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昨年来手がけているフィリピンで亡くなった退職者の遺産相続手続きのお手伝いで、私の相棒であるフィリピーナとともに日本に出張した。木曜出発して、金曜と月曜日に手続きを行ない、火曜には戻るという慌しいスケジュールだったが、かのフィリピーナは日本を満喫できたようだ。 この日の JL746便は伊豆七島に沿って北上し、遠くは伊豆半島、近くには房総半島がはっきりと認識することが出来た。地図で見ると島々は点々とあるが実際にみる と意外とくっつきあって見える。かつて100回以上は羽田や成田に降りていると思うが、伊豆七島をこんなに満喫するのは初体験だ。 初日の金曜日は、朝9時に渋谷のハチ公前で待ち合わせ、その後、公証役場へ向う。横浜を7時半ごろ通過したが、丁度ラッシュ時、駅を駆け足で行き交う 人々をながめて、驚きの声を上げている。東急東横線で渋谷へ向ったが、急行はぎゅうぎゅう詰めなので普通でゆっくり行ったが、マニラのLRTも朝は相当混 むらしい。ラッシュ時には女性専用車両があるのも同じだが、その女性専用車両が日本にもあるのを知らなかった私は、見渡して見ると男が誰もいないのを不思 議に思い、それが女性専用車両であることに気がつくのに数分を要し、次の駅であわてて車両を変えた。  日本での移動はほとんど鉄道だ。しかし外国人にとって切符を買うことが不可能であることがわかった。とにかく列車の料金表示が日本語だけなのだ。だからいくらの切符を買ったらよいのかわからない。しかしSuicaなら自動的に精算されるので、外国人はSuicaを買い求めて移動するのが良いだろう。   渋谷は私が高校時代、毎日通学した街。ハチ公は今でも健在だった。ハチ公の話をしてあげたら、これまた、いたく感激していた。帰りは新宿から横浜へ向ったが、座れないのでグリーン車へ行く。切符を切る車掌さんが女性というのは中々良い。  横浜では中学生や高校生に声をかけて、はいポーズ。英語で話しかけると彼らはパニクッて、二つ返事でOKしてくれる。私が声をかけたら、逃げ出すか、警察に突き出されてしまうだろうが、外国人にはめっぽう弱いのだ。 この日は私の自宅に招待したが、とりあえず住宅周辺の街とジャスコに案内。ほとんど人気のない街を見て、呆れ顔のポーズ。 スーパーの品数の豊富さときれいな陳列に、関心することしきり、しかし商品を買う人がほとんどいないので、これでやっていけるのかと、心配することしき り。しかし、試食は多いにウエルカムで、日本でお腹がすいたら試食で腹を満たせると、日本でのサバイバルにも自信を持った様子。 […]

フィリピーナの金なし日本紀行(その1)2010年6月13日


  土曜日は、雪を見たいというたっての希望で富士山へ向った。途中サービスエリアに立ち寄ると、行楽日和とあって大勢の人がやってきていた。そこでびっくりしたのが、清潔なトイレだ。公共のトイレでありながら、これだけ手入れのされたトイレはフィリピンなら五つ星ホテルくらいにしか見当たらない。子供用のトイレも芸術的なデザインとまで言える代物に脱帽の様子。 そして、数多くの、まるでモールのようなレストランやみやげ物売り場だ。もちろん試食には目がない。パン屋さんにもことの他、興味を示しているが、ゆくゆくはパン屋さんを経営することを夢見ているそうだ。  御殿場インターを降りたところで、フェラーリの隊列を見かけた。きっとフェラーリ同好会か何かの集まりだろう。数千万円もするような車を乗り回すなんて、日本にもお金持ちはいるようだ。ちなみに中古の軽自動車に乗ってでかけたのだが、我々の車以上にみすぼらしい車は見当たらなかった。 この日は曇りがちだったために富士山の頂上は拝めなかった。しかし、5合目まで来るとさすがに寒く、上着がないと表には出れない。富士山の5合目は標高2400mとあったが、これはマヨン火山の頂上に近い高度だ。  5合目からながめるとようやく待望の雪が見えた。しかし、産後間もない彼女としてはそこまで上るわけには行かず、次回のチャンスを待つことにした。 富士山の麓には多くのリゾート施設が出来ていた。リゾート牧場というので行ってみたら、ほとんど富士の裾野で生産している乳製品を売るだけの店で、当方がマヨン火山で展開しようと夢見ているリゾートファームとは程遠いものだった。 最後にたずねた白糸の滝、周囲は民家があるというのにここはうっそうとした森に囲まれ、意外に見ごたえがあった。 翌、日曜日は千葉の兄の家にでかけて行ったが、途中デズニーランドに立ち寄って、外だけを見てきた。中に入ったとしても、ほとんどの時間が待ち時間と聞いており、そんな無駄な時間をすごすことは、とても出来る相談ではない。そして車で走っていて、やたらと目に付いたのがトヨタのハイブリッドカー、プリウスだ。リッター30km近くは知るのだと話したら、目を丸くしていた。 千葉の北の方まで行くと、立派な農家が目立つ。これがファーマーの家だというと、またびっくり。是非フィリピンの人たちに見せたいというので、失敬して写真を撮らせてもらった。 この日の終わりは宿の近く、横浜中華街。マニラの中華街とは違って、完璧な観光地だが、そのど派手な外装に興味深く眺めていた。中国人の血を引く彼女だが、中国語も話せず、地元の中国人には別に興味がないようだった。

フィリピーナの金なし日本紀行(その2)2010年6月13日



横浜の石川町の街角ではごみ収集の様子や自動駐車場に注目。フィリピンなら必ず人がいるのに、ほとんどの駐車場が自動でお金を集金を行なっているのが彼女にとってはすこぶる珍しい。また、さらにタクシーの運転席と客の間のプラスチック板も興味深い様子だ。  フィリピン大使館の用事は予想外にスムーズに運んで時間が余ったので、依頼人の案内で浅草見物に行った。私としても高校以来40年以上振りだ。やはり外国人にとってはとても、ものめずらしいようで、彼女は写真写真と大はしゃぎだった。聞いてはいたものの、観光用の人力車がかなりの数出ていたが、かなりのもうけになるそうだ。       彼女はクリスチャンのはずだが、なぜかしっかり仏様にお祈りをしていた。お線香の煙のご利益もしっかり受け止めていた。フィリイン人は宗教的にあまり固くはないようだ。 このバスも浅草名物として運転されているのだろうか。なかなか良いデザインだ。   寿司は食べなれているとしても回転寿司はフィリピンにはない。この日は是非ということで回転寿司で昼食をとらせてもらった。これだけの寿司料理が次々と回ってくる様子は迫力ものだ。この光景に彼女もしごくご満悦の様子だ。 その後、人と会う約束があり、新宿の街をぶらついた。高校生は相変わらずミニスカートでロングが絶対のフィリピンから来ると、異様に移る。一方、マルイの売り子さんのドレスが気に入って一枚。  久しぶりにやってきた新宿は私が持っていたイメージとは全く重ならなかったが、この日、面会した人の案内で歌舞伎町に向ったとき、そこで初めてあのころの新宿に出会うことが出来た。私の新宿のイメージは歌舞伎町だったのだ。ここには雑踏と喧騒があり、マニラに通じるものがあり、なにかほっとする思いだった。新宿の名前はマカティのリトル東京の新宿ラーメンでおなじみの彼女も、歌舞伎町に大変親しみを持ったようだ。夜の歌舞伎町に案内してくれるということだったが、産後間もない彼女が、今日は歩きすぎてお腹が痛いというので、断念。一人で帰すわけにも行かないので、次回ということにして横浜に向った。湘南新宿ラインのおかげで横浜と新宿も近くなったので、次回、日本を訪問した際は是非夜の歌舞伎町を覗いてみたい。 火曜は帰国の日だ。この日の午前中、東京駅丸ビルで、退職ビザ関係のパートナーと面会した。投資コンサルタントの方々で、お客さんがフィリピンに注目し始めているそうだ。今後多くのお客さんとフィリピンを訪問する予定とのことで、今回の初顔あわせとなった。 いよいよ空港に向うが、東京駅の総武線のホームは地下5階。長いエスカレーターに地震がきたらどうしようと、緊張気味だった。空港のデューティフリーを覗いてみても、先日SHISEIDOブランドを大量に買い込んだマツモトキヨシの方が安いと見向きもしない。フィリピーナはコストに関してはすこぶる敏感なのだ。  いよいよこのJALでマニラへ向う。従来のジャンボと違い、あまりガソリンを食いそうにない機種で座席も2-3-2の7列と少ないが、その代わり満席だ。あれだけ湯水のようにお金をばら撒く経営をして破綻したJALだから、ちょっと締めれば悠々再生はできると思う。おかげで日本人のスチュワーデスがほとんどおらず、タイ人がほとんどだが、それも時代の流れだろう。

フィリピーナの金なし日本紀行(その3)2010年6月13日


6月1日、日本への出張から帰ってくると、フィリピンは雨季に突入していた。スコールではなく、まるで日本の梅雨のように雨がしとしと降り続く。雨が降っていないときはどんよりとした曇り空で、気温も大分下がっている。今年はエルニーニョの影響で3月~5月は連日35度を超える猛暑が続いたが、それがぱたりと止んでしまっていた。     6月5日は退職ビザを申請中のカップルをタガイタイに案内したが、マニラ近郊にこんなすばらしいところがあるとは、と多いに感激してた。一見逆説的だが、そして日本の夏はフィリピンに避暑にやってくるということが成り立つ、と納得していた。タガイタイもそしてスカイウエイからながめるマカティの摩天楼も厚い雲に覆われていた。  街は暑さしのぎに水を撒いたようで、今までの暑さを思い起こすとすこぶる快適だ。傘をさすほどの雨でもないので苦にならない。しかし、これからは時折強い雨になるので傘の準備は欠かせないだろう。私は日本から超軽量の折りたたみ傘で、四角い長めのメガネケースのような傘を買ってきて、常にポシェットに入れて歩くことにしている。

フィリピンは雨季に突入 2010年6月12日



この日は、新しい車と赤ちゃんのデビューの日だった。私の相棒に赤ちゃんが誕生して約50日、そして前日、相棒の彼氏のカーネル(本名はバーナード・ヤンだが、国家警察の位がカーネル「大佐」なので、こう呼んでいる)に待望の新車が届いたのだ。赤ちゃんの初見せと車の初乗りを兼ねて、2年前に出来たパンパンガ・クラークのゴルフ・コース「Fontana & Apollon Korea Country Club」に出かけることになった。   この車、三菱モンテーロは車両価格は120万ペソだがVATなどが色々ついて、140万ペソになる。ちょっと訳があって友人から譲り受けることになったそうだが、頭金の20万ペソを借金で払い、のこり120万ペソを毎月2万ペソ、5年ローンで支払わなければならないそうだ(無利子というのがせめてもの幸いだが)。国家警察の幹部とはいえ、たったの3万ペソの月給、それに賄賂は絶対に受け取らないという潔癖漢だから、ローンの支払いは並大抵ではないだろう。 だから、私が退職者のツアーなどに利用させてもらって、レンタカー代を稼いでやらなければならないはめになりそうだ。ちなみに3列目に折りたたみ式の補助 椅子もあって、7人乗りのなかなかの優れものだ。フィリピンで、この手の車はトヨタのフォーチュナーやホンダのCRVの人気が高かったが、それを凌ぐ勢い の人気車が、このモンテーロなのだ。  このゴルフ・コースの責任者はカーネルの親友のジョセフ・カン(写真右後ろ)というフィリピン生まれの韓国人だ。彼はたったの29歳でこのゴルフ場の経営 を任されたエリートだが、もともとプロ・ゴルファーで、現在も韓国の国内ツアーには参加しているそうだ。しかもUP(University of the […]

クラークのFA. Koreaカントリークラブ訪問 2010年5月24日


ここのところ立て続けに同じ問題でPRAの受付から電話が入った。ある日本人の退職者が申請をしようとしているが、「50歳以上なので2万ドルの定期預 金で退職ビザを申請し、ビザを取得したあと、年金送金用の口座を開設しフィリピンで年金を受け取り、しかる後、年金証書とフィリピンでの年金受取の銀行証 明をPRAに提出して、差額の1万ドルを返却してもらいたい」ということを主張している。しかし、PRAはそれを認めていない、その辺のところを退職者に 説明して欲しいというのだ。このことはすでに年金申請に関するニュースで報告したが、要はPRAのルールを見る限り、退職者の主張はもっともなことで、 PRAがルールを便宜的に運用で違えているため、このような退職者の戸惑いを生じているのだ。  PRAのルールでは、年金スキーム(定期 預金1万ドル)で退職ビザを申請する場合、フィリピンで年金を受け取っている銀行証明を提出するよう求めている。もともと、ビザ無しで年金をフィリピンで 受け取ることは、銀行口座を開設できないから、手続き上無理な話だ。だからビザを取ってから年金をフィリピンで受け取り、その証明書をPRAに提出するし かない。鶏と卵のような関係で、年金スキームでビザを取るためには年金をフィリピンで受け取っていなければならない。一方、年金をフィリピンで受け取るた めにはビザを取った後でなければならない。PRAのルールは世界中の退職者に対しての一般的なもので、日本の場合には、このような矛盾が生じてしまう。だ から、この事態をPRAにしつこく申し出て、現在、「年金証書の翻訳(日本大使館で認証が必要)のみを提出して、年金の受け取りは日本でもかまわない」と いうことになっているのだ。  この辺はある程度暗黙の了解であって、退職者がホームページで調べたり、事前にPRAから聞きだして、正しく理解して、申請準備を行なうということは不可能に近いだろう。さらに上記のお二人の内のお一人のYさんは年金証書を日本から持ってこなかったので、急遽、翻訳してPRAに提出することも出来ず、今回の訪問での申請はギブアップせざるを得なかった。  さらにYさんは、銀行送金でも手間取った。PRAの紹介で、ユニオン・バンクを選定し、指示された送金要領にしたがって、送金をおこなった。それがフィリピンに来て みるとお金が到着していないのだ。ユニオン・バンクに聞いても要領を得ない。結局PRAが指示したユニオン・バンクのアメリカの経由銀行の口座番号が違っ […]

SRRVの申請:ある退職者の経験 2010年5月19日



 例年であれば5月の後半ともなれば、そろそろ雨季の気配がするのだが、今年は一向に猛暑が衰えない。フィリピンの乾季は11月から5月の半年、前半は暑くなくて過ごしやすい。特に1月~2月はエアコンも不要で、田舎なら毛布が欲しいくらいだ。  ところが今年の乾季はあまり涼しさを感ずることなく後半の猛暑になだれこんだ。そして、3月、4月、5月とほとんど連日35度を優に超える暑さなのだ。雲ひとつない空に輝く太陽は強烈だ。この暑さにはさすがにマニラッ子もぐったり、暑い暑いを連発して、日傘をさして歩いている人が目立つ。最近、お産をしてようやく復帰した相棒は昼間、滅多に外に出ることはない。                       この暑さは、エルニーニョの影響と言うが、一方の日本は4月になっても真冬並みの寒さが続いたと思えば、今度は真夏並みの暑さになったり、世界的に天候不順になっているようだ。おかげで日本ではキャベツが一個400円もするそうで、食糧危機なんてことが現実になるんじゃないかと危惧される。気候とは関係ないかも知れないが、日本では牛肉も口にするのがはばかれる昨今だ。  

フィリピンは猛暑続き 2010年5月19日


最近PRAに行くたびに創立記念日について招待状はもらったか、PRAの担当からは、たくさん出席してもらえるだろうか、などと聞かれる。今年は25周年とあってことの他、 熱心だ。6月23日の6時集合で、場所もマニラ湾の埋立地にあるプラザ・ホテルでわかりやすい。プラザ・ホテルのプール・サイドといえば、かつてお忍びの デート・コースとして有名だったところだ。例年の創立記念パーティはフィリピン人でさえもわからないややこしい所で行なわれて、いつも探すのに苦労したも のだが、今年は違うようだ。   私の事務所の住所は退職者がビザの申請をする時、仮の住所としてPRAに届けているためにたくさんの招待状が届いている。当方でもこれら退職者の最新の 住所は把握していないので、このブログを借りて連絡したい。6月4日までに予約が必要で、PRA(848-1412)に電話して、内線181のジェフある いは172のララに名前とSRRV番号を告げて欲しい。もしそれが難しい場合は当方にE-メールで連絡していただければ、PRAに代理で予約します。E- メールアドレス「kazutamishiga@yahoo.co.jp」    冒頭でも紹介したがプラザホテルは五つ星の有名ホテルだから知らない人はいない。最近改装して名前もソフィテル・フィリピン・プラザ・ホテルとなった。ブ エンディア通りをまっすぐ行ってロハスブルバード通りを横切り、二つ目の角を右に曲がればすぐだ。遠くからも良く見えるのでわかりやすい。今年はこれだけ 熱心なのだから、昨年のように食事はスナックだけで、アルコールは有料、しかもそれにありつくのに30分以上並ばなければならない、なんて無様なことはな いと思う。例年、日本人の出席者は数えるほどしかいないので、今年は色々な懐かしい顔に会えることを期待したい。

PRA創立25年記念パーティ 2010年5月15日



3年ほど前にPRA本体が隣のビルのシティバンク・センターの4階に移動して以来、受付(シティバンクタワー29階)と本体が離れて、書類等の受け渡し においては、紙一枚受け取るのに30分も待たされるなど不便を強いられてきた。以前のように受付のすぐそばにPRA職員がいれば、ちょっとややこしいこと など直接職員と話が出来たものが、いちいち4階と29階を行き来をしたり、電話で話をしなければならず、効率が著しく悪かった。それがやっと、PRA本体 がシティバンクタワーの29階に戻ってきたのだ。現状においては我々に関係の深い、ビザ・プロセッシング部門、サービス部門、マーケット部門などが移動済 みだが、いずれすべてが移動するとのことだ。そのため、受付のレイアウトも変更され明るい感じになった。入り口を入ってすぐ左にはNBIの出店が移動してきて、中々便利になった。    レセプションの後ろの部分は退職者が打ち合わせたりするゆったりしたスペースが設けられている。ここには元々会長室やミーティングルームがあったので、 GMなど偉いさんが移動してきたらこのスペースがなくなってしまうのではないかと危惧される。さらに受付の左奥は会議室でビザ発行などもここで行なわれて いる。 PRAスタッフの執務スペースはレセプションから左へ行ったところ、従来諸々の業者が入っていたところだ。元アグリパイ会長の発案と思われるが、ここでは、退職産業を振興させようと、退職者をマーケットとする業者が入って直接、営業をさせていたのだ。当初は多くの人が張り付いていたが、1年もしないうち にほとんど常駐する人がいなくなってしまった。人を貼り付けてもほとんど用事がないのだ。業者にとっては家賃だけ払わされてとんだ出費となってしまったよ うだ。  このスペースとは反対側、レセプションの右側のエリアにはPRI(PRA組合)が入っていたが、アグリパイ会長の更迭とともに胡散霧消してしまったようだ。私がPRAにいたころ、ずかずかと執務室に入ってきて大声を上げて張り 切っていた元通産大臣のオドネスPRI会長も、ここのところとんと見かけない。  ちなみに最近、PRAは通 […]

PRAが移動しました 2010年5月14日


 最近退職され、これからはプロカメラマンとして人生の後半をフィリピンで過ごそうとされている某大手電気会社出身の退職者を案内してマニラの南、バタン ガスの観光名所タガイタイそしてアニラオを案内した。タガイタイは言わずもがなの、マニラから1時間近傍のタアル火口湖の絶景を望む観光名所、あるいは別 荘地帯だ。タアル・ビスタ・ホテルの展望台はかつては自由に出入りできたのだが、現在はホテル宿泊者専用の展望台となっている。しかし、持ち前の図図しさ を発揮して、ホテルのレセプション、レストランを通り抜けて展望台へと向うと、退職者は眼前に広がる絶景に感激していた。     次に訪問したのがタガイタイの目玉、マホガニー・マーケットだ。タガイタイは果物、花木、牛肉などが名物だが、丁度パイナップルのシーズンで、大きいもの で3個、100ペソ、中位で4個、100ペソで、ジューシーで感激的においしい完熟パイナップルが買える。我が農場でも育ててみたいと、苗を一つ5ペソ、 100本を、付近のパイナップル畑で買い求めた。いつの日か農場でも、もぎたて完熟パイナップルを味わうことが出来ることを願って。        タガイタイを過ぎてバラヤン湾の海岸線に出ると、刃物やさんが目立つ。これもバタンガスの名物だ。日本では禁止されている飛び出しナイフやバタフライナイフが数百円で買える。子供のおもちゃにと買い求めたが日本に持ち込むことが可能かどうかわからない。(子供と言っても30歳を超えているので果たして喜んでもらえるかも疑問だが)  一旦バタンガス湾に出て、再度バラヤン湾に戻ると、そこはアニラオのビーチリゾートで30軒ほどのリゾートが建ち並んでいる。前回はイーグルポイントから 乗船してマリカバン島のセボック・ビーチへの入場料を取られたので、今回はアニラオ半島の根元の港から乗船して倹約することにした。ちなみにボート代は往 復で2500ペソ。1990年代は1000ペソ程度で半日使えたので、随分値上がりしたものだ。ボートは10人以上乗れそうな大きなもので、多少の波にも びくともしない。ここからはミンドロ島のプエルト・ガレラ方面に行く中型のボートも並んでいた。 […]

バタンガス取材 2010年5月13日