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 7月28日夜半、待望の初孫が誕生した。名前は結月(ユズキ)、女の子だ。体重は3240KG、23日が予定日だったのでちょっと心配されたが、順調なお産だったそうだ。両親とも長身のせいか、足や指がすらっとした赤ちゃんとのこと。実は私が48歳の時、長男が結婚し、40台で孫ができるのではないかと期待されたが、それから10年以上音沙汰がない。嫁さんが仕事優先で子供を作るのを躊躇しているためだそうだ。先日1月19日に3男の結婚式に帰国したが、その時花嫁はすでに身重であることを知らされた。この少子化の時代に、でかしたと褒めてやったものだ。  ちなみに私は5人兄弟の末っ子で団塊の世代の先頭を走る。兄弟が5人に配偶者を加えて10人から生まれた子供が丁度10人でなんとか人口を維持できた。そして孫の世代となると今度生まれた初孫が二人目だ。10人の子供の世代はすでに30~40歳になっているが、結婚しているのがたったの3人だ。こんな状況では我が家系はどうなってしまうのだろうと心配される。さらにまた、日本の人口はどうなっていくのだろう。女性一人当たりの出産する赤ちゃんの数が 1.29人とかいう数字を聞いたことがあるが、10人の子供に配偶者がいるとして20人に2人の子供ということになり、女性一人当たりの出産率はなんと 0.2だ。 一方フィリピンでも少子化の波をむかえつつあるとはいえ巷には子供があふれ、今でも一夫婦に3~4人の子供は当たり前だ。今でも人口は急速に増加しつつあり、学校を出ても就職できない若者が大勢いる。日本では介護老人の増加と若者の減少で近未来に十数万人の介護士やヘルパーが不足するといわれている。大いなる需要と供給があるのに、ビザの問題が大きく立ちはだかっており状況が改善される見通しが立っていない。両国の首脳がこの問題を正しく認識してこのギャップを埋めることができたら、どんなにか両国に寄与するであろうという思いがつのる。  話を戻して、いずれ近いうちに初孫の顔を見に日本へ久しぶりに帰ろうかと思う。孫は実の子より可愛いというが、おばあさん(私の妻)の孫について語る電話の声はまさにそれだ。

初孫誕生2008年8月5日


 原油の異常な高騰のあおりを受け、世界的に穀物等をはじめとするあらゆる食材が高騰し、食糧危機の到来が取りざたされている。フィリピンでもガソリンがリッター当たり60ペソ(150円)にのせるなど、人々の生活を直撃している。しかしフィリピンではもう一つの食糧危機が到来しているのだ。ラプラプやマグロなどの海水魚(写真上)が半値以下に値下がりし、一方ではテラピア(写真下右)やバゴス(写真下左)などの養殖魚が倍以上に値上がりしている。それでもラプラプなどを買って食する人はまれで、ただ放棄されているという。  その原因は、先日の台風6号(フランク)により、シブヤン海、シブヤン島沖(ルソン島、ミンドロ島、パナイ島に囲まれた内海)で大型フェリーが沈没し800 人近い死者を出したが、その遺体が回収されず、海に漂い、魚のえさになっているとうわさである。キリスト教信者が大半を占めるフィリピンでは、極端にこのようなことを忌み嫌う。そのため、マニラの市場では誰も海水魚を食べようとしないのだ。  またさらに、この界隈の漁民は漁を行なうことを禁止され、その日の糧にも窮しているという。パラワン島など遠く離れた漁場で取れた魚は関係ないと思うのだが、海はつながっているから、人々は気持ち悪がって手を出そうとしない。そのため、全国の漁業関係者、おろしや小売などまでも大打撃を食らっている。ただほくそ笑んでいるのは、魚の養殖業者だ。普段はラプラプなどの海水魚の半値以下で売られているテラピアやバゴスが一気に倍以上の値をつけ、ラプラプよりはるかに高値で取引されているというのだ。

もう一つの食糧危機2008年7月3日



先日の夜、家でくつろいでいると、突然、チャンネル16であんたがテレビに出ているよと、携帯にメールが入った。あわててチャンネルを回したが、ケーブルテレビのプロバイダーが違うので見ることができなかった。しかし、その後、知り合いから私をテレビで見たというメールがしきりなしに入った。これは韓国 KBSがフィリピンで日本人並びに韓国人退職者の取材を行い放映したものを、フィリピンでも放映していただ。ある韓国人の友人の依頼で2007年12月から2008年1月にかけてその取材に協力するとともに、自らも取材を受けたものなのだ。   KBSは、まず私の事務所を皮切りに、フィリピン退職庁、パラニャケのイリジウム、アラバンビレッジ、さらに1泊でビコール地方、アルバイ県の私の農場を取材に訪問した。翌日は知り合いの娘のビアンカの誕生日だというので、それにかこつけて知人やご近所を招待して盛大にパーティを催した。翌日は近所を歩いて周り、ハイスクールの催し物やバランガイ・キャップテンを取材していった。また帰りの飛行機ではめずらしくマヨン火山の間近を通過し、迫力のある火口を間近に見ることができた。 このあと、セブで小島の村長さんになっている崎山さん、スービックでトロピカル・パラダイスという日本人向けの住宅を経営している高橋さん、などを取材していった。

韓国KBSの取材 2008年6月28日


原油市場の気が狂ったような高騰のあおりで、フィリピンでも毎日のようにガソリンが値上がりしている。1990年ごろガソリンがリッター15ペソになったということでタクシーやジープニーの運転手が抗議のストライキを打った。それが、今や55ペソだというのだ。日本円に換算すると135円程度になる。日本のガソリン価格からガソリン税を除いた程度の価格だ。もっとも、ほとんどのガソリンはもシンガポールやタイの大型石油精製基地で生産しフィリピンに輸入されているから、日本と同じ値段だとしても不思議はないが。  ところが、そのあおりをまともに食らっているのがタクシー運転手だ。初乗り料金はたったの30ペソ(73円)、100ペソ(240円)も払えば市内のほとんどのところに行けるから、超割安だ。車の値段はフィリピンのほうが日本より高い。安いのは人件費だけであり、これでどうやってやって行けるのか不思議だ。タクシーやジープニーはほとんどがバウンダリーと呼ばれる賃料を支払ってオーナーから車を借りて営業をしている。車の状態や、時間等で違うが、バウンダリーは600~800ペソ/日程度。ガソリン代は運転手負担で、売り上げからガソリン代をひいて、バウンダリーを支払って、残りが自分の収入になるという仕組みになっている。それが、ガソリンの高騰ににより、バウンダリーさえも払えないタクシーが急増しているのだ。運転手にとっては一日働いて、一銭にもならないという状況が出てきている。  もちろんタクシー運転手もバカではない。なんとか収入をあげようと、客との交渉が始まる。今やほとんどのタクシーが追加料金を要求してくる。今までも夜間、雨天など追加料金を要求してくるタクシーはあったが、最近はそれが定常化してきているのだ。タクシーを管轄している陸運局は一体何をしているのかと思うが、タクシーやジープニーの料金があがると物価が上がったという実感が庶民にいきわたるので、不人気のアロヨ政権としてはタクシー料金の公式な値上げが大いに躊躇されるところなのだろう。  

タクシー運転手の悲鳴 2008年6月15日



  先日、日本から訪問中の友人を伴ってモール・オブ・エイシアを案内しているおり、マニラ湾に面して並んでいるレストランの一つイタリアネスで、かのイメルダ・マルコスが食事しているところに遭遇した。普通ならば気が付かないで通り過ぎてしまうのだろうが、同行したフィリピーノが目ざとく見つけてささやいてくれた。すでに70をとうに過ぎて、その美貌を誇った昔の面影もなく我々日本人にはちょっと気が付かない。しかも当のフィリピーノは友人に写真を撮りたいかと聞くと、さっさとイメルダ・マルコスに声をかけてしまったのだ。彼女は申し出に快く応じて写真を撮らせてくれた。立ち上がってみると背が高いのに驚いた。優に170cmは超えているだろうという堂々とした体格だ。あの美貌と体躯でさぞ各国のVIPを魅了したのだろうと想像に難くない。 マルコスといえば1965~86年、21年間、フィリピンの大統領として君臨し独裁政治により不正に巨額の蓄財をなし、政敵ニノイ・アキノの暗殺に端を発したエドサ革命で政権の座を追われた、もはや歴史上の人物だ。その妻のイメルダもマラカニヤン宮殿において数千の靴やドレスのコレクション等で、大きな話題となり、マルコスを凌ぐともいえる歴史上の著名人だ。 現在の大統領よりもはるかに世界に名を知れたこのイメルダ・マルコスとのツーショットが実現して、かのフィリピーノはしばし興奮が覚めやらぬ様子だった。 しかし、我々が去ったあと、イメルダと我々が一緒に写真に収まったのを目の当たりにした周囲の人たちが、われもわれもと押し寄せ、しばし、撮影会が続いてしまった。同行していたイメルダのボディガードはさぞかし余計なことをしでかしたフィリピーノを恨んでいたことだろう。

イメルダマルコスとの遭遇 2008年6月5日


先ごろ韓国KBSテレビの取材陣が「フィリピンにおける日本人退職者の暮らし」というテーマで取材していった。まず私の事務所を皮切りに、PRA、パラニャケのイリジウム、アラバンビレッジに住んでいる退職者を訪問しインタービューを行ない、さらに1泊でビコール、アルバイの私の農場を取材に訪問した。翌日はケアテーカーの娘のビアンカの誕生日だというので、それにかこつけて知人やご近所を招待して盛大にパーティを催した。翌日は近所を歩き、ハイスクールの催し物やバランガイキャップテンを取材していった。 KBS取材陣、NAIAターミナル2にて 農場を取材するKBSスタッフ 取材を受ける私の相棒 パーティのご馳走 パーティのおかげで一匹の子豚が犠牲になった 庭に集う子供たち ご馳走の前でご満悦の私の相棒とその家族 取材に余念のないKBSスタッフ にわかパーティだったが招待客は50人程度になった 農場の隣にあるサンアントニオ高校の校庭で   このあと、セブの崎山さん、シキホールの原田さん、スービックでコンドテル、ポコアポコを経営している渡辺さん、トロピカルパラダイスの高橋さん、さらにブラカンで孤児の家を運営している高藤さんなどユニークな活動をしている日本人を取材する予定。放映は2月か3月でフィリピンでもケーブルテレビで見ることができる。   帰りの飛行機ではめずらしくマヨン火山の間近を通過し、迫力のある火口を間近に見ることができた。 […]

雑記帳 KBSの取材で韓国メディアに登場



1992年、ツーリストベルトと呼ばれ、毎夜多くの観光客を集めていたマニラの夜の顔マルセーロ・デルピラール通りに衝撃が走った。当時市長であったアルフレド・リムがすべてのゴーゴークラブなどのいかがわしい場所を閉鎖すると宣言したのだ。そんなうわさを聞いてたずねてみると、確かに、今までネオンを瞬かしていた、別称、猫、星、泡、花などのゴーゴークラブの入り口には10cm角の角材で等身大のXマークがつけられ封鎖されていた。どうせ、政治家の点数稼ぎで、せいぜい賄賂がほしくてやっただけだろうと大方の人がたかをくくっていた。しかしながら、いつまでその封印は解かれず、お店のほうはあきらめて、パサイ、マカティ、あるいはアンヘレスへとちりぢりになり、あのツーリストベルトは姿を消してしまったのだ。 たとえ、店を封鎖したところで、売春をしなければ生きていけないような人々がいる限り、売春は決して根絶できない。あるいは、売春といえでも生きるためのぎりぎりの選択であり、彼らの生きる権利を奪い去るものである、等々喧々諤々の意見を交わしたものだが、我々同士でそんなことを言ってみてもはじまらない。それから15年、人々に忘れ去られたデルピラール通りは夜もひっそり見る影もない。一方、同じエルミタ地区のアドリアチコ通り、マビニ通りなどは、健全(?)な発展をとげ、多くのレストラン、カラオケ、ショーハウスがオープンし、かつてのツーリストベルトの面影を漂わせている。 アドリアチコのオープンレストランには観光客が一杯 ところが、2005年、そのデルピラールの一角にLAカフェなるものが出現しただ。単なるカフェでコーヒーやビールを可愛らしいウエイトレスが運んでくれるところだ。ところがいつしか男女の出会いの場として、口コミでうわさが広がり、多くの観光客が集まるようになり、店は拡張に拡張を続け、通常の大型レストランの4~5つ分の規模にまでになった。中はいつも外人観光客で一杯だ。そして、その観光客のお相手になろうというフリーの売春婦が大量に集まってくるのだ。彼女たちは男性客の声がかかるまでひたすら待ち続け、声がかかると早速交渉が開始される。店が管理しているわけではないので、支払ったお金が全部彼女たちのものになる。そのためかなりの割安で遊べるそうだ(1000~1500ペソ)。 LAカフェの入り口 ところが、男と女の交わる場所にはどういうわけかママさんたるものが出現し、客に、いい子がいるよと盛んに薦めてくる。なんだか普通のゴーゴークラブと似たような状況になってきている。当然のことながらママさんは女の子の実入りをピンはねするのだろう。しかし入り口近くのフロアーは立錐の余地もないほどに混みあって、今やマニラで一番熱いスポットになっていることは間違いない。ちなみにここは24時間営業だ。   LAカフェの内部 マニラ市長から上院議員に出世したアルフレド・リムが何故か、さきごろ行われた統一選挙で、マニラ市長に返り咲いてしまった。そのため、LAカフェをひいきにしている日本人は、あの1992年の悪夢が再現されるのではないかと、夜も眠れずにいるそうだ。そして、その後、その悪夢が実現することになったのだ。しかし、幸い、名前を変えてすぐに復活した。 LAカフェは昼も夜も24時間営業

雑記帳 デルピラールの復活


2006年11月30日フィリピンのビコール地方を襲った超大型台風レミンはアルバイ県を中心に死者行方不明1000人を超えるという未曾有の被害をもたらした。アルバイ県のタバコ市にある私の農場に日本人退職者3名を案内しようと、この日、マニラ空港に向かったわれわれは、フライトキャンセルのため2日間マニラで足止めを食らった。3日目にレガスピ空港に降りたわれわれは、町中のほとんどの電柱と樹木がなぎたおされ、道路のいたるところが土砂に覆われるという惨状を目の当たりにした。レガスピ空港から約30kmのタバコへの国道は、途中、1kmほどが土石流に埋もれ、通行不能ということで、その日はレガスピに足止めされることになった。 農場に向う国道は土砂に埋もれて、歩くしかない 翌日、同行したフィリピーノに、先行してタバコの農場に様子を見に行ってもらい、今後の行動を決定することにした。午後になって戻ってきたフィリピーノは顔面蒼白で、農場が壊滅的被害を受け、家の屋根も吹き飛ばされ、とても泊まれる状況に無いという報告を受けた。さらに、川沿いのバラックは家ごと海に流され、数多くの人々が学校、教会あるいは被害を免れた知人の家に非難し、食べるものも無く悲惨な状況にあえいでいるということだった。 送電塔もお辞儀をしてしまった 同行した退職者3名のうち一名は是非状況を視察したいということになり、翌日、くだんのフィリピーノと3名でモータバイクの後ろに分乗し、冒険旅行に出かけた。途中、土石流に埋もれた道を1kmくらい歩き、思わぬピクニックをすることになった。また、土石流で埋もれた家を掘り起こす作業が行われており、多くに人が生き埋めになったそうだ。さらに山に生える木々はなぎ倒されるか、枝葉を落としており、普段は見えないはずの家や景色が見え、一種異様な景観だった。 土砂に埋もれた家、周囲の木々はすべてなぎ倒されていた 私の農場につくと、ほとんどのすべての樹木は倒れ、屋根の半分は吹き飛ばされ、家の中のものはすべてびしょぬれで、足の踏み場も無いほどで、生まれて初めて災害というものを目の前にすることになった。幸い、屋根の骨組みは無事で、金と時間さえかければ修復可能と判断し一安心した。 屋根は辛うじて骨組みを残していた しかし、政府の支援も中々届かないという状況で、周囲の惨状に目をつぶっているわけに行かず、個人的に支援活動に乗り出すことにした。フィリピンに在住する知り合いの退職者を中心にメールあるいは携帯で呼びかけ、合計、317,072ペソの義援金を集めることができた。これら資金により、2006年12月30日より2007年1月2日にかけて、タバコ市の特に被害の激しかったバランガイを中心に支援活動を実施した。 支援物資の袋詰め作業 支援物資の調達、配布は私とフィリピン人の友人で直接やった。義援金を関連する政府機関あるいは団体に預けると、それが被災者に届くかどうか、はなはだ疑わしいと考えたからだ。テント200枚、50kg袋入りの米を75袋、かんずめ2000個、乾ラーメン2000個、T-シャーツ800枚、その他古着を、私の自宅で約1300個の袋に詰めかえた。この作業は近所のボランティ、約30人の協力を得て行われた。事前にバランガイキャップテンより被災者のリストを受け取り、被災者の名前入りのクーポンと引き換えに被災者一人一人に食料入りの袋を手渡した。テントについては、別途バランガイごとに家あるいは家の屋根がなくなった被災者をリストアップし、直接手渡した。 支援物資の配布 今回、タバコ市内のスコーターエリア(貧しい人々が政府の土地を不法に占拠して居住している地区)に初めて足を踏み入れたが、その規模あるいは多数の住民に驚いた。普段は木々に隠れあまり目することもなかったスコーターだが、こんな田舎でもこんなに多くの人が貧しさにあえいでいるのかと、認識を新たにした。たった1千個そこそこの食料袋を配ったとしても、ほんの一部の人が正月の食料にありついただけかと思うと、焼け石に水の感をぬぐえない。 川沿いのスコーター スコーターは、ほとんど全部川沿いに広がっているが、これは河川敷が政府の土地であることに起因するそうだ。そして、今回の台風による大量の水、あるいは土砂で川沿いの貧しい住民達が壊滅的被害を受けてしまったのだ。一方、比較的高いところに住んでいる富裕な人たちは痛くも痒くもなかった様子だが、いまだに道路に倒れたままになっている電柱のおかげで、電気が復旧するのは半年後になると嘆いていた。 […]

雑記帳 ビコール地方を襲った台風レミンの被害