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先日、リトル東京の瀬里奈で食事を終えて、隣の席を見たら、ドラノ観光大臣とよく似た青年が食事をしていた。相棒のフィリピーナにそのことを告げると、「本人よ」と教えてくれた。それにしても30代に見える若者がまさか現職の大臣とはびっくりした。そうなると、一緒に写真を撮るしかないのが相棒のジェーンだ。この日はもう一人のCorporate Secretary(書記役)のソールも一緒だったので、3人が写真に納まった。  ドラノ大臣はセブの財閥の息子で、セブでドラノといえば泣く子も黙るお家柄だそうだ。日本人で、ドラノ一家の女性を嫁にしていて(本当かどうか知らないが)、それを悪用してPRA時代に脅されたことがある。 ドラノ大臣に、近々PRAが観光省の配下になること、PRAの会長、ゼネラル・アグリパイの下で働いていたことがあること、など話をしたが、なかなか気さくな青年だった。ちょっと、ドラノ一家の印象を良くした。  瀬里奈といえば(日本の高級シャブシャブ店とは何の関係もないらしいが)、マカティ・スクエア近辺では高級店として、予約がないとなかなか席がとれないくらいの人気店だ。パソンタモから新宿ラーメンの横の道を入って30m位のところにある。店の前にはトヨタ・カムリなどの高級車がいつもずらりと並んでいる。 この日注文したのは、5点盛り刺身(550ペソ)、冷奴、カナッペ、いわし丸干し、握り寿司、などなど、4人で3500ペソだった。一人1000ペソも見込んでおけば大丈夫だろう。特に刺身は量も多くて満足だった。 瀬里奈の売りはランチタイムのセットメニューだ。350ペソ均一で、海鮮御膳、すし御膳、とんかつ御膳、焼き魚御膳、天ぷら御膳、日替わり御膳など10種類くらいある。時間のないランチタイムにはうってつけだ。中でも私が注文した海鮮御膳は350ペソとは信じがたい質と量だ。先日、退職者をお連れした際もびっくりしていた。天ぷら御膳や焼き魚御膳(写真はさば塩焼きとさんま塩焼き)もまあまあだ。 ただ注意しなければならないのは12時過ぎに行くと予約で満員で席がないこと。11時30分くらいに行けば多分座れるだろう。逆に1時近くに行くのも手だ。  フィリピンは世界で唯一、日本よりも安く日本食が食べられるところだと言われている。一緒に夕食をとった日本人女性は、はじめ、日本の瀬里奈だったら、一人7000円は固いと躊躇していたが、4人で7000円で済んだ。フィリピンでの食事としては決して安くはないが、日本と比べるとかなり安い。しかも、マカティスクエア近辺は日本料理店が20軒もひしめく激戦地なので、ここで勝ち抜いている店はなかなか食べ応えがある。だからドラノ大臣のようなフィリピン人のエリートもやってくるわけだ。(メニューは画面をクリックして拡大してみてください)

瀬里奈でドラノ大臣と遭遇 2010年1月24日


 アラバンにある児童養護施設を見学に行くおり、久しぶりにSLEX(South Luzon Expressway)を通った。SLEXの上を通るSky Wayはマニラからアラバンを結ぶ第2高速道路として着工されたが、資金不足となり、1998年、半分くらい完成したところで中断。マニラから10kmのビクータンまでで仮オープンしていた。2008年初頭に残りの部分が着工されたが、それからはや2年、大きな進捗を見ることがなかった。   それでも久しぶりに通ってみるとかなり進んでいる。MRTとLRT1との接続工事と比べることは亀のようにのろいが、それでも進んでいるという感じが持てる。なにしろ6車線の道路を作るのだから、MRT/LRTの3倍以上の工事量だ。それにしてもこんなものを作らずに、LRTをアラバンさらにはラグナまで延長したほうがどんなに世のため人のためになるだろうと相変わらず思う。   SLEXのアラバン以降の拡幅工事で、長いこと高速道路とはいえない状況が続き、それが一段落したら、今度はSkywayの建設工事で渋滞し、市民の不興を買っていた。今日は日曜のせいか、あるいは脚注工事がほぼ終わっているためか、渋滞はなかった。しかし、横桁の工事も半分くらい、縦桁となるとまだまだ20~30%程度で、この上に路面となる床版をかぶせて、アラバンまでつながるためには、少なくとも後、4~5年はかかるものと危ぶまれる。    アラバンに近づくと、柱脚が丸くなっているのに気がつく。どうもここから構造が変るらしい。それとも6車線が4車線に減るのだろうか。横桁も今まで、道路方向に作って、その後道路と直角になるよう回転させていたものが、そのままの形で作ろうとしている(写真右)。一体どんな構造になるのか、楽しみだ。しかし、私がマニラにいるうちに開通することはないだろうから、この上を走るチャンスはないかもしれない。

スカイウエイの進捗 2010年1月17日



 タバコの農場には現在、5匹の成犬がいて、24時間セキュリティガードとしての役目を果たしている。雑種だがラブラドールやシェーパードの血が混ざった、フィリピン流に言えばメスティーサあるいはメスティーソだ。その中でボスとして君臨しているのが今日の主人公、アイス(オス6才)だ。   2003年3月チャイナタウンのペットショップ街で1ヶ月の子犬を1000ペソで買い求め、タバコへ連れて行った。アイス(オス)、タロー(オス)、チャコ(メス)、ティーナ(メス)の4匹だったが、ティーナはすぐに衰弱して死んでしまった。予防注射やら食事の要領がわからず初めはまごついたが、しばらくして子犬たちのとの新しい生活が始まった。農場の家はほぼ完成しており、子犬たちは家の中で寝て、その外、数匹の犬が家の外にいた。しばらく後、外の犬達は狂犬病で死に絶えてしまったが、予防注射のおかげで子犬たちは皆助かった。    相棒のジェーンの弟、ボボイがアイスを見て、これは純粋な雑種と評した時から、アイスの悲劇が始まった。他の子犬は家の中にいるのに、アイスだけは外に出されたのだ。毎晩、中に入りたがって、ほえまくり、私の怒りを買うことも多々あった。しかし、ある事件がきっかけで彼は無事に市民権を取り戻した。それは、あるときジェーンがアイスを車で轢いてしまったのだ。幸い死には至らなかったが、ほとんど動けなくなってしまった子犬を皆が同情して面倒を見た。それ以来、頭が良くて気が強い性格のアイスは皆に愛され、そしてもう一匹のオス犬の太郎との戦いに勝ち抜き、ボスになっのだ。  当時、農場には猫やウサギ、サルも飼っていた。犬たちは、農場にいる人間には絶対服従なのに他の動物達には容赦ない。結局、これらの動物はすべて犬達に駆逐されてしまった。  犬が良き家族の一員となるためにはしつけが大事だ。やたら可愛がるだけだと、犬は自分がその家のボスであると大いなる勘違いをして、飼い主に吠えたり、噛み付いたり、やりたい放題となり、やがて獣医に安楽死を依頼するはめになってしまう。たとえ小さい愛玩犬でも同じことだ。そこで私は犬の飼いかたの本に学んで下記を実行した。 1. 自分より先に食べさせない。 2. ソファーやベッドなど高くて気持ちの良いところには載せない 3. 耳や尻尾など触られていやなところを触りまくる(敏感な犬は子供が触ると反射的に噛みつく恐れがある) 4. 自分の足や体をまたいだり、交尾の仕草をしたら、それを跳ねのけてやめさせる(これはマウンティングという自分が優位であるという意思表示なのだ) 5. 食事はなるべく自分で与える 6. 毎日、数回、数分間、後ろから羽交い絞めのようにして体を抱え、口を手で握って塞ぐ。これを2~3ヶ月続ける   6番目のトレーニングは犬の最大の武器である口を抑えて、自分が絶対的かつ逆らうことができない主人であることを憶えこませる効果があるそうだ。だから、こうやって育てた犬たちは、私に全体服従で何をしても噛んだり、威嚇して吠えたりするという事はありえない。また、家族や客といるときも、ほえたり、噛んだりすることは絶対にない。それでいて、農場に帰るたびに最大限の歓迎の意をあらわし、全幅の信頼を置いていることを全身で表してくれる。 […]

忠犬アイス物語 2010年1月13日


 パスコの相棒のジェーンが卒業した国立タバコ・ハイスクールは、フィリピンでトップ3を競う屈指の名門ハイスクールだ。他には、フィリピン国立大学 (UP、University of the Philippines)付属ハイスクール、国立リザール・ハイスクールなどがあげられる。ご承知のとおり、フィリピンの学校制度は6-4-4ないし 6-4-5制で、日本の中学と高校をあわせたのがハイスクールで4年制と日本に比べて2年短い。また、大学は文系が4年、理科系が5年で、トータルの教育期間は日本より1~2年短い。その代わり、法学部や医学部は9年と、返って日本より長い。  タバコ・ハイスクールにはタバコ市やアルバイ県に限らずビコール地方全体から生徒が集まってくる。卒業すると多くはマニラのUPやレガスピのBU(ビコール大学)に進むそうで、地元に残っている人は少ない。卒業生には牧師、弁護士、医師、エンジニアー、その他多様な道に進んでいるが、未だに職に就けない人も少なからずいるそうだ。また、海外で働く人たち(OFW、Oversea Filipino Worker)もたくさんいる。  ちなみにタバコ・ハイスクールの全生徒数は8000 人に達し、フィリピン有数のマンモス・ハイスクールだ。ちなみに先生の数は300人程度と、小さな私立ハイスクールの生徒数にも匹敵する。なお、1学年は 38クラスあり、成績の良い順から第1クラス、第2クラスと順に振り分けられ、第1クラスともなると秀才の集団だ。ちなみにジェーンは第4クラスだったそうだ(当時は1学年は24クラス)。写真はタバコ・ハイスクールの校舎とユニフォームを着たジェーンの姪のバネサ。外からはわかりにくいが、学校のキャンパスは大学並みに広大だ。 今年は卒業から15年目で、10年、15年、25年そして50年の節目に行われる学年全体の同窓会の年だ。ジェーンはこの農場を会場として提供することを提案し、約50名の卒業生が集合した。100人以上来るのではないかと予測されたが、意外と低調だった。そのため前日から用意した100人分の料理が半分ぐらい残ってしまうのではないかと心配された。  料理の準備は前日の朝から、夜中まで、ジェーンの家族全員、メイドとその家族、パスコのマッサージ嬢のタンとデバインなどなど、総勢15人くらいでとりかかった。農場で飼っている2頭の子豚を犠牲にして、料理の主要な材料とした。アドボン・バブイ、上海ルンピア、クリスピー・パタそしてレチョンなどの豚肉料理、唯一の野菜料理のチョップソイ、それに定番のスパゲッティやサンドイッチ、さらにゼリーやブコ・パンダン、グラマンなどのデザートと、8人掛けのテーブルに乗り切れないほどの料理の量だった。飲み物はコーラやスプライト、1.5 リッター入りが40本も用意された。お皿は竹で編んだざるにバナナの葉を敷いた伝統的なものを100枚ほど用意した。 […]

国立タバコ・ハイスクールの卒業15周年同窓会 2010年1月5日



しばらく前、NHKで「アンチ・エイジング(老化防止)」と「赤ちゃんは天才」という番組をやっており興味深く視聴した。その番組によるとアンチ・エイジングのために脳を活性化する秘訣は下記の7つに要約されるという。 1. 体をよく動かす:よく歩くことやスポーツ、家庭菜園などの作業 2. 手先を使う:工作や裁縫、料理など 3. 日常の作業を自分でやる:片付けごとや炊事、洗濯などの家事仕事 4. やりなれないことをやる:左手で箸を使う、目をつぶって歩いたり、後ろ向きに歩くなど 5. 会話を楽しむ:若者や子供たちと積極的におしゃべりをする 6. 新しいことにチャレンジする:英会話やパソコン、ボランティ活動など 7. 好きなことを楽しんでやる:趣味や娯楽、カラオケなど    一方赤ちゃんは、あらゆる可能性を秘めた天才だという。サルに育てられればサルになり、狼に育てられれば狼になる。環境から何でも学び、何にでもなれる可能性を持った、まさに万能細胞のような存在だというのである。赤ちゃんは環境に適応し、もともと持っている能力を特化させ、不必要な能力を捨て去り、やがて当たり前の人間になっていく。要は年を経るごとに技能や知識は増えていくものの、可能性という点では老化していく。極論すればエイジング(老化)は生を授かった時から始まっているのだ。  下の写真はパスコの法律顧問のマリソールの子供。マリソールは9年制の法律学科を卒業する寸前に身ごもってしまい、典型的な「できちゃった婚」で、結婚式の前日まで結婚をためらっていたが、今では相思相愛で、3人目の男の子をこの8月に出産した。ちなみに3人の男の子は皆、父親似で、同じ顔をしている。写真は両親と一緒の長男、ジェルミ君6歳。将来はきっと母親の期待を担って弁護士か医者にでもなるのだろう。 生まれたての人間の赤ちゃんは、他の動物が生まれてすぐ歩きはじめる一方、未熟児で生まれるという事情から、しばらくは寝てばかりいる。しかし、1歳になって歩き始めたあたりから、肉体ばかりではなく、目覚しい知能の成長を開始する。そして2歳ともなると流暢に話し始める。私はフィリピンに住んで15年目を迎えるが、3歳児の会話能力には足元にも及ばない。彼らは、誰が教えるでもなく、たったの3年でその土地の言葉を流暢に話すことができてしまうのだ。  私の相棒のジェーンに、3歳になったばっかりの姪の女の子がいるが、名前はヤナという。赤ちゃんの時、数ヶ月間、農場で暮らしていたことがある。しばらく後、母親がダバオで亡くなった。その後、2年ほど父親とダバオで生活していたが、父親に仕事がないのでこのクリスマスに父親と一緒にタバコに戻ってきた。  ヤナはダバオで暮らしていた関係でセブやミンダナオ地方の言葉であるビサヤ語を話す。タバコに暮らすいとこたちはビコール語あるいはタガログ語を話すため、お互いに言葉が通じない。ヤナはそんなことはお構いなしにビサヤ語でまくし立てる。周囲の人たちは、大人も含めてさっぱり理解できないが、雰囲気でなんとかなるようだ。久しぶりのいとこを迎えた子供たちは言葉などお構いなしに皆で、はしゃぎまわっている。私の片言のタガログ語は、なんとか理解してもらえるようで、レベルがあって返って話しやすい。ちなみに、おじいちゃんが中国人のせいかジェーンに似ていてなかなかの美人でもある。 彼女がタガログ語やビコール語を話せるようになるには3ヶ月もあれば十分だろう。なぜなら子供は語学の天才なのだ。最近、フィリピン人の奥さんを持つ日本人の方が、幼い子供を連れて退職者ビザを申請することが多いが、その子供達はすぐにタガログ語を覚えてしまう。父親がたちが何年たっても英語もタガログ語もろくすっぽ話せず、フィリピン人の妻を頼りにしているのとはわけが違う。いずれお父さんが子供に通訳してもらう日が来るだろう。 […]

アンチエイジングの秘訣(赤ちゃんは天才)2010年1月5日


マヨン火山噴火のニュースが流れて久しいが、すでに数万人の人々が避難生活を強いられている。テレビでもトップニュースとして毎日報道されている、25 日のクリスマスにタバコの農場に帰郷する予定だったので、それまでなんとか噴火しないで待っていて欲しいと願っていた。被害をこうむる人たちには申し訳な いが、噴火を間近に見るなど一生にあるかないかの貴重な経験だ。 幸い農場はマヨン火山の北側にあり、噴火口が向いているレガスピ市とは 反対側に位置しているので、火砕流や火山灰の被害はほとんどない。だから安心して噴火見物としゃれこむことができるのだが、レガスピ市にあるホテルは噴火 のニュースのおかげで、一目噴火を見ようと訪れる不謹慎で好奇心の強い外国人観光客で満員だそうだ。ビコール大学がクリスマス・年末年始の休暇のため学生 が帰郷している下宿屋さんは、ホテルに鞍替えして、噴火見物の観光客を一泊500ペソで受け入れてホクホクとのこと。 レガスピ飛行場に近づくと雲の上にマヨン火山の頂がのぞき、噴煙を上げていた。新聞ではマヨン火山は雲に隠れて観測ができないと報道していたが、これでは地上から頂を見ることはできそうにない。 毎度のことだが、セブパシフィックのスチュアーデスは美人が多い。この日もこっそりと一枚取らせてもらった。 一方、飛行場から見るマヨンはやはり雲に隠 れていた。天気が良ければ飛行機の向こうにマヨン火山の頂が見えるのだが、この日は辛うじて頂上付近の右斜面が見えるだけだった。 甥や姪の出迎えにご機嫌の相棒のジェーン。現在、彼女は妊娠6ヶ月。10人の甥や姪を自分の子供たちと思っていたが、いよいよ待望の自分の子供ができたの だ。到着は昼に近かったので、レガスピ市のなじみの店で食事をとったが、私はクリスマス・イブで現金を使い果たしてしまっていたので、写真右の右端に移っ ているジェーンの彼氏に払ってもらった。子供も含めて10人で食べて1400ペソ足らずと相変わらず格安だった。 せっかくだからレガスピ側から火山の様子を見ようと、飛行場の脇にあるリニヨン・ヒル展望台に車で上って見た。日ごろめったに人影を見ないのだが、この日 […]

マヨン火山の噴火 2010年1月5日



 私の相棒のジェーンのファミリーは、一家全員が農場に集っておおみそかを迎えるのがここ数年の慣わしだ。ダバオで暮らしていた次兄のアランも加わって、今年は一家全員が集まることができる(弟のボボイの妻が具合が悪くて欠席したが)。クリスマス・イブはジェーンがマニラにいるので、この日はクリスマス・パーティも兼ね、甥と姪たちはジェーンからのクリスマス・ギフトを楽しみにしている。  夕方、6時過ぎ、軽く夕食を済ませ、後は新年を迎える12時まで遊びの時間だ。その間、大人たち、特に女性陣は新年の料理の準備に余念がない。10人の甥と姪たちに養女のビアンカを加えて、11人。そのうち5人が9歳~13歳の年長グループで、6人が3歳~6歳で遊び盛りの年少グループだ(アランの娘のアレインは写真左の一番後ろ、年少組みの写真に入っているが、年長組みに分類される)。今年のおおみそかの話題の主は、ボボイの末の子供のタムタム君3歳だ(写真左の左端)。  この日は丁度満月で、普段、満月の夜は辰年生まれのためドラゴンの血が騒ぐというジェーンも、今日はクリスマスとおおみそかが重なったファミリー・デイとあって終始上機嫌だった。まいかけ姿で料理の合間をぬってカラオケを楽しんでいるのは長兄のダシンだ。  カラオケに一番夢中だったのが、いとこ仲間で最年長、ダシンの長女のバネサだ。ほとんど歌いっぱなしだったが、映画「タイタニック」の主題歌を何度も繰り返していた。アランと次女のアレインは、久しぶりの再会にパパ、パパと甘えていた。  年長グループの5人は至って仲がよく、和気あいあいとカラオケやパソコンでゲームを楽しんでいた。しかし、年少グループの6人のバトルがこの後始まったのだ。  年少グループの遊び道具として、木琴ひとつ、それと木馬のようなおもちゃの乗り物3個が与えられた。これらの優先使用権をめぐって、3歳4ヶ月のタムタムとその他の子供、特に双子の姉4歳4ヶ月とダバオから来たヤナ、3歳丁度との間で壮絶な争奪戦となったのだ。このタムタムはヤナが来るまでは最年少だったのだが、親の過保護の下で育ち、気に入らないことがあると、双子の姉を張り倒すような狼藉者だ。タムタムは、一見ひ弱な男の子だ。ちょっと前まではオムツをして母親のおっぱいを飲んでいたのだが、今日は頼りの母親がいないので、兄弟やいとこ達と真正面から向かい合う羽目になった。     そもそもタムタムは2006年瀕死の状態で生まれた。腸がねじれていて、即手術をしないと命がないという状況だったのだ。早速手術を行ったものの思わしくなく、さらに100km離れたナガ市の病院に搬送して再手術が必要とされた。そのときジェーンに「10万ペソほどかかるが、父親のボボイにそれを支払う経済能力はない。このまま死なせるか、どうしたらよいか。」と質問された。そんなことを聞かれたら「お金がいくらかかっても助けよう。」と答えるしかない。私に死刑宣告ができるはずがないではないではないか。結局、都合20万ペソという大金を援助する羽目になってしまったのだが、その支払いに半年ほどかかってしまった。  その後、タムタムは成長が遅く、両親のタムタムをいつくしむ様子は並みたいていなものではなかった。まさに溺愛である。時がたち成長するにつけ挽回はしつつあるものの、いまだに両親の過保護下にあるタムタムは、あたかも自分が王様のような気分でいる。ギャーと一声泣けば、両親がなんでも言うことを聞いてくれる。だから、遊び相手に対しても気に入らないとギャーっとわめいて、わがまま放題、癇癪を起こすとすぐに手を出す。自衛策として、姉やいとこ達はドアに鍵をしてタムタムを入れなかったり、一緒に遊ぼうとして寄ってくるのを突き飛ばして仲間にいれなかったりする。なにしろ彼が入ってくると、ルールも順番もへったくれない、やりたい放題で、思うようにならないと泣いたり、わめいたり、暴力を振るうわで遊びにならないのだ。しつけという言葉がないフィリピンだが、こうして親の代わりに年長の子供たちがしつけをしてくれるのだ。  大人が見ていると、小さい子を大きい子が皆でいじめているという状況に見える。だから大人は「小さい子だからといって邪険にしないで仲間に入れてあげなさい」と周りを諭すことになる。これがまた、周囲の子供には気にいらない。タムタムが悪いのに、小さいからといっていつも優先され、逆に怒られる。そんなわけで、彼は、「触らぬ神にたたりなし」の神となってしまい、誰からも相手にされない、典型的な嫌われ者に育ってしまったのだ。ちなみにタムタムの名前は私の和民(カズタミ)のタミからとったもので、ゴッド・ファーザーの私としてもほっておくわけにも行かない。  そこで私は周囲の大人たちに諭した。「このままでは、この子は誰からも愛されず、友達もいない可愛そうな人間になってしまう。その原因が自分にあることも知らず、世間を忌み嫌い、うらみ続ける人生を送ることになろう。それを矯正できるのは周囲の子供たちだけだ。彼らはタムタムの生い立ちがどうだからといって、特別扱いはしない。いやなものはいや、だめなものはだめとはっきり言う。そんな子供たちの世界こそが彼を嫌われ者から立ちなおさせることができるのだ。だから大人がしゃしゃり出て、ああしろ、こうしろと口を挟んではならない。タムタムの両親にも彼のためだと思って目をつむるよう言い聞かせなさい。」と。もちろん大人たちは私の言うことを理解してくれたが、今日は欠席している22歳の若い母親が理解できるかどうか心配だ。母鳥は巣立ちを促すためにヒヨを巣から落とすというが、タムタム君も巣立ちをするときが来たのだ。  日本でも最近は少子化や核家族化が進み、親と子供だけの世界で子供が育っている。だから、タムタム君みたいな世間知らずの子供がそのまま大人になっているのではないか。子供は、子供同士の遊びの中で、世間というものを知り、人との付き合い方や思いやりというものを学んでいく。そんな学習の機会にめぐり合わず、精神的に未熟児のまま育ってしまった大人が、秋葉原の無差別殺人のような理解しがたい事件を起こすのだろう。日本でも、子供たち同士の世界というものの重要性がもっと見直されるべきだと思う。  さて、11時を回ると花火の時間となる。バランガイ(村か部落のようなもので最小行政単位)でも大きな花火が打ち上げられている。マニラなどの都会では街中が煙って、周囲が見えなくなるほどの花火や爆竹が炸裂する。さいわい農場では遠くで響く花火の音に新年を迎える気分になるくらいのもので、決して耳障りなものではない。    12時を間近に控えて、料理の準備ができた。スナックなので、スパゲッティ、パンシット・ビーフンに上海ルンピア、それにデザート類とシンプルだ。なくなったはずの夕べの同窓会の残りの豚肉料理も出てきた。それから新年はお金がたくさん手に入るように、お米の上に紙幣を並べた飾り付けをする。これは中国人の習慣で、13種類の丸い果物を飾るのがフィリピン式だそうだ。中国人とのハーフであるジェーンはおおみそかの習慣もハロハロ(混ぜこぜ)だ。 […]

フィリピンの年越し(タムタム君の巣立ち) 2010年1月5日


マニラ季刊無料雑誌「NAVI」12月1日号にマニラ郊外、リザール州ロドリゲスに私設動物園があるという記事がのっていたので早速出かけていった。舗装されていない道路をしばらく走らなければならないが、マニラ首都圏からは1時間~1時間半程度で行ける距離だ。動物園の場所はHP参照:http://avilonzoo.com.ph/   外見とは裏腹に中は意外と広くて充実しており、私設でここまでやるのは大変なことだったろう。しかも客もほとんどおらず、これだけの施設と動物を維持していくことは膨大な費用がかかっているのではないかと心配になる。しかし都会の動物園とは違って広い敷地にゆったりと動物を配置しているので、子供連れにはもってこいだろう。    ここの売りはアマゾン河の巨大な淡水魚「ピラルク」だ。まず園内に入ると係りの人が棒で水面をかき回して呼び寄せてくれる。2メートルを超える巨大な魚がスーッと近づいてくる様は不気味だ。  入り口には大きな池があり、ピラルクのほかアヒルなどの家畜が飼われており、都会の動物園とは違うのどかな雰囲気が漂っている。ここには大きなレストランがあるが、飲み物は25ペソ、定食が120ペソなどととても安い。      この動物園は名前の由来が「アビロン=鳥の大地」というだけに鳥の種類がが多い。バードウオッチングなどで鍛えた人には多いに興味深いだろうと思う。    少し奥には行ったところにもピラルクがたくさんいる。ここではえさをやることが出来て、まるで鯉のようにえさを目当てに押し寄せてくる数十匹のピラルクを目の当たりにするのはなかなか迫力がある。  この動物園のもう一つの目玉はオランウータンのコリン君だ。ちょっとの料金を払えば抱き合ったりして写真を撮ることができる。   インフルエンザ(?)が流行しているようで空の檻が目立った。園内に動物の病院がありそこで療養中の動物が多いとのことだった。たしかにすべての檻に動物がいたらかなりのものだと思う。   その他、フィリピン固有の野生動物の鹿や猪もいた。私にはこのほうが興味がわく。トラやライオン、像やキリンなどアフリカ産の野生動物はどこの国の動物園でもいる。将来的にこれら家畜ないしそれに近い野生動物をタバコの農場でたくさん飼うのが私の夢だ。鹿、猪、鴨、軍鶏、ダチョウ、ヤギ、などなど、実はそれで猪なべや鹿なべなど色々な料理をを楽しみたいと思っているのだ。   […]

アビロン動物園の紹介 2009年12月24日



  先日ADB(アジア開発銀行)を防災科研の方々と訪問した際、「ケソン市内の北方、La Mesaダム貯水池に近いところにPayatas(バランガイ・パヤタス)というゴミの投棄場があり、ゴミの投棄が一つの産業を形成している」聞かされ、多いに興味がもたれ、今回の見学となった。  1990年代はフィリピンを象徴するかのようにマニラ湾沿いのスモーキー・マウンテンが色々なメディアに登場した。やがて、そこが一杯になって、このパヤタスにゴミの投棄場が移動したのだ。ちなみにフィリピンではゴミの焼却場は存在せず、もっぱら投棄に頼っている。やがてここも一杯になり他に投棄場を探さなければならなくなるはずだが、昭和30年代、東京湾の「夢の島」に東京中のゴミが集められていたのと同じ状況だ。   20年近い投棄により、現場には大きな山が出来ていた。この投棄場に近づくとゴミのにおいがし始めて、空気もなんとなくよどんでいるような気がした。またその周辺もゴミだらけで、周辺の住宅に住む人々はどんな思いでこの山を観ているのだろう。こんなところに新たに住もうとする人もいないだろうから、宅地などの資産価値などないような気がする。   ADBの方が産業と呼んでいたのは、きれいに言えば「有用なゴミを選別し、資源回収を行なうこと」であるが、要はゴミ拾いだ。マニラ中のゴミが集まるわけだから、そこから、金属、プラスティック、などかなり大量の有用なゴミがある。それを選別し(拾い集め)てリサイクル業者に販売するわけで、だからゴミ山(彼らはDumping Siteと呼んでいた)周辺はジャンク・ショップだらけだ。実際は、まず個人がこつこつとゴミ山から拾ってきたプラスティックなどをジャンク・ショップが買い入れ、それをリサイクル工場に持ち込んで売却するという仕組みだ。だからゴミ収集車と有用ゴミの回収車が走り回り、ごみ山からの悪臭のほかに、粉塵や排気ガスも混ざって劣悪な環境となっている。   残念ながらゴミ山の中には入れてもらえなかったが、その入り口には造園がなされていた。ごみ山にも植物がはえるということを市当局は言いたいのだろう。しかし、ケソン市あるいはバランガイ・パタヤスが何故このような環境破壊の元凶のような巨大なゴミ山を受け入れたのだろうか。   相棒の話によると、ここから発生するメタンガスを利用して発電をしているそうで、地域の住民の電気料金は無料だそうだ。また、このゴミ山のおかげで相当数の人の雇用が発生し、まさに宝の山であり、バランガイとしても多いにメリットがあるということだそうだ。ゴミの山の周囲の道路沿いはスコーターとなっており、ゴミ拾いを専業とする人たちが拾ってきたゴミと一緒に暮らしている。彼らにとってはゴミは生きる糧だから決してないがしろにはできないのだ。    ゴミの投棄においても工学というものがあり、ちゃんと計画しておかないと未来に大いなる禍根を残す。それはメタンガスの発生と地下水の汚染である。メタンガスは埋め立て後、長い間発生し続けて火災の危険性をもつと共に悪臭を放つ。さらにガスの発生により地盤が陥没する恐れもある。そのためにはガス抜きのパイプを埋め込んでおく必要があるそうだ。また、ゴミを通り抜けた雨水は地下水として周辺の土壌を汚染する。そのためこの地下水を封じ込める対策が必要だ。ADBの方の話によると、このゴミの山についてはこれらの対策がなんらなされておらず、将来、さらに大きな環境問題を引き起こすことになるだろうとの話だった。 […]

パヤタスのゴミ投棄場 2009年12月24日


 マニラにある児童養護施設を訪問する機会があった。施設の従業員の大半は女性だが、ここはかなり大きな施設で優に100人を超える孤児達を面倒見ている。昼間はあまり大きい子は見かけなかったので、外の学校に通っているらしい。小さな子は大部屋にいて、いつも静かに寝かされていた。  私の相棒のフィリピーナがおおぜいの赤ちゃんを見つけて中に入ったところ、初めは物見しりをして様子を見ていたものの、そのうち、そこいら中の赤ん坊がおしっことなどと言い出して収拾がつかなくなってしまった。数少ない職員が世話をしているために一人一人の面倒まではとても見切れないのだろう。だから初めて見かける女性にでさえ甘え始めたのだ。  とてもよくしつけられているものとみえ、街角で見かける子供達の泣き声やわめき声などの喧騒は、ここには見られない。みな静かに座っているか、昼寝をしているかで、楽しそうな笑顔もみれない。しかし、この子達皆が好き勝手を始めたら、たしかに収拾がつかなくなるだろう。  大きな子供達が学校から戻ってくると、施設の入り口の広間ではいつも発表会やダンスの披露が行なわれていた。聴衆の子供達もきちんと座って行儀が良く、とてもフィリピンの子供達とは思えない。フィリピンの学校の授業風景は良く知らないが、まあこんなものなのかも知れない。しかし家に帰ると子供達は家の周りで友達と活発に遊び回っているはずだ。  フィリピンの子供はとても大事にされ、甘やかされ、家族の宝物として位置づけられている。家族の愛に育まれてとても思いやりのある優しい子供に育つのだ。だから家族の絆は命よりも大事。そんな家族の愛を知らず、親に甘えることもなしに育つこの子供達は将来どのような大人に成長するのだろうかと案ぜられる。  しばらく前、孤児の家を経営する日本人退職者と知り合いになり、寄付を募るお手伝いをしたことがある。田んぼの中の粗末なバラックだったが、50人くらいの孤児が楽しそうに暮らしていた。退職者と訪れると「ロラ、ロラ」と皆が駆け寄ってきた。そこには笑顔や愛が溢れていて、いつか自分もこんなボランティアをやってみたいと思ったものだ。  ところが、日本のNGOからかなり大きな寄付が行なわれることになった途端、協力者のフィリピン人牧師の態度が豹変し、かの退職者は施設に近寄ることさえも出来なくなってしまった。そして牧師は多額の寄付を教会の改装費などにあてるために独り占めしてしまったそうだ。大金がはいるとなると、施設の経営が途端に商業化してしまい、本来の目的は藻屑と化し、単なる金集めの道具となってしまうのだ。   先日、PRAではクリスマス・パーティの代わりに、政府の老人ホームを訪問してクリスマス・ギフトなどのチャリティ活動を行なった。身寄りがなく介護が必要なお年寄りが収容されているそうで、当日は多忙で出席することは出来なかったが、次の機会には是非出席したいと思っている。フィリピンでは子供と同様、お年寄りも家族の大事な宝物として手厚い保護を受けている。したがって、老人問題は存在しないのだが、中には全く身寄りのないお年寄りもいて、そのような人々が施設に入っているそうだ。   以前日本で、妻と一緒にいくつかの介護施設を訪問したが、その様子は上記の児童養護施設と一緒だった。そこではお年寄りは何もすることもなく、ただ生きているだけだった。指示されるがままに体操したり、催し物に参加したり、そこにはお年寄りの笑顔はなかった。妻は「こんなところには死んでも入りたくない」といっていた。また、しばらく老人ホームにいた方が「周囲はおかしな人ばかりで、自分もおかしくなってしまいそう」と言って、数ヶ月で出てしまったという話を聞いたこともある。  日本の介護施設も、身寄りのない老人を介護する慈善施設として発足したのだろうが、現在は完全にビジネスとみなされている。さらに介護保険も発足し最も有望なビジネスとして着目されているが、企業は利潤を追求することが本来であり、慈善事業として発足した介護施設をビジネスの対象とすることには本質的な矛盾が存在するような気がする。だから、「無届老人ホーム」などのようなものが発生してしまうのではないか。   子供達が親から離れて施設で暮らすことは非常に不自然なのだが、やむを得ない事情があってのことだ。同様にお年寄りだけが集まって介護施設で暮らすのも極めて不自然であり、家族に囲まれて暮らすことがお年寄りにとって最も望ましい姿のはずだ。それを介護保険などを導入しビジネスとして進めていかなければならない日本の現状は何かおかしいと思う。   […]

児童養護施設の現実 2009年12月21日