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遠くで花火の音が鳴りはじめたら新年が近い。市街地は爆音と煙で往生していることだろうが、農場には心地よい騒音だ。また、この花火で全国で毎年千人以上怪我をして、命を落とす人もいるそうだ。  米、卵、カラマンシー、みかんなど丸いものと現金を飾って福を呼ぶのが中国の習慣で、福建省出身の中国人を父に持つジェーンの正月恒例の飾り物だ。今年はペソの現金の持ち合わせがなくて、ドルと円の飾りになった。 大人たちは料理の準備、子供たちはからおけで年が明けるのを待った。子供たちの一番人気は相変わらずタイタニックのテーマソングで繰り返し変わりばんこに歌っていた。  しかし、犬にとっては正月もなにもない。カラオケが騒々しくても我関知せずを決め込むアイス。  あまりの騒々しさか、キアンが眠りから覚めてパーティに参加。周りでいったい何が起きているのか、と好奇の目を見開いている。キアンを抱いているのは父親、カーネルの娘のキム。ヌエバビスカヤから駆けつけた14歳のお姉さん、ハイスクールの3年生だ。このところ成長著しくお父さんの背に迫る勢いだ。  12時になると除夜の鐘ならずなべの金で悪霊を追い払うのが、やはり中国の習慣だそうだ。皆なべのふたを匙などでたたいて、思いっきり音ををたてて、各部屋や家の周りをまわり鬼は外をやる。 新年の悪霊払いを終えて、まずは家族、皆で記念撮影。ボボイの4人の子供は寝てしまったが、その他の家族は全員集合だ。 恒例の家族一同の記念写真撮影が終わると、今年最初の食事だ。昼から準備してあった大量の料理が用意されている。祝い事にはあの甘いスパゲッティが欠かせないが、私は手を出せなかった。 ちょっと前まで子供だと思っていたが、ハイスクールに進んでいるバネサ、ビアンカそしてアライサもそろそろ色気が出てきた。あの甘いスパゲッティとさらに甘いフルーツサラダをたくさん取ってきておいしそうに食べている。  上海ルンピア(春巻きを揚げたもの)に使ったチーズでHAPPY NEW YEARとまな板に書いた女の子軍団・年長組みがハイチーズ。  最後はプレゼント。マニラの問屋街デビソリアで買い求めた大量の物資が皆に手渡される。さらに最高賞金500ペソ2本のくじ引きで幕。このころ時計はすでに2時を回っていた。  

2010年おおみそかのパーティ 2011年1月8日


私自身はブロクに登場しないことをモットーとしているのだが、年末にPRAよりカレンダーに使いたいので、私自身の写真を5~6枚送ってくれるよう依頼 があった。そのため、この正月2日(日)はジェーンの家族に集合してもらって撮影大会となった。しかし、ジェーン家族は旦那カーネルの実家を訪問して家族 全員集合とはならなかった。 キアンのやんちゃぶりは留まることを知らない。2段ベッドの上の格子を見つけてそれにつかまろうとしている。カーネルのとなりではこの寒いのに裸ではしゃぎまわる(ここ数日は雨で、肌寒さを感じるくらいの気候だった)。  風呂は大きめのバケツを使っているが、お湯に入るのが大好きなキアンは、中でジャンプしてはしゃぎまわる。 さて、いよいよPRA向けのカレンダー写真撮影だ。1960年代にカレンダー・ガールという歌がはやったが、まさか私がカレンダーのモデルになるとは思い もよらなかった。しかし、一人で写るのではとても様にならないので、皆さんに入ってもらって絵になるように心がけた。特にハイスクール3人組の美女(の候補)との写真はいかがだろうか。 タバコ市街に出て見ると、街は平静を取り戻し、マニラ行きの満員バスがひっきりなしに出発していた。明日は3日(月曜日)で平常勤務に戻るため、2日がU ターン・ラッシュとなる。ちなみにフィリピンに三が日という概念はなく、正月1日だけが祝日で、翌日から平常勤務に戻るのが普通だ。 夜になって戻ってきたジェーン一家。ママのジェーンが従兄弟のジェルミーを抱いているのでやきもちを焼いて泣き出したキアン。 1.ママがジェルミーを抱いているのを発見し嫉妬の炎を燃やし始めるキアン 2.ママを取戻そうと抱きつこうとするキアン  3.ママがジェルミーを離さないので、涙を流し訴えるキアンの一筋の涙が哀れを呼ぶ 4.それでもママを取戻せないので思いっきり泣き始めてしまったキアン 5.やっとママに抱かれてほっとして泣き止んだキアン。 […]

タバコの正月(PRAカレンダー撮影会) 2011年1月8日



キアン・キアンで過ぎ去ったクリスマスと正月だったが、いよいよマニラに、そして日常に戻る日がやってきた。従姉妹達も学校を休んでまでして、キアンに別れを告げた。] レガスピ空港も最近は便数も増えて、常にPALやCebu Pacificの飛行機がとまっている。先日農場に泊まった方はレガスピからセブへ直接向った。大雨で飛行機が飛ばないのではないかと心配したが、それどころか、バックのマヨン火山も半分以上姿を見せていた。 カーネルは娘と弟を伴って前日に車で帰ったので、この日はキアンとママ、そして日本人二人の旅だった。 離陸直後の飛行機から見たレガスピ市。天候にめぐまれ、Albay湾も穏やかだ。      右の写真では、遠くに先日、訪問したカグラライ島が臨める。  飛行機の右側の窓側に座って待った甲斐があって、マヨン火山はこちら側だけ見事に姿を現していた。農場のある反対側の斜面と違って溶岩が流れる荒々しい姿を見せてくれた。まさに活動中の活火山なのだ。 40分ほどの飛行時間でマニラに到着する。マニラも快晴で、マカティ(左)、ボニファシオ(中央)、オルティガス(右)のビル群が一緒に見える。 手前のラグナとマニラ湾に挟まれた狭い部分に空港とSLEX(南ルソン高速道路)が見える。右の写真はアラバンのタウンセンター付近だ。 飛行機はマニラを通り越し、カビテでUターンして、マニラ湾側から滑走路に入る。カビテの新興住宅地がモザイクのように見える。 久々にPAL(フィリピン航空)を利用したのでターミナル2に到着した。そこには最近のコンドミニアムの建設ラッシュを反映して、壁にあるディスプレイはほとんどがコンドミニアムの宣伝だった。 最近空港タクシーに乗って料金をぼったくられることが多発している。イエロー・タクシーはメーター制だが、そのメーターがどんどん回ってマカティで、 2000ペソになったり、200ペソのところを2000ペソと一桁上の金額を請求されたり、かなり悪質だ。そうなるとクーポン・タクシーに乗ったほうが間違いなさそうだ。  空港の係りとおぼしき人にクーポン・タクシーの場所を聞くと、えてしてレンタカーを案内して、これまた倍くらいの料金を請求される。クーポン・タクシーの場所には写真の大きな看板があり、行き先ごとに料金が書いてあるので、この看板を頼りに自分で探すことだ。ちなみにマカティは440ペソで、多少割高だが、この程度は我慢して欲しい(画面をクリックして拡大してみてください)。

ビコール-マニラ、空の旅 2011年1月8日


12月23日(木)クリスマスイブの前日、二人の訪問者に伴ってビコール地方・タバコ市の農場へ車で向かった。2006年より開始されたセブ・パシフィックのディスカウント・チケットによりもっぱら飛行機に鞍替えして以来、車で行くのは実に4年ぶりだ。今回は2名の訪問者がいるため、色々見物しながら道中を楽しんでいこうという嗜好だ。  渋滞を避けるために、早朝5時に出発したが、南に向かう高速道路(South Luzon Express Way, SLEX)はすでに渋滞が始まっていた。皆考えることは同じなのだ。結局、ケソン・プロビンスの州都ルセナ市を抜けるまで断続的な渋滞が続いた。渋滞が一段落したところでガソリンスタンドに寄ったが、そこにはキリストの生誕をモチーフにした実物大のジオラマが飾ってあった。 ルセナを過ぎてルソン島の太平洋側の海岸に出るためにはルソン島の背骨にあたる小さな山脈を越えなければならない。そのわき道を通るとその峠は国立自然公園となっていて、自然のジャングルがそのまま残っている。遠くにルセナの湾も臨むことができ、道端では近隣に住む子らが道案内をしながらクリスマスのギフトとしてコインをねだっていた。 太平洋側の町、グマカには有名なドライブ・イン・レストラン、リタスがある。日本のドライブインとは比べようがないが、このトロトロ形式のレストランは 24時間営業で客が絶えない。メニューの数はさほどではないが、どれも新鮮でおいしい。イカの丸焼き、小エビのかき揚げ、ゴーヤ・チャンプル、カジキとバナナの幹のスープ(ポッチェーロ)、魚の切り身のフライ、それにライスとミネラルウオーター、4人分でしめて667ペソだった。味付けがさっぱりしていて日本人にとってみても思わずうまいと声が出るほどだ。 厨房ではたくさんの人が必死で下ごしらえや調理をしている。ウエイトレスも含めて20人以上の人がいるから、3交代、全部で60人くらいの人が働いていることになる。たかがトロトロ・レストランとはいえ、相当の売上高になるものと伺える。 ビコール地方に入るところでちょうど旅の半分になる。道はダエット(Daet)経由の旧道と近道の新道に分かれるが、たとえ2時間ほど余計にかかっても情緒のある旧道を通ることにした。途中展望の開けているところで一休みをしたが、そこからは延々と続く未開の山々が見え雄大な気分になれる。今回は新車の三菱モンテーロできたため、道中すこぶる快適で、皆まったく疲れを見せない。マニラ近郊のカラバリソン地方(カビテ、ラグナ、バタンガス、リザール、ケソンの県の総称)が混んでいたため、すでに出発から9時間を越え、さらにタバコの農場到着まで5時間かかる見込みだ。 ダエットを過ぎるとビコール地方特有の並木のトンネルが続く。さらに旧道の終わり付近は自然林の国立公園となっており、周辺に住む住民はまったくおらず、まるで日本の箱根富士国立公園内かどこかを走っている気分だ。ちなみにビコール地方は太平洋側にあるため、マニラ周辺の気候とはまったく異なり、明瞭な乾季がない。だから、1年中緑が豊富で絶えることがない。路肩もいつも緑、どこへ行っても緑・緑に囲まれている。 旧道と新道の交わっているシコポットを過ぎるともうすぐ、ビコール地方最大の都市ナガに出る。ここまで来るとあと2~3時間の道のりだ。だからここにあるペトロン(フィリピン石油公社)のガソリン・スタンドは一息をつく人々でにぎわっていた。そこにはハーレー・ダビッドソンの新車が3台誇らしげに停まっていた。フィリピンでは優に1台100万ペソ(約200万円)する代物だ。しばらくしたら刺青のあるアメリカ人とおぼしき3人が颯爽と乗っていったが、ジャンパーにはMAD MAXなどと時代物の文字が書いてあった。  ここからはほとんど平野、田園地帯でナガ、ピリ、バアオ、ナブス、バツ、オアス、ポランゲ、リガオ、ギノバタン、カマリグ、ダラガなどの市町村がレガスピ市まで連続している。町はクリスマス休暇で帰郷した人々であふれ、クリスマスの飾りがきれいだった。とりわけ電飾で飾り付けたフォルクスワーゲンが目を引いた。わがタバコの農場へはレガスピの手前、リガオで左におれて30分ほどの山道を通ると到着する。午前5時出発、午後7時到着、走行距離500km、少々きつい14時間の旅だった。 

金なしコネなしフィリピンの旅行:ビコール編 2011年1月7日



12月24日は恒例のクリスマス・イブのパーティだ。今年は少々地味なパーティだったが、早めの夕食を終えると、10時過ぎに再びパーティの食事で糖尿病の気のある私にとっては少々きつかった。 中央が私の相棒のジェーン、右がジェーンの旦那のカーネル・ヤン、ジェーンが抱いているのは、もちろんキアンだ。   農場で預かっているヤナ(ジェーンのお次兄の3女)はダンスを披露してくれたが、4歳とは思えないなかなか色気のあるダンスだ。 キアンといえば、お父さんとおそろいのサンタの帽子をかぶせてもらってご機嫌だ。 バネサ(右、ジェーンの長兄ダシンの長女)とビアンカ(ジェーンの母親の養女)はジェーンからおそろいの服をプレゼントされたそうだ。   前のタバコ市長のブルセ氏が所有する闘鶏場、この日は特別の日で入場料は150ペソ、3人で入ると450ペソあって二の足を踏んでしまった。しかし、中は超満員の様子だ。キリストの生誕を祝うクリスマスに軍鶏が殺しあう闘鶏とは少々不謹慎な気がしないでもないが。 タバコの街はクリスマスとあって、いつにない賑わいだ。ジョルビーではシンボルの蜂のぬいぐるみを着たスタッフを繰り出して客をもてないしている  さらにクリスマスとあって賭け事が許されているようで賭場がご開帳だ。ルーレットのような賭けに人ごみができている 市庁舎前にはトラシクルに引かれたサンタクロースというなかなかユニークな飾り付けがお目見えしている。その他、通りをはさんだ教会と市庁舎前の広場一杯に電飾が施されている。この電飾は正月明けまで飾られているそうだ。   

2010年タバコのクリスマス 2011年1月7日


フィリピン退職庁が12月15日(水)にクリスマスパーティを開催するので、SRRV持っている退職者はふるって参加して欲しい。バギオ、アンヘレス (クラーク・スービック)、ダバオ、セブでも行なわれるが、12月20日開催予定のセブ以外ではすでに終了している。今年は25周年ということもあって創立記念パーティのように盛大なパーティとなるものと予測される。今年は300ペソ相当のクリスマスギフトを持参するよう義務付けられており、ギフトの交換会が行なわれるそうだ。 会場はフィリピン国家警察(PNP)の総本部があるキャンプ・クラミ内のMulti-Purpose Centerなので、入場にあたってはPRAのロゴを印刷して車のフロントガラスに掲示する必要がある。 PNPのキャンプ・クラミといえば、私の相棒の亭主が働いているので、大変なじみの深いところだ。EDSA通りをケソン市方向に進み、オルティガスのビル群、EDSA革命記念碑を通り過ぎると右側に広大な国軍基地キャンプ・アギナルドがある。そして、その向側にあるのがキャンプ・クラミだ。EDSA通りからは入れないので、キャンプ・アギナルドの先、サントラン通り(ボニーセラノ通り)を左折して裏から中に入る。内部は国家警察の建物などが建ち並ぶ普通の街で、多くの警察関係の人が居住している。ちなみに前PRA会長のゼネラル・アグリパイ、現PRA副長官のゼネラル・リンガットなどの出身母体でもある。

PRAクリスマスパーティのお知らせ 2010年12月13日



最近ある退職者の方から、フィリピンのGDPはベトナムに抜かれ、そしてカンボジアにも抜かれつつあると話していた。戦後、東南アジアの雄であったフィリピンがマルコスの腐敗政治にうつつを抜かしている間にタイ、マレーシアそしてインドネシアの後塵を拝しているとは聞いていたが、まさかベトナムやカンボジアまでに、とは意外だった。  しかし、地方はまだしもマニラ首都圏、特にマカティの建設ラッシュは目を見張るものがある。マカティだけでも20件程度の大型コンドミニアム建設プロジェクトが動いている。一体これだけのコンドミニアム・ユニットを誰が買うのか、まさに庶民の購買意欲が沸騰しているとも言える。ちなみにこれらのコンドミニアム・ユニットは25~50平米と小型で価格も2~5Mペソ (400万~1000万円)と中間層が手が届く範囲に設定され、かつての富裕層向けの大型コンドミニアム・ユニットは影を潜めている。 (小売業界の雄、SMが建設中のコンドミニアム群JAZZ、マカティの好立地に一大コミュニティを出現させようとしている。JAZZの完成模型、まさに住居、ショッピング、レジャーが一体となった街を形成しようとている。SMはこのほかにもマニラ首都圏に10件近いプロジェクトを遂行中だ)    確かにリーマン・ショック以降、フィリピン経済を牽引していた海外投資が冷え込み、既存の日系会社の駐在員も激減し、マカティのカラオケでは閑古鳥が鳴いていた。従来の主要産業であった、バナナ、パイナップル、ココナツなどの農産物の輸出では一国の経済を維持することはできない。そうなるとフィリピンは不況の真っ只中にいるはずだ。  しかし、ここで忘れてはならないのがフィリピン最大の産業OFW(Oversea Filipino Worker、海外出稼ぎ労働者))の存在だ。国民の1割が海外に暮らし、彼らのフィリピンへの送金は軽く年間1兆円を超え、フィリピンの国家予算に匹敵する。この金額は公式な送金だけであって、裏銀行経由の送金も加えるとその倍になるという。          (マカティ、ロックウエルとインターナショナル・スクール跡地のコンドミニアム・プロジェクト。ここにも高層ビル群が出現しつつある)  仮に3兆円の外貨が毎年流入するとすると、約9千万人の国民がが暮らすフィリピンでは、一人頭、3万3千円となる。子供も含めて一家族が5人とすると、年間17万円、月々1万4千円(約7千ペソ)の収入となり、フィリピンではこの金額で家族の生計が成り立つ。すなわちOFWの海外送金は国民全部を養っていける金額に達しているのだ。もちろん、これらは国民に平均して配られるわけではないので、貧困層の一掃というわけには行かないが、家族から一人のOFWを出せば、その家族は安泰で中間層の仲間入りをして、コンドミニアムユニットの購買層にもなるのだ。 (完成が間近いマニラ高架鉄道(LRT)環状線とルソン南高速道路の2階建て高速道路(スカイウエイ))  果たしてフィリピンのGDPには、このOFWの海外送金は考慮されているのだろうか。これらはフィリピン国内での生産の結果ではないから、この国のGDPにカウントすることは出来ないだろう。だから、フィリピンではGDP=購買力、ではないのだ。仮にフィリピン国内の経済が破綻してもフィリピンはOFWの送金で国民全部が生き延びていける。そのの収入がGDPに全く反映されていないことになる。  遠くはアジア通貨危機、そして最近はリーマン・ショックで、フィリピン経済はほとんど打撃を受けなかった。何故?とフィリピン人に聞いたら、「フィリピンはずーっと不況で、リーマンだろうが何だろうが、これ以上不況にはならない。それにフィリピン人は貧しさに慣れているから、食べるものが半分になっても、家族で分け合って生きて行けるのよ」と力強い回答だった。一方、これが飽食と他力本願に慣れきった日本人だったらどう反応するのだろうか。 […]

フィリピン経済の底力 2010年12月21日


国会で人工避妊の是非が論議されている。ピルなどの人工的避妊薬を許すべきかという論議だが、アロヨ前大統領の時も、またラモス元大統領のときも大論戦 が繰り広げられた。フィリピンでは堕胎は胎児の殺人としてみなされ法的に許可されていない。一方、避妊は宗教上の理由で嫌われる。だから恋人や夫婦はおお らかにセックスをしてその結果子供が出来る。売春などの結果できることも多々ある(最近はコンドームの普及で避妊と感染予防が徹底してきてはいるようだ が)。出来れば生むしかない、その結果、巷には子供があふれている。 政府は子沢山は貧困の元凶として、人口調整の必要性を必死に説く。しかし、フィリピーノの子供好きと宗教の厚い壁に阻まれて人工避妊法(ピル)の解禁に こぎつけることができない。聖職者は人工避妊を堕胎とみなして反対している。一方、フィリピーノは例えどんなに貧しくてもたくさんの子供達に囲まれて生活 するのが、何よりも幸せなのだ。そして強い家族の絆で生き抜いていくことが出来るのだ。 元来人類は避妊のことなど考えなくても人口の爆発的増加などはなかった。疫病や飢饉で自然調整がされるので、人々は子孫の繁栄のために子作りに励んでき た。しかし現代医学の発展で子供が簡単に死ななくなった。さらに食料の大量生産と国家間の調整で局所的飢饉が減った。だから今までどおり子作りに励んでい たら人口が増加しすぎて、貧困や飢餓の状況をつくり出すというわけだ。  しかし、先 進諸国では人口の減少に歯止めがかからず、国家的問題になっている。逆ピラミッドの人口構成では年金や健康保険などお年寄りが現役組に頼るという構図が成 り立たない。国家が破滅するシナリオだ。だからフィリピーノから子育てという幸せを取り上げ、先進諸国の後を追うことが果たして正解なのか多いに疑問のあるところだ。   ラモス大統領の時代に、私の秘書にこの避妊論争について質問をした。彼女はやはり、コンドームも含めて人工的避妊には否定的で、生理カレンダーで×日を […]

人口抑制法の是非 2010年12月20日



フィリピンは混血国家だ。だから、西洋系やら、東洋系、インド系、さらに原住民系まで、各種各様の顔をしている。だからほとんどの日本人男性の好みのタイプの女性が存在する。また文化風習も、古来マレーと中国、そして近代ではスペインとアメリカの影響を強く受け、独特な文化を形成している。しかし、フィリピーノとしてはそれら世界の文化が一つに融合しているのだ。だからフィリピーノの行動や発想を単純なものさしで計ることはできない。 (キャンパスを歩いている学生を見ても同じ人種とはとても信じがたい) (セブパシフィックのスチュワーデスは美人が多い) 日本の航空業界で、かつてスチュワーデスは女性のあこがれの職業だった。しかし今はなり手がいないのか、ほとんどの新人は外国人だ。しかしフィリピンでは未だに憧れの的だ。だから飛行機に乗る時は美人のスチュアーデスに出会うのが楽しみとなっている。 (バギオの観光地ではお土産の他に売り子をからかうのも楽しい) アメリカ・スタイルの遊び場のゴーゴー・クラブに行ってみると、何で、と思うような女性がたくさん踊っている。また、白人が連れて歩いている女性を見ると、どうもいただけないごめん相が多い。クラブのダンサーに聞いてみても、白人の好みは理解に苦しむと言っている。ちょっと可愛らしいダンサーに聞いてみると、白人には見向きもされないという。どうも白人は我々東洋人とは異なった美的感覚を持っているようだ。 (グリーンヒルの装飾品売り場の売り子。モスリムが多いが顔つきは色々だ) 自分の目で見ると美人かそうでないかは、一瞬の内に判断できる。ところが、何故美人なのかと問われてみても説明ができない。とにかく美人は美人なのだ。学生時代にダンスパーティに参加していて、壁にいる美人を誘いたいから、友達に、一緒にいるもう一人の女を誘って、美人を一人きりにしてくれと頼んだ。そうすると件の友達はさっさと美人を連れて行ってしまった。どうもその友達と私では美人の判断基準が違うようだった。 (レセプションはどこでも可愛い子を置いている)  そうなるとどうも美人の絶対基準は無いのではないかと思えてくる。要は自分好みかどうかであって、誰が見ても美人という絶対的なものはないのではないか。フォトジェニックという言葉があるが、写真写りの良い女性と悪い女性がいる。あるいは若い女性は一般的に写真写りが良い。実物よりはるかに可愛く写ることがよくあるが、一方ちょっとした加減で正視に耐えない場合もある。要は美人かどうか、好みかどうかなどというものは大変主観的なもので、ちょっとした加減で大きく変わるものなのだ。 (クラークにあるカフェと近所のレストランののウエイトレス) しかしながら、良くもてる子とそうでない子がいるから、より多くの人に好まれる顔というのがあるのだろう。またブスだけど好みだ、という場合がある。だから好み=美人というわけでもなく、より多くの人から好まれる人が美人なのだと言えそうだ。すなわち、好みとはピラミッドの斜面の一方向のようなもので、上に行くほど狭くなる。そして裾野は広い。山の高さを美人度とすると、頂上にあたる女性は超美人で万人の好みだが、程度が下がって裾野に近い子は反対側の斜面が好みの人にとってはとんでもない、ということになる。だからいつの世でも美人は、美人投票で決定し、一定の規格を満たしているから美人であると判定するという話は聞いたことがない。それではどんな顔がより多くの人に好まれるのかということになるが、それは美人が好まれる、としか言いようが無い。 (マカティのカラオケには時たまオヤッと思う可愛い子がいる)

美人の定義とは何か 2010年12月20日


マカティのど真ん中、アヤラ・トライアングルのアヤラ・タワーの横で、毎晩、クリスマスの電飾ショーが行なわれている。夕方6時から8時まで、30分後 とに10分間程度、公園の木々に取り付けた数百万個の電球が点灯される。点灯と言っても、音楽にあわせてそれぞれの木の電飾がついたり消えたり点滅するの で、見るものを圧倒させる。さすがにアヤラのやることは違う。 アヤラといえば、フィリピン一の財閥で、マカティ市そのものがアヤラ一族の開発物件だった。それが現在ではフィリピンそして首都圏メトロ・マニラの押しも 押されぬ中心となり、世界に名をとどろかせている。さらに高級住宅街の代名詞のようなアヤラ・アラバン・ビレッジもアヤラの開発物件だ。マカティはもとも とカンコン(空芯菜)の生い茂るただの湿地帯で、戦後マルコスの時代、1960年代に開発が開始され、1980年代にはすでに経済の中心の地位を獲得し た。 アヤラ・トライ・アングルはマカティを横切るマカティ・アベニュー、アヤラ・アベニュー、パセオ・デ・ロハスの3つの大通りに囲まれた地域で、そこに 建っているのはアヤラタワーとフィリピン証券取引所のみで、そのほかのエリアは公園となっている。ちなみに、この3つの通りはもともと滑走路だったそう で、だからおかしな3角形を形成しているのだ。公園の中にはネルソン・タワーという小さな建物があるが、それは管制塔だったそうだ。  これだけの電球をコントロールするためにはかなり高度なコンピューターシステムと作動システムを駆使しているものと思うが、なかなかやるもんだと感心した。  

アヤラ・トライアングルの電飾がきれい 2010年12月19日