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   10月某日、独立行政法人 防災科学技術研究所の方からコンタクトがあった。このブログの台風の記事を見てのことだった。台風16号オンドイおよび17 号ペペンはフィリピンルソン地域に甚大な被害をもたらしたが、日本としてきちんと調査を行い災害の被害、原因などを見極め、将来の支援のよりどころとするというのが目的だ。現地調査はバギオとマニラのバイ湖(ラグナ湖)北方を中心に行い、その他、MMDA(Metro ManilaDevelopment Authrity)、DCC(Disaster Cordinating Council)などの管轄官庁やADB(アジア開発銀行)、JAICAなどのヒアリングならびに資料収集を行なった。   11月26日、防災科研の一行はマニラ空港に到着すると、その足でバギオに向った。バギオに通じるケノン・ロードにさしかかったころはすでに暗かった。このケノン・ロードの被害がバギオへの物資の補給路を立ち、災害の被害を助長したのだ。ケノン・ロードの被害状況は帰りに調査したが、この1000メートル以上の高低差がある道路を昇りきると、そこにはバギオ市が広がっている。まさに天空の都市といえる大都市だ。この都市にいたる道はケノン・ロードとマルコス・ハイウエイしかなく、それが絶たれると空輸しか物資を補給する術がない。食料はそれで何とかなったとしてもガソリンや飲み水の補給ができず、一時、市民の生活は脅威にさらされた。    バギオには平地がほとんどない。したがって家や道路は急斜面に這うように作られている。市の建築許可を得ないで建設されている家屋も多く、それらが今回の台風で地すべりとともに泥流に流されるなど大きな被害を被ったのだ。   この付近は湖のそこのような地形になっていて排水暗渠でさばききれない水が流れ込んで一気に冠水した。水位はたちまちの内に上がって、10m程度まで達したそうで、当然周囲の家は水に沈んでしまった。その時の状況をバランガイ・キャップテンから説明を受けた。この地域の被害は充分な排水路を建設していない市の怠慢あるいは予算不足が原因と思われる。しかし、100年に1回といわれる大雨にインフラがついていくことができなかった、という見方も出来る。     街のあちらこちらに地すべりのあとが見える。これらはこれら山間部を切り開いて道路や住宅地を開発したためではあろうが、こんな山間部にこのような巨大な都市を建設したこと事態に無理があったという印象をぬぐいきれない。フィリピンで涼しさを味わえる唯一の地域ということで人気を集め、観光のメッカとなり、さらにここに住むことがステータスともなって、ブームになったものだ。しかし、軽井沢のように単なる別荘地帯として留まっていれば、このような大きな問題ともならなかっただろう。 […]

防災科研の台風災害調査に同行(その1 バギオ)2009年12月11日


 マリキナ市の次はバイ湖(ラグナ湖)畔、そしてマニラ市内の洪水と洪水管理の状況を視察した。  バイ湖畔のHagonoyには高級ビリッジが湖沿いに開発されている。台風の大雨以来、湖の水位が1.5メートル位あがっているせいで、ビリッジが全面的に冠水している。そのため住人は船で移動し、水が浅くなったところでトライシクルに乗り換えるという暮らしを強いられている。その原因はビリッジが洪水管理の堤防の外、湖側にあるために水位の上昇の影響をまともに食ってしまっているのだ。住民はMMDA(Metorpolitan Manila Development Authrity)に文句を言っているが、ラグナの水位を急速に下げようとしたら湖の外が冠水してしまうので、どうしようもないという。    湖の周辺から流れ込む川にはすべて水門とポンプが設置されている。現在バイ湖の水位は周辺より高く、湖周囲の水位が危険水位(海抜10フィート)を超えたらポンプを動かして水を湖に移動して、水位を下げるのだ。そうでないと周辺の住宅が冠水してしまう。一旦湖に貯めた水は水門を閉めて流れ出さないようにして周囲が冠水するのを防ぐ。  現在、バイ湖の水はナピンダン川からパシッグ川に流れているだけで、水位が下がるのは当面先の話だそうだ。ナピンダン川の流出口には水門はない。周辺の家は台風当時、当然のごとく冠水したが、現在はすでに水は引いている。この辺はほとんどスコーター(スラム)で遠くに見渡せるオルティガスやボニファシオ・グローバルシティのビル群と対照的だ。  ここからはマニラへの直行のフェリーが出ている。確かに渋滞する道路でマニラに出たら数時間かかるものが数十分で到着するだろう。それにしてもフィリピンの子供はいつでもどこでも明るい。  マニラ市内の小河川がパシッグ川に流れ込むところには日本の援助で建設された水門とポンプが設置され、洪水管理が行なわれている。パシッグ川の水位が高いときは水門を閉め、小河川の水をパシッグ川にポンプアップすることにより市内の冠水を防ぐ仕組みになっている。しかし台風の時、ポンプは稼動させなかったという。 なぜならば、パシッグ川の水位が上昇し堤防を越え、市内に逆流していたのだ。すなわち、これらの洪水管理の想定を全く覆す状況になっていたのだ。  ケソン市一帯の水を集めてパシッグ川に流れ込むサン・ファン川のパシッグ川との合流点を調査した。川に沿って密集するスコーターはすでに逞しくよみがえっていた。そこではバロット(アヒルの有精卵のゆで卵)の製造現場に遭遇した。  サン・ファン川には鋼矢板で立派な護岸が建設されている。しかし、川の水位は護岸をはるかに超え、市内に水が流れ込んできたそうだ。流れ込む先のパシッグ川がすでオーバーフローしていてはサン・ファン川としてもそうするしか手がない。これも想定外だったのだろうが、ここでも子供達は屈託がない。  結論として、マニラの洪水管理はそれなりにやってはいたものの、今回の雨は全く想定外で、水門やポンプがあろうがあるまいが同じ状況だったようだ。今回のような雨が再びやってきたとき、一体どうしたら洪水を防ぐことができるのか、想像がつかない。ただ、自分は決して低地にすまない、あるいはコンドミニアムの上階に住むなどして防ぐ、ということが教訓だろう。とにかく都市は災害に弱いのだ。

防災科研の台風災害調査に同行(その2 メトロマニラ2)2009年12月11日



  10月12日、一昨日、NTTホテルの近くのMARUCHANで客と食事をしていて、客が焼き肉丼を注文したら「ネギがないが、それでいいか」とウエイトレスに聞かれた。何故ネギがないのかわからないが、たいした問題ではないので、良しとした。さらに、翌日13日にマカティ・アベニューの新宿ラーメンで「辛口ネギラーメン」を注文したら、「ネギがないから作れない」とウエイトレスがいう。こればっかりはネギ無しで良しとは出来ないので、他のラーメンを注文した。何故ネギを切らしているのかわからず、スーパーで買ってくれば良いものを、と不思議に思った。  その夜、「野菜が300%値上がっている、スーパーから野菜が消えている」とフィリピン人の相棒に聞かされ、びっくりした。もともと、ネギ、レタス、キャベツ、トマトなどの西洋野菜、さらに生花などはバギオを中心とするベンゲット地方が産地で、そこからフィリピン全土へ供給される。ところが、先の台風17号ペペンのもたらした豪雨で地すべりが多発し、野菜畑が壊滅した上に交通が遮断されてしまい、供給がとぎれてしまったのだそうだ。バギオではガソリン、LPG、食料、水と何もかもなくて、政府がヘリコプターで物資を運んでいるという。有名な避暑地である高原都市バギオへ通じる道は2本しかなく、それがまさに命綱なの空中都市なのだ。 (スーパーのネギやレタス売り場は商品がないが、カンコン、ペッチャイなどの一般の野菜はいつもと変わらない)   台風17号ペペンは10月3日(土)、ルソン北部に上陸した。1週間前の台風16号オンドイに続く2週連続の台風上陸だった。ペペンはルソン北部の海上に留まり、その後、再度南下してルソン北部に上陸したのだ。その間、約1週間、大量の雨を降らし、大規模な地すべりや洪水をもたらした。   長引く豪雨のために、サンロケダムなどの大規模なダムが、オーバーフローによる決壊を恐れて大量の貯水を放流したが、これが流域の洪水に拍車をかけた。パンパンガ州、パンガシナン州、ヌエバエシア州などの米作地帯のほとんどが水没してしまったのだ。以前のブログでも紹介したが、この地域は地平線が見えるくらいに延々と平地が広がり、さらにほとんど河という河がない。したがって水がはけるのに数週間はかかるだろうといわれている。  オンドイそれにペペンのもたらした大量の雨で水没した米作地帯は当面米の収穫が見込まれないため、この地方の経済的損失ばかりではなく、フィリピンに食糧危機をもたらす。そのため、2~3ヶ月先の米の供給に不安が出て、早くも米が値上がり傾向にあるそうで、政府は急遽中国から大量の米を輸入することを決定した。一方これら一連の災害対策として120億ペソの政府予算の拠出を決定した。   

ネギがない!台風17号(ペペン)の被害 2009年10月14日


 9月26日(土)、マニラ首都圏をおそった台風16号オンドイの被害は死者不明者288人を出す大災害となった。特にマニラの西、マリキナ、カインタ、 パシッグ地域では多くの住宅が水没し、1週間たった今でも水が引いていない。その他ほとんどの地域では翌日には水は引いたものの、地下室が水没し電気施設 や駐車場の車が被害を受け、エレベーターや電話などの復旧に時間がかかった。 9月29日、産経新聞の取材に同行してクラーク、スービックを訪問したが、途中高速道路から見たブラカンやパンパンガの水田地帯は水中に没していた。この水が引くには数週間の時間がかかるそうだ。  テレビでは災害に対する寄付をつのる番組が終日流れていたが、司会者は先日コーリー・アキノ元大統領の葬儀でテレビに出っぱなしだったクリス・アキノが務 めていた。また、アロヨ大統領も被災地を訪問した。さらに10月2日には台風17号上陸のニュースが流れ、マニラッ子は先日の水害の記憶も新しく、避難し たり、外出を控える人が目立った。さらに、超大台風18号も発生し、台風の恐怖にさらされた1週間だった。

台風16号オンドイの被害(その2) 2009年10月5日



  ちょっと古い話になるが、8月末、大統領顧問代行(国家安全保障担当)を務めるチャベット・シンソン前南イロコス州知事(68才)が暴行を働いたとして内縁の妻(チェ、35歳)に告訴された。シンソンは17年間、関係を続けてきた内縁の妻の不倫現場を発見し、妻とその浮気相手の男に暴行を加えたものだ。シンソンは本妻とはすでに別れているが、フリピンの法律では裁判所の判決がなければ離婚(アナルメント)できないので、内縁関係のままとなっている。   当のシンソンは、フィリピンの刑法では「妻や夫の不倫現場に遭遇して、逆上し暴力を働いたとしても罪にはならない」という規定を盾に無罪を主張している。チェは18歳の学生時代にシンソンに出会って以来長い関係を続けているが、元々尻軽女だったらしい。一方のシンソンも女出入りが激しく、妻にとってみれば浮気はお互い様とも言えるものなのだ。写真左下がシンソン、右は浮気相手の若手男優。   しかしフィリピンでは、妻やガールフレンドの浮気は反道徳とされ、彼女らは世間の非難を浴びる。妻に浮気された男は「頭に糞を載せている」称され、恥ずかしくて世間に顔向けができない。一方、男の浮気は性(サガ)あるいは甲斐性として容認される。もちろん妻からはとことん絞られるが、結局は元の鞘におさまる。シンソンはエストラーダ元大統領の不正を暴き、失脚に追い込んだことでも有名な強気の政治家だが、この事件で世間の笑いものになってしまったのだ。一方、妻のチェは、はしたない恥知らずの女として世間に侮蔑の目で見られている。フィリピンでは未だに姦通罪という罪が存在するが、これは女性の不倫にのみ適用されているようだ。写真左下は熱弁をふるう女性擁護団体の闘志、右はシンソンを責める不倫相手の男性の父(弁護士)。    一般的に、夫あるいはボーイフレンドが浮気した場合、妻は浮気相手の女を探し出し、夫に手を出すなと談判する。場合によっては取っ組み合いのけんかになることもある。夫はそれを見ていて、喧嘩に勝った女のほうについていく。一方、妻あるいはガールフレンドが浮気した場合、夫は逆上して妻に暴行を加えることも少なくない。すなわち、不倫をして責められるのは常に女なのだ。不倫の責任は常に男にあるとされる日本とは逆のようだ。「これは不公平ではないか」と、相棒のフィリピーナに聞いてみたところ、「男はいつもちゃらんぽらんで女のけつをおっかけるものなのだ。だから理性のある女が自分あるいは相手をコントロールしなければならない。だから不倫があった時は常に女に責任があるのだ」と話していた。すなわち、浮気の責任は常に男にあるとみなされる日本とは逆に、フィリピンでは女に責任があるのだ。   一方、フィリピンでは熟年男性と若い女性のカップルは極普通のことで世間的に容認されている。60歳前後の日本人男性と20代のフィリピン女性のカップルは当たり前だ。しかし熟年女性と若い男性のカップルは反道徳とされ、世間から白い目で見られる。男が、女性の金を目当てに近づいていると見られるのだ。フィリピンでは熟年女性が、一回りあるいは二回りも下の男性と付き合うというのはありえないことなのだ。これはオスは生殖能力がある限り、子供を生むことのできる若いメスを追い掛け回すが、生殖能力を失った年老いたメスを若いオスが相手にすることはありえない、という動物界の常識にかなったものだ。生殖能力のないメスに近づくオスが他になにか目的があるに違いない、というのはきわめて自然の摂理にかなった観察だと思う。  日本人男性としては、フィリピンには独身の若い女性がいくらでもいるので、間違っても人妻に手を出したり、一~二回りも年上の女性に手を出したりしないよう、気をつけてほしい。

フィリピン人妻の浮気の顛末 2009年9月27日


 9月26日(土)、熱帯性低気圧オンドイ(台風16号)の影響で朝からマニラでは豪雨が発生、たまっていたブログの執筆にいそしんでいた私は事務所に閉じ込められるはめになった。    事務所の前に道路は川となり、30cmくらいの深さで流れている。そしてバグチカン通りからパソンタモ通りはまるで運河だ。人々はまるで避難民のように手を取りあい歩いている。さらに路上駐車していた車は半分ほど水に浸かってしまっている。しかも、事務所ビルの地下駐車場は完璧の水没してしまったため、エレベーターが動かず、9階まで階段を上り下りするはめになってしまった。  夕方、当社のマッサージ嬢のタンとデバインに迎えに来てもらい自宅に戻ることにした。雨は小やみになってはいたものの、水はひざないし股下まである。道路の脇は排水溝の取水口がある恐れがあるために、なるべく道路の真中を歩く。カメラを向けると、タンとデバインは雨に濡れながらうれしそうにはしゃいでポーズをとってくれた。サリサリでビールを買って帰ったが、店の中は洪水だというのに逞しく店を開けていた。サリサリは庶民の味方、こんなときに店を閉めてはなおれとばかり、ほとんどすべての店が商いを続けていた。   家に戻ってみると、テレビは各地の被害状況を伝えていた。マニラ全域にわたって冠水し、特にマリキナあるいは当社の事務所のあるパソンタモ当たりが被害が大きかったらしい。そもそもマニラには川といえばラグナ湖とマニラ湾を結ぶパシッグ河。さらにマニラの周辺、ブラカン、パンパンガ、ヌエバエシアあたりも、先日ヘリコプターで飛んだらほとんど川がなかった。多分、広大な平地が続くために河川を維持する勾配がないのだろう。だからちょっと強い雨が降ると水 が溜まってしまい、道路や家が水没してしまうのだ。   翌々日に届いた新聞によると、この日の雨は、午前8時から午後2時の6時間の間に341.3ミリの、フィリピン観測史上最大の降雨があったそうだ。1時間 当たりの降雨は約57ミリとなるが、日本では通常50ミリ/時間の雨が10~15分続くものとして排水の設計をする。今回の雨はその設計降雨強度が6時間 継続したのだから、たまったものではない。マニラ中が水に浸かってしまったのもうなずける。そもそもこの台風は小型で、風もたいしたものではなかったた め、心配はしなかった。しかし、これがとんでもない雨台風だったのだ。これが田舎だったら、川沿いの家が浸水した程度の小さなニュースだったろうが、首都 マニラを直撃したため、このような災害になったようだ。都市は災害に弱いのだ。

集中豪雨でマニラは水浸し 2009年9月27日



 8月5日午前11時半、マニラ大聖堂を出発したコーリーの棺はロハスボリバード通り、サウス・ルソン・エクスプレス・ウエイを通過して、21km離れたスーカットの墓地に向った。沿道には20万人あるいは30万人ともいわれる人々が小雨の中を見送った。また、全局ぶっ続けで行なわれたテレビ中継を見ていた人は数百万あるいは数千万人に及んだと推定される。   日本ではあまり見かけなくなったが、フィリピンでは霊柩車を先頭に身内や知り合いの人が歩いて墓地へ向うのが習慣だ。マニラ大聖堂からマニラ・メモリアル・パークへの21kmの道のりを数多くの人が歩いた。高速道路へ入れば歩く人々はいなくなるだろうと主催者は見込んでいたそうだが、人の列は絶えることなく、ゆっくりとした行列は8時間後、ようやく墓地へ到着した。一方、エストラーダ前大統領を初めとする多くの次期大統領候補者は車で行列に参加し、車中から手を振り、コーリー人気にあやかろうとしていた。  棺につきそって直立不動の姿勢を続けた軍人は8時間の間、微動だにしなかった。喉の渇きは顔を流れる雨のしずくで癒し、硬直する足の筋肉は指を動かして凌いだという。「耐える」という軍人魂を失っていない軍人もいるようだ。   3~4時間で到着するであろうと見込まれた棺をスーカットで待つ人々は雨の中で4~5時間待つはめになった。さらに墓地では多数の軍人や警官が整列して棺を待ち続けた。アキノ一家はアロヨ大統領の、国葬という申し出を断ったが、国葬以上の国葬といわれた葬儀はアキノ元大統領に対する国民の愛着と畏敬の念を印象付けた。   マニラ・メモリアル・パークには故ベニグノ・アキノ元上院議員が眠っている。コーリーは夫の脇に埋葬されたが、1983年マルコス元大統領に夫を暗殺されて以来、大統領という激務を経て26年ぶりに最愛の夫とすごすことになったのだ。これはフィリピン近代史を飾る英雄の死ともいえ、このような葬儀が行なわれることは2度と無いだろう。  クリス・アキノは会見で、ベニグノ、コーリー・アキノの遺志の正統な継承者は兄のベニグノ・アキノ上院議員と自分だと宣言したそうだ。近い将来、この二人が政権をになうことは、今回のコーリーの死に対する圧倒的な国民の哀悼の意を見ても当然の成り行きだと思う。

巨星逝く、コーリーアキノの死(その3)2009年8月23日


  8月3日(月)、コラソン・アキノ元大統領(通称コーリー)の棺はグリーンヒルからマカティ中心のパセオ・デ・ロハス通りを経て、イントラムロスのマニラ・カテデラル(マニラ大聖堂)に移された。パセオ・デ・ロハス通りとアヤラ通りの交差点にはコーリーの夫のベニグノ・アキノ元上院議員が暗殺された時の銅像が建っているため、わざわざ迂回したのだ。  葬儀の中継のタイトルは「ありがとう(Salamat)、コーリー」だった。これはアキノ大統領が歴代の大統領の様に私利私欲にとらわれること無しに、心から国を憂い、生涯、正義と信念を貫き通したことに対する国民の声だ。   8月4日(火)のテレビはほとんど1日中、告別式の様子を中継していた。その主役は息子のベニグノ・アキノ上院議員と女優で娘のクリス・アキノだ。また、もう一方の歴史上の人物であるイメルダ・マルコス元大統領夫人も姿を見せていた。軍や警察のゼネラル全員、主だった政治家、国中の名士が弔問したが、一般人はマニラ大聖堂を取り囲み、約5時間待ちだったという。コーリーに別れを告げる人の列は朝まで絶える事がなかった。       弔問に現れるかどうか、現れたらアキノ一家が拒否するのではないかと注目されたアロヨだったが、そのようなこともなく、そそくさと祈りを済ませると、たった7分間で教会を離れた。一国の大統領も英雄の前では小さく見えた(もっとも150cmにも満たない小柄な彼女なのではあるが)。アメリカ大統領のオバマもメッセージを送った。  翌5日(水)棺は、21kmはなれたパラニャケ市スーカットのマニラ・メモリアル・パーク移送され埋葬される。この日は国民の祝日となったが、これはコーリーの埋葬に多くの市民が参列し、1986年、マルコスを追いやったエドサ革命が再現されるのを、アロヨが恐れたという話だ。また彼女自身が埋葬にも参加しなかったのは、コーリーは生前、アロヨ大統領の腐敗政治を糾弾していたが、コーリーへの敬愛と回想が渦巻く中で、自分への憎悪が湧き上がる渦中に飛び込む勇気がなかったのだ。(続く)

巨星逝く、コーリー・アキノの死(その2)2009年8月13日



 8月1日未明、かねてから結腸癌を患い闘病生活を続けていた元フィリピン大統領コラソン・アキノが亡くなった。76歳だった。夫の暗殺を契機に政治家へ の道を歩んだ彼女は、1986年大統領選の不正を訴え、エドサ革命で独裁者マルコスを国外に追放し大統領の座についた、というフィリピン近代史の立役者 だ。   長年マルコスの政敵として活躍した夫、ベニグノ・アキノを暗殺され、悲劇のヒロインから大統領へと転じたコーリーはコファンコ・ファミリーという大富豪の出 でありながら、生来の清廉潔白な性格で多くの支持を集めた。マルコスの負の遺産を一掃し、経済を立て直すほどの政治手腕はもっていなかったが、素人だから こそ出来たという、フィリピンの将来を見据えての数々の法案を制定した。   現在でも、政治的な影響力は絶大なものがあり、エドサ革命2でエストラーダを大統領の座から引きずり下ろし、憲法改正によるアロヨ政権延命の画策を防止することに一役買い、死ぬ間際まで国を憂えるフィリピンの指導者だった。    1日から2日にかけてグリーンヒルで行なわれた通夜に参加した人は、炎天下あるいは雨の中を長蛇の列を作り、夜を徹してコーリーとの別れを惜しんだ。テレ ビのニュースは通夜の模様一辺倒で他のニュースは全く放映されず、通夜の実況中継(写真の男性はエストラーダ元大統領)やコーリーの写真の映像を流し続け ていた。3日朝、遺体はイントラムロスのマニラ・カテデラルに移され葬儀が行なわれる。そして、5日(水)は埋葬で、祝日となる。     テレビ放映の中でも延々と出演し続け、母との思い出を涙ながらに語っていたのがクリス・アキノ、コーリー・アキノの4番目の娘だ。クリス・アキノはフィリ ピンNo.1の女優として人気を誇っているが、自らが司会を務めるバラエティ番組の「ショー・ビズ」の特別番組に出演し、相棒の男性司会者相手に数時間語 り続けた。  […]

巨星逝く コーリー・アキノの死 2009年8月3日


  野暮用でアンヘレスを訪問した際、フィールドアベニューの両替商を覗いてみた。1ドルあるいは1万円に対していくらのペソになるのかわかりやすく示されている。昼ごろ見た時は1万円で5,155ペソだ。最近連日の円高で、レートがどんどん良くなっている。1ドルが91円台をつけたとも報じられており、この先が楽しみだ。  そして同じ日の夕方、仕事を終えて食事に向ったら、さらに5,175ペソに上がっていた。同じ日のうちにレートが変わるなんて聞いたことがない。一方、金曜のマニラ新聞によるとマニラで一番良いレートの店で5,190ペソだから、アンヘレスのレートも悪くない。  退職者にとって為替レートの変化は死活問題だ。年金や蓄えに頼って生活している人がほとんどだから、その変化に一喜一憂する。2004年~2006年、私がPRAにいた時代は1万円が5,000ペソ前後を推移していた。また、PRA定期預金の金利も良いところで4~5%で、大いにフィリピンに生活することのメリットを説くことができたものだ。換算も1ペソ=2円だから極めて簡単。「100ペソという値段がついていたら、2倍して200円、物価差5倍を考慮して、さらに5倍して、1000円、すなわち、100ペソなら、10倍して1000円、1000ペソなら1万円と思えば、高い安いの判断が出来る」という 10倍理論もこの時登場した。  その後2007年に入ってペソが急騰して、1万円が4,000ペソを割り込むどころか、3500ペソにも達する勢いで、退職者の収入が3割も目減りしたばかりか、利子も半分程度に下降し、フィリピンに住む魅力が大いに減少した。この異常なペソ高は誰にも予測できなかった。しかし、ある目ざとい退職者はそれ以前にPRAのドル預金を全額ペソに変更し、さらにペソの高値の際にドルを買い戻したというのだから賢い。  関連記事は下記にアクセス。 2007年5月22日掲載ニュース「ペソが急騰しています」http://www.pasco-ph.com/main/index.php?pid=352 2008年10月27日掲載ニュース「ペソが急落しています」http://www.pasco-ph.com/main/index.php?pid=481    円高が一段落した今年の前半、4,800~4,900くらいで推移していたものが、ここに来て1ドルが90円にせまる勢いで、対ペソレートも軽く、 5000ペソをこえた。そもそもペソはドルに連動しているので、円高はそのままペソとの交換比率に影響する。ドル建て定期預金の利子が上昇する兆しはまだ見えないが、これが前のように4~5%に戻ったら、昨今の暗い日本を脱出し大挙して退職者がフィリピンに押し寄せるのではないかと期待しているのだが。

円高で退職者はハッピー 2009年7月12日