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  パスコの相棒の彼氏(国家警察幹部)が車を買うというのでスズキとホンダのディーラーを訪問した。フィリピンでの車の価格はどの程度なのか興味を持っている方も多いと思うので、詳細を報告したい。現在1万円は5100~5200ペソ程度なのでペソの価格を倍すれば円の価格になる。   ちなみにフィリピンでは雨季に道路冠水が頻発するので車高が高い車を選択するのが賢い。トヨタのランド・クルーザー、フォーチュナー、ラブ4、三菱のパジェロ、イスズのビッグホーン/トゥルーパー、日産のパトロールなども数多く走っているが、ホンダのCRVやスズキのビトラが手ごろ感があって使いやすそうだ。さらにフィリピンではフォードのエクスプローラー、エクスペディションなどのアメリカ製大型SUVも多い。さらにBMW、ボルボ、アウディ、ワーゲン、ベンツなどのSUVも走っているが、これらは500万ペソは優にする超高級車だ。 スズキ、グランドビトラは2WDで、127万ペソ、エンジンは2400cc、なかなか重厚感があるデザインだ。ちなみにスズキの場合は販売数が少ないため、日本で組み立てたものを輸入しているそうだ。その場合の税金はどうなっているのか気になる。従来、完成車の輸入については100%の関税がかかるとされていた。そのためか、最近スバルなどの車も若干ながら走っている。   小型だが使いやすそうなのがスズキのSWIFTだ。エンジンは1500ccだが、BMWミニを思い起こさせるデザインだ。ちなみに値段は765,000ペソ。   フィリピンでは現在最も人気が高いSUVがホンダCRVだ。写真の車は4WD-AT、2400ccエンジンで1515,000ペソ。2WD、2000cc エンジンなら、1295,000ペソ。 CRVとジャズはタイで組み立てている。シビックとシティはフィリピンで組み立てて相互に輸入しているそうだ。その場合、特恵関税で無税だそうだ。そのため新型CRVが発売された2年前は品不足で入手に数ヶ月待ちという状態だった。しかし、現在は待ちに溢れており、ありがたみがうすれている。   一時、日本でもベストセラーカーを誇ったホンダのフィット、当地ではジャズと呼ぶが、1300ccエンジンで772,000ペソ、1500ccエンジンで832,000ペソ。マニラの街をやたら走り回っている人気車だ。   左下がホンダ車の価格表、拡大して見てほしい。アコードV6は2百万ペソもして、フィリピンでは高級車の一角を占める。右下の写真はホンダ・ジャズをローンで買った場合の詳細で、ダウンペイメントは20~50%、割賦期間は12ヶ月~60ヶ月(5年)と長い。ちなみにローンの利率は20%程度とかなりの高利率だ。しかし、これだけの支払いをしてまでも車を買う人が多数いるということは、フィリピンでも中間層が育っているということか。ここ数年でカーローンの普及が目覚しく、どのディーラーでも当たり前のように用意がしてある。一昔前は現金で買うか、自前で銀行ローンを用意しなければならなかったが、中間層の拡大により、ディーラーが直接扱うカーローンが普及したものと思える。(画像をクリックして拡大してみてください) […]

フィリピンの車の価格 2009年10月19日


  10月15~17日、フィリピンで日本人の介護を計画している日本人医師の依頼で、フィリピンの病院、介護学校、日系の介護施設あるいは退職者施設 (ローズプ・リンセス、アモーレの里、ポコ・ア・ポコ、トロピカル・パラダイス、フレンドシップ・クラブ)などを訪問した。その中で特質すべきだったのが、スービックに最近開業したジョージ・デュイー病院だ。  スービック経済特区(SBMA)は、スービック湾を囲んで埋め立てられた低地に市街地と工業団地、港湾施設、空港などがあり、後背の山地に住宅やゴルフ場、病院などのレジャー居住施設がある。森林の間を縫って、車で10分くらい進むと、広大な敷地にジョージ・デュイー病院が姿を現す。同行した医師が生まれて始めて見たという平屋の大病院だ。前面の庭園は広大で周囲の緑がまぶしい。スービックは太古の原始林が保存されていることでも有名だが、ここではフィリピン中を覆っている椰子の木をほとんど見かけることがない。そろそろ閉館の時間で丁度看護士などが帰宅するところで、カメラを向けると笑顔を返してくれた。    この病院は新築ではないが、2009年8月14日に開業したばかりだ。前の病院はアメリカ人の経営だったが、アメリカ人の医療保険を不正に水増しして請求したため、FBIの捜査が入り、廃業を余儀なくされた。それを買い取ってはじめたのが、この病院だ。     従来からスービックはすべてのインフラが整ったフィリピンの外国を標榜していたが、先ごろ前の病院が閉鎖されてしまったため、隣接するオロンガポ市の病院で受診しなければならないのがネックとなっていた。しかし、この病院の開業、そしてさらに2件の近代的病院が建設中で、これでス-ビックのインフラは完璧となり、外国人も安心して居住できるだろう。    開業したての病院であるためか、看護士等の職員が若く、しかも、とても可愛くて愛想が良い。病院の施設、設備、診療科などについても、同行した医師は満点と評価していた。    診察室、ラボ、緊急治療室、入院室など回ったが、清潔でとてもゆったりしてる。こんなところで治療を受けたら病気もすぐに直ってしまいそうだが、退院するのが名残惜しくなるかもしれない。でも決して安くはないので長居するわけにもいかないだろうが。    なお、フィリピンでの治療は日本の健康保険を使うことも可能で、一旦治療費を先払いして、必要な書類を用意して日本の最寄の市役所等で求償すれば、日本の基準に則って払い戻しされる。そうなると、フィリピン治療・療養ステイ(メディカルツーリズム)というようなことも充分成り立つわけだ。スービックで開業している日系のポコ・ア・ポコやトロピカル・バラダイス等の退職者施設にとっても強力なバックアップとなるだろう。

スービック、ジョージ・デュイー病院の紹介 2009年10月18日



  10月12日、一昨日、NTTホテルの近くのMARUCHANで客と食事をしていて、客が焼き肉丼を注文したら「ネギがないが、それでいいか」とウエイトレスに聞かれた。何故ネギがないのかわからないが、たいした問題ではないので、良しとした。さらに、翌日13日にマカティ・アベニューの新宿ラーメンで「辛口ネギラーメン」を注文したら、「ネギがないから作れない」とウエイトレスがいう。こればっかりはネギ無しで良しとは出来ないので、他のラーメンを注文した。何故ネギを切らしているのかわからず、スーパーで買ってくれば良いものを、と不思議に思った。  その夜、「野菜が300%値上がっている、スーパーから野菜が消えている」とフィリピン人の相棒に聞かされ、びっくりした。もともと、ネギ、レタス、キャベツ、トマトなどの西洋野菜、さらに生花などはバギオを中心とするベンゲット地方が産地で、そこからフィリピン全土へ供給される。ところが、先の台風17号ペペンのもたらした豪雨で地すべりが多発し、野菜畑が壊滅した上に交通が遮断されてしまい、供給がとぎれてしまったのだそうだ。バギオではガソリン、LPG、食料、水と何もかもなくて、政府がヘリコプターで物資を運んでいるという。有名な避暑地である高原都市バギオへ通じる道は2本しかなく、それがまさに命綱なの空中都市なのだ。 (スーパーのネギやレタス売り場は商品がないが、カンコン、ペッチャイなどの一般の野菜はいつもと変わらない)   台風17号ペペンは10月3日(土)、ルソン北部に上陸した。1週間前の台風16号オンドイに続く2週連続の台風上陸だった。ペペンはルソン北部の海上に留まり、その後、再度南下してルソン北部に上陸したのだ。その間、約1週間、大量の雨を降らし、大規模な地すべりや洪水をもたらした。   長引く豪雨のために、サンロケダムなどの大規模なダムが、オーバーフローによる決壊を恐れて大量の貯水を放流したが、これが流域の洪水に拍車をかけた。パンパンガ州、パンガシナン州、ヌエバエシア州などの米作地帯のほとんどが水没してしまったのだ。以前のブログでも紹介したが、この地域は地平線が見えるくらいに延々と平地が広がり、さらにほとんど河という河がない。したがって水がはけるのに数週間はかかるだろうといわれている。  オンドイそれにペペンのもたらした大量の雨で水没した米作地帯は当面米の収穫が見込まれないため、この地方の経済的損失ばかりではなく、フィリピンに食糧危機をもたらす。そのため、2~3ヶ月先の米の供給に不安が出て、早くも米が値上がり傾向にあるそうで、政府は急遽中国から大量の米を輸入することを決定した。一方これら一連の災害対策として120億ペソの政府予算の拠出を決定した。   

ネギがない!台風17号(ペペン)の被害 2009年10月14日


  先日、とある退職者の一件で、整体師の日本人がが事の顛末と知り合いに話したら、「あなたもフィリピン人になってきている」と評され、えらく立腹していた。日ごろからフィリピン人はどうも理解できないと言っている日本人が自分自身がフィリピン人らしいと言われて、侮辱された気分になったようだ。    日本からこられた方が、フィリピン人のやることなすことが日本人と違い、困惑し、「フィリピン人は、あるいは、フィリピン人のやることは、理解できない」と嘆かれることが多い。といいつつ、フィリピンを何回も訪問し、フィリピンが大好きな方が多いのだけれども。  あるタイに長くおられた方が、「タイ人は、こうなんですが、フィリピン人はどうなんですか」と色々質問された。びっくりしたが、まるでフィリピン人のことを語っているかのごとく、すべてが同じなのだ。どうも東南アジアの人々の気質は大変似通っているようだ。タイは仏教国、フィリピンはキリスト教国なのだが、根っこは同じようだ。 (下の写真はスービックの取材の際に対応してくれたSBMAのスタッフ。彼らはまさに国際人だ。)  ハリー・ポッターの映画で、事件が落着して、校長先生がハリー・ポッターに向って「このことは絶対に秘密で人に漏らしてはならない。ということはすでに全校生徒が知っているということだ。」と言うくだりがある。「フィリピ人に秘密はない」といわれるが、もし皆に伝えてほしかったら「これは絶対秘密だよ」といえば、あっという間にうわさが広がってしまう。これは何もフィリピンに限ったことではなくて、ハリー・ポッターの故郷のイギリスでも同じことなのだ。  フィリピンでは「ハイ」という代わりに、眉毛を吊り上げる動作をする。アメリカの映画を見ていたら、今まで気がつかなかったが、若者がその動作を頻繁にするのだ。さらに、先日、イギリス人を農場に招待し、マッサージ嬢のタンとデバインの家を訪問した際のことだ。そこで80歳は超えているだろうと思われるおじいさんが挨拶に出てきた。おじいさんはイギリス人と握手すると、その手の平を人差し指でこすった。これは、拙著「金なし、コネなし、フィリピン暮らし、84ページ」でも紹介しているが、Hをしようという意味なのだ。この話をイギリス人が仕草で話をしてくれ、大笑いしたが、イギリスでも同じ合図をするようだ。  ご承知のように、フィリピンはレディファーストの国だ。エレベーターに乗ったり、先に食卓につくのは女性だ。買い物の荷物を持って歩くのは男性、車のドアを開け閉めするのも男性だ。一方、女性は一家の大黒柱、カカア殿下が当たり前だ。これはフィリピンに限らず、香港、シンガポール、タイなど私の知っている限り各国共通だ。フィリピンは英語圏だから、現在でも欧米の文化がそのまま流れ込んでくる。国民の1割近くが出稼ぎなどで海外暮らしをしているということからも、外国との文化経済交流は活発で、フィリピンは東南アジアにあっても日本よりもはるかにインターナショナルな国なのだ。 (下の写真はポーズを取るパスコのスタッフ。いつもとても明るくて優しい)  フィリピンは危険な国というが、欧米人は決してそうは思っていない。アメリカや南米諸国、あるいは東南アジアの他の国々と比べてはるかに安全だ。ただ、新聞やテレビに報道されるニュースは悪いことばかりで、決して良いニュースは流れない。だから、日本にいてはフィリピンのことは決してわからないのだ。しかし、日本と比べて安全と言っているわけではない。日本以外の国としては決して取り立てて言うほど危険な国ではないのだ。フィリピンで普通の生活をしている限りて被害に会うことはめったにない。  フィリピンで人にだまされて大金や家をとられたということは良く耳にする。この原因は日本人があまりにも安易に人を信用して契約書を読まず、あるいは読めず、時には契約書や書いたものも何も無しに大金を出してしまうことに問題がある。俺々詐欺ではないが、金に対してあまりにも鷹揚なのだ。これはフィリピンに限ったことではなく、どこの外国に行った所で同じことだ。  日本と比べてフィリピンがどうのこうのというのは、どうも観点が違うような気がする。強いて言えば、日本と外国の違いなのだ。忘れてはならないのは、フィリピンは外国であって日本ではないのだ。多数のジャパユキさんが日本で働いていたから、多くのフィリピン人が流暢な日本語を話す。だから、フィリピンにやってきても日本にいるような気分になって、ここが外国であることを忘れてしまっている日本人が多い。フィリピンの言語である英語やタガログ語を全く話せず、あるいは話そうとせず、フィリピン人の親切や人の良さに甘えてしまっているのだ。だから、「日本ではこうなのに、フィリピン人は、なぜだめなのか」と不満が絶えない。 (下の写真の子供達も立派に国際人なのだ。)   日本の文化は中国から伝わった儒教の教えをバックボーンとした独特のものを持っている。日本の島国という地理的環境と儒教の教えという特殊な環境に育まれ、それが唯一絶対思っている方が多い。しかし、それは日本と韓国で位しか通用しない独特の考え方だ。国際社会そしてフィリピンでは全く通用しないのだ。 […]

フィリピン人は国際人(インターナショナル) 2009年10月7日



  台風騒ぎもおさまらない29日から10月1日まで産経新聞の取材に同行してクラークとスービックを訪問した。取材の目的はフィリピンの産業振興の目玉となっているクラークとスービックの発展振りを報告するものだが、特に基地の返還前と返還後の人々の暮らしぶりの変化に着目して記事をまとめたいとのことだった。    クラークでは有竹さんという方が、取材に協力してくれた。有竹さんはクラークの主のような人で、クラーク開発庁CDC(Clark Development Corporation)やクラーク国際空港公社CIAC(Clark International Airport Corporation)の多くのスタッフと親交があり、今回も空港内の取材やいろいろな方との面会をアレンジしていただいた。なお、有竹さんはクラーク内、Parade Groundsの真正面にカフェ・メサというしゃれたレストランを経営する傍ら、元米軍将校の住宅を改造して30棟ほどの貸家も経営しておられる。カフェ・メサはウエイトレスが皆八頭身美人ということで有名なので、クラークへ行ったら是非覗いてみてほしい。   クラーク内にある博物館にはクラーク基地の歴史にまつわる写真や展示品が並べられているが、中でも目にとまったのが若き日のアロヨ大統領の写真だ。60に近い現在もなかなかの美形を保っているが、若いときは大変な美人だったようだ。  クラークの歴史そして全容を知るには最適で、開発の経由やクラークの計画図が掲示されていて興味深い。(画面をクリックして拡大してみてください)  クラークの中心にあるのがParade Groundsという騎馬隊などがパレードをした広大なエリアだ。幅200m、長さ800m程度で、野球場が4つ程度建設できそうだ。正面の白い柱がクラークの象徴だそうで、長い間土に埋もれていたものが発見され、ここに置かれたものだ。 […]

産経新聞のクラーク、スービック取材に同行 2009年10月6日


 9月26日(土)、マニラ首都圏をおそった台風16号オンドイの被害は死者不明者288人を出す大災害となった。特にマニラの西、マリキナ、カインタ、 パシッグ地域では多くの住宅が水没し、1週間たった今でも水が引いていない。その他ほとんどの地域では翌日には水は引いたものの、地下室が水没し電気施設 や駐車場の車が被害を受け、エレベーターや電話などの復旧に時間がかかった。 9月29日、産経新聞の取材に同行してクラーク、スービックを訪問したが、途中高速道路から見たブラカンやパンパンガの水田地帯は水中に没していた。この水が引くには数週間の時間がかかるそうだ。  テレビでは災害に対する寄付をつのる番組が終日流れていたが、司会者は先日コーリー・アキノ元大統領の葬儀でテレビに出っぱなしだったクリス・アキノが務 めていた。また、アロヨ大統領も被災地を訪問した。さらに10月2日には台風17号上陸のニュースが流れ、マニラッ子は先日の水害の記憶も新しく、避難し たり、外出を控える人が目立った。さらに、超大台風18号も発生し、台風の恐怖にさらされた1週間だった。

台風16号オンドイの被害(その2) 2009年10月5日



 フィリピン全土の小売商の問屋として機能している街、デビソリアを北の横綱とすれば、南の横綱がバクラランだ。LRT1の南の終点バクララン駅を降りるとフィリピンの混沌と喧騒の世界がそこにある。マカティあるいはマニラに近いので手軽に探訪出来る。デビソリアのように広大でどこに何があるかわからないということはない。駅の近くのガードの下では海賊版DVDやDVDプレイヤー、さらにバクララン教会の方に進むと、衣類、靴、かばんなどを売る無数の店が並ぶ。この日は雨のため、一部の通りが冠水しており、歩道を歩く人で隙間が無いような状態だった。ブランド物のバッグなどはもちろんコピー商品で、大きなルイビトンのバッグでも1000~2000円で買える。靴や衣類でも1000円以上するような商品はめったにない。    バクララン教会に近づくと子供のキリスト像(ロザリオ)を売る店が目立つ。バクララン教会は女性の願いをかなえるということで有名だ。素敵な彼にめぐり合いたい、子供が欲しい、金持ちのパトロンがほしい、などという願いをこめてお祈りに来る人が絶えない。特にバクラランはカビテ方面へのバスターミナルがある場所なので、カビテへ帰る前に教会に寄って祈りを捧げて行くカラオケのホステス嬢(GRO)が多いそうだ。     教会からロハスボリバード通りに出て左へ折れると、すぐにシーサイド・マーケットに出る。入り口は果物を売る店だが、中は高級シーフードで一杯だ。エビや、牡蠣、まだ活きているラプラプなどの魚、蟹など、普通のウエット・マーケットでは見られない食材が並ぶ。むき身の蛙まで売っていたが、日中は客が少なくて退屈している店員はカメラを向けると皆、ポーズを取って愛想がいい。ところで海水魚の王者ラプラプ(日本では、はたあるいはクエにあたる幻の高級魚)は大変生命力が強く、市場に来てもまだ活きているものもいる。     

庶民の買い物どころ、バクラランの紹介 2009年9月27日


  ちょっと古い話になるが、8月末、大統領顧問代行(国家安全保障担当)を務めるチャベット・シンソン前南イロコス州知事(68才)が暴行を働いたとして内縁の妻(チェ、35歳)に告訴された。シンソンは17年間、関係を続けてきた内縁の妻の不倫現場を発見し、妻とその浮気相手の男に暴行を加えたものだ。シンソンは本妻とはすでに別れているが、フリピンの法律では裁判所の判決がなければ離婚(アナルメント)できないので、内縁関係のままとなっている。   当のシンソンは、フィリピンの刑法では「妻や夫の不倫現場に遭遇して、逆上し暴力を働いたとしても罪にはならない」という規定を盾に無罪を主張している。チェは18歳の学生時代にシンソンに出会って以来長い関係を続けているが、元々尻軽女だったらしい。一方のシンソンも女出入りが激しく、妻にとってみれば浮気はお互い様とも言えるものなのだ。写真左下がシンソン、右は浮気相手の若手男優。   しかしフィリピンでは、妻やガールフレンドの浮気は反道徳とされ、彼女らは世間の非難を浴びる。妻に浮気された男は「頭に糞を載せている」称され、恥ずかしくて世間に顔向けができない。一方、男の浮気は性(サガ)あるいは甲斐性として容認される。もちろん妻からはとことん絞られるが、結局は元の鞘におさまる。シンソンはエストラーダ元大統領の不正を暴き、失脚に追い込んだことでも有名な強気の政治家だが、この事件で世間の笑いものになってしまったのだ。一方、妻のチェは、はしたない恥知らずの女として世間に侮蔑の目で見られている。フィリピンでは未だに姦通罪という罪が存在するが、これは女性の不倫にのみ適用されているようだ。写真左下は熱弁をふるう女性擁護団体の闘志、右はシンソンを責める不倫相手の男性の父(弁護士)。    一般的に、夫あるいはボーイフレンドが浮気した場合、妻は浮気相手の女を探し出し、夫に手を出すなと談判する。場合によっては取っ組み合いのけんかになることもある。夫はそれを見ていて、喧嘩に勝った女のほうについていく。一方、妻あるいはガールフレンドが浮気した場合、夫は逆上して妻に暴行を加えることも少なくない。すなわち、不倫をして責められるのは常に女なのだ。不倫の責任は常に男にあるとされる日本とは逆のようだ。「これは不公平ではないか」と、相棒のフィリピーナに聞いてみたところ、「男はいつもちゃらんぽらんで女のけつをおっかけるものなのだ。だから理性のある女が自分あるいは相手をコントロールしなければならない。だから不倫があった時は常に女に責任があるのだ」と話していた。すなわち、浮気の責任は常に男にあるとみなされる日本とは逆に、フィリピンでは女に責任があるのだ。   一方、フィリピンでは熟年男性と若い女性のカップルは極普通のことで世間的に容認されている。60歳前後の日本人男性と20代のフィリピン女性のカップルは当たり前だ。しかし熟年女性と若い男性のカップルは反道徳とされ、世間から白い目で見られる。男が、女性の金を目当てに近づいていると見られるのだ。フィリピンでは熟年女性が、一回りあるいは二回りも下の男性と付き合うというのはありえないことなのだ。これはオスは生殖能力がある限り、子供を生むことのできる若いメスを追い掛け回すが、生殖能力を失った年老いたメスを若いオスが相手にすることはありえない、という動物界の常識にかなったものだ。生殖能力のないメスに近づくオスが他になにか目的があるに違いない、というのはきわめて自然の摂理にかなった観察だと思う。  日本人男性としては、フィリピンには独身の若い女性がいくらでもいるので、間違っても人妻に手を出したり、一~二回りも年上の女性に手を出したりしないよう、気をつけてほしい。

フィリピン人妻の浮気の顛末 2009年9月27日



 パサイ・シティのブエンディア通りからタフトアベニュー(LRT1高架鉄道が走る通り)をエドサ通りに向かって400m位のところを右に入ったところにあるのがカーティマ・マーケットだ。ここはマカティに最も近い庶民の台所であるウエット・マーケットの一つだが、ペット・ショップの集合場所として有名だ。数百件もあろうかというペット・ショップが軒を連ねている。定番の犬、猫、小鳥、ウサギ、ハムスターなどのほか、熱帯魚、金魚、鯉などが格安で売っている。  なかでも目を引くのが、熱帯魚の王様とも言われているアロワナとディスカスだ。日本では輸入が禁止されているという赤っぽい銀色のアロワナは20万ペソの値段がついていた。一方、白銀のアロワナは10万ペソだ。コップに一匹づつ入っているのが闘魚だ。オス同士を一緒にすると闘鶏のようにすぐに喧嘩を始めてしまうので別々にしてある。この魚は大変生命力が強く、コップ一杯の水で酸素を与えなくても生き続ける。その色とりどりのはでな格好も闘鶏そのものだ。  海水魚もたくさん置いてあり、さんご礁に群がる美しい多様な魚が一匹数十ペソで買える。しかし、これを飼育するのが難しくて、室内に熱帯のさんご礁をよみがえらせる私の試みはなかなか成功しない。昔懐かしいウーパールーパーもいた。     ここにはさらにくらげやトカゲまでも売っているが、マーケットの方に行くと犬や猫のえさが大量においてある。米の値段より高くて、人間より贅沢だ。さらに周辺には蘭などの熱帯観葉植物、日本あるいは韓国食材店、外国製の靴屋などが並んでいる。昔は輸入物の靴のメッカだったが、昨今はほとんどがコピー商品だそうだ。

ペットショップ街、カーティマ・マーケットの紹介 2009年9月27日


 9月26日(土)、熱帯性低気圧オンドイ(台風16号)の影響で朝からマニラでは豪雨が発生、たまっていたブログの執筆にいそしんでいた私は事務所に閉じ込められるはめになった。    事務所の前に道路は川となり、30cmくらいの深さで流れている。そしてバグチカン通りからパソンタモ通りはまるで運河だ。人々はまるで避難民のように手を取りあい歩いている。さらに路上駐車していた車は半分ほど水に浸かってしまっている。しかも、事務所ビルの地下駐車場は完璧の水没してしまったため、エレベーターが動かず、9階まで階段を上り下りするはめになってしまった。  夕方、当社のマッサージ嬢のタンとデバインに迎えに来てもらい自宅に戻ることにした。雨は小やみになってはいたものの、水はひざないし股下まである。道路の脇は排水溝の取水口がある恐れがあるために、なるべく道路の真中を歩く。カメラを向けると、タンとデバインは雨に濡れながらうれしそうにはしゃいでポーズをとってくれた。サリサリでビールを買って帰ったが、店の中は洪水だというのに逞しく店を開けていた。サリサリは庶民の味方、こんなときに店を閉めてはなおれとばかり、ほとんどすべての店が商いを続けていた。   家に戻ってみると、テレビは各地の被害状況を伝えていた。マニラ全域にわたって冠水し、特にマリキナあるいは当社の事務所のあるパソンタモ当たりが被害が大きかったらしい。そもそもマニラには川といえばラグナ湖とマニラ湾を結ぶパシッグ河。さらにマニラの周辺、ブラカン、パンパンガ、ヌエバエシアあたりも、先日ヘリコプターで飛んだらほとんど川がなかった。多分、広大な平地が続くために河川を維持する勾配がないのだろう。だからちょっと強い雨が降ると水 が溜まってしまい、道路や家が水没してしまうのだ。   翌々日に届いた新聞によると、この日の雨は、午前8時から午後2時の6時間の間に341.3ミリの、フィリピン観測史上最大の降雨があったそうだ。1時間 当たりの降雨は約57ミリとなるが、日本では通常50ミリ/時間の雨が10~15分続くものとして排水の設計をする。今回の雨はその設計降雨強度が6時間 継続したのだから、たまったものではない。マニラ中が水に浸かってしまったのもうなずける。そもそもこの台風は小型で、風もたいしたものではなかったた め、心配はしなかった。しかし、これがとんでもない雨台風だったのだ。これが田舎だったら、川沿いの家が浸水した程度の小さなニュースだったろうが、首都 マニラを直撃したため、このような災害になったようだ。都市は災害に弱いのだ。

集中豪雨でマニラは水浸し 2009年9月27日