彼らの名前と陣営の候補者の名前だけが、黒い文字で浮き出ている。確かにわかりやすいやり方だ。  

5月10日、統一選挙 2010年5月11日



スービックは元アメリカ海軍基地でベトナム戦争をバックアップする基地として活躍した。現在はフィリピンに返還され経済特区として発展しているが、海岸 線に沿って広がる広大な後背地は原始林がそのまま残る貴重な自然遺産でもある。その自然の森の中で飼育された動物を見学できるのがズービックで、Zooと Subicを掛け合わせてZoobicというユニークな名前の動物園だ。ズービックはスービックの街から南へ車で20分くらい行ったところにある。途中で 右に入るとオーシャンアドベンチャーがあり、海水浴とイルカショーなどを楽しむことが出来る。  ズービックに向う途中、運が良いと、ジャングルに棲息しているサルや鷹ほどもある昼間に活動するコーモリにも出会える。  ズービックはかなり広大で、いわゆる動物園といえるのは入り口から歩いていける範囲だが、ここの目玉のタイガー・サファリやワニ園は車でないと行けない。 団体で来た人には遊園地の汽車を大きくしたような乗り物が用意されており、をそれを使うか使わないかで入場料が違う。使わない場合で449ペソは、フィリ ピンでは少々高いが、これだけの施設を維持するためには仕方がない。  入り口にはトラの赤ちゃんがおり、戯れているところ を写真に収めることが出来る。しかし、この日の赤ちゃんはすでに1.5mほどの大きさで、誰も近づく人はおらず、遠くから写真を撮っていた。ここの動物園 では、おりは無く、どうみても鳥が放し飼いされている。逃げないのかと不思議に思ったが、肉食のふくろうは、さすがに紐でつながれていた。  ズービックでは20~30人ごとにガイドがついて、その案内にしたがって見物することになっている。見たい所はゆっくり見れず、見たくないものまで見なけ ればならないパッケージツアーのようなものだ。その際たるものが動物ショー。犬やサル、子馬などを使ったショーだが、こんなものを一緒に1時間以上見なけ れば先には進めない。私は、こういうショーは動物虐待としか受け止めることは出来ず、厳しい訓練をされて人が喜ぶショーを見せなければならない動物たちが 可哀想で見ていられない。係りにブーブー文句を言ったら、やはり同じように動物ショーを見たくないグループがいて、おかげで動物ショーを飛ばして、タイガー・サファリに車で向うことができた。 […]

ズービックの紹介 2010年5月7日


    久しぶりに所用でスービックを訪問したが、今回はスービックの北、車で15分くらいのバリオ・バレトを探訪することにした。かつてスービックが米軍の基地だったころ、隣接するオロンガポではクラーク空軍基地の門前町、アンヘレスを凌ぐ歓楽街が栄えていたという。しかし、基地の返還後、これらの歓楽街は閉鎖され、イメージの刷新を図った。そして、このバリオ・バレトが細々と生き残ったそうだ。  スービックはサンフェルナンドまで NLEX(North Luzon Express Way)を進み、左折して1時間くらいだ。アンヘレスまで行って、SCTEX(Subic, Clark, Tarlac Express Way)を経由していくことも出来るが、このほうが距離は長いが快適で早い。何度も紹介しているが、NLEXの入り口付近はMRT環状線の接続工事が進行中だ。すでに全線の土木工事を終え、架線や駅の工事が進行中で開通も間近のようだ。 サンフェルナンドからスービックに向う国道でトイレタイムでバスが止まったが、そこにはビクトリア・ライナーのバスが10台ほど並んでいた。ちなみにこの日は5月1日はメイデーで3連休、この休みを利用して里帰りをする人でごった返していた。  スービックのポコアポコで退職者2名の方と面会した後、今回の目的地であるバリオ・バレトへ向った。余談だがポコアポコでは前回紹介したインターネットテレビの実演で盛り上がった。  まずバリオ・バレトの北にあるバロイ・ビーチのトレジャー・アイランド・リゾートに向った。この沖にフローティング・バー、ブードーがあると案内の本には書いてある。ブードーといえばアンヘレスの私のなじみの店の系列店だ。  メイデーのためか、ビーチは人で溢れていた。休みの名目とは関係なく祝日にレジャーを楽しむのはどこの国でも同じようだ。そして確かにフローティング・バーは沖で営業してはいるものの、肝心のホテルは満員。名物のフローティング・バーはあきらめざるを得なかった。 […]

スービックのバリオ・バレト訪問 2010年5月6日