旅行


        ロングステイ先をお探しのご夫婦をスービックに案内した。スービックの記事は何度も書いているので、今回出会うことが出来たスービックの自然に着目して紹介する。  その目玉が、フィリピン・オオコーモリだ。正確にはフルーツ・コーモリの一種でジャイアント・フライング・フォックスあるいはゴールデン・クラウン・フライング・フォックスというそうで、世界最大級のコーモリだそうだ。日中は暑いので木にぶら下がって羽根で仰ぎながら暑さを凌いで、夜にフルーツを食べに餌場に向うらしい。スービックには各種コーモリが合計2万5千羽もいるらしい。 ズービックから戻る途中、飛行場の手前でLegenda SuitesあるいはSt. Therese Chappel に向かって右に入ってしばらく行くと、その辺一体はBat Kingdumと呼ばれるコーモリの繁殖地域だ。探すまでもなく道路の左側一帯の木々に数え切れないほどのコーモリがぶら下がっている。遠くから見てもトンビか鷹くらいの大きさはある、これまで見たことも無いまさに大型のコーモリの群だ。しかも半端な数ではない。全員車の外に出て呆れるように眺めていたが、動物園以外でこんな大量のコーモリを見るのは誰にとっても初体験だ。  スービックは広大なジャンブルを背景にして、全面は海という天然の要塞港だ。全面の海といくつかの入り口の道路さえ管理すれば簡単にセキュリティを維持できる。しかもオロンガポ市との間は運河(堀)で仕切られていて、4箇所しか出入口がない。その他の出入り口はジャングルを切り開いて出来ている3箇所の入り口だけだ。それらは24時間厳重なセキュリティ・チェックが行なわれている。 スービックは東京23区と同じ広さというが実際、平地は少なくて、ほとんどがジャングルとジャングルの合間に切り開らかれた住宅地だ。だから、オーシャンパーク、あるいはズービックに向う途中必ずと言っていいほど野生のサルに遭遇する。 フィリピンの都市の周辺にはもはや自然のジャングルは存在しない。ほとんどの山は椰子の木を植えるか禿山となってしまっている。スービックは自然のジャングルが体験できる貴重な地域なのだ。 オーシャン・アドベンチャー・パークあるいはカマヤン・ビーチの駐車場で岸壁から海の中を覗いて見るとそこには熱帯魚が悠々と泳いでいる。さんご礁の美しい魚達とは比べようも無いが、比較的大型の魚がおり、絶好の釣り場と思える。しかし、残念ながらここでは釣りは禁止されている。   

スービックの自然 2011年1月27日


 レガスピ市はビコール地方アルバイ県の州都だが、周辺のスルスゴン県、カトンドアネス島、マスバテ島も含めたこの地方の中心都市で、ビコール地方ではナ ガに続く地方都市で人口は20万人を超えるそうだ。ここには巨大なガイサノ・モール(写真右上ののオレンジ色のビル)とLCCデパートがあり、どちらもク リスマスとあって人であふれていた。写真の手前は滑走路。 レガスピ空港の滑走路の脇にリニョン・ヒルという展望台がある。そこからはマヨン火山やレガスピ市、そして飛行場が手に取るように見える。この日も滑走路 から飛び立つ飛行機の撮影に成功した。また、右の写真はマヨン火山の裾野を走る人間ロープウエイだ。一回350ペソもするそうで、ちょっと庶民には手が出 ない。この日は小雨模様にもかかわらず、クリスマス休暇でマニラから帰った人々でごった返していた。  レガスピの北の町、サント・ドミンゴはマヨン火山が一望できる海浜リゾート地帯だ。海岸線にはリゾートが立ち並ぶが水はさほどきれいでない。その一つパラ メーラ・リゾートでランチを取った。久しぶりに訪問したら、前面の海を10mほど埋め立ててプールと広場を作ってあった。ここは昼よりも夜のほうが恋人た ちでにぎわうそうだが、ここの料理の出て来るのが遅いのは相変わらずだった。      この日、夕方になってマヨン火山がはっきりと姿を見せた。レガスピの街の風景に溶け合って独特な雰囲気をかもし出している。   訪問客のお一人が最終日はレガスピに泊まりたいというので、ペッパーランド・ホテルに案内した。シングルが税金とサービス料、朝食込みで2240ペソとま あまあの値段だ。飛行場へは歩いていけるほどの距離だが、無料送迎車が出るそうだ。表からはわからなかったが意外と大きいホテルでインターネットをはじ め、ほとんどの必要設備がそろっている。部屋もゆったりして、きれいで、お勧めのホテルといえる。 […]

レガスピ市訪問 2011年1月8日



キアン・キアンで過ぎ去ったクリスマスと正月だったが、いよいよマニラに、そして日常に戻る日がやってきた。従姉妹達も学校を休んでまでして、キアンに別れを告げた。] レガスピ空港も最近は便数も増えて、常にPALやCebu Pacificの飛行機がとまっている。先日農場に泊まった方はレガスピからセブへ直接向った。大雨で飛行機が飛ばないのではないかと心配したが、それどころか、バックのマヨン火山も半分以上姿を見せていた。 カーネルは娘と弟を伴って前日に車で帰ったので、この日はキアンとママ、そして日本人二人の旅だった。 離陸直後の飛行機から見たレガスピ市。天候にめぐまれ、Albay湾も穏やかだ。      右の写真では、遠くに先日、訪問したカグラライ島が臨める。  飛行機の右側の窓側に座って待った甲斐があって、マヨン火山はこちら側だけ見事に姿を現していた。農場のある反対側の斜面と違って溶岩が流れる荒々しい姿を見せてくれた。まさに活動中の活火山なのだ。 40分ほどの飛行時間でマニラに到着する。マニラも快晴で、マカティ(左)、ボニファシオ(中央)、オルティガス(右)のビル群が一緒に見える。 手前のラグナとマニラ湾に挟まれた狭い部分に空港とSLEX(南ルソン高速道路)が見える。右の写真はアラバンのタウンセンター付近だ。 飛行機はマニラを通り越し、カビテでUターンして、マニラ湾側から滑走路に入る。カビテの新興住宅地がモザイクのように見える。 久々にPAL(フィリピン航空)を利用したのでターミナル2に到着した。そこには最近のコンドミニアムの建設ラッシュを反映して、壁にあるディスプレイはほとんどがコンドミニアムの宣伝だった。 最近空港タクシーに乗って料金をぼったくられることが多発している。イエロー・タクシーはメーター制だが、そのメーターがどんどん回ってマカティで、 2000ペソになったり、200ペソのところを2000ペソと一桁上の金額を請求されたり、かなり悪質だ。そうなるとクーポン・タクシーに乗ったほうが間違いなさそうだ。  空港の係りとおぼしき人にクーポン・タクシーの場所を聞くと、えてしてレンタカーを案内して、これまた倍くらいの料金を請求される。クーポン・タクシーの場所には写真の大きな看板があり、行き先ごとに料金が書いてあるので、この看板を頼りに自分で探すことだ。ちなみにマカティは440ペソで、多少割高だが、この程度は我慢して欲しい(画面をクリックして拡大してみてください)。

ビコール-マニラ、空の旅 2011年1月8日


12月23日(木)クリスマスイブの前日、二人の訪問者に伴ってビコール地方・タバコ市の農場へ車で向かった。2006年より開始されたセブ・パシフィックのディスカウント・チケットによりもっぱら飛行機に鞍替えして以来、車で行くのは実に4年ぶりだ。今回は2名の訪問者がいるため、色々見物しながら道中を楽しんでいこうという嗜好だ。  渋滞を避けるために、早朝5時に出発したが、南に向かう高速道路(South Luzon Express Way, SLEX)はすでに渋滞が始まっていた。皆考えることは同じなのだ。結局、ケソン・プロビンスの州都ルセナ市を抜けるまで断続的な渋滞が続いた。渋滞が一段落したところでガソリンスタンドに寄ったが、そこにはキリストの生誕をモチーフにした実物大のジオラマが飾ってあった。 ルセナを過ぎてルソン島の太平洋側の海岸に出るためにはルソン島の背骨にあたる小さな山脈を越えなければならない。そのわき道を通るとその峠は国立自然公園となっていて、自然のジャングルがそのまま残っている。遠くにルセナの湾も臨むことができ、道端では近隣に住む子らが道案内をしながらクリスマスのギフトとしてコインをねだっていた。 太平洋側の町、グマカには有名なドライブ・イン・レストラン、リタスがある。日本のドライブインとは比べようがないが、このトロトロ形式のレストランは 24時間営業で客が絶えない。メニューの数はさほどではないが、どれも新鮮でおいしい。イカの丸焼き、小エビのかき揚げ、ゴーヤ・チャンプル、カジキとバナナの幹のスープ(ポッチェーロ)、魚の切り身のフライ、それにライスとミネラルウオーター、4人分でしめて667ペソだった。味付けがさっぱりしていて日本人にとってみても思わずうまいと声が出るほどだ。 厨房ではたくさんの人が必死で下ごしらえや調理をしている。ウエイトレスも含めて20人以上の人がいるから、3交代、全部で60人くらいの人が働いていることになる。たかがトロトロ・レストランとはいえ、相当の売上高になるものと伺える。 ビコール地方に入るところでちょうど旅の半分になる。道はダエット(Daet)経由の旧道と近道の新道に分かれるが、たとえ2時間ほど余計にかかっても情緒のある旧道を通ることにした。途中展望の開けているところで一休みをしたが、そこからは延々と続く未開の山々が見え雄大な気分になれる。今回は新車の三菱モンテーロできたため、道中すこぶる快適で、皆まったく疲れを見せない。マニラ近郊のカラバリソン地方(カビテ、ラグナ、バタンガス、リザール、ケソンの県の総称)が混んでいたため、すでに出発から9時間を越え、さらにタバコの農場到着まで5時間かかる見込みだ。 ダエットを過ぎるとビコール地方特有の並木のトンネルが続く。さらに旧道の終わり付近は自然林の国立公園となっており、周辺に住む住民はまったくおらず、まるで日本の箱根富士国立公園内かどこかを走っている気分だ。ちなみにビコール地方は太平洋側にあるため、マニラ周辺の気候とはまったく異なり、明瞭な乾季がない。だから、1年中緑が豊富で絶えることがない。路肩もいつも緑、どこへ行っても緑・緑に囲まれている。 旧道と新道の交わっているシコポットを過ぎるともうすぐ、ビコール地方最大の都市ナガに出る。ここまで来るとあと2~3時間の道のりだ。だからここにあるペトロン(フィリピン石油公社)のガソリン・スタンドは一息をつく人々でにぎわっていた。そこにはハーレー・ダビッドソンの新車が3台誇らしげに停まっていた。フィリピンでは優に1台100万ペソ(約200万円)する代物だ。しばらくしたら刺青のあるアメリカ人とおぼしき3人が颯爽と乗っていったが、ジャンパーにはMAD MAXなどと時代物の文字が書いてあった。  ここからはほとんど平野、田園地帯でナガ、ピリ、バアオ、ナブス、バツ、オアス、ポランゲ、リガオ、ギノバタン、カマリグ、ダラガなどの市町村がレガスピ市まで連続している。町はクリスマス休暇で帰郷した人々であふれ、クリスマスの飾りがきれいだった。とりわけ電飾で飾り付けたフォルクスワーゲンが目を引いた。わがタバコの農場へはレガスピの手前、リガオで左におれて30分ほどの山道を通ると到着する。午前5時出発、午後7時到着、走行距離500km、少々きつい14時間の旅だった。 

金なしコネなしフィリピンの旅行:ビコール編 2011年1月7日



退職者の方お二人を伴って、アンヘレス、スービックを旅した。バス、ジープニーそしてトライシクルを乗り継いで、安宿に泊まる金なし旅行だ。もちろん何の予約もアポもない行き当たりばったりの2泊3日の旅だが、無事に目的を果たして戻ってきた。アンヘレスはいつものパターンだったので割愛し、スービックで出会った新しい側面を紹介する。  スービックは海岸沿いに港、工業、商業などのインフラが整備され、山側に住宅が配置されている。そして30分ほど奥まったところに各種レジャー施設がある。ここだけで生活に必要なすべての施設があり、フリピンにいながらにして外国へ旅した気分を味わえる。この日は3連休の中日とあってどこも人で溢れていた、といってもマニラの混雑とは比較にもならないが。  スービックのちょっと奥まったところにKalayaan Heightsという地区があるが、かつて米軍の将校が住んでいた高級住宅街だ。下の写真のBinictican Heights(左)やForest Hills(右)とは格が違う住宅街で豪邸が立ち並ぶ。Binicticanには日本人の経営するTropical Paradiseがあって、日本人の要介護のお年寄りを受け入れることになってはいるが、実際は短期宿泊の方が中心だ。Forest Hillsは最近開発されたもと中間クラスの軍人が暮らした住宅街だが、現在ではほとんど韓国人の家族が暮らしているそうだ。両方ともゆうに数百軒の家が建ち並んでいる。  スービックの海沿いはまさに横浜や神戸の港だ。現在でも航空母艦がはいる桟橋もあるが、商業用の設備が新たに建設されている。病院も大きなものが2件開業ないし開業準備をしている。左の写真は最新鋭のコンテナヤード、右の写真は港の反対側に建設された韓国ハンジンの造船所だ。   おなじみのズービックはトラの放し飼いが売り物だが、入り口に当地の原住民であるアエタ族の人々を外に配置して特長を出している。こんな感じの人たちはマニラでもいることにはいるが、全員髪が縮れているのがアフリカやオーストラリアの原住民との共通性を感じさせる。きっと彼らにはフィリピーノ・タイムや報連相などとは無縁な生活をしていたのだろう。しかし、現代はきっとテレビや携帯を買ったり、電気代を払うために現金収入が必要なのだ。だからこんな客寄せの仕事をしている。 スービックのもう一つの目玉はオーシャン・アドベンチャーで、水族館やイルカショーをやっている。その隣にあるのが、スービックで一番にぎやかな海水浴場だ。最近そこにはホテルが建設され、外国人でにぎわっていた。一室100ドル近くして、必ずしも安くはなくて、我々金なし族には手が出ない。   今回初めて覗いてみたのがTree Top […]

金なしコネなしフィリピン旅行(その4スービック編) 2010年11月30日


フレンドシップツアー、岩崎さんの「岩ちゃん日記」のメール・マガジンの呼びかけで、格安コレヒドールツアーに参加した。通常、昼食込みで2000ペソ程度かかるのが、たったの1000ペソで観光することができた。マニラ湾に浮かぶおたまじゃくしの形をしたコレヒドール島はマニラの重要な戦略上の拠点で、スペイン時代からマニラを守ってきた。また、太平洋戦争の激戦地としても有名なところで、現在も人は住まず、史跡として当時の様相を残している。 コレヒドール行きのフェリーはマニラ湾の埋立地、Cultural Center of the Philippines(フィリピン文化センター)のそば、マニラヨットクラブの港内、香港から運んできたという海に浮かぶ中華レストラン「ジャンボ・キングダム」(右下写真)の隣から出港する。  この付近はあちらこちらに大きな広場があり、早朝には多くの人がインストラクターに従って、集団でエアロビクスをやっている。どういうわけかそこにはセクシーな若い女性はおらず、太目のおば様やおじ様ばかりだ。若い人はもっぱら夜のエクササイズに忙しいのだろうか。また、岸壁に沿って釣り人も多く目にするが、こんな汚い海の魚を釣って食用にするつもりなのだろうかと、気にかかる。   コレヒドール行きのボートは120人乗りが2艘、日本製で時速40kmくらいは出るだろうか、なかなか快適な1時間程度の船旅だ。2名の女性乗り組み員が軽食や飲み物を提供しているが、ちょっと高めだ。 島に着くと、昔、実際の走っていたという軌道列車を模したバスで案内してくれる。日本人は1号車、その他は5号車というので、てっきり日本語を喋るガイドがいるのかと思ったら、今日は休みで、かなりブロークンな英語を喋るガイドが付き添った。一緒に参加した日本の某女学院の中高の生徒さんに同行した日本語を喋るガイドさんが通訳していたが、途中で面倒になったのか止めてしまった。  コレヒドール島は観光史跡ということで人は住んでいない。だから、とてもきれいに整備されている。ホテルやビーチコッテージもあるので家族連れでしばらくのんびりするのもいいかもしれない。  はじめにお目にかかる史跡がバラックと呼ばれる兵舎跡だ。鉄筋コンクリート製だが爆撃や樹木が絡み付いて、建設から100年くらいたった今では柱と梁くらいしか残っていない。それもここかしこで崩れ落ちている。バラックといえば日本ではにわか作りのぼろ家をさすが本来の意味は兵舎という意味らしい。 コレヒドール観光の目玉は島中に配置された大砲だ。1900年代初頭、すなわち明治から大正にかけて、作られたそうだが、衝撃を吸収する装置(ショックアブソーバー)など、なかなかモダンな感じがする。ガイドはこれらの大砲のことをガンと呼んでいたが、本来はカノン(Cannon)が正しいのではないかと思ったが、あとで辞書を調べたら、現在ではガンというのが普通らしい。  さらにこの場所をバッテリー(Battery)と呼んでいた。電池じゃあるまいし、と思ってやはり辞書を調べたら、砲台という意味だった。電池との関連から電気(エネルギーないし火薬)をためる場所、すなわち弾薬庫と類推したのだがそうではなかった。これら砲台は島の中に20箇所程度あるようだが、それぞれの砲台には弾薬庫が隣接しており、厚い土で覆われて、空から爆撃されても被害を受けないようになっている。  30cm長距離砲の迫力はなかなかのものだ。大砲にはあちらこちらに銃撃の跡があり、襲撃の激しさを物語っている。ちなみにこの大砲は350発が限界で、その度に砲身を交換しなければならないそうだ。砲身は工場に運ばれ中のらせん状の溝を掘りなおして再び使われるそうだ。 マイル・ロング・バラックと名づけられた兵舎。実際、1マイル(1.6km)はないものの500m位の長さの建物だ。ここには数千人の兵士が暮らしていたのだろう。 […]

コレヒドール島訪問 2010年8月4日



昨年来手がけているフィリピンで亡くなった退職者の遺産相続手続きのお手伝いで、私の相棒であるフィリピーナとともに日本に出張した。木曜出発して、金曜と月曜日に手続きを行ない、火曜には戻るという慌しいスケジュールだったが、かのフィリピーナは日本を満喫できたようだ。 この日の JL746便は伊豆七島に沿って北上し、遠くは伊豆半島、近くには房総半島がはっきりと認識することが出来た。地図で見ると島々は点々とあるが実際にみる と意外とくっつきあって見える。かつて100回以上は羽田や成田に降りていると思うが、伊豆七島をこんなに満喫するのは初体験だ。 初日の金曜日は、朝9時に渋谷のハチ公前で待ち合わせ、その後、公証役場へ向う。横浜を7時半ごろ通過したが、丁度ラッシュ時、駅を駆け足で行き交う 人々をながめて、驚きの声を上げている。東急東横線で渋谷へ向ったが、急行はぎゅうぎゅう詰めなので普通でゆっくり行ったが、マニラのLRTも朝は相当混 むらしい。ラッシュ時には女性専用車両があるのも同じだが、その女性専用車両が日本にもあるのを知らなかった私は、見渡して見ると男が誰もいないのを不思 議に思い、それが女性専用車両であることに気がつくのに数分を要し、次の駅であわてて車両を変えた。  日本での移動はほとんど鉄道だ。しかし外国人にとって切符を買うことが不可能であることがわかった。とにかく列車の料金表示が日本語だけなのだ。だからいくらの切符を買ったらよいのかわからない。しかしSuicaなら自動的に精算されるので、外国人はSuicaを買い求めて移動するのが良いだろう。   渋谷は私が高校時代、毎日通学した街。ハチ公は今でも健在だった。ハチ公の話をしてあげたら、これまた、いたく感激していた。帰りは新宿から横浜へ向ったが、座れないのでグリーン車へ行く。切符を切る車掌さんが女性というのは中々良い。  横浜では中学生や高校生に声をかけて、はいポーズ。英語で話しかけると彼らはパニクッて、二つ返事でOKしてくれる。私が声をかけたら、逃げ出すか、警察に突き出されてしまうだろうが、外国人にはめっぽう弱いのだ。 この日は私の自宅に招待したが、とりあえず住宅周辺の街とジャスコに案内。ほとんど人気のない街を見て、呆れ顔のポーズ。 スーパーの品数の豊富さときれいな陳列に、関心することしきり、しかし商品を買う人がほとんどいないので、これでやっていけるのかと、心配することしき り。しかし、試食は多いにウエルカムで、日本でお腹がすいたら試食で腹を満たせると、日本でのサバイバルにも自信を持った様子。 […]

フィリピーナの金なし日本紀行(その1)2010年6月13日


  土曜日は、雪を見たいというたっての希望で富士山へ向った。途中サービスエリアに立ち寄ると、行楽日和とあって大勢の人がやってきていた。そこでびっくりしたのが、清潔なトイレだ。公共のトイレでありながら、これだけ手入れのされたトイレはフィリピンなら五つ星ホテルくらいにしか見当たらない。子供用のトイレも芸術的なデザインとまで言える代物に脱帽の様子。 そして、数多くの、まるでモールのようなレストランやみやげ物売り場だ。もちろん試食には目がない。パン屋さんにもことの他、興味を示しているが、ゆくゆくはパン屋さんを経営することを夢見ているそうだ。  御殿場インターを降りたところで、フェラーリの隊列を見かけた。きっとフェラーリ同好会か何かの集まりだろう。数千万円もするような車を乗り回すなんて、日本にもお金持ちはいるようだ。ちなみに中古の軽自動車に乗ってでかけたのだが、我々の車以上にみすぼらしい車は見当たらなかった。 この日は曇りがちだったために富士山の頂上は拝めなかった。しかし、5合目まで来るとさすがに寒く、上着がないと表には出れない。富士山の5合目は標高2400mとあったが、これはマヨン火山の頂上に近い高度だ。  5合目からながめるとようやく待望の雪が見えた。しかし、産後間もない彼女としてはそこまで上るわけには行かず、次回のチャンスを待つことにした。 富士山の麓には多くのリゾート施設が出来ていた。リゾート牧場というので行ってみたら、ほとんど富士の裾野で生産している乳製品を売るだけの店で、当方がマヨン火山で展開しようと夢見ているリゾートファームとは程遠いものだった。 最後にたずねた白糸の滝、周囲は民家があるというのにここはうっそうとした森に囲まれ、意外に見ごたえがあった。 翌、日曜日は千葉の兄の家にでかけて行ったが、途中デズニーランドに立ち寄って、外だけを見てきた。中に入ったとしても、ほとんどの時間が待ち時間と聞いており、そんな無駄な時間をすごすことは、とても出来る相談ではない。そして車で走っていて、やたらと目に付いたのがトヨタのハイブリッドカー、プリウスだ。リッター30km近くは知るのだと話したら、目を丸くしていた。 千葉の北の方まで行くと、立派な農家が目立つ。これがファーマーの家だというと、またびっくり。是非フィリピンの人たちに見せたいというので、失敬して写真を撮らせてもらった。 この日の終わりは宿の近く、横浜中華街。マニラの中華街とは違って、完璧な観光地だが、そのど派手な外装に興味深く眺めていた。中国人の血を引く彼女だが、中国語も話せず、地元の中国人には別に興味がないようだった。

フィリピーナの金なし日本紀行(その2)2010年6月13日



横浜の石川町の街角ではごみ収集の様子や自動駐車場に注目。フィリピンなら必ず人がいるのに、ほとんどの駐車場が自動でお金を集金を行なっているのが彼女にとってはすこぶる珍しい。また、さらにタクシーの運転席と客の間のプラスチック板も興味深い様子だ。  フィリピン大使館の用事は予想外にスムーズに運んで時間が余ったので、依頼人の案内で浅草見物に行った。私としても高校以来40年以上振りだ。やはり外国人にとってはとても、ものめずらしいようで、彼女は写真写真と大はしゃぎだった。聞いてはいたものの、観光用の人力車がかなりの数出ていたが、かなりのもうけになるそうだ。       彼女はクリスチャンのはずだが、なぜかしっかり仏様にお祈りをしていた。お線香の煙のご利益もしっかり受け止めていた。フィリイン人は宗教的にあまり固くはないようだ。 このバスも浅草名物として運転されているのだろうか。なかなか良いデザインだ。   寿司は食べなれているとしても回転寿司はフィリピンにはない。この日は是非ということで回転寿司で昼食をとらせてもらった。これだけの寿司料理が次々と回ってくる様子は迫力ものだ。この光景に彼女もしごくご満悦の様子だ。 その後、人と会う約束があり、新宿の街をぶらついた。高校生は相変わらずミニスカートでロングが絶対のフィリピンから来ると、異様に移る。一方、マルイの売り子さんのドレスが気に入って一枚。  久しぶりにやってきた新宿は私が持っていたイメージとは全く重ならなかったが、この日、面会した人の案内で歌舞伎町に向ったとき、そこで初めてあのころの新宿に出会うことが出来た。私の新宿のイメージは歌舞伎町だったのだ。ここには雑踏と喧騒があり、マニラに通じるものがあり、なにかほっとする思いだった。新宿の名前はマカティのリトル東京の新宿ラーメンでおなじみの彼女も、歌舞伎町に大変親しみを持ったようだ。夜の歌舞伎町に案内してくれるということだったが、産後間もない彼女が、今日は歩きすぎてお腹が痛いというので、断念。一人で帰すわけにも行かないので、次回ということにして横浜に向った。湘南新宿ラインのおかげで横浜と新宿も近くなったので、次回、日本を訪問した際は是非夜の歌舞伎町を覗いてみたい。 火曜は帰国の日だ。この日の午前中、東京駅丸ビルで、退職ビザ関係のパートナーと面会した。投資コンサルタントの方々で、お客さんがフィリピンに注目し始めているそうだ。今後多くのお客さんとフィリピンを訪問する予定とのことで、今回の初顔あわせとなった。 いよいよ空港に向うが、東京駅の総武線のホームは地下5階。長いエスカレーターに地震がきたらどうしようと、緊張気味だった。空港のデューティフリーを覗いてみても、先日SHISEIDOブランドを大量に買い込んだマツモトキヨシの方が安いと見向きもしない。フィリピーナはコストに関してはすこぶる敏感なのだ。  いよいよこのJALでマニラへ向う。従来のジャンボと違い、あまりガソリンを食いそうにない機種で座席も2-3-2の7列と少ないが、その代わり満席だ。あれだけ湯水のようにお金をばら撒く経営をして破綻したJALだから、ちょっと締めれば悠々再生はできると思う。おかげで日本人のスチュワーデスがほとんどおらず、タイ人がほとんどだが、それも時代の流れだろう。

フィリピーナの金なし日本紀行(その3)2010年6月13日


 最近退職され、これからはプロカメラマンとして人生の後半をフィリピンで過ごそうとされている某大手電気会社出身の退職者を案内してマニラの南、バタン ガスの観光名所タガイタイそしてアニラオを案内した。タガイタイは言わずもがなの、マニラから1時間近傍のタアル火口湖の絶景を望む観光名所、あるいは別 荘地帯だ。タアル・ビスタ・ホテルの展望台はかつては自由に出入りできたのだが、現在はホテル宿泊者専用の展望台となっている。しかし、持ち前の図図しさ を発揮して、ホテルのレセプション、レストランを通り抜けて展望台へと向うと、退職者は眼前に広がる絶景に感激していた。     次に訪問したのがタガイタイの目玉、マホガニー・マーケットだ。タガイタイは果物、花木、牛肉などが名物だが、丁度パイナップルのシーズンで、大きいもの で3個、100ペソ、中位で4個、100ペソで、ジューシーで感激的においしい完熟パイナップルが買える。我が農場でも育ててみたいと、苗を一つ5ペソ、 100本を、付近のパイナップル畑で買い求めた。いつの日か農場でも、もぎたて完熟パイナップルを味わうことが出来ることを願って。        タガイタイを過ぎてバラヤン湾の海岸線に出ると、刃物やさんが目立つ。これもバタンガスの名物だ。日本では禁止されている飛び出しナイフやバタフライナイフが数百円で買える。子供のおもちゃにと買い求めたが日本に持ち込むことが可能かどうかわからない。(子供と言っても30歳を超えているので果たして喜んでもらえるかも疑問だが)  一旦バタンガス湾に出て、再度バラヤン湾に戻ると、そこはアニラオのビーチリゾートで30軒ほどのリゾートが建ち並んでいる。前回はイーグルポイントから 乗船してマリカバン島のセボック・ビーチへの入場料を取られたので、今回はアニラオ半島の根元の港から乗船して倹約することにした。ちなみにボート代は往 復で2500ペソ。1990年代は1000ペソ程度で半日使えたので、随分値上がりしたものだ。ボートは10人以上乗れそうな大きなもので、多少の波にも びくともしない。ここからはミンドロ島のプエルト・ガレラ方面に行く中型のボートも並んでいた。 […]

バタンガス取材 2010年5月13日