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2015年1月15日(木)にローマ法王が20年ぶりにフィリピンを訪問した。80%の国民がカソリックというフィリピンは世界で、メキシコ、ブラジルに次いで3番目にカソリック信者が多いそうだ。そのため、国を挙げての歓迎で、マニラ首都圏には1000万人の信者が全国から集まると予測された。 大統領府は、法王が到着する15日(木)から、出発する19日(月)まで、なんと5連休にすることを決定した。これは、首都圏の交通マヒ、そして国民が法王のミサに集中できるようにとの配慮だそうで、それに異議をとなえる不謹慎なものは皆無だった。 街には、いたるところに法王を歓迎する看板が掲げられ、その熱狂振りを示していた。私が住まいとしているMAKATI PRIME CITY コンドミニアムもしかりだ。 奇しくも、 15日、法王の到着する、丁度その日に、マニラを訪問する方がいた。法王の到着する夕方は、空港が閉鎖されるという情報が飛び交い、果たして、飛行機が飛ぶのか時間が変更になるのか、さらには空港周辺の交通が規制されるというので、果たしてホテルまで無事にたどり着けるのか、不安は高まるばかりだった。当方としても、フィリピン航空のチケット売り場に出向いて、便の運行状況を確認したものの、交通規制については確かな情報を得ることはできなかった。 そのため、規制が始まるという午前12時の2時間前の午前10時に家を出た。ちなみに、到着予定時刻は午後1時半なので、空港で3時間待つ羽目になってしまった。この日は、特別休日であること、交通規制の情報が徹底していたせいか道路はがらがらで、あっという間に空港にたどりいた。途中、スカイウエイ高速道路ではポルシェなどのスーパーカーがグループで疾走していた。 空港は2時以降、立ち入り禁止となっており、各航空会社は到着を早め、2時までに乗客を降ろしてしまおうと算段をした。そのため、昼ごろの空港は出迎え客でごった返していた。人々は長丁場を覚悟して、座り込んでいる。また、タクシーはほとんどいなくて、タクシー待ちの行列ができていた。ゲストとであった時間は、すでに空港からマニラ市に向かう道は閉鎖されているので、反対方向の空港の南を回って、マカティに戻ったが、この日、この出迎えに、ほとんど一日を費やしてしまった。        客を無事ホテルに届けて、ほっとして、家に戻ると、テレビでは法王の到着の模様をテレビで映していた。アキノ大統領を従えて、要人に一人ひとり挨拶しさらに教会の神父たちの歓迎を受ける。ちなみに、神父をファーザーと呼ぶが、この日、法王に謁見が許されているのは、ビショップなどカソリック協会のトップクラスのみだ。法王はフランシスコという名で、Pope Franciscoと呼ばれる。Popeというのは、パパという意味で、法王のみが使うことを許されているそうだ。したがって、法王のことを親しみをこめて皆、パパと呼んでいる。 法王の到着をテレビで見ていたジェーンは、手を合わせて、今までみたこともない慈愛に満ちた顔をしている。カソリック信者にとっての法王は、まさにキリストの化身で、神と映るのだろう。 […]

ローマ法王の訪問でフィリピンは5連休 2015年1月19日


熟年男性に生きがいを与え、社会現象ともなった医薬品バイアグラが、特許切れのため、ジェネリック(後発医薬品)が販売されている。従来、一粒、1000ペソ以上していたものが、十分の一程度で買えるそうだ。まさにコンドームと大差のない値段で買えるので、熟年男性にとっては、夜のお供に気軽に使える時代が来たといえる。まさに、バイアグラの販売が第一次セックス革命ならば、これは、第二次セックス革命とも言える出来事だ。Sildenafilというなんとも覚えようもない名前だが、薬屋に行ってバイアグラのジェネリックと言えば通じるだろう。 厳密には、バイアグラと同様、医者の処方箋がないと買えないが、その辺は、大分緩やかのようで、男性薬剤師であれが同病相哀れむといったところで、売ってくれるらしい。女性薬剤師の場合は、このスケベ親父と映るせいかルールを盾にとって、なかなか首をたてに振らない。男性薬剤師がいるときを見計らってまとめ買いするのがよさそうだ。           効き目の方は、名前こそ違え、バイアグラと成分は、全く同じなので、問題はないと、経験者は語る。私も試してみたいが、いまだ、その必要はないし、また、必要とする機会もほとんどないので、人の話をたよりにするしかない。しかし、この薬を必要とする熟年者は意外と多いようで、先日お会いした同年齢の退職者は、これを機に、再度、夜の生活を復活させたいと意気込んでいた。 かわいそうなのは、花街で、バイアグラのまがい物を数百ペソで売りつけていたお兄さん達だ。本物が、同じよう値段で売り出されたとあっては、商売上がったりだ。それを、「Sildenafilはいかがですか。本物ですよ」といったところで振り向く人はいないだろう。逆に本物の薬をそんな形で売っていたら、背に手が回ることは間違いない。

バイアグラのジェネリック(後発医薬品)が販売に 2014年12月21日



先週、再び、昨年の台風ヨランダ(台風30号)に匹敵する猛烈な台風がやってくるというニュースが流れた。週末にヨランダと同じサマール・レイテ地方に上陸し、そのままビサヤ地方を横断、あるいは首都圏に向かうと予測された。昨年、ヨランダの甚大な被害を経験した大統領は、今度こそはと、広範な避難を呼びかけ、数十万人の人を避難させ、万全を期した。 台風ルビーは、6日(土)、7日(日)には首都圏を通過し、週明けには、平常になるものと予測された。当方としては、週明けに退職者のビザの発行を予定しており、自然災害とはいえ、切羽詰まるものがあった。この退職者のチケットの予約変更のためにフィリピン航空とすったもんだした挙句の果てに、ようやく10日(水)に席がとれてほっとしたという、いきさつがある。 台風ルビーは、上陸寸前に速度を落とし、6日(土)にサマール・ビコールに上陸した。コースが北にずれたために、ビコールの農場も暴風雨圏に入り、停電のため、連絡がとれなかった(ちなみに、強い台風が近づくと電力会社は、あらかじめ、電源を切って停電にしてしまう。台風が過ぎてから、送電・配電設備の無事を確かめながら送電を開始していくのだ)。その日の夕方連絡がとれたが、かなり強い風が吹いたものの、農場の被害はわずかだったと聞いて安心した。 サマール・ビコールを横切ってから、台風ルビーはさらに速度と勢いを落とし、まさによちよち台風となった。そのため、首都圏接近は2日ずれて、8日(月)の夜と予測された。8日の新聞では、ヨランダのトラウマから、政府が住民の避難に躍起になっている報道がなされてた。そして、もっとも恐れいてた学校の一斉休校が報道されており、この日、官庁も全部休みになる公算が大きい。退職者には、10日(水)に予定を変更する際、いつ雨が降るとといって官庁が休みになるかもしれないからと、一日の余裕をみることをアドバイスしたのだが、まさにそれが現実になってしまった。 それでも念のためと8日の朝、PRAに行って見ると、ドアはむなしくも硬く閉ざされたままだった(右)。ドアの前では日本から着いたばかりの退職者が、ため息をつき、ビルの警備員は、PRAは休みであることを必死にPRA訪問者に伝えていた。新聞は、大被害を予告するニュースを載せている(左) さらに、よちよち台風は、10日(水)まで居座る公算が強く、9日(火)も官庁は休みになり、10日(水)のフライトも危ぶまれるという。そのため、件の退職者と連絡を取って、フライトを台風が来る前、今日(8日)の午後に変更してはどうかと提案した。この方は、仕事の都合上、どうしても10日までには帰らなければならないというのだ。 フィリピン航空のチケットオフィスに行って相談したが、フライトの変更は可能だが、誰も10日のフライトの状況は予測できない。しかし、ここで気がついた問題は、パスポートがPRAに預けてあって、それがなければ飛行機にも乗れないことだ。しかし、PRAの事務所には誰もいないので、パスポートの入手は至難の業だ。結局、この案もリスクが大きいということで、静観して天に祈るしかないという結論になった。 官庁が休みになっていつもの交通渋滞がないため、退職者をボニファシオ・グローバル・シティのアメリカン・セメタリーに案内した。まさに都会のど真ん中に位置するここは、ほとんど人もおらず、静かにたたずんでいた。 一方、相棒のジェーンは、こともあろうに、息子KIANを連れてMall of Asiaにスケートに行ったという。こんな時に不謹慎と思ったが、「全国の聖職者が神に祈りをささげて、台風ルビーがよちよちになったのだ」とうそぶいている。たしかに夜半になっても、一向に風も雨も強まる気配はなく、ジェーンは、KIANはスケートの才能があると、喜んでいたが、当方は、台風の動向に気が気ではない。 結局、官庁は、8日(月)何の意味もない臨時の休日を行ったのだが、翌日、9日(火)の朝、運転手のボボイは、今日も官庁は休みだという。ジェーンに聞いても、前日やケーブルTVの故障で情報はないという。しかし、一縷の望みを持ってPRAに行ったら、そこはいつもの通り営業中だった。そうなると今度は、この日の内にビザを発行して、退職者が晴れて、当初の目的を達成し、予定通り、日本に帰れるようにするのが当方の役割だ。相棒のジェーンの大車輪の活躍で、なんとかやり遂げることができ、退職者には大いに喜んでいただいたが、当方の面目躍如といったところだった。 台風の記事に気を取られたが、同じ紙面には、もっと影響の大きい情報がのっていた 結局、首都圏には、何の影響も与えることなく過ぎ去った台風ルビーだが、台風ヨランダのトラウマにおびえる政府は大げさな避難活動を行い、官庁を休みにして、右往左往させられたのは我々外国人だった。しかし、特に在留邦人にとってもっと衝撃的だったのは、この時、1万円が3660ペソという、7年ぶりの安値をつけたことだ。ここ数年、5200~ 300ペソを推移していたので、30%以上の収入の目減りで、実に収入が3分の二になってしまったのだ。

台風22号(ルビー)が首都圏を直撃 2014年12月13日


9月19日(金)、早朝、屋根をたたきつける雨音で夜中に目が覚めた。台風マリオ(16号は)ルソン島の北部を通過するということで、心配はしていなかったのだが、台風と季節風があいまって、首都圏に記録的豪雨をもたらせたものだ。 この日は、マニラ湾に近い下町のマニラ市マラテにご家族で宿泊中のゲストを昼ごろ空港に送る予定だった。しかし、マラテに向かう途中、ブエンディ通りやタフト通りがすでに冠水して通行できないというラジオの情報があり、運転手だけでは、いざというときの判断と連絡がができないので、私も同行することにして、家を出た。ちなみに、我が家があるマカティ市のサンアントニオビレッジ付近はめったなことでは道路冠水はしない。我が家、Prime City Condoは、さらに1.5mくらい高くなっているので、水の影響は全くない。 しかし、コンドの外のSt. Paul St.に出てみると、わずかだが水が出ている。こんなことは年に一回あるかないかなので、これは、やばいと直感した。早速、思い出しのが、2009年の台風オンドイによる、メトロマニラ全域が水没した時のことだ。この際、過去のブログを読み返してみると、大体、年に一度は、Prime City Condoの外の通り(St. Paul St.)は冠水しているようで、そんなときに限って、ゲストがいて、マニラの洗礼を受けてしまっているようだ。 恒例の洪水で思わぬ5連休 2013年8月25日 大洪水‐頼みの綱は自転車 2012年8月10日 […]

台風マリオ(16号)の影響で首都圏に豪雨 2014年9月21日



ターミナル3がセブパシフィック航空専用のターミナルとして開港したのが、6年前の2008年8月だった。あれから、6年、紆余曲折を経て、ついに本格的運用を開始するに至ったのだ。ちなみにターミナル3の完成から12年の歳月を要したという、なんとも政治の理不尽さを感じさせる。この遅れによる経済損失はとてつもない金額になると創造される。「マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港 2008年8月13日」「マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港(その2) 2008年8月19日」 6年前に開港したターミナル3は、世界最悪の空港として名高いターミナル1の汚名を挽回すべく最新のターミナルだったが、その利用は、長らくセブパシフィックのみが利用する状態だった しかし、ターミナル1からターミナル3へ移行するのは限られた航空会社であり、目当ての航空会社の便がどこへ到着するのか、よほど気をつけないと、ターミナルを間違えてしまい、出迎えるものにとっては、頭痛の種となる。何しろ、ターミナル間の移動は、最低30分はかかり、特に、現在、ターミナル1/2と3をスカイウエイで結ぶ工事をしているので、ターミナル間の道路は、四六時中渋滞しているのだ。 ちなみに、従来は、ターミナル1が外国の航空会社、ターミナル2がフィリピン航空(PAL)専用、ターミナル3がセブパシフィックと例外的に全日空が使っていた。ターミナル4は他のドメスティック航空が使っているが、ターミナル3では、さらにフィリピン航空のドメスティック便の一部が使っており、これが、混乱の元となっている。 こんな現象が国際便でも起こるのだ。マニラ新聞やプライマーのフライト・スケジュール表にも到着ターミナルは書いていないので、チケットを持っている到着客に聞くしかない。逆に到着する人が出迎えを頼む場合は、到着ターミナルと教えないと、いくら待っても空港で迎えの人に出会えないという事態になる。ちなみに日本からのダイレクト便は、当面、ANAとDeltaのみがターミナル3に到着することになるようだ。 現在、セブパシフィック、ANA、Delata等が利用するターミナル3だが、JALはターミナル1に留まっている この日、タクロバンからPAL便で到着する客の出迎えを依頼された。PAL=ターミナル2との先入観から、予定の時刻にターミナル2に出迎えに行ったが、到着便の案内にタクロバンからの便がない。煙にまかれた思いで、スタッフに聞いてみると、タクロバンからの便はターミナル3に到着するという。ちなみに、案内板にはセブ、ダバオ、イロイロなどからの便しかなかった。 あわててターミナル3に向かったが、逆方向は比較的すいていて、15分くらいで到着することができた。便も遅れていて、客を待たす羽目には陥らないですんだ。ちなみに、PALの便のうち、タクロバンやボラカイ(カティクラン)などからの便はターミナル3に到着するので、必ず到着ターミナルを確認してから出かけないと、あわてることになる。 私が使っている三菱モンテーロはSUVタイプなので、荷物もたくさんつめて便利だが、車両規制で月曜は使えないので、月曜は三菱ランサーで行くしかないが、この車は、大きなトランクが一個しかつめない。車両規制やら到着ターミナルやら、出迎えは、現在、私にとって一番頭の痛い問題だ。

ターミナル3が本格稼動 2014年9月14日


最近 往年の名クラブ、ミス・ユニバースが復活したといううわさを耳にした。2002年ごろから10年近くお世話になっていたが、2011年6月21日に閉鎖されたことは、このブログでも報告した。その後、オーナーが代わって名前を変えて復活したものの、往年の華やかしころの面影はなく、また閉店、そしてまた開店と閉店を繰り返し、人々の記憶から消えていった。今、マニラで一番熱いとマネージャーが豪語するほど、隆盛を誇ったミスユニバースだった そのミスユニバースが、いよいよ復活したといううわさが飛び交っていた。どうも、女の子達にリクルート攻勢があり、ベイ(もとエイシアン)の子達にも声がかかっていたようだ。そんなわけで夕べ、ゲストと外食したついでに軽く覗いてみることにした。 ミス・ユニバースの命日(6月21日)の翌日、ネオンも消え、さびしげにたたずんでいた。そして8月24日、カンポスという名前で復活したものの、往年の名声を獲得することなく消えていった 表のネオンが壊れていて、名前を確認できなかったが、単なるユニバースという名前になったようだ。入り口では、まず、マネージャーの名前を聞かれたが、まさかいるとは思わず、昔のなじみのマネージャー「トニーボーイ」の名を告げた。そうしたら、いるというのである。 ネオンの一部が消えているが universe GIRLS CLUBというのが正式名称らしい 中に入ってみて、最初に気がついたのが、全体的にきれいで、安食堂のいすとテーブルだったのが全部ソファーになっていたことだ。これなら十分くつろげる。舞台には2本のポールが立っていてポールダンスも楽しめるが、ショーも垢抜けていて、ベイの一枚上を行く。 早速やってきたトニーボーイに詳しく聞くと、提供サービスは基本的に前と同じで、価格体系は、入場料;200ペソ、ビールが90ペソ、レディズ・ドリンクが600ペソ、VIPルームは別途500ペソで使えてカラオケがあるそう。その他の特別サービスも前と同じ料金だそうだ。 しばらくすると、ベイで顔おなじみだった懐かしい女の子が、こっちを見つけて微笑みを投げかけてきた。様子見といってもテーブルに女の子も呼ばないで、様子見にもならないと、ひとり呼び、二人呼び、そして席がいっぱいになってしまった。ここいらで酩酊し始めたので、お開きにしたが、明朗会計は相変わらずだった。

速報ミスユニバースが完全復活 2014年3月14日



 Sacred Heart Churchの式に引き続き、マカティの北、高級コンドミニアム街、ロックウエルにあるRockwell Clubで披露宴を行った。 私の役割は、日本人の招待客の足のない方を車で来た方に便乗してもらうアレンジ、そして無事に披露宴会場の席に案内することだ。そこで問題だったのは、入り口に並ぶ幹部候補生のために、すでに会場に入っていいのかどうか、さらに席のアレンジはどうなっているのか、見当がつかなかったことだ。誰かに聞こうにも誰にきけばいいのかさえもわからない。式をアレンジしたジェーン本人は花嫁で、見当たらないし、一々客のことを構っているわけにもいかない。田舎からかけつけたジェーンの兄弟たちもなにもわかっていない。そこで、意を決して、10人がけのテーブル、2台半を独断で確保して、連れも含めて約25名の方々を生バンドの前の一番良い席に案内した。  新郎の挨拶の後、すでに5時を回っていたので、早速食事の開始だ。テーブル数は10人がけのテーブルが15~6ほど用意されたテーブルは若干の空席もあったので、140~50人程度の参加者と思える。そのため、ビュッフェスタイル恒例の長蛇の列ができていた。 中央に新郎新婦の席が設けられ、その両側にニノンとニナンの席。 食事が一段落したら、生バンドをバックに定番のカラオケだ。この日は、キムと一緒に一ヶ月近く練習した退職者も得意の喉を披露した。新郎新婦も当然、一曲披露する。緑の服はプロ歌手のシャーロン。 ケーキカッティングの瞬間を撮ろうと多くのカメラマンが殺到。 クラブの前面のガーデンには子供達用のテーブルが置かれていた。だから、KIANは中と外を行ったりきたりだ。        いよいよ恒例の写真撮影、それぞれのグループごとに新郎新婦の後ろに並んで記念撮影だ。KIANは昼寝の時間でダダをこねている。   この日は、PRAのアチエンサGM、ノエル営業部長、フィリップ財務課長さんが駆けつけてくれた。 ハイスクール4人組、そしてキムとKIAN。姻戚関係の女の子の服装は赤に統一されて、皆新調の赤いドレスを着て、うれしそうだ。 パーティもそろそろ終わりに近づいて、新郎新婦がダンスを披露、それから、バンドのギタリストが得意のロックを披露。ギタリストとして有名なフランキーの演奏は、なかなか見ごたえがあり、退職者の方々も見とれていた。 最後はKIANが締めくくって幕を閉じた。KIANは退職者からいただいた現金のギフト(赤い封筒)をしっかりと握り締めていた。お金の持っている意味と力をしっかりと把握しているようだ。すべてを片付けて帰るころは8時になっていた。昼の12時ごろから約8時間の大イベントだった。

ジェーンの結婚式ー教会編(その2ー披露宴)2014年1月1日


暮れも押し迫った12月30日、ジェーンの結婚式がSacred Heart Church執り行われた。8月に市役所の裁判所で簡単な式を挙げたが、今回がいよいよ本番だ。当初、新郎と新婦共通の田舎、アルバイのレガスピ市で、行う予定だったが、マニラからの招待客の交通費やホテル代など膨大な費用がかかる見込みだったので、急遽、マニラで執り行うことになったそうだ。 田舎からは、結婚式に参加するために約20人のジェーンの姻戚がやってきて、もともとの住人を合わせて約30人が我が家に泊まった。クリスマス前からやってきていたので、この1週間はまさに子供達の喧騒で明け暮れた。さらにゲストハウスには10人程度の新郎の姻戚が泊まった。結婚式当日は、朝から女性たちは化粧や髪結いで大忙しだ。 1時半過ぎ、いよいよ、ホテルに泊まっていた新郎新婦が教会に到着した。昨夜からロックウエルのホテルに泊まった新郎新婦はリムジン(リンカーンコンチネンタル)でやってきたが、披露宴会場のロックウエルと教会の往復だけで15000ペソの大枚をはたいたそうだ。 新郎の右に位置する恰幅のよい肩はジェネラル・ソーサ、新郎(カーネル・ヤン)の上司にあたる。 教会の入り口はジェーンの姻戚の子供たち、この日のためにしつらえて赤いドレスで統一されている。右は新婦を迎えるために、ポリス・アカデミーの国家警察の幹部候補生たちがサーベルを持って新婦を迎える。 リムジンの中はまるで部屋のようで、新婦のジェーンを姪たちが囲む。KIANはジェーンと一緒になりたくて涙を浮かべている。KIANの左は化粧担当のバクラ(オカマ)。 いよいよ新婦の入場だ。軍服に身を固めた幹部候補生たちに付き添われてバージンロードを進むジェーン。一方、警官姿のKIANはママを迎えて、敬礼。         この日、式を執り行ったのは、Bishop Ruben Profugo、フィリピンのキリスト教界でNo.2の重鎮だ。彼は、我が家のはす向かいに住んでいる隣人でKIANとも親しい。そのため、Bishopは式のあと、この式はKIANの取り持つ縁であることを聴衆に向かって話をしていたそうだ。式は、厳かに進むが、当方はわけがわからない。従ってもっぱら写真撮影に専念。子供達も神妙に牧師の話を聞いている。 式もクライマックスを迎えると、ニノン、ニナン(立会人もしくは証人)を携えて、結婚の誓いを述べる。もちろん、KIANも同席して承認となる。この日は縁の深い、5組の日本人にニノン・ニナンをお願いした。        前列には右にニナン、左にニノンが並ぶ。 式が終わると、ニノンやニナンの参加者に対して、牧師のブレッシングが行われる。そして、その後は記念撮影だ。 まずは軍服姿でサーベルをかざす幹部候補生と、こんな光景はめったに見れるものではない。そして、新婦の家族。 新郎の家族、ニノン、ニナン、友人、と延々と記念撮影が続く。 […]

ジェーンの結婚式ー教会編(その1)2013年12月31日



11月23日、以前お世話をしたSさんから、「ブログにアクセスできないが、URLを変更したのか、アクセス方法を教えて欲しい」とのメールが入った。当方としては、何の覚えもないが、早速ブログにアクセスしようとすると、ブログサイトの運営者からタガログ語でメッセージが出ていて、何のことやらわからないが、私のブログにアクセスできないのは、間違いない。  数日すれば、元に戻るだろうとたかをくくっていたが、そのメッセージをフィリピン人に読んでもらうと、どうもただ事ではなさそうだ。さらに、メッセージには疑問があれば問い合わせるようになっているので、一体どういうことが教えて欲しいと連絡した。翌朝、メールを開けてみると、ほとんど折り返しに回答があって、「規約違反があり、ブログを削除した、もはや回復できない。」という、ありきたりの決まり文句が帰ってきた。さらに、厳重に抗議をしたが、あとはなしのつぶて、まさに大企業の横暴極まりないといったところだ。 2008年5月以来、5年半、延々と書き綴ってきた私の人生の記録ともいうべきブログがなくなってしまった。このブログは単なる日記というより、フィリピンに興味を持たれる方々へのフィリピン情報の発信であり、パスコのビジネスの唯一のマーケッティングでもあった。それを何の通告もなく、一方的にすべて削除されてしまうなんて、まさに犯罪行為に等しいものだ。 まさか、このような事態が起きるなんて、予測していなかったので、ブログのバックアップは取っていなかったのが不覚だった。いつもブログサイトに直接書き込んで、写真を貼り付けていたので、何のバックアップもなかった。そのため、まるで、私の5年半の人生そのものを奪われてしまったような気がして、引退して農場で百姓でもやろうなんて気持ちにさえなってしまった。 一方、多くの方から、最も信頼できる生のフィリピン情報だったと惜しむ声と復活を願う声が寄せられた。中には、日比の宝だったなどと評し、その回復に力を貸してもらえるという申し出まであった。削除された原因については「政府筋や同業者の陰謀ではないか」、「花街の情報がひんしゅくを買ったのではないか」などと、憶測が寄せられたが、最後に「たびたび登場するKIANちゃんの裸の写真が児童ポルノとみなされたのではないか」という、コメントをいただいた。まさか、唖然となったが、公開される情報については、よほどの注意が必要と肝に銘じた。 一方、ビジネスパートナーの義理の弟である、パスコの取締役でもあるNONGが、写真はだめだが、ブログの文章は回復できるかもしれないとアドバイスしてくれた。そして数日後ほとんどすべてのブログのファイルを回復してくれたのだ。さらに、そこには写真の番号も含まれており、パソコンに保管された別途の写真ホルダーから引っ張り出してこれる。これらを、新たなブログサイトにアップロードすれば、ほとんどすべてのブログを再度公開できる見通しがついた。幸か不幸か、11月以降、本業のビザの取得サポート依頼が底をついているので、時間はたっぷりある。  カーネル(国家警察の幹部、パスコのビジネスパートナーの夫)によると、無料のブログサイトを使用しないで、サーバーの使用に金を払うべきだとアドバイスされた。無料であれば、運営者の独断で「規約違反」の一言でなんでもできる。金さえ払っていれば、責任があるので、勝手なことはできない。NONGは、パスコのホームページのサーバーを使えば、特に追加の費用は不要で、ブログの無料ソフト(WordPress)をインストールするだけで済むそうだ。その費用は2000ペソ足らず。こんなことだったら、初めからそうしておけば良かったと後悔しきりだ。  いざ、はじめてみると、各々のブログごとに写真を集めるの相当な時間を費やした。そして、一件ごとのブログをアップロードするのもかなり厄介で、一日、10件がやっとだ。文章はコピー・ペーストで簡単だが、写真一枚に同等の時間を要し、写真が20枚くらいになると、1時間以上の時間を必要とする。今まで、ブログのアップロードのスピードは月に平均10件程度だったから、やはり一日につき、一か月分、5年半となると、70日弱、700時間程度かかることになる。しかも、どの写真がどの文章と関連しているかなど、吟味しながらアップロードしなければならないので、人には頼めないところがきついが、やるしかない。 とにかく、只より高いものはない、という教訓をしみじみ味わった次第だ。現在使用しているYahooのメールも大丈夫か気にかかるところだが。

只より高いものはない(ブログが削除されてしまった!) 2013年12月7日


台風がフィリピン中部、ビサヤ地方(サマール、レイテ、セブ、パナイなど)を直撃して、今日、11月26日で18日目を迎えた。当地の日本語新聞であるマニラ新聞は、今日も一面全部を割いて、台風の記事を載せている。まさに、東日本大震災と同等あるいはそれをしのぐ災害となってしまったようだ。 24日午前6時現在の国家災害対策本部発表によると、死者5235人、行方不明1613人、合計6848人、全半壊した家屋数は114万棟で、73万8千世帯の345万5千人が避難生活を続け、被災者数は216万世帯、1001万人、実に人口の一割を超え、フィリピン歴史上最悪の災害と言えるようだ。 大統領府によるとと、外国政府や国際機関による援助表明額は24日までに、国家予算の3割に匹敵する149億8500万ドル(6433億ペソ、1兆5135億円)、さらにフィリピン政府として、554億ペソ(1288億円)の復興予算を確保した。日本からも5150万ドル(22億1500万ペソ、52億円)の資金援助と1000人を超す自衛隊員が救援活動にやってきている。 ちなみに、これらの支援を1000万人の被災者に分配したとしたら一人あたり15万円、一家族5人とすると合計75万円という数年分生活できる額になる。さらに全半壊した家の数(114万)で割ると130万円で、優に家を建て直すことのできるお金だ。しかし、これらのお金がいかに有効に分配されるかが鍵だ。 この台風が新聞に出始めたのは、11月7日のことで、猛烈な台風と称されていたものの、ここまでの被害になるとは誰しも予測していなかったにちがいない。台風が上陸した翌日、11月9日の発表が、死者は3人、そして、翌日が138人、そして、229人、1774人、2344人、3631人、3976人、4011人、5209人、そして25日は5235人と毎日、幾何級数的に増加していった。これは、現地の通信網が破壊されて、現地の状況が把握できなかったためだ。 しかし、街には義捐金を呼びかける姿は無く、庶民は親戚や知り合いに支援の手を差し延べるものの、公的機関への義捐金を出すことにはさほどの興味は示さない。これは、仮に現金を送ったところで、被災者に届くにはごくわずかで、途中で消えてなくなってしまうことを誰もが知っているからだ。だから、国際的支援も、約150億ドルのうち、資金援助は約35億ドルで残りの115億ドルは物資援助などだ。 ちなみに、フィリピンの英雄、ボクサーで国会議員のパクヤオ選手はこの試合を被災者にささげると表明して24日マカオで開催されたWBOウエルター級世界王座決定戦に判定で勝利した。タクロバンで無料の中継が行われて、被災者を多いにはげましたそうだ。 2006年11月30日、ビコール地方を襲った大型台風レミンは私の農場のあるアルバイ県などに甚大な被害をもたらしたが、私のビジネスパートナーは集まった義捐金、約32万ペソを使って、テント、米、缶詰、乾麺、Tシャツなどを購入し、約1300の袋に詰めて配布した。このような時、現金をバランガイ(フィリピンの最小行政単位)などに渡したとしても、決して困っている人には届かない、というのがパートナーの意見だった。 この時は、台風の翌々日に乗り込んだが、電信柱や倒れた木々で交通は遮断され、葉を落とした椰子の木で禿山のようになった大地に建っている家々は屋根を飛ばされ、台風のすさまじさを示していた。特に、マヨン火山の斜面に積もった溶岩が大雨で流れ出し、土石流となって河岸の家々押し流し、多くの死者をだした。このときの風速は60m/秒を越えていたと推測されるが、土石流の他には水害がなかったので、家が破壊されるという被害は局所的なものだった。 しかし、今回の台風ヨランダは、風速90m/秒というから、桁違いの台風だった。それに5mに達する桁違いの高潮、東日本大震災といい、やはり水害が壊滅的被害をもたらす。レイテのタクロバンに被害が集中したのも、タクロバンは湾の奥に位置しているために、三陸で津波の被害か大きくなるのと同様、甚大な高潮の被害受けたのだ。 地球温暖化の影響によるこのような桁違いの災害は、フィリピンや日本ばかりではなくこれからも、世界中で、頻繁に起こるような気がする。地球にとってはちょっと風邪を引いて熱が出た程度かもしれないが、地表にうごめく人類にとってはとてつもない災害となる。これに対して、いかに対処づべきか、あるいは対処できるのか、根本的に考え直す必要があるのではないか。

超大型台風30号(ヨランダ)がフィリピンを直撃(その3)2013年12月6日