Daily Archives: March 23, 2010


2名の退職者を案内してタバコの農場を訪問した。2泊3日の短期だったが、真夏の農場はブーゲンビリアが咲き乱れ、赤ちゃんラッシュだった。しかし、マニラ周辺のような容赦ない陽射しはなくて、毎日、何度か雨のお湿りがあるすごしやすい天気だった。またそのせいでマヨン火山が顔を見せたのは2日目の早朝のほんの一瞬だった。  2日目の朝、例の双子が訪問して、農場で面倒を見ている3歳のヤナと一緒に歓迎の歌を披露してくれた。親に指示された様子もなく、3人でタガログ語や英語の歌を5~6曲披露してくれた。私にはどれも同じに聞こえたが、最近大流行している韓国ソング「Nobody nobody but you」だけは私にもわかった。右は、臨月を迎えた相棒のジェーン。 赤ちゃんラッシュの目玉は牛だ。小さめの牛なのでまだ子供だと思っていたが、その牛が赤ちゃんを産んだのだ。まだ2ヶ月しかたっていないが、もうしっかりしている。しかし、この赤ちゃん牛の誕生でわりを食ったのがボス犬のアイスだ。こんな子牛は犬の絶好のターゲットになる。だからアイスは鎖でつながれ、かわいそうに一日中吼え通していた。鎖ではあまりにも可哀想なので、緊急に2坪ほどの小屋を作って、しばらくはそこで暮らすように計らった。 ちなみに牛のことをタガログ語で「バカ」という。日本語のバカは馬鹿と書いて、馬と鹿だから、まんざら遠い意味でもないようだ。さらに水牛はカラバオというが、これは働き者を指す。フィリピンではカラバオは水田や畑の耕作の労を一手に引き受けているので頼りになる存在なのだ。 ブタ小屋にも数頭の赤ちゃんがいた。前回生まれた赤ちゃんと一緒だが、小さいほうが今回のものだ。母豚は3~4歳だが、年をとっているので生まれる子豚の数が少ないのだそうだ。したがって近々処分の対象になるそうだ。テラピアは今夜の夕食の目玉。とりたての食材で、ゲストはしごくご満悦だった。 農場では闘鶏も飼育している。その闘鶏も赤ちゃんラッシュだった。闘鶏はもちろんオスだが、生まれたばかりではオスかどうかわからない。今はみんな可愛いが、オスの雛は数ヶ月たつとあの闘志満々の闘鶏に育つのだ。鳩の赤ちゃんも生まれていたが、残念ながら巣箱の奥に隠れていて写真を取ることはできなかった。ちなみにこの暑いのに生まれたての雛にとって、電球は母のぬくもり代わりだ。 七面鳥やガチョウは今回は赤ちゃんがいなかった。1月に来たときに見た七面鳥の赤ちゃんはアイスの犠牲になったそうだ。こうなるとアイスは可哀想だが、農場のために一生犬小屋で生活することになるのだろうか。 水田は収穫の時期を迎えていた。あと1~2週間もすれば収穫だ。前回正月に来たとき田植えだったから、丁度3ヶ月だ。野菜や穀物は種まきから丁度3ヶ月で収穫できる。これは日本でもフィリピンでも共通だ。農家の人にとってこんなことは常識だろうが、私が家庭菜園をやっていて、このことに気がついたときは実に不思議だった。だから、農場では準備と後始末に1ヶ月、種まきから収穫まで3ヶ月、合計4ヶ月、年3回の収穫が可能となる、はずなのだが、どういうわけか、フィリピンで米作は2毛作だ。有機肥料をほとんど使わないので、田んぼを休ませる時間が必要なのか、灌漑用水あるいは雨の具合なのか、まだよくわからない。 農場に家を建ててから7年近くが経過した。その時植えた果物の木が実をつけ始めている。世界で一番大きい果物といわれるランカ(ジャックフルーツ)もたくさんなっていた。バナナも豊作だ。 最近雇ったメイドがカラバオ(働き者)で農場の空いている場所にたくさんの野菜を植えていてくれた。左がピーナッツ、右がキャッサバ、左下がカモテだ。右下は農場の写真ではないが、近所に生えていたアバカだ。ピーナッツは落花生と呼ばれるが、これは花が咲いた後、それが地下にもぐって実をつけるという変リだねだからだ。キャッサバは南方ではどこにでも生える芋の一種だ。。カモテは日本のサツマイモ。日本のサツマイモのように甘さはないが、どこでも育つので米の代替としていざという時には役に立ちそうだ。アバカとバナナはほとんど同じに見えるが、一方はマニラ麻として、戦前日本への輸出の目玉だった。一方のバナナは現在の輸出の目玉。日本のバナナ・ブームを支えているのがまさにフィリピンなのだ。 農場の一角にはなんとも珍しい「綿の木(コットン・ツリー)」が生えている。高さは10m以上の大きな木だ。20cmくらいの実がつくが、それが熟れるとはじけて、中から綿が吹き出す。 落ちている綿の実を拾ってみると、それはまさに綿だ、純白に輝いている綿の繊維は細く絹のようだ。しかし絹のように繊維は長くないので紡ぐのは難しいのかもしれない。だから、ここの人は中にある種を取り除いて、枕の綿にする。ちなみに果樹はそのおいしい果実を動物に食べさせて、種を遠くに運ばせる。一方、綿やタンポポはそのふわふわした繊維により、中の種を風で遠くへ運ばせるというなんとも知恵に満ちた自然の世界だ。

真夏の農場は子沢山 2010年3月23日


  ハロハロといえば、フィリピンの代表的デザートだ。日本のかき氷のようなものだが、トッピングがハロハロなのだ。ハロハロとはごちゃ混ぜという意味で、ちなみの写真のハロハロのトッピングはチーズ、ウベ芋、プリン、ゼリー、ミルク、などなど数え切れないくらいのお菓子の食材が乗っている。  このハロハロは第2次世界大戦後、元日本兵が食うためにかき氷を売り始めたのが起源といわれ、最近ではファストフードの雄、チョーキンも大々的に売り出している。夏には街角にハロハロショップがひしめくが、特にエルニーニョの影響で猛暑が続くマニラでは飛ぶように売れている。  タバコの北にある地熱発電で有名なTIWI(ティーウィ)という街に、DjCというハロハロ専門店がある。ここでハロハロを食べるのが、私のタバコ案内のお決まりコースだ。20年ほどに開店したそうだが、マニラ、レガスピ、ナガなどの都市に支店を出すほどの繁昌ぶりだ。かつて大手のレストランからレシピを買いたいと申し入れがあったが、オーナーはそれを拒否して、秘伝の味を守ったそうだ。 店は極当たり前のサイズだが、テーブルは満員だ。そして、15~30分程度で食べ終わって、どんどん回転していく。一杯50ペソ(100円)と決して安くはない値段なので、相当儲けていると推定される。ちなみに売り上げは10テーブルx4人x2回/時間x12時間x50ペソ=48,000ペソ。粗利率を 50%と仮定すると、一日24,000ペソの粗利になる。1ヶ月で72万ペソの粗利。その半分が利益だとしても月々36万ペソの利益という、まさにリッチなビジネスだ。  

デザートの王様、ハロハロ 2010年3月23日



洗車やマッサージパーラーも、もう古い。インターネットカフェ、ロンドリー、飲料水、タクシーオペレーター、5-6(金貸し業)などなど、かつては小資本で開業できて、儲けが大きいと、雨後の竹の子のようにオープンしたが、これらのビジネスは、もはや過去の遺物だ。そして、フィリピンで今一番はやっている新商売が古着屋だ。フィリピン全土、街のあちらこちらに新しい店がオープンしている。古着とはいえ、新品同様の服がショートパンツやT-シャツが50ペソ、ジーンズなどが100~200ペソ程度で買える。こういう店を「UKAY-UKAY」というが、「UKAY-UKAY」とは「かき回して探す」というような意味で、バーゲンセールの特設売り場で主婦が服をかき回して気に入ったものを探す様子を指したものだ。はじめてみたときは日本語の「愉快愉快」からとったものなのかと思ったが、違うようだ。 すべてが日本、香港、アメリカ、ヨーロッパなどで使われた古着だから、ものは良い。デザインもよいし、中にはブランド物もある。一度や2度手を通しただけで、品質の良いものが新品の半値以下で買えるのだから、実利的な人は皆ここで買う。だからデパートの服売り場は閑古鳥が鳴いている。まさにフィリピン庶民の味方ともいえる商売だ。  これらの服は、海外からの援助物資の横流しだそうで、税関が、これらの援助物資を金を取って業者に流しているらしい。バリクバヤン・ボックスという日本からフィリピンへ引越し荷物やお土産などを送る運送形態がある。箱の大きさは74x54x64cm角の大き目のダンボールで、重さは60kgまでで、1万円程度で送れる。このバリクバヤン・ボックス一杯に古着が詰まったのを12,000ペソで仕入れられるそうだ。中身は見てのお楽しみ、中には高く売れる服もあるが、くず服ばかりで損をすることもあるそうだ。古着の詰まったバリクバヤン・ボックスを20~30個も仕入れれば、そこそこの品揃えになるから小資本で商売を始めるにはうってつけかもしれない。しかし、今のうちが勝負だ。そもそも商品に限りがあるから、あとから参入しても仕入れが出来ないだろう。

古着屋が愉快愉快 2010年3月23日


マヨン火山の雄姿を期待してリニョン・ヒル(LIGNON HILL)にのぼったが、厚い雲の覆われたマヨンは姿を見せてくれなかった。一方、マヨンの反対側に広がるレガスピ市はきれいに見えた。今回は飛行機の発着のタイミングには会わなかったのが残念はだった。  リニョン・ヒル展望台のアトラクションとして作られたのが、ジップラインだ。ジップとはジッパーのジップで日本語なら「ビリー」と布が破れる音の擬音だ。この遊びはロープに取り付けられた椅子に乗ってロープをすべるだけの単純な遊びだが、マヨン火山を眺めながらすべる十数秒はスリル満点に違いない。高所恐怖症の私には試して見ようもないが。 下の写真は今回の訪問で唯一撮影することが出来たマヨン火山の写真だ。レガスピ空港から離陸直後の一枚だ。

人間ロープウエイ(Zip Line) 2010年3月23日



Yさんの死により、ビザのキャンセル手続きが暗礁に乗りあげてしまった。 Yさんの失効パスポートと死亡証明書を持ってPRAにキャンセル手続きの継続を依頼したら、担当者の第一声はこうだ。 「入管の手続きはすでに完了しているものの、2万ドルの定期預金の引き出し許可証は、発行する相手が死んでいるので、家族の誰かが、家族であるという証明を持って受取に来て欲しい。」 このまま黙って引き下がるわけには行かない。状況を再度説明して、再検討を依頼したら、出張中の上司に相談して決定すると云うので、とりあえずPRAを後にした。もはやあせっても仕方がないので、とりあえず引き下がることにしたのだ。数日後、その上司に面会し、事情を説明した。上司は、これまでのいきさつを充分承知しており、かつ今回の事態がPRA担当者のお役所的対応の末に起きてしまったことを充分認識している。担当者を呼んで、1時間程度、喧々諤々の議論した。その結果、下記の結論を得た。 「この退職者は家族と縁が切れており、引き出し許可証を家族が受け取ることはありえない。一方、日本では弁護士が法定代理人として退職者の財産を管理している。したがって、、引き出し許可証のコピーに代理人である弁護士の署名をもらって、退職者本人の署名とみなす。許可証の原紙は、退職者からの委任者であり、かつ代理人の依頼を受けている私が受取る。それ以降、銀行からの引き出し手続きは委任状を持った私と銀行との交渉次第とする。」 まずPRAの攻略に成功した。翌日、引き出し許可証のコピーを受取り日本の弁護士へ送付、翌々日は許可証の原紙の受取と銀行への提出と、駒はとんとん拍子に進んだ。銀行は、「委任状については本店の法務部門の承認が必要」と事務的に言うだけだった。ここで重要なことは、ややこしい議論を避けるために退職者の死亡という事実を伏せておくことだ。そして、1週間後、銀行から「委任状が承認された」という連絡があり、胸を高鳴らせて銀行へ向った。2~3枚の書類に署名をして、待つこと約30分、ついに2万ドルの引き出しに成功したのだ。 銀行での引き出しに成功した後、そのまま大使館に向ってYさんの死亡届を提出した。大使館もすでに状況を知っているので、快く私の申請を受け付けてくれた。これで一件落着だ。私のなすべきことはすべて終わった。後は介護婦が2万ドルの現金を下ろすだけだ。 以前、報告したように、2万ドルは退職者と介護婦の共同名義の口座に振り込まれるので、退職者の死亡の事実が銀行に知れると、その口座そのものも凍結されてしまう恐れがある。したがって、この2万ドルを引き出して他の口座に移動してしまうまで安心できない。休み明けに引き出すこととして、銀行には現金の予約をしておいた。そして、月曜日、農場からの帰りの空港タクシーの中で、介護婦から「2万ドルの引き出しに成功した」との報告を受けて、やっと肩の荷がおりた。病院への支払いを完了して事務所に現れた介護婦の顔には安堵の笑顔が溢れていた。

ある退職者の死の教訓(2)その3 2010年3月23日