旅行


    久しぶりに所用でスービックを訪問したが、今回はスービックの北、車で15分くらいのバリオ・バレトを探訪することにした。かつてスービックが米軍の基地だったころ、隣接するオロンガポではクラーク空軍基地の門前町、アンヘレスを凌ぐ歓楽街が栄えていたという。しかし、基地の返還後、これらの歓楽街は閉鎖され、イメージの刷新を図った。そして、このバリオ・バレトが細々と生き残ったそうだ。  スービックはサンフェルナンドまで NLEX(North Luzon Express Way)を進み、左折して1時間くらいだ。アンヘレスまで行って、SCTEX(Subic, Clark, Tarlac Express Way)を経由していくことも出来るが、このほうが距離は長いが快適で早い。何度も紹介しているが、NLEXの入り口付近はMRT環状線の接続工事が進行中だ。すでに全線の土木工事を終え、架線や駅の工事が進行中で開通も間近のようだ。 サンフェルナンドからスービックに向う国道でトイレタイムでバスが止まったが、そこにはビクトリア・ライナーのバスが10台ほど並んでいた。ちなみにこの日は5月1日はメイデーで3連休、この休みを利用して里帰りをする人でごった返していた。  スービックのポコアポコで退職者2名の方と面会した後、今回の目的地であるバリオ・バレトへ向った。余談だがポコアポコでは前回紹介したインターネットテレビの実演で盛り上がった。  まずバリオ・バレトの北にあるバロイ・ビーチのトレジャー・アイランド・リゾートに向った。この沖にフローティング・バー、ブードーがあると案内の本には書いてある。ブードーといえばアンヘレスの私のなじみの店の系列店だ。  メイデーのためか、ビーチは人で溢れていた。休みの名目とは関係なく祝日にレジャーを楽しむのはどこの国でも同じようだ。そして確かにフローティング・バーは沖で営業してはいるものの、肝心のホテルは満員。名物のフローティング・バーはあきらめざるを得なかった。 […]

スービックのバリオ・バレト訪問 2010年5月6日


  4月14日、退職者の相続手続きのサポートのために日本に出張した。昨年の5月以来、ほぼ1年ぶりの日本訪問だ。桜の季節には残念ながら間に合わなかっ たが、つつじの花や新芽がほころぶ春のぽかぽか陽気を期待して行った。ところが春どころか冬の寒さ真っ盛りの気候なのでびっくり。女房には寒いわよと念を 押されていたものの、一体この寒さは何なのか。真冬用の皮のコートを倉庫から引っ張り出して着こんで出かける始末だった。電車の中も全くの冬模様だ。  フィリピンの夏は3月~5月で、現在夏真っ盛り。しかも今年はエルニーニョの影響とかで連日暑い日が続いている。だから、真夏から真冬への急転直下の変化だったわけだが、幸い体調は何の変化もなかった。 数日後の日曜日からは、なんとか春らしい陽気になった。近所の八重桜も急遽ほころび、住宅の周囲の花壇はいろいろな花が咲き誇っていた。やはり、春はこうでなければならない。        15、16、17日そして19日と所用で東京や千葉に出かけたが、そこでやたらと目に付いたのが駅のドリンクの自動販売機だ。一方煙草の自動販売機はめったにない。あったとしても認証カードを持っていない私には買うことができず役立たずだが。   このドリンク類を見てみると、かつての日本あるいは現在のフィリピンにおけるソフト・ドリンクの 主流であるコーラ、ファンタ、スプライト、オレンジジュースなどが全く見当たらない。緑茶、紅茶、ミネラルウオター、コーヒーをベースにしたものがほとん どで、砂糖を含んでいると思われるドリンクがない。コーヒーでさえ「微糖」をうたい文句にしたものばっかりで、いかにも健康・メタボリック症候群にはよさ そうだ。しかしフィリピン人はたっての甘党だから、この自動販売機の前ではさぞ困ることだろうと思う。   最終日の21日は孫の結月(ゆずき、1歳と8ヶ月)とその両親(私の息子と嫁)と女房と八景島シーパラダイスを訪問した。その夜は嫁の両親も含めて新杉田の焼き鳥屋で久々の再会を楽しんだ。   […]

久しぶりの日本は寒かった 2010年4月25日



  旅の最終目的地はルソン島最北端のPagudpudのSaudビーチ。Laoagから60km、バスで1時間半の道のりだ。ここまで来ると全くの田舎で、外の景色はまるで江戸時代の農村にさかのぼった感じがする。ちなみにこのあたりは稲作が中心だ。  Pagudpudに近づくと海岸線に十数機の風力発電の羽根が建ち並ぶ。テレビなどでよく見る、あのエコ発電の権化ともいえる近代的なやつだ。こんなところに数十億円もかかるだろう代物を誰が建設したのだろう。採算に合うとはとても思えないが、きっとどこかの誰かが税金の無駄遣いをしているのだろう。  ここまで来るとエアコン無しのバスにトライシクルがもっぱらの移動手段だ。バス代は一人60ペソ、トライシクルはかなり走って60ペソ。2台で120ペソというのを間違えて1台の料金と間違えて240ペソ出したら、多すぎると返してよこしたのに感激した。アンヘレスで経験したぼったくりのトライシクルとは大分訳が違う。ちなみにアンヘレスでは、ホテルからバス・ステーションまでタクシーでも50ペソ足らずの距離に1台200ペソ請求され、120ペソで話をつけたといういきさつがある。   Saudのビーチはなかなかのものだった。砂浜の長さも優に2~3kmはあろう。たしかにボラカイ並みだ。砂はボラカイのパウダーサンドとまでは行かないが、細かい砂は丸くてなかなかのものだ。水もきれいだ。金と時間に余裕があれば2~3泊したかった。またこの辺はビーチ・リゾートあるため周囲は雰囲気ががらりと変わり、こぎれいな村になっている。ビーチ沿いには大小さまざまのリゾートが、十数軒建ち並んでいる。 ビーチにありがちなしつこい物売りはおらず行儀良く品物を並べて客を待っている。トライシクルといい、よほどバランガイキャップテンのしつけが良いのだろう。ウエイトレスも若くて可愛い子が多い。しかし、泊まったリゾート、Terra Rikaのマネージャーがオカマで今一だった。      ルームレートは前の日の4月4日までがピーク料金で2500ペソ/日の部屋が3640ペソと割高でラッキーだった。隣はさらに安くて1250ペソ、反対側は6000ペソとやけに差がある。この6000ペソは多分最高級の部屋しか空いてなかったのだろう。部屋代はビガンやラワグよりもかなり高い。 ビーチに面したレストランではフィリピン食以外にすしや刺身もあるが、ちょっと手が出ない。試しに海草サラダを注文してみたら、なんと生ののりだった。また、海岸には海草がたくさんあり、中には天草のような海草があって、食べてみたらしゃきしゃきとしておいしかった。フィリピンといってもこの付近は大分台湾に近いので採れる海産物も大分違うのだろう。またそのせいか海岸を歩いているとなにか涼しげな感じさえした。  Pugdpud の街は閑散としていた。リゾートのおかげで町の財政は豊かと見えて、役場などの建物が不釣合いに立派だった。件のマロンガイの木に花が咲いていたので一枚撮った。  

ホリーウイークの旅(その4)パグドゥポッド編 2010年4月12日


ホリー・ウイークを利用してルソン島北部をフィリピン訪問中の息子と旅した。手始めになじみの深いアンヘレスを目指したが、4月1日はホリーウイークの初日とあって、北へ向うビクトリー・ライナーのバス・ステーションには切符を求める人々が長蛇の列をなし、とても乗れる状況ではなかった。そこでタクシーの運ちゃんに話をすると2500ペソと言うので、生まれて始めてタクシーで長距離を旅するという贅沢をするはめになってしまった。  普段はがらがらのエンレックス(NLEX,North Luzon Express Way)も日本の高速道路と同様渋滞数十キロというありさまだ。サービス・エリアのレストランはたくさんの人が並び、車の脇で休む様も日本と同様だ。 初日のアンヘレスはたびたび紹介しているので割愛するが、実石さん宅を訪問し、ランチをご馳走になるとともに、息子に貴重なビジネスの話をしていただいた。フィールドアベニューも相変わらずの賑わいだった。  アンヘレスからバギオまでの道のりは約170km、バスで約4時間の道のりだ。大分込み合っていたがなんとか席が取れた。バギオに近づくと、昨年の台風で被害を受けた橋が修理中でバスは河を横切って進んだ。乾季でほとんど水がないので、こんな芸当が可能なのだ。  昨年、あんなに被害を受けたというのにバギオは人で溢れていた。ホリーウイークを利用してバギオ旅行としゃれ込んだのだろうが、ほとんどのフィリピン人は田舎に帰ってキリスト復活を祈るはずなのだが、そうでない人も多数いるようだ。おかげでホテルはどこも満員で、知り合いの紹介で何とか泊まる事が出来たが、一泊2700ペソは大幅な予算超過だった。 有名なマインズ・ビューも人で溢れていて前に進めないくらいだった。いつも過剰なおみやげ物屋の数に呆れるのだが、この日はどこも繁昌しているようだった。 ちなみにバギオは涼しいので日本と大差のない農作物が出来る。トーモロコシも丸々と太りおいしそうだ。右の写真の中段にある赤い食材はちょっとわかりにくいが、すずめの串刺しのようだ。  バギオ市の中心、セッション通りのはずれにあるシティ・マーケットの人ごみも尋常ではなかった。バギオ名物のイチゴやイチゴジャム、野菜やソーセージ、それに原住民、イグロット族の工芸品を買い求める人でごった返していた。 バギオ市の中心には大きなBURNHAM公園があるがその入り口付近にイグロット族の英雄の像が建っていた。なかなか勇敢な種族だったようだ。

ホリーウイークの旅(その1)バギオ編 2010年4月11日



  バギオからイロコスのビガンまでは約150km、3時間の道のりだ。昼近くにバス・ステーションに行って見ると3時までバスはないという。仕方がないので、相乗りのミニバンで行くことにした。料金はバスとほとんど変らず一人130ペソ程度だ。途中退屈な景色が続くが、見慣れない植物が延々と栽培されていた。聞いてみると煙草で、この地方の名産だそうだ。 イロコス地方は東側に深い山々を控えているせいか、大きな河が多い。この河を渡るともうすぐ古都ビガンだ。 まずはホテル探しだが、ブルゴス広場の裏に由緒あるホテルが数件ある。一軒は満員だったが、もう一軒で空きがあった。料金は朝食付で1700ペソでまあまあだ。  アニセトマンションというホテルだが建物は1800年代に建てられたようで、なかなか趣のあるホテルだ。隣はこれまた由緒のありそうな教会で重厚な壁が続く。       ホテルの前で馬車を頼むと名所を案内してくれる。しかし名所といっても、要はホテルの左に続く通りだけで、他にあまり見るものはなさそうだ。しかし、その通りがなかなかすばらしい。ホテルからその通りに行く途中にCafe Leonaの前、通路に広げられたテーブルで食事をとっていると脇を馬車が通リ抜けて行く。まるで200~300年前の中世にタイムスリップしたようだ。ちなみに馬車は1時間150ペソで、マニラのように後で、一人につき150 ペソだとか、150ドルだなどと、ぼられることも無くて気分がよい。 古都ビガンとして有名なだけに通りはホリーウイークを利用した観光客で埋まっていた。しかし、なぜか道行く人々はスペイン風の美女が多い。地元の人なのか、ホリーウイークに旅行をしているスペイン系の良家の子女なのかさだかではない。 昼間は比較的静かだが、中世の雰囲気がそのまま残っている。しかし、ほとんどの家は土産物屋で、もう少し、色々な店があっても良いような気がする。ただ、一角に現代的なディスコがあり、若者でにぎわっていた。 街の主要な交通手段はトライシクルだが、馬車(カレッサ)も充分交通手段としての役割を果たしている。ブルゴス広場を県庁舎(プロビンシャル・キャピタル)に向うと、衣類や雑貨の屋台が続いている。フィリピンの問屋街、デビソリア並みの価格だ。  県庁舎を過ぎたところに博物館がある。ブルゴスの住んだ家だそうだが、かなり荒れている。しかし昔の上流階級が済んだ家を垣間見ることができる。(マニラのイントラムロスにもCasa Manilaがあるがここは再建ではなくてもそのまま残っているらしい)。ところでブルゴスはマカティのブルゴス通りがゴーゴーバーのメッカとして有名だが、著名なヒーローの名前だっとは知らなかった。

ホリーウイークの旅(その2)ビガン編 2010年4月11日


   ビガンから北へ約70km、バスで1時間半のイロコス・ノルテの州都ラワグ(Laoag)はマルコスの故郷だ。途中外の景色は相変わらずトウモロコシと煙草だけで稲作は少ない。ラワグの街は清潔で街にゴミが落ちて折らず、日本人にも違和感無く生活できそうだ。マルコスの出身地だけあって市民は、政治に興味を持っているようで、選挙戦のポスターが目立つ。  ラワグの観光のメッカの一つはパワイ(Paoay)教会だ。世界遺産ともなっている由緒のある教会だが、この日は訪れる人もおらず、一人夏の日差しを浴びていた。珊瑚の岩を積んだ建物は素朴で重厚だった。 同じパワイに「北のマラカニアン」と呼ばれる元マルコスの別荘がある。この日は月曜であいにく休館日だったがスペイン風の風情ある建物だった。そして周囲にはマルコスファミリーの選挙ポスターが掲げられていた。 パワイの隣町のバタックにはマルコスの遺体が安置されている。小さめのピラミッドのような石積みの建物の中に本物のマルコスの遺体が眠っているというが、どう見ても蝋人形のようにしか見えなかった。       周囲の建物にはマルコスゆかりの品々が置かれ、生前の写真が飾られているが、若き日のイメルダ婦人の美貌はさすがだ。またマルコスの履歴も超エリートだったことがよくわかる。  ホテルで紹介されて食事をとったのが、県庁舎に近いLa Preciosarレストランだ。イロカノ・レストランだが、スペイン風の建物はとてもしゃれている。料理もいけるし、値段もそこそこだ。  同じ道も車で戻るのも大儀なので帰りは飛行機に乗った。一人片道1830ペソ、バスで行っても1000ペソ近いからOKとした。マニラまでたったの45分のフライトであっという間に1週間の旅を終わってしまった。地方空港にしてはとてもしゃれたターミナルだった。ただ食事をするところがないのはどうかと思う。  右下の写真は元マカティ警察署長のジミー・バトンさん。PRA時代の知り合いでホテルでばったり出会った。現役時代は大分鳴らしたらしいが、今はキリスト教の布教みたいなことをボランティアでやっているそうだ。

ホリーウイークの旅(その3)ラワグ編 2010年4月11日



先日、オクラのパッキング工場を見学に行った際、アンヘレスのホテルのレストランで脇に置いておいた「金なし、コネなし、フィリピン暮らし」の本を指差して、「珍しい名前の本ですね」と声をかけてきたのが実石さんだった。「実は、この本は私が書いたんです」から会話が始まって、同席した実石さんの友人がその本を持っていて「サインが欲しい」などという話になり、翌日、実石さんの有機肥料工場、そして今回ブロック工場を見せていただくことになった。実石さんは奥さんの実家であるアンヘレスの郊外の農場を基点に幅広くビジネスを展開するフィリピンに根をはった実業家だ。  実石さんのブロック工場(Real Block)はフィリピン最大の生産量をほこり、月産250万個(10万個/日)に達し、ほとんどを首都圏に出荷している。サイズと強度でまちまちだが、 4インチの標準ブロックで1個3.75ペソ(工場渡し)と競争力のある価格だ。受注残は数千万個でいくら作ってもたちまち売切れてしまうと言う繁昌ぶり。一方、原料はセメントとピナツボの灰でほとんど無限といえるほど存在する。  この日は日曜で休みなので、一組しか働いていなかったが、全部で250人雇っているそうだ。ゲートのガード代わりか、入り口ではワーカーの家族が笑顔で迎えてくれた。 ブロックの製作はすべて人力だ。モルタルをミキサーで練って、型枠に流し込み、それを機械で押し出す。3個一組で1サイクル10秒以下の作業で、3人一組で作業を行なう。ヤードには養生中のブロックが無数に並んでいる。3個x6サイクル/分x60分x8時間=8640個、x12組=103,680個となり、12組で日産10万個が可能となる。一日あたり10万個を出荷するとなると、1台の10トントラックで2500個運べると仮定して、1日40台のトラックが首都圏に向うことになる。運搬は夜間に限定され、一日2往復しかできないので、20台ものトラックが首都圏を毎日往復していることになる。 ブロック工場の脇は採砂場になっている。ブロックを作る砂のほか、砂そのものを建設材料として首都圏に出荷している。実石さんはここに200ヘクタールの採砂場を確保しているが、30mに及ぶピナツボの砂の層にはざっと6千万m3の砂があり、1日5000m3(ダンプ500台、1台あたり10m3)を出荷して、12000日(40年)分の砂があることになる。ちなみに出荷価格はダンプ1台で950ペソだそうだ。  ピナツボの砂の層の間にはプラスティックのゴミが見えるが、これは砂と一緒にゴミが流れて埋まったものだ。この砂の層を見ていると現代もまさに地球が大地を育む営みが続いていると感じる。「100万年前あるいは1億年前の地層から発掘された化石」などということをよく耳にするが、遠い将来20世紀の地層から化石ならず、プラスティックが古代の遺跡として出土されるのだろうか。  実石さんの家と農場があるバランガイへ行くには実石さんの所有する私道を通らなければならない。実石さんの私道が唯一バランガイへ行く方法だそうで、実石さんがこの私道を作るまで、バランガイは陸の孤島でそこへ通じる道路はなかったそうだ。この辺一帯が実石さんの農場だが、全部で100ヘクタールという広大なものだ。道路の左ではとうもろこし、右にはひまわりの栽培試験農場がある。とうもろこしは飼料に利用し、ひまわりはバイオ燃料としての利用するための実験栽培だそうだ。 農場の中央には有機肥料の倉庫がある。ここで藁やとうもろこしの茎、さらに牛糞、鶏糞などを混ぜて発酵させている。実石さんはこの有機肥料の使用を強力に推し進めいているが、フィリピンでは化学肥料万能で、このままでは10年後には収穫が激減するであろうと、警鐘をならしている。日本では数十年前に有機肥料の重要性を再認識し、藁や鶏糞等を利用する有機肥料の生産が奨励され農家や園芸家の必須作業となったのだが、フィリピンの農家ではこの有機肥料の生産をほとんどやっていない。藁は燃され、豚の糞は廃棄物として処理されているだけだ。 肥料工場には大型の農作業の機械が数台置いてある。自分の農場以外にも貸し出して高い稼働率となっているそうだ。また、この日はとうもろこしの収穫機械が中国から到着し、組み立て中だった。日本製なら1000万円はするだろうが、これは300万円程度で購入したそうだ。この機械で1日に5ヘクタールは収穫でき、余っている時間は自分の農場以外にも貸し出すことを計画している。フィリピンでは暑い日中のとうもろこしの収穫作業などの重労働を行なう人が減ってきて、逆に人手不足と言うおかしな現象がおきつつあるのだそうだ。右下の写真は実石さん夫妻。 実石さんのお宅を訪問してびっくりした。まるでゴルフ場のクラブハウスだ。敷地は2ヘクタール(2万m2)あるそうだが、通常の家の敷地が200m2としたら、100軒分で、小さな団地並みの広さだ。まあ、100ヘクタール所有する農地のほんの一部だろうが、とにかく広い。一方、家のあるバランガイの住人の50%以上が実石さんのところに働いているそうだ。まさにバランガイの村長さんで、皆に慕われており、どこへ行っても住民が笑顔で迎えてくれる。バランガイの住人は皆家族と同じだから、実石さんも安心してここに住んでいられる。地域の住民に愛されること、これがフィリピンで安全に暮らすコツなのだ。   この日、マカティに戻ってきたら、前をポルシェ・カレラが走っていた。見たことのない新車のカレラだ。本文には何の関係もないがフィリピンにはお金持ちがたくさんいるものだと、ため息がついた。

パンパンガのブロック工場と農場訪問 2010年2月25日


マニラから日帰りが可能な唯一のダイビング・スポットがアニラオだ。バタンガス市から西へ約20km、タガイタイ経由でも行けるが、約3時間かかる。この日は退職者2名の案内と、パスコのマッサージ嬢2名の慰安旅行もかねて、タガイタイ経由、アニラオで海水浴としゃれ込んだ。平日だったので道路も混んでなくて約3時間の快適なドライブを楽しむことが出来た。 アニラオは工業地帯があるバタンガス湾と反対側のバラヤン湾に面し、マニラ湾の外に位置しているために水がきれいだ。アニラオのリゾートの基点になるのが半島の根元にアニラオの港。港と言っても小規模なものだが、マーケットや海水浴客用の商店があり、ちょっとした買い物が出来る。ちなみにカツオはキロ100ペソでマニラの2~3分の一程度だった。ここから船ないし陸路で20以上あるダイビング・リゾートへ行くことが出来る。港から海の水を見ると海底まで透き通って見える。この辺で泳ぐことも充分可能だ。 アニラオ半島の先端近くにあるのがイーグル・ポイントでアニラオのリゾートの中では最大級だ。ここまで車で行き、昼食を済まし、ボートを借りて、マリカバン島に行くことにした。しかし、それが失敗だった。イーグルポイントは数年前マリカバン島のビーチに休憩所を作り、入場料をとリ始めたのだ。それがなんと500ペソ/人という法外なものなのだ。5人で2500ペソ、とんだ予定外の出費だった。船は往復と3時間の待機で1600ペソとリーゾナブル。 イーグル・ポイントのレストランは海に面していて、とてもすばらしい景色だ。海を見ているだけで心が安らぐ。マッサージ嬢のタンとデビナも初体験にうれしそう。食事はマニラの高級料理店と変らない。しかし味もそれなりに良かった。6人で1850ペソはそんなに高いともいえないが。  20年ほど前に行ったときは全くの秘境的雰囲気を醸し出していたマリカバン島だが、今ではイーグル・ポイントのレストハウスができてありきたりの海岸になっている。当時は何もないから、食料/飲み物はもちろん、ビーチパラソル、テント、クーラーボックス、ゴムボートなどなどありとあらゆる物資とさらにメイドまで連れて行ったものだ。左下の写真はソンブレロ・アイランドでこの一帯で目印となる島だ。ここでキャンプをしたこともある。 海岸は比較的粗めの珊瑚砂であるため水が全くにごっていない。以前は水に入るとすぐにさんご礁があり、もぐらなくても美しい珊瑚を楽しむことが出来た。しかしながら、イーグル・ポイントのレストハウスが出来たために来客が増え、ボートの錨でさんご礁は破壊され、珊瑚の死骸が累々と続いていた。退職者の方には美しい珊瑚が見られると豪語していただけに至極がっかりした。しかし、何の施設もない隣の浜には珊瑚が破壊されないで残っているそうなので、次回はイーグル・ポイント経由ではなくて、アニラオの港で船をチャーターして未開の浜に向うつもりだ。そうすれば一人500ペソの入場料もいらなくなる。 元々、さんご礁の存在も、泳ぐこともろくすっぽできないタンとデビナは美しい景色と水に至極ご満悦で、ご機嫌ではしゃぎまわっていた。ところでフィリピーナは一般に肌を出すことを嫌う。恥ずかしいからかあるいは陽に焼けるのがいやなのか、定かではないが、パンツにT-シャツにブラまでつけてしっかりとガードしている。右下の写真は七面鳥の一種パボという珍しい家禽で、リゾートを歩き回っていた。

バタンガス・アニラオで海水浴 2010年2月18日



  クラークのミモザ内にはホリディ・インとモンテビスタ・ビラズの二つのホテルがある。36ホールのゴルフ場に併設されたこれらのホテルは元将校の宿泊施設を改造したもので、ゆったりとした敷地にいかのもアメリカの高級住宅を思わせるバンガロー(平屋造り)だ。   住宅は二つのユニットが連続している2戸一がほとんどだ。1ベッドルームのものと2ベッドルームのものがあり、宿泊費はそれぞれ100ドルないし200ドル程度で、五つ星ホテル並みだが、室内はゆったりと大きく、値段だけのことはあると感じる。また、周囲はもともと住宅なので車の出入りもなく都会の喧騒を忘れさせてくれる。ゴルフ好きの方にはもってこいだ。  周囲にはさらに日本レストランZEN、韓国レストラン、カジノ、などがあり、遊び場にも事欠かない。夫婦で1週間くらいのんびり過ごすのに適しているのではないだろうか。     ダブルベッドのベッドはキングサイズと呼ばれる縦横が同じ、あるいは横幅の方が長さよりも大きいというベッドだ。

クラーク・ミモザの紹介 2009年 12月10日


  ここのところ多忙でご無沙汰していたが、久しぶりにアンヘレス、フレンドシップ・クラブに、はじめてフィリピンを訪れ、退職ビザを取得した方の案内を兼ね気楽な旅をした。 またさらに翌週別の方を案内してスービックとクラークを訪問したので、その時の写真を追加した。   クラーク、アンヘレスは何度も紹介しているので、少々ねた切れだが、今回は「日本一番」という和食レストランを発見した。いつもお邪魔している「なるほどレストラン」が移転のため閉店しているので、フィールド・アベニューのはずれ、韓国レストランが並ぶ一角にあるこの店を覗いてみた。うどん、そば、ラーメン、焼き魚、カレーなどなど庶民的なメニューがほとんどなんでも揃っている。値段も200ペソ程度と手ごろだ。たまたま「なるほどレストラン」のオーナーの野口さんも3人の友人の日本人を連れてやってきたいた。(メニューは画像をクリックして拡大して見てください)    退職者をクラークに案内したが、先日報告した有竹さんが経営している「カフェ・メサ」は洋食レストランだが美人のウエイトレスが揃っているので評判だ。内部はなかなかシックなつくりだが、この日は雑誌の取材があって店の内部やウエイトレスを撮影していた。ついでに私も一枚撮らしてもらった。  スービックのポコアポコのプールサイドの喫茶店でも美人がいた。元々オーナーの秘書だったそうだが、最近、ここに移動となったらしい。皆、美人には目がないようだ。  LRTの環状線工事についてはSMノースエドサの既存線と接続部分の工事が未着工で気にかかっていた。今回はこの接続部分と駅、それから (North Luzon Expressway)との交差部分の進捗を見ることができた。今年中は無理としても来年の前半には開業できるのではなかろうか。メトロマニラのインフラも少しづつではあるものも着実に改善されつつあるようだ。

アンヘレスの旅(その?)2009年11月12日