Monthly Archives: April 2010


 とんでもない時代がきたものだ。インターネットさえつないであればフィリピンのどこでも日本の地上波テレビ(NHK、日テレ、TBS、フジな ど)がパソコンでいくらでも楽しめるというのだ。最初に小さなUSBを11,000ペソで買えば、月々の使用料や視聴料は只だ。USBの大きさも普通の USBメモリーと同じだから、それだけ持ち歩いて、どこのパソコンでも使える。設定もいたって簡単でパソコンを使い慣れている人には何の苦労もないだろう。 地方にお住まいでケーブルTVで日本の放送を流しておらず、日本のTVを全く楽しめない日本人にとってはとてつもない朗報だ。しかもUSBさえ持ち歩け ば、どこに旅行しても日本のTVが見れるという、なんとも信じがたいことだ。ビコールの我が農場も大金をはたいてケーブルを引いたのに日本語のNHKワー ルドが無く、日本のTVが見れないことだけがネックとなっていた。しかし、無線のインターネットも普及してきており、近い将来農場で日本のTVが格安で楽 しめることになりそうだ。  インターネット回線は最低410kbps必要で、それ以下の場合は途切れたり、画像が悪くなるそうだ。画質 は、やはり普通のTVと比べてはかわいそうだが、なんとか見れる程度。もちろん高速インターネットがつないであれば、断然良くなるそうだ。通常、インター ネットは月極の固定料金だから、USBの購入費以外の出費はないので、TV好きの人にはありがたい。 詳細は左のパンフレットをクリックしてみてください。また、申し込みはアンヘレスにお住まいの木田さんまで。携帯:0919-442-2745。もし木田さんが不在の場合は下のマニラ新聞の広告を参考にしてください。  

日本のテレビが見放題 2010年4月29日


  4月14日、退職者の相続手続きのサポートのために日本に出張した。昨年の5月以来、ほぼ1年ぶりの日本訪問だ。桜の季節には残念ながら間に合わなかっ たが、つつじの花や新芽がほころぶ春のぽかぽか陽気を期待して行った。ところが春どころか冬の寒さ真っ盛りの気候なのでびっくり。女房には寒いわよと念を 押されていたものの、一体この寒さは何なのか。真冬用の皮のコートを倉庫から引っ張り出して着こんで出かける始末だった。電車の中も全くの冬模様だ。  フィリピンの夏は3月~5月で、現在夏真っ盛り。しかも今年はエルニーニョの影響とかで連日暑い日が続いている。だから、真夏から真冬への急転直下の変化だったわけだが、幸い体調は何の変化もなかった。 数日後の日曜日からは、なんとか春らしい陽気になった。近所の八重桜も急遽ほころび、住宅の周囲の花壇はいろいろな花が咲き誇っていた。やはり、春はこうでなければならない。        15、16、17日そして19日と所用で東京や千葉に出かけたが、そこでやたらと目に付いたのが駅のドリンクの自動販売機だ。一方煙草の自動販売機はめったにない。あったとしても認証カードを持っていない私には買うことができず役立たずだが。   このドリンク類を見てみると、かつての日本あるいは現在のフィリピンにおけるソフト・ドリンクの 主流であるコーラ、ファンタ、スプライト、オレンジジュースなどが全く見当たらない。緑茶、紅茶、ミネラルウオター、コーヒーをベースにしたものがほとん どで、砂糖を含んでいると思われるドリンクがない。コーヒーでさえ「微糖」をうたい文句にしたものばっかりで、いかにも健康・メタボリック症候群にはよさ そうだ。しかしフィリピン人はたっての甘党だから、この自動販売機の前ではさぞ困ることだろうと思う。   最終日の21日は孫の結月(ゆずき、1歳と8ヶ月)とその両親(私の息子と嫁)と女房と八景島シーパラダイスを訪問した。その夜は嫁の両親も含めて新杉田の焼き鳥屋で久々の再会を楽しんだ。   […]

久しぶりの日本は寒かった 2010年4月25日



私の家がある横浜金沢区には、至近距離に八景島シーパラダイス(通称シーパラ)があり、子供や若者の遊び場としてにぎわっている。春には潮干狩り、夏は海水浴や花火、そして水族館に遊園地と、1年中楽しめる。今更このブログにシーパラを紹介してもいたしかたないが、孫が出来ると、どうしても義務として行かざるを得ない。しかし、この年になっても、思いのほか楽しむことが出来た。孫の結月(1歳と8ヶ月)はほとんど寝ていたのでゆっくり水族館などを見学することが出来た。  入り口の近くにあるのがゴンドラ、その昔、高校生のころ後楽園で乗ったことがあるが、なかなかの迫力だ。息子の嫁さんが大はしゃぎで万歳をしながら乗っていたが高所恐怖症の私と息子は遠慮した。一方息子と女房は孫の結月と一緒にアンパンマンの乗り物を楽しんでいた。  シーパラの売りはこの「落下」だ100mほどもあるタワーから落下する数秒の乗り物だが、私ならあっという間に気絶をするかお漏らしをしてしまうだろう。          これも試したことはないが、海上を走るジェットコースタターもシーパラノ売りだ。結月が大きくなったらオヤジとジッジをおいてママと乗り回すことになるのだろう。 この日、最大の話題は潮騒料理店「哉介(ヤスケ)」の発見だ。逆に読むと「介哉(カイヤ)」で、なんと息子の名前と同じなのだ。店の人に店名の由来を聞いたが、知らなかった。ちなみに私の名前は「和民(カズタミ)」と言って、かの有名な居酒屋チェーン「和民(ワタミ)」と同じ字を書く。60年以上前からこの名前を名乗っている私が元祖であることは間違いないのだが、親子2代で料理店の名前に縁があるようだ。ここの料理は潮騒料理と銘打った海鮮料理で、糖尿病の私にはありがたいメニューだった。        いよいよ水族館だが、ここ数年でイルカや海の動物と直接触れ合うことが出来る「ふれあいラグーン」や水中からイルカなどを間近に眺めることが出来る「ドルフィン・ファンタジー」などができて中々楽しめる水族館になっていた。イルカや魚にえさやりが出来るのも子供達にとっては楽しみだろう。それにしても大人一人2700円の入場料はちょっときつかった。     

八景島シーパラダイス訪問 2010年4月25日


 マカティ・スクエアーのクリークサイド、焼き肉龍苑のとなりに開店したのが、居酒屋「満月」だ。ちょっと雰囲気のある店構えなので、中をのぞいてみたら、黒を基調とした内装はフィリピンではちょっと見られない凝ったものだった。店員の衣装も黒を基調とした今風の日本の居酒屋のものだ(現在は、ジュピター通り、マカティアベニューを東にしばらく行ったところに移動しています。) クリークサイドの中ほどという、場所的には決して良いところではないが、夕飯時は中々はやっている。伝統的な日本料理、すしや刺身、焼き魚や天ぷら、あるいは、とんかつやカレーなどではちょっと物足りないという日本人や、舌のこえたフィリピン人が客のようだ。  メニューには伝統的日本料理とは一線を画した、今風の居酒屋料理が並ぶ。日本料理通のフィリピン人でも名前だけでは何がなんだかわからないから、すべての料理は写真付だ。ほとんどの料理は当たり前の日本料理ではなく、ひとひねり工夫がされている。値段は必ずしも安くなく、日本と同程度のようだ。 例えば「握り寿司」を注文しても丸く握ってあったりして、中々面白い。それにまた、料理ごとに器が違い、料理と器の調和が楽しめる。よくぞここまでの器を日本から持ってきたものだと感心する。当たり前の日本料理に飽きた方々には是非覗いてみて欲しい穴場的レストランだ。

居酒屋「満月」の紹介 2010年4月25日



  マニラ周辺では盛んに道路建設が行なわれている。しかし用地買収が難しいマニラ首都圏はご承知の通りの地獄の交通渋滞が日常だ。いくら周辺に立派な道路 をつくってもそれがマニラ首都圏に向う限り糞詰まりでどうしようもない。だからマニラ国際空港など首都機能を近隣に移す計画も進んでいる位だ。  その渋滞に加えて不愉快なのが、道路の舗装面が、がたがたで自動車の乗り心地がいたって悪いことだ。マニラを迂回するEDSA通りは写真のごとく舗装の継 ぎ目が目立つ(画面をクリックして拡大してみてください)。この路面ががたがたなのは、ずばり、コンクリート舗装であることだ。日本ではアスファルト舗装 が主流だが、フィリピンではほとんどコンクリート舗装だ。舗装表面は人力でならすだけで、しかもコンクリートの伸び縮みを吸収するための隙間が必要だか ら、アスファルト舗装に比べてどうしても平坦性に欠ける。ならば何故フィリピンでは道路はコンクリート舗装なのか。  一方、最近できたSCTEX(スービック・クラーク・ターラック高速道)ではアスファルト舗装のすばらしい路面だ。また、NLEX(北ルソン高速道)も平 坦なアスファルト舗装だ。だから熱くてアスファルトが溶けてしまうからコンクリート舗装を使っているという仮説はあたらない。しかし、アスファルト舗装工 事を行なう場合、アスファルトの温度を維持するために、近くにアスファルト・プラントが必要だ。しかし、フィリピンにアスファルト・プラントはほとんどな い。SCTEXやNLEXなど大規模工事であるならば、専用のアスファルト・プラントを作ることも可能だろう。しかし一般の道路では、砂、砂利、セメント を運んで、現場に小さなコンクリートミキサーさえ置けばコンクリート舗装工事が出来てしまう。もちろん、都市部ならばビル建設用のコンクリート混合プラン トがあるから簡単にコンクリートが手に入る。だから舗装はコンクリートにならざるを得ないのだ。  アスファルト舗装は路床、路盤、アスファルト表面舗装の順で建設される。それぞれの厚さや材料は通行料によって異なるが特に路床と路盤をしっかり作ることが命だ。そうでないとアスファルト表層はすぐにがたがたになってしまう。   […]

フィリピンの道路は何故がたがたなのか 2010年4月25日


  旅の最終目的地はルソン島最北端のPagudpudのSaudビーチ。Laoagから60km、バスで1時間半の道のりだ。ここまで来ると全くの田舎で、外の景色はまるで江戸時代の農村にさかのぼった感じがする。ちなみにこのあたりは稲作が中心だ。  Pagudpudに近づくと海岸線に十数機の風力発電の羽根が建ち並ぶ。テレビなどでよく見る、あのエコ発電の権化ともいえる近代的なやつだ。こんなところに数十億円もかかるだろう代物を誰が建設したのだろう。採算に合うとはとても思えないが、きっとどこかの誰かが税金の無駄遣いをしているのだろう。  ここまで来るとエアコン無しのバスにトライシクルがもっぱらの移動手段だ。バス代は一人60ペソ、トライシクルはかなり走って60ペソ。2台で120ペソというのを間違えて1台の料金と間違えて240ペソ出したら、多すぎると返してよこしたのに感激した。アンヘレスで経験したぼったくりのトライシクルとは大分訳が違う。ちなみにアンヘレスでは、ホテルからバス・ステーションまでタクシーでも50ペソ足らずの距離に1台200ペソ請求され、120ペソで話をつけたといういきさつがある。   Saudのビーチはなかなかのものだった。砂浜の長さも優に2~3kmはあろう。たしかにボラカイ並みだ。砂はボラカイのパウダーサンドとまでは行かないが、細かい砂は丸くてなかなかのものだ。水もきれいだ。金と時間に余裕があれば2~3泊したかった。またこの辺はビーチ・リゾートあるため周囲は雰囲気ががらりと変わり、こぎれいな村になっている。ビーチ沿いには大小さまざまのリゾートが、十数軒建ち並んでいる。 ビーチにありがちなしつこい物売りはおらず行儀良く品物を並べて客を待っている。トライシクルといい、よほどバランガイキャップテンのしつけが良いのだろう。ウエイトレスも若くて可愛い子が多い。しかし、泊まったリゾート、Terra Rikaのマネージャーがオカマで今一だった。      ルームレートは前の日の4月4日までがピーク料金で2500ペソ/日の部屋が3640ペソと割高でラッキーだった。隣はさらに安くて1250ペソ、反対側は6000ペソとやけに差がある。この6000ペソは多分最高級の部屋しか空いてなかったのだろう。部屋代はビガンやラワグよりもかなり高い。 ビーチに面したレストランではフィリピン食以外にすしや刺身もあるが、ちょっと手が出ない。試しに海草サラダを注文してみたら、なんと生ののりだった。また、海岸には海草がたくさんあり、中には天草のような海草があって、食べてみたらしゃきしゃきとしておいしかった。フィリピンといってもこの付近は大分台湾に近いので採れる海産物も大分違うのだろう。またそのせいか海岸を歩いているとなにか涼しげな感じさえした。  Pugdpud の街は閑散としていた。リゾートのおかげで町の財政は豊かと見えて、役場などの建物が不釣合いに立派だった。件のマロンガイの木に花が咲いていたので一枚撮った。  

ホリーウイークの旅(その4)パグドゥポッド編 2010年4月12日



  パスコの相棒のジェーンに赤ちゃんが生まれた。34歳の高齢初産の上、臨月になって赤ん坊の体重が9ポンド(4kg)もあると医者に告げられ、難産が危惧されたが、帝王切開で3月31日、無事に男の子を出産した。 マンダルヨン市、ボニーの中規模の病院で出産したが、早速お見舞いに行くとたくさんの生まれたての赤ちゃんが並んでいた。どれもこれも同じ顔をして区別がつかないが、ガラス越しに連れてきてもらうと確かに大きな赤ちゃんで、髪も黒々としていた。お父さんのカーネル(大佐)は昨夜の入院以来一睡もしないで、つきそっていたとのこと。また、写真におさめた分娩の様子を見せてもらったが、最近は父親が分娩に立ち会うのがトレンドのようだ。  翌日私はホリーウイークを利用して息子と一緒にルソン島北部(バギオ、イロコス)の旅に出たが、7日に戻ってくる丁度その日に母子が退院した。フィリピンでは分娩後通常2日ほどしか病院にいないが、帝王切開のため、1週間以上入院していたことになる。帝王切開の上、1週間も入院していたため、病院からびっくりするような請求書が来て一同頭を痛めていたが。 国家警察の幹部と言う重職にありながら、カーネルは入院以来一週間パタニティー・リーブを取って、つきっきりで赤ん坊と母親の面倒を見ている。メイドもいるのだが人には任せてはおれない、といったところだろう。夜中も泣き止まない赤ん坊を抱いて育児に専念しており、仕事どころではないようだ。私が子育てをしていたころはパタニティ・リーブなどという概念は無くて、合計たったの3日間の有給休暇だけで、余分な年休をとると上司にいやみさえ言われたことを思い出す。       本文とは関係ないが、家の近くにある木が満開の黄色い花を咲かしていた。花の形は藤の様でもあるが、日本では丁度桜の季節なのでお花見の気分を味わうことが出来た。

相棒に赤ちゃん誕生 2010年4月11日


  4月7日、旅行から戻って、マカティ・スクエアに両替に行った時のことだ。地下の海賊版DVDの売り場場付近で悲鳴と銃声のようなパンパンと言う音が聞こえた。逃げ惑う人や警官のような人影が走り回っている。流れ弾にでもあたったらやばいと恐る恐る様子を見ていたら、DVDの詰まった箱を持って逃げる人がいて、それを警官が制して床にDVDが散らばったりして、パンパンという音がしているのだ。  さらに警官がDVDの店の商品を床にばら撒いているの見て、段々状況がわかってきた。警官が海賊版のDVDを押収しているのだ。息子はチャンスとばかりにカメラを持って地下に飛んでいった。野次馬根性はオヤジと変らないようだ。  しばらくして興奮した面持ちで戻ってきた息子が報告してくれた。チーフらしき男が中々のハンサムで(写真の右)、2階から発せられる黄色い声に手を挙げて答えたり、女の子がそばに来て記念撮影が始まってしまったとのことだ。警察の手入れにイケメン警官との撮影会なんて、フィリピンらしくて面白いものだと思った。 警官とその手下の私服の人たちが大量の海賊版DVDを袋に詰めて意気揚々と引き上げていく。それを撮影するテレビ局のカメラマンとおぼしき人たち。息子は良い経験をしたと満足げだった。  この話をお産直後の相棒のジェーンに話をしたら、ことの真相を話してくれた。彼女いわく、「海賊版DVDは100ペソ以下で10~30本くらいの映画が見れるので、映画館では閑古鳥がなき、どんどん閉鎖されている。これでは映画俳優や映画関係者が食いっぱぐれると、政府組織として、Video Regulatoryが組織されAnti Piracy(海賊版撲滅)の活動をPNP(国家警察)やNBI(国家調査局)の力を借りてやっている。この組織の前の会長は、今Vice Presidentに立候補しているエド・マンサノ(大統領候補ギボ・テオドロの相棒)。この日イケメン警官と思ったのは、今の会長で同じく映画俳優のロニー・リケだから、女の子がキャーキャーと騒ぐのは当たり前なのだ。また、明日になれば、また何も無かったように海賊版のDVDがならんでいるわよ」  たしかに、これだけ全国津々浦々に広まった海賊版DVDの販売網を簡単なことではつぶせないだろう。それに貧しい人々が多いフィリピンで格安で楽しめる海賊版DVDを取り上げてしまういかにも可哀想だ。映画関係の方々には申し訳ないが、海賊版DVDを庶民から奪い取ることには私は反対だ。  

アンタイ・パイラシーの手入れに遭遇 2010年4月11日



ホリー・ウイークを利用してルソン島北部をフィリピン訪問中の息子と旅した。手始めになじみの深いアンヘレスを目指したが、4月1日はホリーウイークの初日とあって、北へ向うビクトリー・ライナーのバス・ステーションには切符を求める人々が長蛇の列をなし、とても乗れる状況ではなかった。そこでタクシーの運ちゃんに話をすると2500ペソと言うので、生まれて始めてタクシーで長距離を旅するという贅沢をするはめになってしまった。  普段はがらがらのエンレックス(NLEX,North Luzon Express Way)も日本の高速道路と同様渋滞数十キロというありさまだ。サービス・エリアのレストランはたくさんの人が並び、車の脇で休む様も日本と同様だ。 初日のアンヘレスはたびたび紹介しているので割愛するが、実石さん宅を訪問し、ランチをご馳走になるとともに、息子に貴重なビジネスの話をしていただいた。フィールドアベニューも相変わらずの賑わいだった。  アンヘレスからバギオまでの道のりは約170km、バスで約4時間の道のりだ。大分込み合っていたがなんとか席が取れた。バギオに近づくと、昨年の台風で被害を受けた橋が修理中でバスは河を横切って進んだ。乾季でほとんど水がないので、こんな芸当が可能なのだ。  昨年、あんなに被害を受けたというのにバギオは人で溢れていた。ホリーウイークを利用してバギオ旅行としゃれ込んだのだろうが、ほとんどのフィリピン人は田舎に帰ってキリスト復活を祈るはずなのだが、そうでない人も多数いるようだ。おかげでホテルはどこも満員で、知り合いの紹介で何とか泊まる事が出来たが、一泊2700ペソは大幅な予算超過だった。 有名なマインズ・ビューも人で溢れていて前に進めないくらいだった。いつも過剰なおみやげ物屋の数に呆れるのだが、この日はどこも繁昌しているようだった。 ちなみにバギオは涼しいので日本と大差のない農作物が出来る。トーモロコシも丸々と太りおいしそうだ。右の写真の中段にある赤い食材はちょっとわかりにくいが、すずめの串刺しのようだ。  バギオ市の中心、セッション通りのはずれにあるシティ・マーケットの人ごみも尋常ではなかった。バギオ名物のイチゴやイチゴジャム、野菜やソーセージ、それに原住民、イグロット族の工芸品を買い求める人でごった返していた。 バギオ市の中心には大きなBURNHAM公園があるがその入り口付近にイグロット族の英雄の像が建っていた。なかなか勇敢な種族だったようだ。

ホリーウイークの旅(その1)バギオ編 2010年4月11日


  バギオからイロコスのビガンまでは約150km、3時間の道のりだ。昼近くにバス・ステーションに行って見ると3時までバスはないという。仕方がないので、相乗りのミニバンで行くことにした。料金はバスとほとんど変らず一人130ペソ程度だ。途中退屈な景色が続くが、見慣れない植物が延々と栽培されていた。聞いてみると煙草で、この地方の名産だそうだ。 イロコス地方は東側に深い山々を控えているせいか、大きな河が多い。この河を渡るともうすぐ古都ビガンだ。 まずはホテル探しだが、ブルゴス広場の裏に由緒あるホテルが数件ある。一軒は満員だったが、もう一軒で空きがあった。料金は朝食付で1700ペソでまあまあだ。  アニセトマンションというホテルだが建物は1800年代に建てられたようで、なかなか趣のあるホテルだ。隣はこれまた由緒のありそうな教会で重厚な壁が続く。       ホテルの前で馬車を頼むと名所を案内してくれる。しかし名所といっても、要はホテルの左に続く通りだけで、他にあまり見るものはなさそうだ。しかし、その通りがなかなかすばらしい。ホテルからその通りに行く途中にCafe Leonaの前、通路に広げられたテーブルで食事をとっていると脇を馬車が通リ抜けて行く。まるで200~300年前の中世にタイムスリップしたようだ。ちなみに馬車は1時間150ペソで、マニラのように後で、一人につき150 ペソだとか、150ドルだなどと、ぼられることも無くて気分がよい。 古都ビガンとして有名なだけに通りはホリーウイークを利用した観光客で埋まっていた。しかし、なぜか道行く人々はスペイン風の美女が多い。地元の人なのか、ホリーウイークに旅行をしているスペイン系の良家の子女なのかさだかではない。 昼間は比較的静かだが、中世の雰囲気がそのまま残っている。しかし、ほとんどの家は土産物屋で、もう少し、色々な店があっても良いような気がする。ただ、一角に現代的なディスコがあり、若者でにぎわっていた。 街の主要な交通手段はトライシクルだが、馬車(カレッサ)も充分交通手段としての役割を果たしている。ブルゴス広場を県庁舎(プロビンシャル・キャピタル)に向うと、衣類や雑貨の屋台が続いている。フィリピンの問屋街、デビソリア並みの価格だ。  県庁舎を過ぎたところに博物館がある。ブルゴスの住んだ家だそうだが、かなり荒れている。しかし昔の上流階級が済んだ家を垣間見ることができる。(マニラのイントラムロスにもCasa Manilaがあるがここは再建ではなくてもそのまま残っているらしい)。ところでブルゴスはマカティのブルゴス通りがゴーゴーバーのメッカとして有名だが、著名なヒーローの名前だっとは知らなかった。

ホリーウイークの旅(その2)ビガン編 2010年4月11日