巨星逝く、コーリー・アキノの死(その2)2009年8月13日


  83(月)、コラソン・アキノ元大統領(通称コーリー)の棺はグリーンヒルからマカティ中心のパセオ・デ・ロハス通りを経て、イントラムロスのマニラ・カテデラル(マニラ大聖堂)に移された。パセオ・デ・ロハス通りとアヤラ通りの交差点にはコーリーの夫のベニグノ・アキノ元上院議員が暗殺された時の銅像が建っているため、わざわざ迂回したのだ。

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 葬儀の中継のタイトルは「ありがとう(Salamat)、コーリー」だった。これはアキノ大統領が歴代の大統領の様に私利私欲にとらわれること無しに、心から国を憂い、生涯、正義と信念を貫き通したことに対する国民の声だ。

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  84(火)のテレビはほとんど1日中、告別式の様子を中継していた。その主役は息子のベニグノ・アキノ上院議員と女優で娘のクリス・アキノだ。また、もう一方の歴史上の人物であるイメルダ・マルコス元大統領夫人も姿を見せていた。軍や警察のゼネラル全員、主だった政治家、国中の名士が弔問したが、一般人はマニラ大聖堂を取り囲み、約5時間待ちだったという。コーリーに別れを告げる人の列は朝まで絶える事がなかった。

 

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  弔問に現れるかどうか、現れたらアキノ一家が拒否するのではないかと注目されたアロヨだったが、そのようなこともなく、そそくさと祈りを済ませると、たっ7分間で教会を離れた。一国の大統領も英雄の前では小さく見えた(もっと150cmにも満たない小柄な彼女なのではあるが)。アメリカ大統領のオバマもメッセージを送った。

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 翌5(水)棺は、21kmはなれたパラニャケ市スーカットのマニラ・メモリアル・パーク移送され埋葬される。この日は国民の祝日となったが、これはコーリーの埋葬に多くの市民が参列し、1986年、マルコスを追いやったエドサ革命が再現されるのを、アロヨが恐れたという話だ。また彼女自身が埋葬にも参加しなかったのは、コーリーは生前、アロヨ大統領の腐敗政治を糾弾していたが、コーリーへの敬愛と回想が渦巻く中で、自分への憎悪が湧き上がる渦中に飛び込む勇気がなかったのだ。(続く)

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