Yearly Archives: 2010


フォート・ボニファシオ・グローバル・シティは、マニラ・ゴルフやフォルベス・パークなどの高級住宅地を挟んでマカティの東に隣接する新興都市だ。もともと国軍の基地(フォート・ボニファシオ)だったものが、1990年代半ばに民間に払い下げられた。そして2000年に入ってから急ピッチで開発が進められ、瞬く間に都市が出来上がってしまった。現在も高層ビルの建設ラッシュで、あちらこちらで槌音が聞こえる。マカティあるいはオルティガス並みの都市になるのにさほどの時間は必要としないだろう。  フォート・ボニファシオのシンボルはアメリカン・セメタリーだ。第2次世界大戦で日本と戦って死んだ兵士のなきがらが眠っている。ここだけはいくら開発が進んだとしてもそのまま残るだろう。フィリピーノの死者に対する畏敬の念は絶大だから、ここを移設するというような発想は絶対に出てこない。写真中央がアメリカン・セメタリー、その上がグローバル・シティのコンドミニアム群、遠くに見えるのがマカティのビル群だ。手前はマッキンレーの新興高級住宅街。 30ヘクタールはあろうかという広大な墓地は、墓地と言うより公園だ。周囲のビル群との対比が美しく緑がまぶしい。私はここをマニラで最も美しいところと称し、多くの人を案内しているが、当のマニラッ子は意外と行ったことがない人が多い。入場料も取られないので、少なくとも一度は訪ねてみる価値があるだろう。 中央の回廊には埋葬された兵士の名前が刻まれた壁が延々と続く。その数ざっと4万人と膨大だ。さらに中央のマリア像がある付近には、当時の戦闘の模様がモザイクで刻まれている。レイテ海戦など耳にした事のあるタイトルがついている。   ボニファシオは、マニラ国際空港(NAIA)の滑走路の延長線上にあり、ひっきりなしに飛行機が往来する。紺碧の空にフィリピン航空のエアバス(?)が飛ぶ姿は、よく空を眺めていた子供のころを思い出す。 ボニファシオ・グローバル・シティの商業の中心がマーケット・マーケットだ。ユニークな巨大な屋根を持つ、近代的モールで、経営はビサヤ地方に根拠を置くガイサノだ。モールは人であふれ、中央の吹き抜け部分から人の動きが良く見える。 巨大な屋根の下はオープンマーケットの雰囲気を醸し出している。多くの屋台が健康野菜やそれぞれの地方の名産品を売っている。その地方に旅行をしたような気分になる。 非常にゆったりとしたレイアウトで、車やバイクのの展示場などもあり、屋根の下のベンチでくつろぐ人もたくさんいる。 マーケット・マーケットの周りにはアヤラ開発の中層高級コンドミニアムのセレンドラや多くの高層コンドミニアムが建設中だ。しかし、マーケット・マーケットで買い物する人々はそこからやってくる人ばかりではなくて、タギグなどの周辺の庶民がたくさんやってきてるようだ。学校をサボって朝から晩まで冷房の利いたモールで過ごし、夜は友達と飲みに行く毎日で、挙句のはてにハイスクールから追い出されてしまう、というワルな女生徒も多くいるそうだ。 ボニファシオも病院や学校が建てられ、いよいよ都市としても機能が充実してきている。左はセント・ルークス病院。ケソンの一流病院の最新鋭病棟だ。オープンしたばかりで、現在もっとも最先端を行く病院と言える。

フォート・ボニファシオ・グローバル・シティの紹介 2010年3月15日


メトロマニラの中心であるマカティはここ15年ですっかり高層化され、国際都市の仲間入りをしている。これらほとんどの高層ビルは1990年代後半に建設されたものだが、これら近代的なビル群は鉄筋コンクリート製で、日本のように鉄骨ないし鉄骨鉄筋コンクリート製のビルはほとんどない。  マカティに建てられた最初の高層ビルはマカティ・アベニューとブエンディア通りの角に建っているパシフィック・スタービル(左下写真)で1989年に完成した。これだけは鉄骨製だ。さらに最初の高層コンドミニアムが同じごろアヤラ・アベニューに建設されたパシフィック・プラザ(右下写真、左側)で、このころは海外の設計者のデザインによるものが多く、多分鉄骨製だろう。その後、DMCIなどの大手建設会社が鉄骨製の設計に対して鉄筋コンクリートがはるかに安いと設計変更を施主に提案し、鉄筋コンクリート製の高層ビルが定着していった。 何故鉄筋コンクリートが安いのか。フィリピンに製鉄所はないから鉄骨はすべて輸入される。一方、セメント、砂利、砂はフィリピンで調達できる。それに人件費が安いから現場で手間暇のかかる鉄筋コンクリートの方がはるかに安く上がる。しかも、マカティの地盤は日本の都市のようにふわふわな粘土の沖積層や比較的固い砂利層の洪積層ではなくて、まるで岩盤のような、いわば砂岩のような地層だ。だから地震があってもあまり揺れず、重量の大きい鉄筋コンクリート製のビルでもしっかり支えてくれる。かつて自社ビルを建てた折、たったの数メーターの深さの地盤をバックホーで掘削していたら火花が出たくらいだ。数十メートルの掘削も土留め無しで掘っているし、マカティで杭を打っているのを見たことがない。ほとんどすべてのビルの基礎は直接基礎で基礎工事が極めてシンプルだ。  今、マカティは再びビルの建設ラッシュだが、ほとんどのビルはコンドミニアムだ。私の事務所があるパソンタモ通りを南に下り、パサイ通りを左に折れて、ドーシットホテルに向うビル街の外周コースを歩くと、交差点ごとに高層のコンドミニアムが建設中だ。そのすべてが鉄筋コンクリート製なのだ。   鉄筋コンクリートはご存知の通り、階ごとに柱や梁の鉄筋を組んで、支保工と型枠をつくり、コンクリートを流し込んで出来上がり。それを繰り返し、上へ上へと上がっていく。日本のように一気に鉄骨を組み立てて、あっという間にビルの骨格が出来上がるのと違い、極めてのろい。しかし、上層で骨格を作っている間に、下層階は仕上げに入っているなど、並行して工事が出来るの、建設期間はそんなに差がない。また、さほどの重量物を運ぶ必要が無くて、タワークレーンもちゃちで、いまだにT字型のクレーンが主に使われている。  コンクリートの柱、梁、床の骨格が出来ると、壁はほとんどの場合ブロックで作る。ブロックは安いし、断熱、遮音効果もあって、中々優れた材料だが、重くて手間がかかるのが難点だ。しかし、地盤が良く、手間賃の安いフィリピンにはぴったりだ。それに現場で積み上げていくので、どんな形でも自由自在に作れて、精度の心配もない。だから実石さんの作るブロックが飛ぶように売れわけだ。 マニラの高層ビル群を眺めてみると、ここ15年の様変わりに感心する。写真下の中央がシャングリラホテルで、後方がサルセド・ビレッジ及びレガスピ・ビレッジでマカティの高層ビル群の中心地だ。左隅の低層ビル街はコマーシャルエリアでデパートやモールだ。右の写真はアヤラ通り沿いに立ち並ぶ高層ビル、手前はマカティ・メディカル(病院) マカティの東、かつての軍の基地を払い下げて開発中のフォート・ボニファシオ・グローバル・シティのビル群。2000年代の開発の目玉だが、急ピッチな開発のために空室が目立ち、値下がり傾向にあるそうだ。右の写真の手前は名門マニラゴルフ。マカティとフォートに挟まれ、都会の一等地にあるゴルフ場で、値下がりが目立つゴルフ会員権の中で、ここだけは高値を堅持しているそうだ。 さらにマカティとフォートの間には広大な高級ビレッジのフォルベス・パークとダスマリニャス・ビレッジが広がる。大使公邸や商社の支店長、そしてフィリピンのお金持ちが住む別天地だ。右の写真はマカティに続く高層ビル群のオルティガスだ。ここは、写真手前のアジア開発銀行を囲むように1990年代後半、瞬く間に高層ビルが建ち並んだ。

マニラの高層建築は鉄筋コンクリート製 2010年3月14日



退職者のYさんはフィリピンに移り住んで15年、そして7年前、脳梗塞を患って倒れた。幸い、回復して退院したものの、口も聞けず、感情を表すのがやっとだった。Yさんにとって幸いだったのは、倒れる前に介護婦のMさんと知り合い、色々面倒を見てもらっていたことだ。「Yさんはとてもやさしい、いい人で、近所にもたくさんの友達がいた」と、7年間介護を続けたMさんは思い出を語る。  1日24時間、週7日、休みなしに一人のメードと交代で介護を続けたMさんは、月々の収支報告を日本の弁護士に送り、家計から家事、そして介護とまさに献身的な働きをした。そのため、結婚話にも耳を傾けず、Yさんの回復を祈っていたという、まさに美談だ。一度、日本の記者を連れて行ったことがあったが、女性記者と話をしていて、二人が号泣していたのを憶えている。彼女はYさんの遺体を故郷のネグロスの実家に葬り、一生、一緒に過ごすと語っている。  Yさんは元気なうちにMさんという人と知り合えて、とてもラッキーだった。それもYさんの人柄がよくて、皆に愛されていたからだろう。家族の方の出席は無かったものの、フィリピンの家族に囲まれてYさんは天国へ旅立った。葬儀には大勢の方々が参列してくれたそうだ。通夜の間中、Mさんの家族は24時間、交代で寝ずにYさんのなきがらを見守った。Yさんが寂しくないように誰かが24時間つきそうのがフィリピンの習慣だそうだ。 Mさんはネグロスになきがらを運ぶのは大変なので、火葬にすると言っていた(弁護士からはなきがらはMさんに預けると言う了解をもらっていた)。しかし、その前日、Yさんが熱い熱いと叫んでいる夢を見て彼女は気が変わった。そもそもフィリピンでは土葬にするのが普通で、なきがらがあれば毎年ホリーウイークには現世に帰ってきて再会できると信じている。だから、なきがらはフィリピン人にとってとても大事なのだ。  Yさんは夕方、近所の教会に行くのが日課だった。だから教会の牧師やシスターも知りあいだ。葬儀には教会から牧師が来てミサを行い、多くの方が別れを惜しんでくれたそうだ。フィリピン人の別れ行く人への思いいれは格別なものがあるのだ。  

ある退職者の死の教訓(2)その2 2010年3月13日


先日、バタンガスのアニラオのビーチに退職者を案内していたおり、Yさんという退職者の危篤の一報が入った。翌朝早速、Yさんを面倒見ている介護婦と面会し、ことの次第と今後の策について話し合った。 Yさんは、5年前、私がPRAに入ったころ、脳溢血のためほとんど意思が表示できない状況にあった。そのため日本から来た代理人の弁護士らと話し合い、今後の生活や生活資金などについて、ルールを決めたいきさつがある。それから5年経過し、体調が悪化して入院し、医師から長くはないと告げられ、介護婦がどうしたらよいものかと相談してきたのだ。日本の弁護士とも連絡を取っているが、言葉の問題でうまく意思が伝わらないと言う。ちなみに、Yさんには家族はあるが、訳があって縁が切れており、代理人の弁護士がYさんのすべての財産を管理している。 問題は、年金生活をしているYさんには入院費を支払う預金がないことだ。もしこのまま亡くなってしまったら、入院費が払えず、病院は遺体を引渡さないばかりか死亡証明も発行してくれない。いわば人質として取られてしまうのだ。そうなると問題を解決する方法がない。入院費は最終的に100万ペソ程度になると予測され、葬儀などの経費も合わせると百数十万ペソの資金が必要になる。退職ビザを保有するYさんは幸い5万ドルの定期預金が手付かずで残っていた。これを速やかに引出し、入院費等に当てるしかない。Yさんが亡くなってからではその引き出しには相続手続きという気の遠くなるような手間暇が必要で、その間、遺体は病院においておかねばならないという、とんでもない事態になってしまう。 そのため、PRAとも話し合い、代理人の弁護士の了解のもとに下記の方針で進めることとした。 1. 5万ドルの内、現行の必要定期預金2万ドルとの差額、3万ドルをすみやかに引き出す PRA並びに銀行職員と一緒に病院に赴き、申込書や定期預金証書にYさんの拇印をもらい、手続きを進めこととした。さらに、私宛の委任状に拇印をもらい、私がPRAから引き出し許可証を受け取り、銀行に提出するなどの手続きをできるようにもした。翌日、PRAからの引き出し許可証の受取、翌々日、銀行で引出し手続きを行なったが、所詮お堅い役所と銀行のやることで、何やかやと丸々二日間事務所で待ち続けるはめになってしまった。ほとんどが上位者や本部の承認待ちだが、特に銀行は本人が署名できる状況にないことから、ことのほか慎重で、ずるずると時間だけが経過していった。 引き出した3万ドルはYさんと介護婦の共同名義の口座に振り込むこととしたが、もしYさんが死亡したばあい、共同名義とあれども口座は凍結され、一方の名義人はおろすことができなくなる恐れがある。したがって、介護婦には別の口座を作成して、速やかに資金を移動するよう指導した。ところがこの銀行はどういうわけか介護婦が別のドル口座を開設することを許さなかった。そのため、ドルを現金で下ろして別の銀行にドル口座を開設して移動した。現金にした理由はデマンド・ドラフト(外貨の銀行振り出し小切手)ではクリアランスに2週間程度かかり、その間現金に手をつけられないからだ。なんともはや、お堅い銀行で、やることなすこと、この調子で、呆れて腹が立ち、ついに銀行員を怒鳴りつけてしまったことには多いに反省している。 2. ビザを速やかにキャンセルして、残りの2万ドルを引き出す 問題はパスポートが昨年の11月で切れており、Yさんは現在有効なパスポートを保有していないことだ。失効したパスポートの更新には日本から戸籍謄本を取り寄せなければならない。戸籍謄本の入手を待って、パスポートを更新して、それからキャンセルと銀行手続きでは、Yさんにそれまで、とても待っていてもらえないだろう。そのため、PRAと入管に、有効なパスポート無しに失効したパスポートだけでビザをキャンセルして2万ドルの引き出し許可証を発行したもらうよう交渉した。しかし、PRAと入管はお互いけん制しあって、どうしても有効なパスポートがなければビザのキャンセル手続きはできないと言い張る。いずれにせよビザのキャンセルには多少の時間がかかるので、とりあえず申請して手続きを進めてもらう一方、並行してパスポートの更新をおこない、新しいパスポートの発行と同時にビザのキャンセル手続きと引き出し許可証の発行が完了するよう段取りした。 3. パスポートの更新 大使館によると、パスポートの申請代行は出来ても、署名と受領は本人がしなければならないという。しかし、医師の診断書の提出と日本の弁護士の了解のもとに、申請と署名は私が代行して、受取は領事が病院に出向いて行うということで見通しがたった。 申請から4日で発行される新規のパスポートを受取り、それをPRAに持ち込んで、直ちにキャンセル手続きを行ない(入管からはキャンセルのオーダーがすでに届いている)、引き出し許可証を発行してもらうことが出来る。そして、銀行手続きも一両日の内に完了する、というところまでこぎつけた。これでまずは一安心、あと1週間で私の大事な役目は終了するはずだった。 ところが、翌朝未明Yさんが亡くなったと言う報が入ったのだ。早速、大使館に赴きパスポートの申請を取り下げようとしたら、死亡証明を持ってこなければ、提出した書類は返せないと言う。それもそうだろうと、早速病院に赴いて死亡証明をもらって、なんとかパスポートを大使館から取り返した(ここでも、大使館には、市役所に登録した正式な死亡証明をもってこいなどと言われ、少々切れてしまった。それでもなんとか説得してOKとなり、逆に「頑張ってください」と励ましの言葉をいただいてしまった)。 その後、PRAに失効したパスポートを提出し、キャンセル手続きを進め、すみやかに引出し許可証を発行するよう依頼した。しかし、PRAの担当者は即決できず、上司が出張から戻ったら相談すると言う。退職者本人が死亡している状況では、引出し許可証は相続人が受け取り、さらに煩雑な相続手続きを経て現金の引き出しが可能になるのが通例だ。それを私が退職者の生前の委任状を楯にすべての手続きを代行してしまおうとしているのだ。 手続き中の退職者の死という、私が恐れていたことが現実となってしまったが、今後どうなるか予断を許さない。 続く

ある退職者の死の教訓(2)その1 2010年3月7日



マニラ観光のメッカ、イントラムロスの城壁の周りを囲むようにレイアウトされているのがクラブ・イントラムロス・ゴルフ場(パー66、4326ヤード)だ。マニラ市内のど真ん中に位置するゴルフ場は貴重な存在で、まるで皇居の周囲のお堀がゴルフコースに改修されたようなものだ。パブリックなので誰でもプレイできるが、土日は混むので予約を入れたほうがよい(527-6612)。 ショートコースとは言え、なかなか難関なコースで、ドライバーで攻めるコースもいくつかあるが(フェアウエイが狭いのでドライバーの方向性に自信があればの話だが)、砲台グリーン、池、バンカー、城壁などに多いに悩まされることだろう。ボールは1ダースほど用意しておいたほうが良いかもしれない。この日はある退職者のたっての誘いで、3年ぶり、21世紀2回目のプレイをすることになり、前の日から良く眠れなかった。 受付やクラブハウスは城壁の一部を利用しており、近代的なゴルフ場と比べたら、ちょっと物足りないが、返って情緒があっておもしろい。いかにも歴史地区のゴルフ場といった雰囲気がある。 キャディは男性と女性がいるがプレイヤー、一人に一人のキャディがつくのがフィリピンの常識だ。それに日中の暑さに備えてアンブレラ・ガールをリクエストすることができる。キャディもアンブレラ・ガールも同じ1ラウンド300ペソとは少々不公平な気もするが、それが定価だ。そのため4人一組のプレイヤーにお供が8人、全部で12人でコースを回ることになるから、プレイ中はとてもにぎやかだ。 ちなみにプレイ費はフィリピンの住民かどうか(長期ビザを持っているかどうか)、昼間か夜間かによって大きく異なる。住民で、平日の昼間ならば1100ペソからプレイが出来る。 コースは街中にあるためにイントラムロスに通じる道路を横断するところが数箇所ある。城壁の上を渡ったり、スペイン時代の服装の交通警官の案内で道路を横断したり、なかなかユニークだ。イントラムロスの中にはマプア工科大学など4つの大学あるから、この道路は女子学生などが多く歩いている。 コースにはカラチュチの花がたくさん咲いていた。ここのは白いが、赤、ピンク、黄色など様々な色のものがある。この花は強い芳香があり、ハワイのレイなどに使われるそうだ。ちなみにこの白いカラチュチは墓地に植えられるものだそうで、私が農場にこの花を植えるという試みはことごとく拒否され未だに実現していない。 イントラムロスの城壁の周囲は日本のお城のようにお堀があったようで、各ホールには大小の池がプレイヤーに立ちはだかる。池越えのショート・ホールはざらで、半数近くのミドル・ホールのグリーンの手前には池があるし、フックをしてもスライスをしても池ポチャというゴルファー泣かせのコースが多い。  歴史地区だけあって、由緒のあるビルが周辺に見える。左は国立博物館、右はマニラ・ブルテン(老舗の新聞社)だ。さらに左下の塔はLYCEVM大学。そういえば、夕べ出会ったカラオケのGRO(ホステス)がここのツーリズム専攻の3年生と言っていた。大学3年といってもフィリピンでは中高(ハイスクール)あわせて4年しかないから、まだたったの19歳だ。右下はマニラ市庁舎。かつてエルミタのデルピラ通りのゴーゴー街を閉鎖し、最近ではベイウオークの店を一掃した悪名高いリム市長がいるところだ。 アカシヤの大木の向こうにそびえているのがかつてのフィリピンNo.1の老舗ホテル、マニラホテル。池の広さも半端ではない。 18番ホールでスライスすると城壁の中に叩き込んでしまう。案の上、やったかと思ったらセーフでとなりのグリーンのそばに落ちたらしい。そこからサングラスの人相の悪い人が声をかけてきたので、ぶつけてしまったかとひやりとした。ところが、いつもカラオケに誘ってもらう退職者の方で、私とは「夜に会うことが多いが昼間に会うのは初めて」と言っていたが、とんだところを見つかってしまった。これからはゴルフの誘いが多いのではないかと心配している。 ゴルフ場料金の詳細は左の写真をクリックして拡大して見てください。単位はペソ。

イントラムロスのゴルフ場で久しぶりにプレイ 2010年3月1日


先日、オクラのパッキング工場を見学に行った際、アンヘレスのホテルのレストランで脇に置いておいた「金なし、コネなし、フィリピン暮らし」の本を指差して、「珍しい名前の本ですね」と声をかけてきたのが実石さんだった。「実は、この本は私が書いたんです」から会話が始まって、同席した実石さんの友人がその本を持っていて「サインが欲しい」などという話になり、翌日、実石さんの有機肥料工場、そして今回ブロック工場を見せていただくことになった。実石さんは奥さんの実家であるアンヘレスの郊外の農場を基点に幅広くビジネスを展開するフィリピンに根をはった実業家だ。  実石さんのブロック工場(Real Block)はフィリピン最大の生産量をほこり、月産250万個(10万個/日)に達し、ほとんどを首都圏に出荷している。サイズと強度でまちまちだが、 4インチの標準ブロックで1個3.75ペソ(工場渡し)と競争力のある価格だ。受注残は数千万個でいくら作ってもたちまち売切れてしまうと言う繁昌ぶり。一方、原料はセメントとピナツボの灰でほとんど無限といえるほど存在する。  この日は日曜で休みなので、一組しか働いていなかったが、全部で250人雇っているそうだ。ゲートのガード代わりか、入り口ではワーカーの家族が笑顔で迎えてくれた。 ブロックの製作はすべて人力だ。モルタルをミキサーで練って、型枠に流し込み、それを機械で押し出す。3個一組で1サイクル10秒以下の作業で、3人一組で作業を行なう。ヤードには養生中のブロックが無数に並んでいる。3個x6サイクル/分x60分x8時間=8640個、x12組=103,680個となり、12組で日産10万個が可能となる。一日あたり10万個を出荷するとなると、1台の10トントラックで2500個運べると仮定して、1日40台のトラックが首都圏に向うことになる。運搬は夜間に限定され、一日2往復しかできないので、20台ものトラックが首都圏を毎日往復していることになる。 ブロック工場の脇は採砂場になっている。ブロックを作る砂のほか、砂そのものを建設材料として首都圏に出荷している。実石さんはここに200ヘクタールの採砂場を確保しているが、30mに及ぶピナツボの砂の層にはざっと6千万m3の砂があり、1日5000m3(ダンプ500台、1台あたり10m3)を出荷して、12000日(40年)分の砂があることになる。ちなみに出荷価格はダンプ1台で950ペソだそうだ。  ピナツボの砂の層の間にはプラスティックのゴミが見えるが、これは砂と一緒にゴミが流れて埋まったものだ。この砂の層を見ていると現代もまさに地球が大地を育む営みが続いていると感じる。「100万年前あるいは1億年前の地層から発掘された化石」などということをよく耳にするが、遠い将来20世紀の地層から化石ならず、プラスティックが古代の遺跡として出土されるのだろうか。  実石さんの家と農場があるバランガイへ行くには実石さんの所有する私道を通らなければならない。実石さんの私道が唯一バランガイへ行く方法だそうで、実石さんがこの私道を作るまで、バランガイは陸の孤島でそこへ通じる道路はなかったそうだ。この辺一帯が実石さんの農場だが、全部で100ヘクタールという広大なものだ。道路の左ではとうもろこし、右にはひまわりの栽培試験農場がある。とうもろこしは飼料に利用し、ひまわりはバイオ燃料としての利用するための実験栽培だそうだ。 農場の中央には有機肥料の倉庫がある。ここで藁やとうもろこしの茎、さらに牛糞、鶏糞などを混ぜて発酵させている。実石さんはこの有機肥料の使用を強力に推し進めいているが、フィリピンでは化学肥料万能で、このままでは10年後には収穫が激減するであろうと、警鐘をならしている。日本では数十年前に有機肥料の重要性を再認識し、藁や鶏糞等を利用する有機肥料の生産が奨励され農家や園芸家の必須作業となったのだが、フィリピンの農家ではこの有機肥料の生産をほとんどやっていない。藁は燃され、豚の糞は廃棄物として処理されているだけだ。 肥料工場には大型の農作業の機械が数台置いてある。自分の農場以外にも貸し出して高い稼働率となっているそうだ。また、この日はとうもろこしの収穫機械が中国から到着し、組み立て中だった。日本製なら1000万円はするだろうが、これは300万円程度で購入したそうだ。この機械で1日に5ヘクタールは収穫でき、余っている時間は自分の農場以外にも貸し出すことを計画している。フィリピンでは暑い日中のとうもろこしの収穫作業などの重労働を行なう人が減ってきて、逆に人手不足と言うおかしな現象がおきつつあるのだそうだ。右下の写真は実石さん夫妻。 実石さんのお宅を訪問してびっくりした。まるでゴルフ場のクラブハウスだ。敷地は2ヘクタール(2万m2)あるそうだが、通常の家の敷地が200m2としたら、100軒分で、小さな団地並みの広さだ。まあ、100ヘクタール所有する農地のほんの一部だろうが、とにかく広い。一方、家のあるバランガイの住人の50%以上が実石さんのところに働いているそうだ。まさにバランガイの村長さんで、皆に慕われており、どこへ行っても住民が笑顔で迎えてくれる。バランガイの住人は皆家族と同じだから、実石さんも安心してここに住んでいられる。地域の住民に愛されること、これがフィリピンで安全に暮らすコツなのだ。   この日、マカティに戻ってきたら、前をポルシェ・カレラが走っていた。見たことのない新車のカレラだ。本文には何の関係もないがフィリピンにはお金持ちがたくさんいるものだと、ため息がついた。

パンパンガのブロック工場と農場訪問 2010年2月25日



マニラから日帰りが可能な唯一のダイビング・スポットがアニラオだ。バタンガス市から西へ約20km、タガイタイ経由でも行けるが、約3時間かかる。この日は退職者2名の案内と、パスコのマッサージ嬢2名の慰安旅行もかねて、タガイタイ経由、アニラオで海水浴としゃれ込んだ。平日だったので道路も混んでなくて約3時間の快適なドライブを楽しむことが出来た。 アニラオは工業地帯があるバタンガス湾と反対側のバラヤン湾に面し、マニラ湾の外に位置しているために水がきれいだ。アニラオのリゾートの基点になるのが半島の根元にアニラオの港。港と言っても小規模なものだが、マーケットや海水浴客用の商店があり、ちょっとした買い物が出来る。ちなみにカツオはキロ100ペソでマニラの2~3分の一程度だった。ここから船ないし陸路で20以上あるダイビング・リゾートへ行くことが出来る。港から海の水を見ると海底まで透き通って見える。この辺で泳ぐことも充分可能だ。 アニラオ半島の先端近くにあるのがイーグル・ポイントでアニラオのリゾートの中では最大級だ。ここまで車で行き、昼食を済まし、ボートを借りて、マリカバン島に行くことにした。しかし、それが失敗だった。イーグルポイントは数年前マリカバン島のビーチに休憩所を作り、入場料をとリ始めたのだ。それがなんと500ペソ/人という法外なものなのだ。5人で2500ペソ、とんだ予定外の出費だった。船は往復と3時間の待機で1600ペソとリーゾナブル。 イーグル・ポイントのレストランは海に面していて、とてもすばらしい景色だ。海を見ているだけで心が安らぐ。マッサージ嬢のタンとデビナも初体験にうれしそう。食事はマニラの高級料理店と変らない。しかし味もそれなりに良かった。6人で1850ペソはそんなに高いともいえないが。  20年ほど前に行ったときは全くの秘境的雰囲気を醸し出していたマリカバン島だが、今ではイーグル・ポイントのレストハウスができてありきたりの海岸になっている。当時は何もないから、食料/飲み物はもちろん、ビーチパラソル、テント、クーラーボックス、ゴムボートなどなどありとあらゆる物資とさらにメイドまで連れて行ったものだ。左下の写真はソンブレロ・アイランドでこの一帯で目印となる島だ。ここでキャンプをしたこともある。 海岸は比較的粗めの珊瑚砂であるため水が全くにごっていない。以前は水に入るとすぐにさんご礁があり、もぐらなくても美しい珊瑚を楽しむことが出来た。しかしながら、イーグル・ポイントのレストハウスが出来たために来客が増え、ボートの錨でさんご礁は破壊され、珊瑚の死骸が累々と続いていた。退職者の方には美しい珊瑚が見られると豪語していただけに至極がっかりした。しかし、何の施設もない隣の浜には珊瑚が破壊されないで残っているそうなので、次回はイーグル・ポイント経由ではなくて、アニラオの港で船をチャーターして未開の浜に向うつもりだ。そうすれば一人500ペソの入場料もいらなくなる。 元々、さんご礁の存在も、泳ぐこともろくすっぽできないタンとデビナは美しい景色と水に至極ご満悦で、ご機嫌ではしゃぎまわっていた。ところでフィリピーナは一般に肌を出すことを嫌う。恥ずかしいからかあるいは陽に焼けるのがいやなのか、定かではないが、パンツにT-シャツにブラまでつけてしっかりとガードしている。右下の写真は七面鳥の一種パボという珍しい家禽で、リゾートを歩き回っていた。

バタンガス・アニラオで海水浴 2010年2月18日


今年の2月14日はバレンタイン・デイとチャイニーズ・ニューイヤーとが重なり、しかも日曜日とあって、チャイナ・タウンの混雑は尋常ではなかった。この日はビザの発行を待っている日本人と二人で旧正月恒例の竜と獅子の舞を見にチャイナタウンを訪問した。下の写真はLRT-カリエド駅からのながめ。竜や獅子の舞は夕方なので、とりあえずカリエド駅から東のキアポ教会へ向った。この付近一帯はスモール・デビソリア(フィリピン全土の商店の問屋街)とも呼ばれるが、退職者はその人出に圧倒されていた。ちなみにキアポ教会はブラック・ナザレというキリスト像を祭るもので、毎年1月9日の祭りには100万人の熱心な信者が集まり、街に繰り出したブラック・ナザレに触れようと怪我人まで出る騒ぎとなる。   教会の周りには相変わらず怪しげな占い師(Fortune Teller)や薬草を売る店が並ぶ。この日はバレンタイン・ディとあってバラの花を売る店が目立った。 キアポ教会に向う参道は4本あるが、それぞれ売っているものが違う。洋品雑貨、メガネ/薬品、野菜/果物など、それぞれの通りごとになんでも格安で売っている。  カリエド駅に戻って反対方向に進むとチャイナ・タウンの中心、サンタクルス教会に出る。中央広場には大きな噴水があり、教会と反対側の中国門があるところがオンピン通りで、チャイナタウンを横断してビノンド教会にいたる通りだ。門には「恭喜発財」(コンシーファッチョイと読む)と書かれているが、これは中国語の「謹賀新年」だ。さすが中国、新年を祝うと同時に金をもうけようと志を新たにするのだろう。 オンピン通りは金を売る店がたくさんあるが、通りの屋台では今年の干支にちなんで安物のトラの置物が売られていた。 チャイナ・タウンでは馬車が現役で働いている。観光客と見るとすぐに乗らないかと声をかけてくる。しかし、外人と見ると必ずと言っていいほどぼるのでやめておいたほうが良い。先日、退職者の方が、50と言われて乗ってみたら、降りるとき50ドルを請求されたそうだ。私も50ペソといわれて乗ったら、後で一人50ペソと言われて3倍取られたことがある。 中国人は正月にティーコイを食べる。ゆでて食べる餅だが、意外とおいしい。またパイナップルとみかんで作った飾り物がユニークだが、これはやはり金を意味して、お金が手に入ることを祈願したものだ。  夕方、5時過ぎ涼しくなってきたところで、獅子舞や竜の踊りを見ることができた。太鼓に合わせて二人一組で獅子を舞う。中はさぞ暑いだろうと同情される。退職者の方も竜の踊りを見てやっと満足してくれた。その後はいつもの川沿いの屋台で格安の中華料理を楽しんだ。通りには人ごみに乗じて選挙宣伝カーが走る。

チャイニーズ・ニューイヤーとバレンタイン・デイ 2010年2月16日



フィリピンにおいて天候に左右されずマーケットに安定的に供給されているのが養殖魚のテラピアとバゴスだ。しかも、一般の海水魚がキロ、300~400 ペソもする昨今、その半値以下で買える庶民の味方だ。テラピアは淡水魚でフナか鯉のような形をしているが、白身のあっさりした味で、鯉のように泥臭くなくとてもおいしい。塩焼き、から揚げ、ココナツ・ミルク煮など、食べ方も色々ある。  一方、バゴスは淡水と海水が混じるブラッキッシュ・ウオーターと呼ばれる海岸沿いの養魚場で育ち、鯉のように小骨の多い魚だ。独特の味わいのある魚で、開きのグリル、シネガン・スープ、ラリヤノ・バゴス(後述)、ダイニンナ・バゴス(酢漬けで骨まで食べられる)、ティナパン・バゴス(骨抜きの燻製)など、色々に料理される。この魚の代表的料理であるラリヤノ・バゴスはその厚い皮を生かした面白い料理だ。まず、マーケットの魚屋さんで背骨と肉をえらの部分から全部抜きだして皮と中味に分けてもらう。その手際はなかなか見事なものだ。次に肉から小骨をぬきとるが、これがなかなか大変な作業だ。だからラリヤノ・バゴスを出すレストランは少ない。骨を抜いた肉を細切れの野菜といためて、魚の腹に戻す。そして、それを油で揚げて出来上がりだ。なかなかおいしい料理なので是非試してみて欲しい。この料理はイカなどでもあって、ラリヤノ...と名がついていたら、同じ料理法だ。 テラピアは淡水さえあればどこでも育つ。地方に出かけて大きな池があったら、そこはテラピアの養魚場と思って間違いない。下の写真はタガイタイのタアル湖。無数に浮かぶいかだはテラピアの養殖生簀だ。湖岸の屋台では取りたてのテラピアの塩焼きを安く食べさせてくれる。下の写真はアンヘレスでフレンドシップ・クラブを経営する根本さんの所有する典型的なテラピアの養魚場。1ヘクタール(10,000平米)位の養魚場に数万引きのテラピアが育てられている。ここで育つテラピアは、メスは薬で人工的にオス化され、全部オスだそうだ。オスの方が育ちが早いし、オスとメスが一緒だと子育てを始めてしまい、何かと具合が悪い。そして収穫は、養魚場の水を落とし一気におこなわれるが、池からテラピアをすくうのは買取業者の役割だそうだ。これだけの規模でやるとソコソコ儲かるそうだ。   下の写真は私の農場のテラピアの養魚池。このサイズでは商用にはならず、趣味程度だ。ここではオスとメスが一緒なので、時には稚魚も見ることができる。テラピアは母親の口の中で子育てをする。水面に顔を近づけると、1cm位の稚魚の下に母親がいて、すうーっと稚魚を口の中に吸い込んでどこかへ行ってしまう。テラピアは魚類では珍しい子育てをする魚なのだ。左下写真はバギオのマーケット。山間部のマーケットではほとんどが、テラピアとバゴスで占められる。新鮮な海の魚は入荷が不安定なのだろう。右下の写真はアンへレスのマーケットの行商。やはりバゴスやテラピアが主体だ。

養殖魚の王様、テラピアとバゴス 2010年2月14日


次期統一選は5月10日。この日、大統領を初め、副大統領、1名、上院議員の半数12名、下院議員287名、その他、州知事、市長、市議など、合計 18000人の議席が争われる。2月10日は丁度その3ヶ月前にあたり、公式に選挙戦がスタートした。今回の選挙の目玉はポスト・アロヨの大統領の座だ。アロヨ大統領は憲法を改正し大統領の再選を可能とする画策をしてきたが、アキノ元大統領やラモス元大統領の反発を食らってその試みは頓挫した。特に昨年8 月のアキノ氏の葬儀における国民の熱狂を目の前にして、身を引く以外にはないと悟ったようだ。 ベニグノ・アキノ大統領候補(ノイノイ)の妹クリス・アキノは芸能界を代表する人気女優、右の女性はノイノイの彼女  現状において大統領選の有力候補は5人に絞られる。ベニグノ・アキノ上院議員、マニュエル・ビリヤール上院議員、ジョセフ・エストラーダ前大統領、ギルバート・テオドロ前国防長官そしてディック・ゴードン上院議員の5人だ。  ベニグノ・アキノ3世(ノイノイ):元アキノ大統領の長男、父親は英雄ベニグノ(ニノイ)・アキノでマニラ国際空港の名前にまでなっている。まだ新米の上院議員だったが、昨年の母親(コーリー・アキノ元大統領)の葬儀で一躍注目を浴び、大統領候補に祭り上げられた。マルコス政権を打倒の引き金となった父、そして清廉潔癖な大統領であった母の正当な後継者として大統領の座に挑戦するが、その政治的手腕には疑問があるとされている。人気女優のクリス・アキノを妹にもち、さらに有力財閥のコファンコ家をバックに、圧倒的支持を得てきたが、ここに来てビリヤール候補の追い上げにより、差が小さくなってきている。しかしテレビで演説を聴いていても何かカリスマ性に欠け、小物という感をぬぐえない。それよりもいっそ、人気女優で同じく英雄の血を引くクリス・キノ自身が立候補したほうが確実という気がするのだが。 副大統領候補はロハス上院議員。彼は、元々は自由党の次期大統領候補と目されていたが、昨年の熱狂的アキノ人気のためにベニグノ・アキノ3世に大統領候補の席を譲り、副大統領として立候補した。当選したら、経験の浅いアキノ候補を補佐して国政をおこなっていくことになるのだろう。 マニェル・ビリヤール(マニー):東洋一のスラムといわれるトンドでエビを売っていたが、その後不動産事業で財をなし、マニラの南、ラスピニャスの市長から、下院議員、上院議員と上り詰め、その仕上げとして大統領選へ挑戦した。選挙戦初日の演説会場には、多くの有名芸能人が集まり、歌や踊りを披露し、観衆にサービスした。さらに豊富な資金を武器に、テレビに頻繁に登場し、アキノ候補を猛追し、ほぼ互角の支持率を獲得している。マニー(金)というニックネームも皮肉だ。毒舌で有名なミリアム・サンチャゴ上院議員も赤いドレスを着て同じ国民党の候補であるビリヤール候補を応援した。副大統領候補は美人政治家のレガルダ上院議員。 超有名俳優のドルフィーとウイリービリヤール候補を応援するが、彼らは30M ペソ(約6千万円)の謝礼をもらって、応援しているという。フィリピンの大統領選はマニフェストがどうのこうのではなく、いかに人気俳優達の人気に背負われて票を獲得するかという競争なのだ。 ジョセフ・エストラーダ(エラップ):元人気アクションスターで、1998年大統領に選ばれたが、不法賭博フエテンによる不正蓄財等により2001年アロヨ副大統領らにより政権を追われた (EDSA革命2)。さらに2007年不正蓄財で有罪となり終身刑の罪となったが、アロヨ大統領は即刻、特赦をあたえ釈放した。その後、大統領の再挑戦を目指し活動してきたが、前大統領であるエストラーダの立候補については憲法違反であるとの指摘もある。しかし、貧民層への人気はいまだに根強いものがあり、72歳の最年長候補者だ。 自分自身が芸能界出身ということか、テレビコマーシャルでは派手なパフォーマンスは無く、静かに国民に語りかけるポーズをとっている。終身刑を食らった身で浮かれるわけにも行かないのだろう。副大統領候補はマカティ市長のビナイ市長。かねてから反アロヨの姿勢を明確にして、たびたび反アロヨのデモをおこなってきた政治家だ。 ギルバート・テオドロ(ギボ):名門フィリピン大学を主席で卒業し、ハーバード大法科大学院卒業というエリート。43歳の若さで現政権の国防長官となり、若干45歳の若手政治家だ。アロヨ大統領の正式な与党後継者だが、アロヨの政治とは一線を画している。アキノ候補と同様にコファンコ家の一員だが、知識層の支持を受けている。血統、金、人気で大統領を選ぶのではなく、能力で選べと、暗に他の大統領候補者を非難している。そのためか、テレビコマーシャルへの露出度は少ない。 リチャード・ゴードン(ディック):1990年代、アメリカ軍が撤退しフィリピンに返還されたスービック経済特別区の長官として、オロンガポの住民と共に海外から投資を呼び込み、スービックに今日の繁栄をもたらした。市民に生活の糧である仕事を与えるというキャッチフレーズで大統領を目指している。 […]

統一選挙戦の火蓋が切られた 2010年2月12日