shiga


ここ数年、マニラ圏のコンドミニアムの建設ブームはすさまじいものがあった。価格もここ5~6年で、3倍近くに上昇した。購入しているのは、主に海外の投資家、あるいは海外で働くフィリピン人(OFW)で、あくまでも投資目的で、実需ではない。完成したら、転売して大きな利益を得よう、あるいは賃貸で投資の回収を計ろうとするものだった。上海など高くなりすぎた不動産に比べて、フィリピンの不動産価格が割安感があり、大きな投資効果が期待できるという歌い文句につられて、投資が殺到した。 たとえ、実需でないとしても、デベロッパーとしても売れさえすれば良いのであって、雨後の竹の子のように高層コンドミニアムが立ち上がった。DMCI(建設会社)、SMDC(SMデパート)など、他業種からの参入も盛んだった。一方、アヤラやメガワールド、フェデラルランドなどの老舗もここぞとばかりにマカティの空いている土地を買いあさった。 建設業界大手のDMCIはメトロマニラに比較的低価格で大型プロジェクトを立ち上げた(左)。デパート業界の雄、SMも超大型のコンドミニアムを多数販売している(右)。 こんな小さなユニットをあんなに高い金で、一体、誰が買うのか、という疑問はフィリピン在住のものなら誰しも持ったはずだ。価格は500万円~1000万円程度(賃料としては5万~10万円に相当)、投資には手ごろで、その価格に合わせて、25m2~50m2のスタジオタイプ(ワンルーム)の小さなユニットが大半だ。 そもそも、フィリピン人は大家族だから、こんな小さなユニットに大枚をはたいて住もうとする人は少数だ。ちなみに25m2のユニットで、月々5万円の賃料は、大卒初任給の2ヶ月近いお金で、一般のフィリピン人にとっては高嶺の花。同じ賃料で、郊外ならば、戸建てに住むことができる。しかし、外国人投資家には戸建ての家は、法律上買えないから、外人でも買えるコンドミニアムということになる。したがって、郊外の戸建てはこのブームとは無縁で、従来と大差のない価格で取引されている。 デベロッパーは、価格が上がるということを海外の投資家に示すために、需要供給の市場原理とは関係なく、売り出し価格を定期的に上げている。傍目に価格上昇は続いており、投資効果は間違いないと映る。しかし、ここに来て、大量の物件が完成し、賃貸市場に流れ込んで、マカティスクエアの新築コンドなどでは、50ユニットの賃借人募集などの宣伝が盛んに行われている。こんな高いお金で借りるフィリピン人は少数だから、日本人などの外国人がターゲットとなる。日本の大手の賃貸仲介の会社も進出してきているが、一体どれだけの日本人が賃貸を必要としているのか、賃借人の獲得競争は熾烈を極め、賃貸料も下降気味だ。 完成して、転売すれば儲かるなどという歌い文句は、過去のものだ。かつて、完成前の購入は、その物件が完成するという保証はなく、リスクの高いものだった。したがって、完成したら、購入価格にかなりの上乗せをして転売できた。今、実需がないにもかかわらず、これだけの新築物件が売り出されている現状で、完成物件を高値で買い求める人はいない。 マロンガイ通り沿いは、マカティの高層地区膨張の象徴で多くの高層コンドミニアムが出現したが、その一角でも未着工のプロジェクトが眠っている(左)。マカティの高層地区で、唯一ともいえる新規着工のプロジェクト。しかし、ブエンディア通りをはさんだ手前の空き地は着工の気配がない(右) とある若い退職者の方は、コンドミニアムを投資目的で購入した。フィリピンでローンを組んで、賃貸収入で返済しようとしている。しかし、賃貸料は低下、あるいは賃貸できるという見通しはなく、支払い済みの頭金は損切りの覚悟を決めているという。別の方は、賃貸の期待ができないので、ホテル仕様に変更して投資の回収を打診されているが、そのためには追加の改装資金が必要で、どうするべきか逡巡している。 そうなると、バブル崩壊で、不動産市場は壊滅し、価格の暴落が起こっても不思議はない。しかし、デベロッパーは強気に価格を上昇させている。そうしないと、海外からの投資家の呼び込みは不可能になるので、価格を下げて叩き売るわけには行かないのだ。 そもそも、デベロッパーは建設前にユニットを売り出して資金を集め建設するから、売れ残ったユニットを叩き売って資金を回収する必要はない。転売あるいは賃貸できないで困るのは投資家で、投資金を塩漬けにするしかない。したがって、バブル崩壊後の価格の暴落は起きないだろう。ただし、需要が供給に追いつくまで、10年、あるいは20年はコンドミニアムの建設は影を潜めるだろう。 マカティの巨大コンドミニアムSM JAZZは完成して入居も始まったが、その手前の空き地(元TOYOTA Bel-Air)は一向に着工の気配がない(左)。パソンタモ沿いの空き地も看板だけで着工の気配がない。 ちなみに昨年当たりに着工を計画し、敷地を準備したプロジェクトは、ほとんどそのままで、一向に建設が開始される気配がない。要は建設前にユニットを売却して資金を集めることができないから、着工できないのだ。一方、外見が、あらかた出来上がったプロジェクトは着々と完成を目指している。すでに売れており、資金も用意できているのだろう。しかし、完成の暁には、誰も住まない幽霊コンドの出現となるのは間違いない。 このコンドミニアムブームのフィリピン経済への影響は、どうなるのだろうか。日本のバブル崩壊のように大きな経済の停滞を引き起こすのだろうか。多分、現在好調を維持しているフィリピン経済は、このまま順調に推移するだろう。なぜなら、このブームで海外から大きな投資を呼び込み、それがそのままフィリピンに塩漬けされて、フィリピン経済に寄与し続けるのだ。デベロッパーもコンドミニアムを大量に販売して、大きな利益をあげ、泣きを見ているのは海外の投資家だけなのだから。 […]

コンドミニアム建設ブームの終焉 2014年8月31日


8月21日(木)はニノイアキノデイ、23日(土)、24日(日)、そして25日(月)は英雄の日と、4月のホリーウイーク以来の大型連休となった。さらに、スービックで開業準備中のSUN PLAZA コンドテルから無料宿泊の誘いがあり、チャンスとばかりに4歳になったKIAN、そして、彼のつきそいに、彼の家族を誘って、スービック旅行を決行することなった。KIANもやっと遊園地や海に連れて行く年頃になって、チャンスをうかがっていたのだ。 KIANのお父さんカーネルの都合で、日曜(24日)出発、月曜(25日)帰還の強行スケジュールとなったが、私は、土曜(23日)に友人とともに先行してアンヘレス入りして、翌日スービックで皆と合流した。アンヘレスについては、すでに語りつくしているので、今回は割愛するが、前にもまして、活気にあふれていた。 以前、何度か紹介したポコ・ア・ポコ・コンドテルの和食レストラン・トマトで腹ごしらえをして、コンドテルに向かったが、それは予想外の大型5階建てコンドルテルだった。ちなみにコンドテル(ないし、サービスアパートメント)とはコンドミニアムとホテルの両方の機能を有する施設で、一日の宿泊から、月単位、あるいは年単位の賃貸ができ、場合によっては購入することもできる。サン・プラザは日本人投資家から資金を集めて建設され、いよいよ開業にこぎつけたものだ。場所は、スービック商業地区のホテル街に位置し、レストランが並ぶ海岸にも近く、また最新鋭の病院も至近距離にあって、絶好のロケーションだ。 出来立てのサンプラザは、レストランなどのアニメティは未完成だが、スービックでは珍しい5階建ての高層(?)で、周囲を圧倒する威容を呈している。 玄関やロビーもゆったりしていて、立派。何を勘違いしたのか、KIANは、自分の新しい住処と思い込んで、得意気に他人に話をしていたそうだ。そういえば、家族が一緒なのはタバコの農場やレガスピの実家で、KIANはそれらは皆自分の家と思っている。たしかにそれは一理あるのだが。 ジムやマッサージパーラー、そしてサウナなども完備していて、まさにリゾートホテルの仕様だ。 部屋は144m2の3ベッドルーム。トイレが3つもあって、後で知ったのだが、このコンドテルの最高級のユニットだった。ベッドはキングサイズが二つにツイン、われわれ5人には広すぎるくらいだ。そしてベランダも広々としていて家族団らんのバーベキューなどにはもってこいだ。カーネルとジェーンは皆が寝静まった後、学生気分になって、ワインボトル一本をあけてしまったそうだ。まだ、ちょっと飾り気がないが、リビング・ダイニングも広大だ。 ベランダからの眺めも絶景だ。ここ一体は皆、ホテルだが、灯台を模したホテルや、戸建て住宅風のものや、まるで高級住宅街の雰囲気だ。 スービック港をゆっくり走る遊覧船、ベランダの手すりは色つきのガラス製で、子供が外を見るためによじ登って落下事故にあうようなことのないように配慮されている。 そして圧巻は、ベランダから眺める夜景だ。イルミネーションを施したホテル群は、まるでデズニーの映画を見ているような雰囲気だ。そして、海岸にでると、そこは遊歩道になっていて、ホテルのプールやレストランが並んでいる。ライトアップされた遊歩道もまるで、デズニーの映画の世界に迷い込んだようだ。フィリピンの外国、スービックの面目躍如といったところだが、メインゲートの近くにできた近代的モール、ハーバー・ポイント・モールもいいが、私はここのほうがスービックらしくて、何枚も上だと思う。 ちなみに、料金は40m2のスタジオタイプのユニットで4200ペソ/泊から、われわれが泊まった最高級の3ベッドルームユニットが13000ペソ/泊、2週間以上の連泊で20%引き、1年契約ならスタジオで、27000ペソ/月からだそうだ。決して、安いとはいえないが、それなりの価値はあると思う。なお、詳細は下記にコンタクトしてほしい。 小田昇平 shoheioda3333@yahoo.co.jp

KIAN、初めてのスービックの旅(その1. Sun Plaza) 2014年8月30日



先日、新たに退職ビザをおとりになったかたから、大量のおそばをいただいた。早速、食べてみたが、大変おいしいので、周りのフィリピーノにも勧めたが、反応は今一だ。一人で食べていたのでは、100束くらいあるので、とても賞味期限内には食べ切れそうにない。 そこで、PRAの創立記念のおりに我が家に立ち寄った鏡さんなどの退職者の方に、おすそ分けをした。皆さん、そばが大好きと喜んでくれたが、まだまだ、大量にある。また、誰かにおすそ分けをしようと思ったら、ジェーンからストップがかかった。 子供達が、そばつゆのかわりにスパゲッティソースで食べたら、大好評だったというのだ。せっかくのそばをスパゲッティソースでは、誰しも、もったいないと思うだろうが、そばは健康によいし、KIANが喜んでいるとなっては、NOと言えない。実際に、食べてみると、たしかにまんざらでもない。名づけてそばゲッティは我が家の定番料理となった。 そばとスパゲッティソースの組み合わせ、まるでゲテモノのようだが、意外といける そばゲッティ・セカンドバージョン、私のために野菜たっぷりのそばゲッティを料理してくれた。 右は、お客さんのお土産のJaw Bonesという組み立ておもちゃに夢中のKIAN。色々組み合わせて形ができるので、レゴのように子供の創造力を養う教育的おもちゃだ。しかし、これが35ピース入りで5500円もすると後で知ってびっくりした。 先日、ラスピニャスにお住まいの退職者を案内して、ビコールの農場を訪問した。いずれ紹介するつもりだが、ジェーンがレガスピ市の丘の上の土地を手に入れて、その契約に行くというので、同行したものだ。ジェーンは、先日、3~4日、同じ用事で家を留守にしたが、KIANがさびしがっていたので、今度はKIANを同行したい。しかし、KIANの面倒を見る人間が必要なので白羽の矢が立ったのが私、いわば、子守(ヤヨ)として同行させられたのだ。 同行した退職者は、農場のお米がおいしい、そしてどの料理もおいしいと、大変喜んでくれた。そこで、お土産に2kgのお米をあげたのだが、その後も継続して買いたいという。そして、PRAの創立記念においでになったおり、ビコールの農場から送ってきたお米、5kgを46ペソ/kgで売ったのだが、しめて230ペソの売り上げ、この程度の収入ならプレゼントしたほうがましだと思った。 そのほかにも農場でとれた、アボカドとバナナが送られてきた。今まで、いつ農場に行っても、まだ収穫するには時期尚早で次回の楽しみとした。そして、次回行ってみると収穫も終わって何もない、ということが繰り返されてきたのだ。そこで、収穫したら、すべてマニラに送ることという指令をだした結果が今回だ。しかし、おすそ分けで、あっという間になくなってしまい、やっぱり、味わうことができそうにない。 農場で取れたアボカドとバナナ、おすそ分けで熟れる前に瞬く間になくなってしまった。 タガイタイから来た退職者の方からいただいたパイナップル。スーパーにあるものに比べて、外観がとても新鮮できれいだ。もちろん味も格別だ。右の写真はチョコレートとピリナッツ、カーネルのお母さんがつくったものらしいが、まるで砂糖の塊で、私には今一だった。 本文とはあまり関係ないが、ラスピニャスの退職者を訪問した折にたちよった日本料理店KEI。マカティスエアの本格和食レストランで食べなれている私には、ちょっと違和感のあるメニューだったが、味は、案外いける。お勧めの味噌ラーメンは昔、仙台のラーメン屋で食べた洗面器ラーメンのように大型だった。

新作料理、そばゲッティ 2014年7月13日


2014年7月4日、第29回、PRA創立記念パーティが開催された。今回のパーティは3年ぶりになるが、PRA職員、マーケッター、10年あるいは20年目など節目の退職者など、限定的な招待客に限定されたパーティだった。私は、今回の表彰の目玉の鏡さんのお父さんの招待に成功したという功績で、Shiga and Familyという招待状をもらって、キムやKIANを引き連れて参加した。他にも5~6名の退職者の招待枠をもらって、皆さんに楽しんでもらった。ちなみに、鏡さんのお父さんは101歳、PRAの会員としては最高齢、さらにフィリピンに在住する日本人の最高齢というわけで、日本政府からも、つい最近、表彰されたそうだ。 今年のPRAのロゴはかなりあっさりしている。パーティ好きのKIANは緊張気味であごを突き出している。 会場はロハスブルバード沿いのGolden Empire Towerだが、そこに一時間遅れで到着するころ、PRAのGMの秘書から、TV局がインタービューのために待っていると催促の電話がかかってきた。この日、某TV局が取材に来ていたのだが、二人の退職者/マーケッターの一人としてインタビューの依頼を受けていたのだ。PRAの活動に協力している外国人の話をTVプログラムの一部として流したいということだ。 こんなチャンスを見逃さないジェーンは息子のKIANを抱きながらのインタビューの演出に成功。本人もTVに出たくて仕方がないのだが。かなりのスタッフに囲まれてのインタービューだったが、私は、中の会場でのパーティの演説がうるさくて、司会者の英語が聞き取れず往生した。ちなみに、いつ放映されるのかあるいはされたのか、いまだに不明だ。 会場へ入ると、退屈な演説は終わっており、退職者の表彰に移っていた。10年、20年、そして最長は、25年、1985年にPRAは創立され、4年目の1989年にビザを取得した場合、25年勤続となる。PRA日本人クラブ会長の家田さんが名誉ある25年勤続として表彰されていた。1989年といえば、現役だった私が、初めてフィリピンに来て駐在を開始した年だ。表彰の目玉は、101歳の鏡 末吉さんだ。アナウンサーは「なんと、一世紀と一日!」と驚きのメッセージを送っていた。日本では100歳というのは、さほど珍しくはないが、フィリピンではかなりまれなことらしい。 鏡さんを囲んでカガヤンデオロの議員さんとPRAのGMらが記念写真。外の会場では着飾ったPRAのきれいどころがポーズを取る。 この日のパーティはダンス、手品、さらにはプレスリーなども出演して、かなり盛り上がった。特にカガヤンでオロの議員さんの歌と踊りにやんやの喝采だった。 PRA GMのVIPのテーブルにキムとKIANをちゃっかりと同席させてご満悦のジェーン 会場の3箇所のビュッフェには普段と違い、かなり大量の食事が用意されていた。オープンテラスにもたくさんの席が設けられて、もっとたくさんの退職者を招待してもよさそうだった。 パーティは予定を一時間オーバーして7時ごろお開きとなったが、鏡さんは特等席で最後まで出し物を楽しんでいた。キムやKIANもちゃっかりと隣に座ってはしゃいでいた。

第29回PRA創立記念パーティ開催される 2014年7月13日



PRAの創立記念パーティが来る7月4日(金)に、3年ぶりに開催される。今回は29回目の創立記念ということだが、2011年26回目以来、久しぶりのことだ。その間、創立記念は行っていたのかもしれないが、ごく内輪でやっていたようで、私の耳に入ることはなかった。 今回も、10年、あるいは20年目の節目の退職者の表彰などをやるそうで、限定された招待者に限られるそうだ。私も、何も知らされていなかったが、退職ビザを保有する最年長退職者として、101歳のKさんが表彰されるということで、その招待に私が駆り出され、ことの次第を知ることになった。 しかし、急遽、他の退職者にも連絡してほしいといわれて、このブログで紹介することにした。しかし、出席する場合は、事前に連絡がほしいということなので、PRAに直接連絡するか、私に連絡をしてほしい。 2010年に行われた25周年記念は節目の年ということもあり、ソフィテルホテルのボールルームで盛大な式典が行われた。PRAの職員も着飾ってレセパショニストを務めていた。 ヌエバ・エシアにお住まいの101歳のKさんの息子さんに連絡をとったら、快く了承してくれた。しかも、お父さんご本人も遠くからやってくるということで、PRAの担当も大喜びだった。ちなみにKさんは先ごろ、フィリピンに在住する最高齢ということで、日本政府からも表彰され、安倍総理直々の表彰状をもらったそうだ。こういう名誉ある賞には、お父さんもお喜びのことなのだろう。 2011年におこなわれた26回目の創立記念は、前年とはうって変わって、大変地味なもの だった。1歳と3ヶ月になっていたKIANは縦横無尽に会場を走り回って、彩(ご迷惑?)を添えた。そのKIANもすでに4歳、今年はどんなパフォーマンスを見せてくれるのだろうか。 場所は、エルミタのロハスブルバード沿いのGolden Empire Towerなのでわかりやすい。受付は午後、3時からだが式は4時ごろから始まるそうで、6時には終わる。ちなみにPRAはこの日、午後からオフィスを閉めるそうなので、気をつけてほしい。

第29回PRA創立記念パーティのお知らせ2014年6月29日


5月26日はキムの誕生日だ。その前の日の25日は息子の誕生日で、前の前の日の24日は、親しくしている退職者の誕生日で、盛大な共同誕生会が期待された。しかし、急遽、息子が日本へ帰ってしまったので、キムの誕生会だけになった。 女の子の18歳の誕生日は特別で、デブー(デビュー)といわれ、晴れて大人の仲間入りをするいわば、成人式だ。家庭によっては、姻戚のほかクラスメートなど招待して、ホテルのレセプションホールを借り切って、結婚式並みに盛大にやるくらいだ。この日は同年代のビアンカ(息子の許婚候補)とドナ(メイド)が友人代表として参加した。ちなみに、男のデブーは21歳だが、男のデブーの式というものはお目にかかったことがない。 当日まで、どんな誕生会を催すのか決まっていなかったが、結局、おなじみのルートンマカオの中華レストランで、内輪の食事会だけとなった。しかし、たまたま、マニラに来ていた両親の母親(ロラーおばあさん)も参加して、総勢16人の大食事会になった。もちろん、万難を排して、父親のカーネルも参加した。娘のデブーを欠かしたとなると、生涯うらまれることになる。          父親から恒例の赤いバラの花束をプレゼントされて、おめかしするキム(左)。右の写真は、ジェーンの長髪禁止令により、かなり短めに髪を切ってきたキムとビアンカ、18歳らしく、とても可愛らしくなった。 両家のロラが会うのはめったにないことで、バプティスマル、デブー、結婚式、それに葬式くらいのものかもしれない。   子供6人を含むとは言え、16人で5300ペソ、ケーキを含めても一人頭400ペソ足らずで済んだが、ルートンマカオの安い、おいしい、量が多いの三拍子の面目躍如だ。ただし、飲み物は我が家のしきたりで、私のビール以外は注文させない(飲み物は何もここでなくともどこでも飲めるし、割高だ)。 近所のレッド・リボンで買ったきたケーキには大きな18をかたどったいうローソクが立てられていた。誕生ケーキとあらば、すぐに自分でローソクを吹き消さないと気がすまなかったKIANだが、この日は、アテ・キム(キム姉さん)の誕生日としっかりわきまえていた。 反対側の席から、大声で、Happy Birthday Ate Kim、I love you、などと大声で会話するKIANとキム。年の離れた仲の良い姉弟だ。

キムのデブー(18歳の誕生日)2014年6月15日



5月xx日、夜明け前から、携帯が長いこと鳴っていたが、どうせ間違い電話だろうと出ずに切ってしまった。そうしたら、朝早く、とある退職者(Aさん)と一緒に暮らし、面倒を見ていたJが、Aさんが亡くなったと知らせにやってきた。以前から病弱で、つい先日、「床ずれの良い薬を知らないか」と電話があり、「医者に相談してほしい」などと話したばかりだった。 Jにはとにかく、肉親に連絡して、フィリピンに来てもらうこと、その際、家族関係を証明するために戸籍謄本を持ってくることとアドバイスした。 翌々日、Aさんのお子さん(Bさん)が会いにやってきた。結論としてお骨を一刻も早く日本に持ち帰り、葬式を日本でしたいとのこと。当方としては、Aさんは、退職ビザのスマイルプログラムであるために、ビザ預託金2万ドルをEnd of Term needs and obligation(終末のニーズ) に使えるから、下記の書類を準備することをアドバイスした。 ① 預託金を引き出したい旨のPRA宛レター ② 出生証明書の取得(退職者と申請者の関係を証明する文書) ③ 委任状(当方がPRAと折衝、手続きを遂行するため) ④ 入院費、葬式等の領収書ないし請求書 月曜朝一、再度、JとBさんがやってきた。結論として「葬式の費用を払わないと、遺体を火葬することができない。しかも、そのような費用は準備してこなかった。」ということで、一刻も早くPRAに葬式の費用を支払ってもらうことが、急務となった。ちなみに預託金はDBP(Development Bank […]

退職者が死んでしまったら その4 2014年6月7日


先日、ブログ「脳内革命第二弾」で約束したとおり、キーボード(電子ピアノ)を購入したので報告する。ブログの内容は、「小学校程度の子供に音楽を教えると、脳の神経細胞の機能が飛躍的に向上して、頭の回転が速くなり、賢い子に育つ」いう主旨だ。 はじめに、ヤマハの代理店でヒアリングしたら、初心者用で1万~2万ペソで買えることがわかって、さらにジェーンの情報から、キャッシュ・アンド・キャリー(老舗モール)でカシオの製品が1万ペソ以下で買えることがわかった。しかし、カシオのカタログを吟味すると、鍵盤が光ってガイドしたりUSBを介してパソコンとつなげることができるなどの機能を持った製品が、15800ペソで買えることがわかり、それに決定した。3万円程度の投資で、KIANの頭が飛躍的に良くなるとしたら、安いものだ。 キーボードの販売担当の店員と値段交渉して13300ペソに負けさせて現金で支払いを終え、我が家に持ち帰った。早速組み立てて見たが、ピアノの音が家の中で響くと、何かリッチな気分になった。幸い、キムが多少の心得があるそうなので、キーボードの使い方はキムに任せたが、ピアノというより、ほとんど電子機器なので、当方には荷が重い。KIANを始め、子供達がたくさんいるので、先生はキムの役割。当面はおもちゃ代わりにして、KIANがいずれ興味を持ち始めたら、キムやKIANをマカティ・スクエアの教室に通わせるつもりだ。 まずは、購入資金を引き出しにATMに行ったら、KIANがいたく興味を示した。きっと、金のなる木のようなものだと思っているのだろう。カシオの販売所ではキムがKAINを相手に店員のように振舞ってふざけている。            店員に使い方を教わるキム、パソコンが得意なキムは、とても理解が早いが、KIANはちんぷんかんぷんのようだ。たまたま、遊びに来ていたキムのいとこは、実家にキーボードがあるため、相当な使い手だ。 今のところは、まるでおもちゃをいじくる感覚で、5分もしないうちに飽きてしまったが、時間をかけて、習わせていきたい。 小銃を構えるパパ・カーネルを頼もしそうに見守るKIAN。彼らの将来はPNPチーフ(警察庁長官)の期待がかかっているが、我が家ではいつもの風景、KIANはキーボードよりもよほど銃に興味を持っているようだ。 本ブログのテーマとは何の関係もないが、ここしばらく姿を消していた日本米が日本食材店に戻ってきた。日本から輸入したコシヒカリなどは5kgで2000 ペソ前後、400ペソ(920円)/kgもするが、日本で買う値段の倍、フィリピンのお米の10倍だ。フィリピン産ササニシキなどは5kgで 600~800ペソ、120~160ペソ(270~370円)/kgで、フィリピンのお米(40ペソ/kg程度)の3~4倍だ。確かに味や食感は違うが、 フィリピン産の普通のお米を上手に炊けば、十分いけると思うのだが、食通にはやはりこだわりがあるのだろう。 日本食材店に戻ってきた日本米。  市場から日本米が消えた原因は、中国とフィリピンの領土をめぐる小競り合いで、中国はフィリピンからのバナナの輸入を停止し、一方、フィリピンは中国からの米の輸入をストップしたらしい。そのため、市場に、中国産日本米が消え、日本レストランは外国ないしフィリピン産の日本米の確保に走り、高値で買い占め、市場から各種日本米が消えてしまったそうだ。 グルメの日本人には日本米が必須なので、領土問題のとんだ余波が在比日本人に及んだことになる。ある退職者は日本レストランから高値で日本米を買っていたが、市場に日本米が出てきたので、大喜びをしていた。一方、普段からフィリピン米を食べている私にとってはどこ吹く風だった。

キーボードを買いました 2014年5月31日



田舎からやってきた子供たちを楽しませるためにラスピニャスのプールリゾート、Swim@Cecilesに出かけた。場所は、マカティから15kmほど、アラバン-ザポテ・ロードをBFリゾートに向かって南に曲がり、ゲートの手前を右に入って、広い駐車場がある場所だ。駐車場は未舗装で、いかにもローカルの遊びどころといった感じだ。駐車場の左側にチケット売り場があり、そのすぐ右が入り口、チケットを見せると、腕に判を押してくれる。 入場料は大人150ペソ、4フィート以下の子供は100ペソだ。ちなみに双子は背が高いので大人料金を取られた。したがって、大人9人、子供5人で、合計1850ペソ、それにテーブルを2卓借りて200ペソ、ちなみにバハイ・クボは、10人収容のものが一日500ペソだが、すでに空きがなかった。営業時間は朝の8時から夜中まで。昼間は暑すぎるので、夜間の客も多いようだ。 この日はモンテーロが使えないので、ランサーとタクシーで行ったが、ガソリン代1000ペソ、タクシー代往復1000ペソ、それにジョルビーで昼飯を2000ペソで買って、〆て6000ペソの出費だった。さすが、14人もで行くと出費がかさむ。もちろん、スポンサーは私一人、持てるものが払うのがフィリピンの慣わしだ。 SLEXは休日、アラバン・ザポテ・ロードが混むとの予測から、海岸道路(ロハス・ブルバード)経由で、向かった。途中、空港の脇を通るとちょうど飛行機が上空を横切って写真を撮るのに夢中になっている間に、左折する場所がわからず、そのまま、新設の高速道路に迷い込んでしまった。カビテのマニラ湾を横切るこの道路は、つい最近開通したもので、はじめて通過する。道路の陸側には、普段空からしか見れない水上家屋が続いており、新たな景色の発見だった。高速道路の終点まで行って、Uターン、何とかアラバンザポてロードの出口を見つけて、ラスピニャスに向かうことができた。 Swim@Cecilesプールリゾートは、すぐにわかった。駐車場はお粗末だったが、値段からしてそんなものだろう。中には4つのプールがあるが、夏休みの日曜日とあって、多くの子供たちが家族連れでやってきていた。バハイクボは満員だが、テーブルはまだまだ空きが目立った。 二つしか借りていないテーブルだが、14人連れとなると不足で、4つのテーブルを占領、ただし、追加料金の支払いはなし。近くのジョルビーで買ってきた食糧と、近くに住んでいる日本人の差し入れたビールを楽しんだ。 水遊びの大好きなKIANは、もちろん上機嫌。ちょっと深めのプールで恐る恐るだったが、子供用のプール(下の写真)では本領発揮だ。 ちなみにフィリピンの若い子は恥ずかしがって水着を着用せず、服のまま水に入る。この日のために息子はビアンカに水着を買ってやったが、全く水着を着る気配がない。シャツを着たまま入るのは日焼け防止の意味合いも強い。シャツを着たままのKIANも翌日、露出部分が真っ黒に日焼けして、背中が痛いと不思議がっていた。次回はT-シャツが必須と認識した。ちなみに、子供用のプールには日よけのテントが張ってあった。           ご他聞にもれず、プールサイドにはカラオケが設置され、キムとヤヤ、、そしてわれわれ、おじ様族は、子供たちがプールを楽しんでいる間、カラオケにいそしんだ。 そろそろ午後3時を回って帰宅の時間となったが、水遊びに夢中のKIANは聞く耳を持たない。しかし、さすがに遊びつかれたのか、KIANは案外素直に水上がり、夢中になって残っていたフライドチキンをむさぼっていた。カメラを向けると一斉にポーズを取る子供たち。いつでもフィリピーノはフィリピーノは写真を撮られるのが大好きだ。  

ラスピニャスのプールリゾート訪問 2014年5月20日


ホリーウイークも大詰めを向かえ、8日目の土曜日は車で子供たちがマニラに帰り、最終日の日曜は私が飛行機で帰った。KIANとパパ・カーネルそしてママ・ジェーンは翌日月曜にマニラへ帰る予定だった。日曜はエアチケットが高いために月曜にずらしたものだそうだが、土曜は子供たちが発ち、日曜日は私が帰ってしまい、残されたKIANは、夢のような農場の生活が忘れられず大騒ぎになってしまった。           農場に散歩に行くと農夫のダニーがココナッツを収穫していた。養魚場では小魚を捕まえて遊ぶ子供たち。女の子達がマニラに行ってしまい、代わりにやってきた、いとこのタムタムとジェルミーと一緒だ。ジェルミーはKIANと同じ年で好敵手だ この日もマヨンは顔を見せたが、遊び相手が二人の男の子しかいないKIANは、さびしそうだ。 ダシンおじさんのトライシクルで遊ぶKIAN、オスザルはメスザルに毛づくろいをさせてご機嫌の様子          KIANはトライシクルの乗り方は十分に承知しているようだ ママジェーンに抱かれるジェルミーにKIANがやきもちを焼く。私の抱っこをねだるKIANの顔もどこか表情がない いよいよ、農場にお別れの日、皆からのさよならの挨拶が続く 誰もが田舎に帰るホリーウイークは同窓会花盛りとなる。旧友たちとトラックに乗って街を練り歩く姿に必ず遭遇する。   空港でランチの後、私は、飛行機でマニラに向けて飛び立ったのだが、それからKIANの大騒ぎは始まった。農場へ帰ると行って聞かないのだ。そこには誰もいないとママが言って聞かせてもKIANは納得しない。レガスピのカーネルの実家は街中なので、そこにはチキンも豚もいない、庭もないといって行きたがらない。KIANの抗議は翌朝、マニラ行きの飛行機に乗った後も続いたが、家についてたくさんのいとこに迎えられて、ようやくご機嫌が直ったようだ。

ホリーウイークの農場訪問 8日目と最終日 2014年5月16日