Monthly Archives: August 2010


        グリーン・ヒルのショッピング・センターが過激に完全復活を果たした。もしかしたらと思って、2週間ぶりにグリーン・ヒルを訪問してみたら、見事に元通 りどころか、もっと店が増えていたのだ。完全復活を果たしたその辺のいきさつは知らないが、まずはめでたいことだ。相棒が、「何日かすれば元に戻るわよ」 と言ってたが、あれだけ完全に消えてしまったものが、まさか元に戻るとは思わなかった。まさに奇跡の復活だ。 特に時計売り場は以前の数倍に増えていた。バッグを売っていた店が時計も取り扱い始めたのだ。これだけのロレックスや他のブランドの時計の時価総額はいく らになるのだろう。この小さなショーケースに大きなロレックス専門店の一軒分の商品はあるだろう。ショーケースの前には「レプリカ」という表示があり、コ ピーであることを示すことで、当局との折り合いがついたようだ。  衣類売り場も以前より充実しているようだ。バンコック・ドレス3着で1000ペソなどユニークな売り方をする店もあり、なかなか楽しめる買い物の穴場だ。ただ、デビソリアやバクラランよりも多少高めだが、冷房の利いたモールの中にあるので家賃も高いのだろう。 2階の携帯電話の売り場も盛況だ。無数ともいえる数の店がひしめき合う。はやりのアップルやサムソンのスマートフォンの中古品を格安で売っている。なんで これだけのI フォンの中古品が出回るのか不思議だ。にせものもあるようだから注意が必要だ。ここでは日本から持って来た携帯もあっという間にローカル仕様の携帯に作り 変えてくれる。すなわち、新しいシムに入れ替えてスマートやグローブのプリペイド・カードで使えるようになってしまうのだ。 真珠のネックレス等を売る百軒以上の装飾店も健在だが客足は今一だ。そして事件は客でごった返すバッグ売り場の横で起こった。  写真を撮るに夢中になっている間に、なんとこの私がスリに会い、財布をポシェットから抜かれてしまったのだ。幸い伸縮自在の携帯ストラップにつないでおい たカメラや携帯、鍵などは無事だったが、現金、キャッシュカード(円とペソ)、名刺入れ等が取られてしまった。銀行残高といっても数万円で、現金も2千ペ […]

グリーン・ヒルが復活(ただし、スリにご用心) 2010年8月29日


ここのところ毎日のようにデング熱流行に関する記事が流れている。8月14日までに感染者は全国で5万人を突破したそうだ。  蚊が媒体する病気としてはマラリヤが有名だが、これはジャングルに限られ、都会で感染することはなく、話題になることも無い。一方のデング熱はここ10年くらいの間に多くの人が感染するようになった。こっちは熱帯しま蚊が媒体し、都会で繁殖し、しかも昼間に活動するという厄介な蚊だ。政府や大使館も、蚊が生息できる環境、すなわちプールや池、古タイヤや缶などの水たまりを消毒あるいはなくすこと、など原始的な方法が有効と奨励している。  デング熱にかかると、高熱、頭痛、関節痛、筋肉痛さらに吐き気、血圧の上昇と低下などマラリヤ以上の苦しみで、死亡する場合もある。回復には数週間要するが、体験者によると死ぬほどの苦しみだという。現状ではデング熱に対する予防ワクチンもなく、蚊に刺されないことが唯一の予防法だそうだ。幸いにも人から人への感染はしないので、劇的な感染の広がりはありえない。  昨夜、私の部屋のコンセントにおかしなものが装着されていた。相棒のはからいで電気蚊取り器をセットしたようだ。少し、変なにおいがしたが、この時期、我慢するしかない。  

デング熱が大流行 2010年8月26日



アンヘレス・シティの花街で働く女性の総数は2万5千人に達すると、スービックでポコアポコ・コンドテルを経営するWさんが話していた。アンヘレスの フィールド・アベニューのクラブの数は約100軒、一軒当たり平均100人の女性が働いていたとしても、1万人にしかならない。一体他の女性はどこにいる のだろう、ウエイトレスも含めた人数だろうか、などと独り言は続く。さらにWさんによると、アンヘレスはアジアではバンコックの次ぐ規模の歓楽街だそう だ。でもその集中度はバンコックに勝るのではなかろうかというのが、当方の印象だ。 一昨年、Nさんの経営するフレンドシップクラブの開所式に招待されて以来、なにかと縁が続き、毎月のように訪れているアンヘレスだが、この日の退職者の案内では、スービック訪問を早めに切り上げ、夜はアンヘレス、フィールド・アベニュー探索というスケジュールとした。    最近は大型店が隆盛で、従来の小さな店には客足が遠のいている。大型店の代表が「アトランティス」、「ドルハウス」、老舗の「ブルーナイル」最近オープン した「紫禁城」、さらにマッカーサー通りの近くには幾つもの大型店が新規オープンしている。一方、小型店として頑張っているのが24時間営業の「ブー ドー」だ(ちょっと目立たないがアトランティスからマッカーサー通りに向って100mほど進んで右側の店)。 まず初めは、9時と10時半にやるショーが見ものの「アトランティス」探訪。最近は細長い風船を舞台と客席でやり取りするのがおもしろい。また、来るたび にショーの出し物が違う。店の普通の子達が毎回これだけのショーを見せるのだからたいしたものだ。ちなみにここには300人の女性が働いているそうだ。       さて、次に案内したのが、小型店の代表「ブードー、VOODOO」、昼間でも比較的多くの客がいる人気店だ。そこに入った途端、びっくり仰天、なじみの子が1年ぶりに戻っていたのだ。うわさではフィリピーノ・ボーイフレンドの子を宿して辞めたはずだったのに。   早速呼んで身の上話を聞いてみた。「19歳の誕生日に酔っ払って寝てしまい、目が覚めたら下半身が痛いので変に思ったが、従兄弟に聞いて、自分がレイプさ […]

あるフィリピーナの悲劇(アンヘレス編)2010年8月23日


100円ショップのダイソー(サイゼン)2号店が、なんと最近出来たアンヘレスのマーキー・モールにオープンしている。さらに3号店はクバオのアリモールにオープンした。ちなみに1号店はオルティガスのロビンソン・ガラリヤに昨年オープンしている。 マニラに在住する日本人の半数以上がマカティに在住するため、マカティでの開店が切望されるのだが、どういうわけかマカティにオープンしてくれない。それ はマカティにはロビンソン・デパートが無いから、ロビンソンと提携しているダイソーはマカティに店を出すことができないのだろうか。あるいはダイソーとし ては地元の人間をマーケットとしていて、そこに住む日本人は眼中に無いのかもしれない。しかし、日本人にとってはなじみの日用品が目白押しで、欲しいもの がたくさんあってなんとも口惜しい。なにしろ手軽に買えなければならない日用品なのだから、オルティガスまでタクシーで行って買い求めるのも億劫だ。 アンヘレスにはクラークの入り口近くに大型のSMが出店している。ロビンソンはSMのむこうをはって、NLEX(高速道路)のアンヘレス出口にマーキー・ モールを建設した。そこにサイゼンがあるのだが、この日は土曜だというのに人影はまばらで、10年先をにらんでの出店とにらんだ。 ここのサイゼンはオルティガスよりは小型だが、やはり、まさに日本のダイソーにいるかと錯覚させるような品揃えだ。現地調達のものは何もなくて、すべて日 本から持ってきたものを85ペソ均一で売っている。商品の説明もすべて日本語だから、とてもわかりやすい(もっともフィリピン人には困るだろうが)。 しかし、ここも人影はまばらで、ほとんど我々しかいない。一体全体採算というものを考えているのか、心配になってくる。また、ネクタイがたくさん並んでい たが、フィリピン人はめったにネクタイをしない。正装もバロンタガログでネクタイはない。マカティで気取ったサラリーマンがやっているくらいだ。徳利も並 んでいたが、この使い方がわかるフィリピン人が何人いるだろう。 サイゼンとは関係ないが、HAIMAというブランドの車が陳列されていた。小さめのワンボックスカーで459000ペソ、100万円を切る値段だ。ちょっと変った内装デザインだが、慣れれば充分乗れそうだ。同行した通の 話によると、これはインド製で低価格車を世に出すということで話題の会社だそうだ。そういえばテレビでやっていた。フィリピンでは相変わらず日本製の車 (現地組み立て車)が圧倒的だが、韓国勢が破竹の勢いで伸びている。そして最近は中国製も見かける。そしていよいよインド製の車の登場だ。一体フィリピン […]

100円ショップ・ダイソー(サイゼン)2号店の紹介 2010年8月16日



パサイ・シティのバクラランと云えば、庶民の買い物どころで有名だ。また、オルティガスの先にあるグリーンヒルも穴場中の穴場としていつも人でごった返している。その両方が姿を消してしまったのだ。  バクラランはバクララン教会の脇の通りからLRTのバクララン駅まで道路いっぱいに衣類や靴・鞄を売る屋台が軒を連ねており、信じられない値段で売っていた。コピーブランド商品もごちゃ混ぜになっていた。  それが最近、訪問してみたら、きれいさっぱりなくなっていた。この道路がこんなに広かったんだとあらためて認識したくらいだ。それでも生活の糧を奪われた人たちが屋台の代わりに商品を担いで、いつでも逃げられるようにしている。警察が来るとあわてて路地に逃げ込んでいた。庶民のしたたかさを感じるが、哀れにもなる。何も彼らは警察に追われるような悪いことをしているわけでもなく、ただ必死に生きようとしているだけなのだ。  LRTの高架下の屋台も固定の屋根や屋台は撤去され、車輪のついた移動式の屋台が出ている。これもいつでも移動して逃げられるようにしているのだろう。バクラランはこれら屋台だけではなくて、道の両側のビルの中には一坪程度の店が数千軒がひしめく問屋街だ。だから街の機能は変わりなく、平日でも多くの人が買い物をしている。しかし、何かバクラランらしさをなくしてしまって、面白みが無い。 一方、グリーンヒルは元々ビルの中に一坪ショップがひしめいて、バッグ、衣類、時計、携帯などのコピーブランドや装飾品・民芸品・パソコンなどを売っていたのだが、本物(装飾品、民芸品、パソコンなど)を売る店を除いてすべて一掃されてしまったのだ。 こちらは徹底していて、バクラランのようにこそこそと商品を担いで売っている人もいない。なんともはや寂しい限りだ。ここでの商売を糧として生きていた人はどうしているのだろう。あの山のような商品はどこへ行ってしまったのだろう。  ここでコピー商品を買い求める人々が、それがなくなったからといって、本物のルイビトンやシャネルのバッグを買うはずも無い。アキノ新政権は一体庶民の味方なのだろうか。大手ブランドの利益にも寄与するはずもないコピーブランドの一掃を行い、多くの庶民の生活の糧を奪い、さらに庶民の買い物の楽しみを奪うという、なんとも意味のないパーフォーマンスだ。  私の相棒のジェーンは、「すぐに元に戻るわよ」と気楽なことを云ってたが、私としても「ショッピングの穴場」として、ご家族を案内したのに、面目が丸つぶれだった。          唯一もとのグリーンヒルらしさを保っていたのが、装飾品売り場だ。数百軒もあろうかというショップは格安の真珠を中心とする装飾品を売っている。モスリム (回教徒)が多いが、このモスリム姉妹の写真を撮るために、1000ペソの大枚をはたいてネックレスを買うはめになってしまった。同行した8歳のお嬢さんにお母さんがことのいきさつを説明していたが、理解できなかったらしい。男心を知るにはもうちょっと時間がかかりそうだ。

また一つマニラ名物の灯が消えた(その4)2010年8月15日


  日本ではあまり無いが、東南アジアでは唐辛子(チリー)を丸のまま料理に入れてあることが多々ある。それを知らずに食べて口の中が火事になってしまう経験をした人も多いと思う。特に韓国料理に唐辛子は不可欠だ。キムチなどあの赤い色が食欲をそそる。日本では七味唐辛子などそばに入れるが、好みの辛さになるように粉末になっている。韓国人は平気で丸のまま唐辛子を食べる。赤唐辛子はさすがに辛すぎるので、大きめで緑色の唐辛子を食べるが、唐辛子は小さいほ うが辛味が強い。 西洋では唐辛子が東洋から持ち込まれるまで、胡椒が一番辛く、肉の味付けなどはこの胡椒が主体だ。そもそもこれら香辛料(唐辛子、胡椒、わさび、辛子、 ニンニク、生姜、塩、酢など)は味付けというより、食品の保存に用いられたものだ。冷蔵庫の無い時代、どうやって作物のとれない冬や航海中の食物を保存するかが大きな問題だった。香辛料は抗菌性があるから腐敗するのを防ぐあるいは遅らせる。刺身にわさびをつけるのもそもそもナマの魚を腐敗から守るためのも のだ。 大航海時代の航海の目的はアジアやアメリカからこの香辛料を西洋に持ち帰って巨大な利益を得ることだった。また、砂糖も大変高価な調味料で、甘いケーキを食べるのが当時の貴婦人の無常の喜びだったらしい。そのため、糖尿病が不治の病として流行したらしい。 フィリピンでは唐辛子は小さな木にいくらでも出来るので、とても安い。一皿たったの5ペソだ。フィリピン人は甘党だが、ニンニクや唐辛子、生姜や小粒の玉ねぎを料理の味付けに多用する。ほとんどの料理の味付けが、この4つの香辛料と塩・醤油ですましてしまうといっても過言ではない。フィリピンで唯一辛い 料理が、下の写真のビコール・エクスプレスだ。刻んだ唐辛子に豚肉や小さなエビやオキアミを混ぜる。これに白い飯があれば充分いける。だから、フィリピンで辛党なのはビコラノだけだ。  さて本題だが、唐辛子を食べてしまい、口の中が火事になったとき、普通は水を飲んで消そうとするが、そう簡単には消えない。辛いというより、その痛みに 長いこと耐えなければならない。しかし、これを一瞬にして消し去る方法がある。それは、フィリピンならどこにでもある、あの小さなカラマンシーをいくつか 絞って水にいれ、それで口をゆすぐのだ。アルカリ性の液に酸を入れると一瞬にして色が消えて水になってしまう、という実験を中学のときにやったと思うが、まさにそれだ。辛味と酸味が中和して一瞬にして消える。カラマンシーでなくても酸味のある柑橘系の果物、レモンやカボスなどでも同じだろう。  このカラマンシーもフィリピンでは一袋10ペソ程度と格安だ。しかもカラマンシーの皮には認知症に効く成分が含まれているという有用植物なのだ。韓国料理やインド料理を食するときは是非前もって食卓に用意しておくことをお勧めする。

伊東家の食卓(フィリピン版)2010年8月15日



8月23日の昼前、PRA(退職庁)に退職者のビザ申請に同行すると、PRA職員がテレビにかじりついている。一体何事が起こったのかと聞いてみると、人質 (Hostage)事件だという。テレビはタガログ語で、道路の真中に止まったバスの画像を写すだけだから何のことやらさっぱりわからない。ことの詳細は 翌日のマニラ新聞で知った。  この事件は、国家警察の元警部(キャップテン)が、恐喝事件に関与した疑いで受けた懲戒免職の処分に不満を 持ち、その撤回を求め、中国人観光客25人を乗せた観光バスを乗っ取ったものだ。この警部はその前年、優秀な警官として表彰されたばっかりの警官の鏡だっ た。それが、部下が行なった恐喝のために詰め腹を切らされた。しかもその事件は裁判で却下されたにも関わらず、最終的にオンブズマンにより有罪とされ、退職を間近に控えた彼は、職ばかりでなく退職金も年金も、将来享受すべきすべての利益まで失ってしまったのだ。警官にはそれを不服として申し立てる手立てがない、そして思い余って今回の事件を起してしまったという。 だからと言って、観光客を巻き込んでの人質事件は最悪の選択だ。オンブズマ ンに不服があるなら、そこに直接抗議すればいいのだ。多くの人が、フィリピンのイメージを改善し、観光客や企業の投資を誘致してきた努力が、この事件で水 泡に帰すことになりかねない。当方も盛んに「退職者の老後の生活をフィリピンで」と言ってきたのに、それらの努力をお釈迦にするようなとんでもない事件 だ。相棒のジェーンも「これでフィリピンのイメージが10年前にさかのぼってしまう」と、ポツリとこぼしていた。 そもそもフィリピン人は我慢強く、弱いものはいつも泣き寝入りしてしまうのだ。だからこのような突飛な行動に出て世間を騒がせることは極めてまれだ。私も20年以上フィリピンに関わってきて、初めてこのような事件を耳にした。かつて軍の将校が人質をとってホテルに立て込む事件があったが、人質に危害が加えられること は皆無だった。これらは茶番とも思えるような政府との交渉で解決されてきたが、今回は最悪の事態を迎えるという極めて異例な幕切れだった。  犯人が人質と共にバスに閉じこもっている間、犯人は人質に対してとても親切だったそうだ。しかし、警部の弟が説得工作に乗り出し、それが逆に兄をあおるような 行動に出て、事態が急変した。犯人に対する政府の対応も犯人の主張に対してけんもほろほろで、弟が兄に「こんな政府からのレターは紙くず同様だ」と告げた そうだ。さらに、メディアや警官が弟を取り囲んであたかも暴力を振るっているような報道が、車内の犯人にも筒抜けになっていたのだ。その結果、兄が激昂し態度が急変した。メディアの中継で犯人は車内から外の状況を的確に把握している一方、警察は車内の状況がわからない。こんな状況が事件の解決を難しくし […]

人質事件で中国観光客が8人死亡 2010年8月24日


私がフィリピンに始めて足を踏み入れたのは1989年の初頭、そして、その年の8月から駐在を開始した。そのころの記憶を頼りに20年後の現在との物価の比較をしてみた。また同時に日本の価格も併記して、後述する物価10倍原則や比日の生活レベル格差等について考察してみた。なお、1990年ごろは1ペソが5~6円で、現在は約2円だ。なお、これらは正確な統計に基づいたものではなく、あくまでも私の記憶と知識の範囲内のものなので、正確さを欠いている部分は容赦願いたい。なお、日本の物価は私がほとんどフィリピンに暮らしていたことから良く把握していないが、ここ20年の感覚的平均値を記載した。                1990年         2010年        日本             ペソ    円換算    ペソ  円換算     円貨 大卒初任給/月     2500ペソ     1万3千円    1万ペソ  2万円    20万円    ガソリン/リッター     8        40     […]

フィリピンの物価(20年前との比較)2010年8月7日



フレンドシップツアー、岩崎さんの「岩ちゃん日記」のメール・マガジンの呼びかけで、格安コレヒドールツアーに参加した。通常、昼食込みで2000ペソ程度かかるのが、たったの1000ペソで観光することができた。マニラ湾に浮かぶおたまじゃくしの形をしたコレヒドール島はマニラの重要な戦略上の拠点で、スペイン時代からマニラを守ってきた。また、太平洋戦争の激戦地としても有名なところで、現在も人は住まず、史跡として当時の様相を残している。 コレヒドール行きのフェリーはマニラ湾の埋立地、Cultural Center of the Philippines(フィリピン文化センター)のそば、マニラヨットクラブの港内、香港から運んできたという海に浮かぶ中華レストラン「ジャンボ・キングダム」(右下写真)の隣から出港する。  この付近はあちらこちらに大きな広場があり、早朝には多くの人がインストラクターに従って、集団でエアロビクスをやっている。どういうわけかそこにはセクシーな若い女性はおらず、太目のおば様やおじ様ばかりだ。若い人はもっぱら夜のエクササイズに忙しいのだろうか。また、岸壁に沿って釣り人も多く目にするが、こんな汚い海の魚を釣って食用にするつもりなのだろうかと、気にかかる。   コレヒドール行きのボートは120人乗りが2艘、日本製で時速40kmくらいは出るだろうか、なかなか快適な1時間程度の船旅だ。2名の女性乗り組み員が軽食や飲み物を提供しているが、ちょっと高めだ。 島に着くと、昔、実際の走っていたという軌道列車を模したバスで案内してくれる。日本人は1号車、その他は5号車というので、てっきり日本語を喋るガイドがいるのかと思ったら、今日は休みで、かなりブロークンな英語を喋るガイドが付き添った。一緒に参加した日本の某女学院の中高の生徒さんに同行した日本語を喋るガイドさんが通訳していたが、途中で面倒になったのか止めてしまった。  コレヒドール島は観光史跡ということで人は住んでいない。だから、とてもきれいに整備されている。ホテルやビーチコッテージもあるので家族連れでしばらくのんびりするのもいいかもしれない。  はじめにお目にかかる史跡がバラックと呼ばれる兵舎跡だ。鉄筋コンクリート製だが爆撃や樹木が絡み付いて、建設から100年くらいたった今では柱と梁くらいしか残っていない。それもここかしこで崩れ落ちている。バラックといえば日本ではにわか作りのぼろ家をさすが本来の意味は兵舎という意味らしい。 コレヒドール観光の目玉は島中に配置された大砲だ。1900年代初頭、すなわち明治から大正にかけて、作られたそうだが、衝撃を吸収する装置(ショックアブソーバー)など、なかなかモダンな感じがする。ガイドはこれらの大砲のことをガンと呼んでいたが、本来はカノン(Cannon)が正しいのではないかと思ったが、あとで辞書を調べたら、現在ではガンというのが普通らしい。  さらにこの場所をバッテリー(Battery)と呼んでいた。電池じゃあるまいし、と思ってやはり辞書を調べたら、砲台という意味だった。電池との関連から電気(エネルギーないし火薬)をためる場所、すなわち弾薬庫と類推したのだがそうではなかった。これら砲台は島の中に20箇所程度あるようだが、それぞれの砲台には弾薬庫が隣接しており、厚い土で覆われて、空から爆撃されても被害を受けないようになっている。  30cm長距離砲の迫力はなかなかのものだ。大砲にはあちらこちらに銃撃の跡があり、襲撃の激しさを物語っている。ちなみにこの大砲は350発が限界で、その度に砲身を交換しなければならないそうだ。砲身は工場に運ばれ中のらせん状の溝を掘りなおして再び使われるそうだ。 マイル・ロング・バラックと名づけられた兵舎。実際、1マイル(1.6km)はないものの500m位の長さの建物だ。ここには数千人の兵士が暮らしていたのだろう。 […]

コレヒドール島訪問 2010年8月4日