Daily Archives: June 13, 2010


昨年来手がけているフィリピンで亡くなった退職者の遺産相続手続きのお手伝いで、私の相棒であるフィリピーナとともに日本に出張した。木曜出発して、金曜と月曜日に手続きを行ない、火曜には戻るという慌しいスケジュールだったが、かのフィリピーナは日本を満喫できたようだ。 この日の JL746便は伊豆七島に沿って北上し、遠くは伊豆半島、近くには房総半島がはっきりと認識することが出来た。地図で見ると島々は点々とあるが実際にみる と意外とくっつきあって見える。かつて100回以上は羽田や成田に降りていると思うが、伊豆七島をこんなに満喫するのは初体験だ。 初日の金曜日は、朝9時に渋谷のハチ公前で待ち合わせ、その後、公証役場へ向う。横浜を7時半ごろ通過したが、丁度ラッシュ時、駅を駆け足で行き交う 人々をながめて、驚きの声を上げている。東急東横線で渋谷へ向ったが、急行はぎゅうぎゅう詰めなので普通でゆっくり行ったが、マニラのLRTも朝は相当混 むらしい。ラッシュ時には女性専用車両があるのも同じだが、その女性専用車両が日本にもあるのを知らなかった私は、見渡して見ると男が誰もいないのを不思 議に思い、それが女性専用車両であることに気がつくのに数分を要し、次の駅であわてて車両を変えた。  日本での移動はほとんど鉄道だ。しかし外国人にとって切符を買うことが不可能であることがわかった。とにかく列車の料金表示が日本語だけなのだ。だからいくらの切符を買ったらよいのかわからない。しかしSuicaなら自動的に精算されるので、外国人はSuicaを買い求めて移動するのが良いだろう。   渋谷は私が高校時代、毎日通学した街。ハチ公は今でも健在だった。ハチ公の話をしてあげたら、これまた、いたく感激していた。帰りは新宿から横浜へ向ったが、座れないのでグリーン車へ行く。切符を切る車掌さんが女性というのは中々良い。  横浜では中学生や高校生に声をかけて、はいポーズ。英語で話しかけると彼らはパニクッて、二つ返事でOKしてくれる。私が声をかけたら、逃げ出すか、警察に突き出されてしまうだろうが、外国人にはめっぽう弱いのだ。 この日は私の自宅に招待したが、とりあえず住宅周辺の街とジャスコに案内。ほとんど人気のない街を見て、呆れ顔のポーズ。 スーパーの品数の豊富さときれいな陳列に、関心することしきり、しかし商品を買う人がほとんどいないので、これでやっていけるのかと、心配することしき り。しかし、試食は多いにウエルカムで、日本でお腹がすいたら試食で腹を満たせると、日本でのサバイバルにも自信を持った様子。 […]

フィリピーナの金なし日本紀行(その1)2010年6月13日


  土曜日は、雪を見たいというたっての希望で富士山へ向った。途中サービスエリアに立ち寄ると、行楽日和とあって大勢の人がやってきていた。そこでびっくりしたのが、清潔なトイレだ。公共のトイレでありながら、これだけ手入れのされたトイレはフィリピンなら五つ星ホテルくらいにしか見当たらない。子供用のトイレも芸術的なデザインとまで言える代物に脱帽の様子。 そして、数多くの、まるでモールのようなレストランやみやげ物売り場だ。もちろん試食には目がない。パン屋さんにもことの他、興味を示しているが、ゆくゆくはパン屋さんを経営することを夢見ているそうだ。  御殿場インターを降りたところで、フェラーリの隊列を見かけた。きっとフェラーリ同好会か何かの集まりだろう。数千万円もするような車を乗り回すなんて、日本にもお金持ちはいるようだ。ちなみに中古の軽自動車に乗ってでかけたのだが、我々の車以上にみすぼらしい車は見当たらなかった。 この日は曇りがちだったために富士山の頂上は拝めなかった。しかし、5合目まで来るとさすがに寒く、上着がないと表には出れない。富士山の5合目は標高2400mとあったが、これはマヨン火山の頂上に近い高度だ。  5合目からながめるとようやく待望の雪が見えた。しかし、産後間もない彼女としてはそこまで上るわけには行かず、次回のチャンスを待つことにした。 富士山の麓には多くのリゾート施設が出来ていた。リゾート牧場というので行ってみたら、ほとんど富士の裾野で生産している乳製品を売るだけの店で、当方がマヨン火山で展開しようと夢見ているリゾートファームとは程遠いものだった。 最後にたずねた白糸の滝、周囲は民家があるというのにここはうっそうとした森に囲まれ、意外に見ごたえがあった。 翌、日曜日は千葉の兄の家にでかけて行ったが、途中デズニーランドに立ち寄って、外だけを見てきた。中に入ったとしても、ほとんどの時間が待ち時間と聞いており、そんな無駄な時間をすごすことは、とても出来る相談ではない。そして車で走っていて、やたらと目に付いたのがトヨタのハイブリッドカー、プリウスだ。リッター30km近くは知るのだと話したら、目を丸くしていた。 千葉の北の方まで行くと、立派な農家が目立つ。これがファーマーの家だというと、またびっくり。是非フィリピンの人たちに見せたいというので、失敬して写真を撮らせてもらった。 この日の終わりは宿の近く、横浜中華街。マニラの中華街とは違って、完璧な観光地だが、そのど派手な外装に興味深く眺めていた。中国人の血を引く彼女だが、中国語も話せず、地元の中国人には別に興味がないようだった。

フィリピーナの金なし日本紀行(その2)2010年6月13日



横浜の石川町の街角ではごみ収集の様子や自動駐車場に注目。フィリピンなら必ず人がいるのに、ほとんどの駐車場が自動でお金を集金を行なっているのが彼女にとってはすこぶる珍しい。また、さらにタクシーの運転席と客の間のプラスチック板も興味深い様子だ。  フィリピン大使館の用事は予想外にスムーズに運んで時間が余ったので、依頼人の案内で浅草見物に行った。私としても高校以来40年以上振りだ。やはり外国人にとってはとても、ものめずらしいようで、彼女は写真写真と大はしゃぎだった。聞いてはいたものの、観光用の人力車がかなりの数出ていたが、かなりのもうけになるそうだ。       彼女はクリスチャンのはずだが、なぜかしっかり仏様にお祈りをしていた。お線香の煙のご利益もしっかり受け止めていた。フィリイン人は宗教的にあまり固くはないようだ。 このバスも浅草名物として運転されているのだろうか。なかなか良いデザインだ。   寿司は食べなれているとしても回転寿司はフィリピンにはない。この日は是非ということで回転寿司で昼食をとらせてもらった。これだけの寿司料理が次々と回ってくる様子は迫力ものだ。この光景に彼女もしごくご満悦の様子だ。 その後、人と会う約束があり、新宿の街をぶらついた。高校生は相変わらずミニスカートでロングが絶対のフィリピンから来ると、異様に移る。一方、マルイの売り子さんのドレスが気に入って一枚。  久しぶりにやってきた新宿は私が持っていたイメージとは全く重ならなかったが、この日、面会した人の案内で歌舞伎町に向ったとき、そこで初めてあのころの新宿に出会うことが出来た。私の新宿のイメージは歌舞伎町だったのだ。ここには雑踏と喧騒があり、マニラに通じるものがあり、なにかほっとする思いだった。新宿の名前はマカティのリトル東京の新宿ラーメンでおなじみの彼女も、歌舞伎町に大変親しみを持ったようだ。夜の歌舞伎町に案内してくれるということだったが、産後間もない彼女が、今日は歩きすぎてお腹が痛いというので、断念。一人で帰すわけにも行かないので、次回ということにして横浜に向った。湘南新宿ラインのおかげで横浜と新宿も近くなったので、次回、日本を訪問した際は是非夜の歌舞伎町を覗いてみたい。 火曜は帰国の日だ。この日の午前中、東京駅丸ビルで、退職ビザ関係のパートナーと面会した。投資コンサルタントの方々で、お客さんがフィリピンに注目し始めているそうだ。今後多くのお客さんとフィリピンを訪問する予定とのことで、今回の初顔あわせとなった。 いよいよ空港に向うが、東京駅の総武線のホームは地下5階。長いエスカレーターに地震がきたらどうしようと、緊張気味だった。空港のデューティフリーを覗いてみても、先日SHISEIDOブランドを大量に買い込んだマツモトキヨシの方が安いと見向きもしない。フィリピーナはコストに関してはすこぶる敏感なのだ。  いよいよこのJALでマニラへ向う。従来のジャンボと違い、あまりガソリンを食いそうにない機種で座席も2-3-2の7列と少ないが、その代わり満席だ。あれだけ湯水のようにお金をばら撒く経営をして破綻したJALだから、ちょっと締めれば悠々再生はできると思う。おかげで日本人のスチュワーデスがほとんどおらず、タイ人がほとんどだが、それも時代の流れだろう。

フィリピーナの金なし日本紀行(その3)2010年6月13日