Monthly Archives: September 2010


フィリピン名物がことごとく新政権の影響で廃止、そして復活する中、アンヘレスもその例外ではなかった。遅ればせながら、最近のマニラ新聞に「女性ら 200人を人身売買容疑で拘束」というニュースが載った。今更、売春容疑(新聞には人身売買とあるが)もなかろう、と興味津々だった。たまたまその日アンヘレスに行ったので、その辺の事情を地元に人に聞くと、昨夜、「Forbidden City(紫禁城)」など、4つの店に手入れが入ったというのだ。何故、その店が狙われたのか、100軒以上のクラブがひしめくこのフィールド通りで、見せしめなのか、警察へのつけ届けが滞ったのか、議論は絶えない。  昼食後、早速、フィールド通りを歩いてみると、まず、フィエスタと称しておかしな格好として歩いている団体に遭遇。しかし、フィエスタにしては人数があまり に少ない。タバコ市のフィエスタだって数十~数百人の学生や児童が可愛らしいダンス行進を見せてくれる。観光客のチップ目当てのグループか、などと勘ぐっ てしまう。  そして、確かにあの「Forbidden City」が「CLOSED」と、なにか誇らしげに閉鎖されている。他の店はどう かというと、相変わらずの盛況だ。まだ昼間なので開いている店は限られていたが、私のなじみの「VOODOO」などは座る席が無いくらいの盛況だった。同 行した退職者も「VOODOO」のいかにもフィリピンのゴーゴークラブといった雰囲気にいかにもご満悦だった。右の写真は最近人気のAgasyaの外観。韓国人経営で、日本人好みの女の子が多い。 この日は初めてフィールドの中ほどにあるカレーやさんに入ってみた。「Rikako Curry House」と称したこの店はいつも目にはとまっていたのだが、あまりにもローカルっぽいカレーやさんなので入るのが躊躇された。入り口には女性のヌード の絵など似つかわしくないものが並べられている。 メニューはもちろんカレー中心だが他にも若干ある。カレーの値段は忘れたが気にならないほどだから、200ペソ以下だったと思う。食べてみておやっと思った。当たり前の話しだが、カレーが辛いのだ。日本の辛口程度で、甘党のフィリピン人にはちょっと手が出ない。私には丁度良いが、果たしてこれで一般の 客は喜んでもらえるんか心配だ。フィリピン人用に甘口なんてのもメニューに加えたらはやるのではないかと思った。   […]

アンヘレス最近の話題 2010年9月20日


今年、3月31日に誕生した、私のPASCOの相棒ジェーンの赤ちゃん(6ヶ月)の洗礼式(バブティスマル)が添付の通り、10月9日(土)10時よりマカティ市セイクレッド・ハート教会(サンアントニオ・ビレッジ、セイクレッド・ハート通り)にて執り行われます。また、11時ごろからジュピター通りのルートン・マカオ(中華料理)で披露宴を行ないます。洗礼式はクリスチャンにとって非常に重要な儀式で、その子の社会へのデビューともいえます。なお、事前に出席、欠席をメールにてご確認願います。    

ジェーンの赤ちゃん(KIAN)の洗礼式のお知らせ 2010年9月18日



昨年の今頃、我が糖尿病の経緯について報告した。あれから1年、その苦闘は続いている、というよりはそれが生活の一部となっている。血糖値の測定、食事 のコントロール、そして散歩は日課だ。体重も60キロ代後半でほとんど変化がない。身長が177cmだから、理想的な体重を保っているといえよう。 とりわけ食事は海産物と野菜が中心で肉類はめったに食べない。たまに食べてもコロッケなど少々肉の味がする程度のものだ。元々肉の脂身が好きな方だから、 トンカツやステーキなど食べたら、あっという間に平らげて、血糖値もうなぎのぼりで、軽く200を超えて250位になってしまう。 ここ のところ足繁く通っているMARUCHANでは、2回に一回は「サバばってら」を注文する。あの油の乗っているサバがたまらない。後は寿司やコロッケ当た りが定番のメニューだ。いずれにせよ、元来の日本食を食べている限り、血糖値はほどほどにおさまっている。だから、やはり日本人は日本食があっているのだ ろうと納得する。しかも、フィリピンでは日本より安く日本食が食べられるのでありがたい。 日本人はつい最近までほとんど元来の日本食を食べていた。肉食が家庭に進出したのはつい、40~50年前のことだろう。子供のころ、すき焼きが滅多に無いご馳走だったことを憶えている。そして肉や乳製品は栄養・滋養に富み、健康増進に優れているともてはやされ、すき焼きやトンカツ、そしてカレーライス等が子供達の憧れのメニューとなった。また、最高級の牛肉が霜降り肉というくらい、脂肪は肉のうまみを左右する。だから、肉を食べるといやが上でも脂肪を大量にとってしまい、血糖値があがってしまう。 一方、数千年、数万年の間、肉や乳製品を食べ続けてきた西洋人は、肉をいくら食べても簡単 に血糖値は上がらない。なぜなら、インシュリンの出方が日本人とは違うのだ。一方、海産物と野菜中心の健康食で古来から生き続けてきた日本人は、ほんのこ こ数十年の肉食という付け刃では体がついてこない。だから、1千万人もの人が糖尿病予備軍ということになってしまうのだ。日本人よ、糖尿病が怖かったら、 日本人原点の食生活に回帰せよ、だ。  外食してカラオケなどに行くとどうしても散歩する時間がなくなってしまう。酒の量も進んでしまう。家に戻ってから恐る恐る血糖値を計ってみると、なんと正常値の110~120程度なのだ。ちょっと解せないので、一度日本の医者に聞いてみたが、そんな話は聞いたことが無いといわれた。きっとビールなどで血が 薄まってしまうのではないかと思うが、これは事実なので、夜のお誘いに対しては糖尿病を気にしないで付き合うことにしている。 […]

糖尿病体験記(その2)2010年9月14日


LAカフェが再開されたという話を聞いて早速取材に出かけた。エルミタのデルピラ-ル通りに行くと確かに開店していた。しかしながら、LA CAFEのLAが消えて、CAFEというネオンがだけが光っていた。また、名前はBAY CAFEと代わっている。早速写真を撮ると、ゲートのガードが写真撮影は禁止だという。せっかくブログに載せて再開を周知しようというのに、余計なことを言うものだ。 カメラをガードに預けて、早速、中に入ってみるとそこにはかつての賑わいがあった。しかし、奥の部屋は客が三々五々いるだけで、まだ再開のニュースは知れ渡っていないようだ。かつてのそれと一目でわかる外人客目当ての女性はそのままだ。彼女達もLAカフェの再開を首を長くして待っていたに違いない。 これで、ほとんどのマニラの名物は復活したことになる。   Bayカフェはチラッと中をのぞいただけで、デルピラール通りを歩いてみた。アマゾニアやバタフライは相変わらず営業しているが、中にはほとんど人はいない。なぜかLAカフェ(Bayカフェ)だけが相変わらずはやっているのだ。. デルピラール通りをUNアベニュー近くまで歩いたところで事件が起きた。ここまで来ると街のネオンも途絶えがちで、カラオケあるいはビアハウス言ってもほとんどがGROのお持ち帰りの可能な少々品の悪い店が多い。5mほど店が途絶え、暗くなったところで、新聞を腕に巻いた男が近寄ってきて、手を出してき た。物乞いにしては威勢が良い。ポシェットを触るので、先日のスリの経験の記憶もナマナマしい私は思わず手を跳ね除けた。そうするとにわかにすごんで、シノガリン・カ(うそつきめ)と訳のわからないことを言って、1000ペソ払えという。さらにもう二人の男が寄って来て囲まれてしまったのだ。当方はなす術もなく、立ち尽くした。同行した日本人がそれに気づいて、数メーター先からきびすを翻し、すごい形相で戻ってきた。それをみて3人の男は去って行き、事なきを得た。 教訓としては、こんなところに近づかないことだが、もし興味本位で出かけるとしたら、一人では絶対に行かないことだ。数人あるいはフィリピン人に同行してもらうのが間違いない。またさらにポシェットなど、大金が入っていると思わせるようなバッグなどは持たず、とられても惜しくない範囲の若干の金だけを持ち、さっさとくれてやり、その場を立ち去ることだ。 さらに悪いことは続いた。その夜、目にゴミが入った様でやけに目がむずがゆい、あるいは痛い。翌朝、目が真っ赤に充血しているので早朝、医者に行ってみる と、Sore Eyes(昔プールに行って感染した結膜炎のこと)だと診断された。目薬を処方されたが、数日は目の痛みとかゆみに煩わされることになってしまった。どうもデルピラール通りは私にとって鬼門のようだ。

LAカフェが復活(ただし、ホールドアッパーにご用心)2010年9月12日



マカティアベニューの繁華街をブエンディア/ジュピター通りから北へ500m位進んだところに「Great Eastern Hotel」あるいは「Aberdeen Court」というホテルがある。一泊1500ペソからという格安のホテルだ。ジュピター通りに近いブルゴス通り周辺に固まっているホテルが概ね 2000~3000ペソだから、ちょっと離れただけでかなりお得だ。      レセプションやウエイトレスは、とても家族的で優しい。だから私の友人はここを常宿として、マニラの夜の探検に余念が無い。ただしこのエリアの欠点は、もう一方の繁華街マカティ・スクエア周辺に20軒もの日本食レストランと15軒ものカラオケがあるのに対して、ここは「新宿ラーメン」一軒くらいしか日本食がない。カラオケも「ナポレオン」と「だいすき」の2軒だけで、もっぱら韓国や欧米人の食事どころあるいは遊びどころが多い。   しかしながら、一流ホテルのビュッフェが千ペソ以上するという昨今、このホテルのビュッフェは198ペソで食べ放題という優れものだ(土日は250ペソ、朝、昼、夜とも同じ)。もちろん酒類は別途だがアイスティーやデザートもついており、198ペソぽっきりで済む。1階というが、入り口からちょっと階段を下りたレストランの室内は一応、ホテルのそれで、そこそこの雰囲気もある。 料理の方は、見てくれは一流ホテルのそれと較べることは出来ないが、種類も豊富で、十分楽しめる。インド料理や日本食など余計なものは無いが、このホテルには中華レストランもあるので、中華料理もいくつかあって味も良い。この日も外から団体の客が来ていて多いににぎわっていた。

アバディーンのビュッフェが安い 2010年9月12日


パソンタモ通り、マカティスクエアに近いクリークサイドにあるのが居酒屋「満月」だ。そこのユニークな和食は以前にも紹介したが、今回再訪したのでそのユニークな料理を再び紹介したい。  魚のフライやカツどん、サラダやチャーハンなど単純な料理でも、ここでは、その料理がどんな器に、どう盛り付けられてくるのか、楽しみだ。そして写真を撮られずにはいられない。それにしても料理ごとに器が違い、一体どれだけの器を日本から持ってきたのか、器だけでも数百万円では追いつかないだろうと余計なことを考えてしまう。   ところでこの日は5人で10皿注文し、それに飲み物を加えて、5000ペソ弱。私にはちょっと高いが、この日案内したゲストは安い安いと大満足。フィリピンでもこんなしゃれた料理を出すところがあるもんだと感心していたが、案内した甲斐があったというものだ。ところで、この日のゲストは、以前日本人の経営するステーキハウスに行って、確かにおいしいかったものの、3人で1万ペソを超える請求書にびっくりしたとのこと。しかも同席したフィリピン人にはあまり感謝してもらえず、ここのほうがはるかに満足度は高かった様子。  

居酒屋「満月」の紹介(その2)2010年9月12日



退職者の方一名を同伴して久しぶりにタバコの農場に帰った。今年は春と初夏に2回日本に出張するなど多忙で、半年振りの3泊4日の帰郷となった。今回は天候に恵まれ、4日間ともマヨン火山を存分に楽しむことが出来て、退職者の方にとっては大変ラッキーな訪問となった。 マニラーレガスピの空の旅は数え切れないほどだが、今回は出発早々、タガイタイのタアル湖があざやかに眺めることができた。タアル湖のむこうに見えるのはミンドロ島だ。  この日はついうっかりして、席の指定を忘れて右側の窓側に座ってしまった。マニラから向うとマヨンは左側に見えるのにだ。後悔したもののそれが返って幸 いした。飛行機はレガスピ空港を大きく迂回して、マニラとは逆に向きに着陸したのだ。この日はマヨン火山の雄大な姿を惜しげなく見せていた。こんなことは せいぜい5回に一回と退職者の方のラッキーをうらやむ。  レガスピ空港に到着後もマヨンは姿を見せていた。丁度ヘリコプターが飛び立つところで、乗ってきたセブパシフィックの飛行機と一緒にカメラに収めることが出来た。 前々回帰郷したとき噴火の様子を見ようと登ってみたリニョンヒル展望台に再度行って見ると、そこには溶岩流などはっきりとマヨン火山の全貌が手に取るように見えた。また反対側のレガスピ市も眼下に広がっていた。 下の写真は離陸直後のセブパシフィックの飛行機。連続写真を撮ろうと試みて、連写のモードに設定したが、一枚目の写真以降、一向にシャッターがおりない。 安物カメラの悲哀で、連写と言ってもシャッター感覚が1秒近くあって使い物にならないのだ。手押しでやったほうが何ぼかましだった。  レガスピ空港からタバコ市に向う国道ではフィエスタのパレードに遭遇した。可愛らしい小学生の子供達が そろいの衣装をつけて踊りながら行列している姿はフィエスタならではの風景だ。  農場は大きな変化は無いものの、やりすぎではないかと思うくらいすずなりの実をつけたパパイヤ、かなり大き目のテラピア、テラピアの池で泳ぐアヒル、それに七面鳥やガチョウなど農場ならではの風景だ。       翌日、マヨン火山の展望台に上ってみると、相変わらずの雄大な景色を満喫することが出来た。写真中央の赤い屋根の家が我が農場だ。  展望台付近では平地では見られないミントの花が咲いている。右の写真はようやく実をつけた農場のランブータンの木だ(赤いひげがたくさんある果物で実は白い)。 […]

久しぶりの農場はマヨン火山が見放題(その1)2010年9月12日


3日目のマヨン火山は少々雲に隠れていたが、これも風情がある。この日の午前中は農場の裏手2時間半もかけて散歩して、ばててしまった。 アバカ=マニラ麻は、当地の名産として有名だが、それが何であるか知る人は少ない。私もその木を区別することがなかなかできない。なぜならば、アバカの木とは麻とは縁もゆかりも無いバナナの一種なのだ。すなわち左の写真がアバカの木で、右が幹から取れる繊維を干しているところだ。これから例のハンドバッグなどの手工芸品が出来るのだ。 道路はマヨン火山に向って緩い上り坂なのだがコンクリートで舗装され、最近はモーターバイクで移動する人が多い。そのため、道端にはバイク用のガススタンド(写真右)がところどころにある。といってもガソリンをコーラのビンに入れておいてあるだけだが。また、一方ではカラバオを引いたり乗ったりして歩いている人もいるが、ここにも近代化の波が押し寄せているようだ。  5kmほども歩いただろうか、マヨン火山が間近に見える。道路の真正面に見える小さな教会が道路の終点だったが、現在その先も舗装工事中だ。徒歩ではこの辺が体力の限界なので、次回は車で来て、もっと先まで行ってみよう。まだまだ山の麓までの半分ぐらいしか来ていないはずだ。 農場に戻ってジャングルのような風景を発見した。つる性の植物の根が垂れ下がっていかにも、熱帯という風情を醸し出している。一方、大きなバナナがすでに皮が割れているので早速収穫した。2~3日も置いておくと熟して柔らかくなって食べごろになる。  この日の午後は、退職者の方を闘鶏に案内した。相変わらず人々はメロン、ワラと、どちらが勝つか大声で賭けをしている。また、それに絡んで、私の相棒の叔父さんが経営する養鶏場にも案内した。300羽近い闘鶏を飼育しているが、一羽5000ペソ以上、つがいで1万ぺをもするそうだ。また、アメリカから輸入した5万ペソという闘鶏を見せてもらったが、一回勝負して負けたら死んでしまうのだから、いかにもバカバカしい。  闘鶏の後はタバコ市中心街のマーケットに寄った。そこでは市営のマーケットがいよいよ完成し、路上から野菜や果物、肉や魚を売る店が一掃されてしまっていた。皆きれいなビルの中に納められて、いかにも窮屈さそうだ。私は前のままのマーケットの方がはるかに好きだ。また、訪れたのは午後だったので、買い物客はほとんどおらず、魚などの生鮮食品は置いてなくて、閑散としていた。マーケットの片隅には商品を置いて売る人々、持ち物はバケツ一つと傘だけで、警官が来たらさっさと逃げ出せるようにしているのだろう。    

久しぶりの農場はマヨン火山が見放題 (その2)2010年9月12日



 今回は滞在が短いので島へ船で行くのは次回ということにした。しかし退職者の方が海が見たいというので、サントドミンゴから本島とカグラライ島との間にある海峡に向かった。途中、サントドミンゴのリゾートエリアからはマヨン火山の見事な裾野を臨むことが出来た。 途中で見かけたのがソーラーパネルで発電する街灯だ。こんな田舎では電線も無いだろうから、据付さえすれば終わりのこのような街灯はなかなかの名案だ。しかし、こんなへんぴな場所に果たして街灯など必要なのか、疑問は残る。   以前から本島とカガラライ島を結ぶ橋の計画はあった。しかし、今回それが本当(あるいは本気)であることを感じた。橋脚の建設はなぜかはかどっていない が、橋梁本体の材料はすでに現場に運び込まれ組み立てを待つばかりなのだ。建設省のたて看板によると、2011年6月に完成することになっているこれが出 来上がったとしたら、カガラライ島に開発中のMISIBISIリゾートはブームを起すかもしれない。  この日も夕方まで姿を見せ続けたマヨンを背景に子供達の記念撮影。 いよいよ到着から4日目の最終日を迎えた。マヨン火山は奇跡的といえるほどご機嫌がよろしいようだ。この日は出かけないで、サルやブタさんなどの農場の住民に挨拶をして回った。       錦鯉の池、水不足で噴水を設置した。右のキャッサバは収穫の時期だ。         カモテ(サツマイモ)畑とカラマンシーの木。 ピーナッツと唐辛子(まだ青いので見にくいが)。これが強烈に辛くて、ためしに一噛みしたら、口の中が火事になった。退職者の方は4噛みもしたので、大火事だ。早速カラマンシー・ジュースで事なきを得た。    昼過ぎの飛行機では今度はちゃんと右側の窓際の席を取って、マヨン火山にお別れを告げた。

久しぶりの農場はマヨン火山が見放題 (その3)2010年9月12日


 8月30日と31日、「文芸春秋」に掲載予定の介護に関する特集記事のためにフィリピン取材に訪れた橘さんご夫妻の案内をした。もともと介護施設などほ とんど必要としないお国柄だから、案内すべき施設がほとんど無い。しかも日系の介護施設はすでに取材済みなので、家庭での介護を中心に案内することにし た。  またPRAの紹介で「Wellness Place」という施設を見学したが、これは介護施設というよりも普通の住宅に数名ずつ介護の必要なお年寄りを収容し、原則として、入居者対介護士(ある いはヘルパー)の比率を1対1で面倒を見ている、いわばグループホーム的施設だ。  「アモーレの里」の立ち上げに関わり(現在未開業)、現在新規に介護施設を計画している岸田さんに面会した。岸田さんに連れて行かれたのがサンタ・ロサ の「竜馬レストラン」だ。流行の坂本竜馬の名をとったのだろうが、和洋折衷のインテリア、同じく和洋折衷の衣装を着けた大勢のウエイトレスなど、なんとも 形容のしがたい、ユニークなレストランだった。 岸田さんと別れて次に向ったのが、パラニャケ、BFホームズのイリジウム住宅。野呂さんが経営するタウンハウス方式の住宅街で200戸以上を完売し、今、最終の2棟を売り出している。野呂さんはこれが終わったら、引退して悠々自適の生活をするといっている。ここでオーナーのお一人が脳梗塞で倒れ、意識の無 いまま住み込みの看護婦の面倒を見てもらっている。すでに1年以上この状態だというが、看護士やヘルパーは、この方を親しみをこめて「おじいさん」と呼ん で献身的な介護を続けているとのこと。いつまでこの状態が続くのかわからないが、二人の介護人を専属で雇い、自宅で面倒を見てもらうという贅沢ができるの もフィリピンならではだろう。まさに個々のお年寄り専用の介護施設が自前で実現してしまっているのだ。   「Wellness […]

文芸春秋の取材 2010年9月1日