Monthly Archives: February 2010


先日、オクラのパッキング工場を見学に行った際、アンヘレスのホテルのレストランで脇に置いておいた「金なし、コネなし、フィリピン暮らし」の本を指差して、「珍しい名前の本ですね」と声をかけてきたのが実石さんだった。「実は、この本は私が書いたんです」から会話が始まって、同席した実石さんの友人がその本を持っていて「サインが欲しい」などという話になり、翌日、実石さんの有機肥料工場、そして今回ブロック工場を見せていただくことになった。実石さんは奥さんの実家であるアンヘレスの郊外の農場を基点に幅広くビジネスを展開するフィリピンに根をはった実業家だ。  実石さんのブロック工場(Real Block)はフィリピン最大の生産量をほこり、月産250万個(10万個/日)に達し、ほとんどを首都圏に出荷している。サイズと強度でまちまちだが、 4インチの標準ブロックで1個3.75ペソ(工場渡し)と競争力のある価格だ。受注残は数千万個でいくら作ってもたちまち売切れてしまうと言う繁昌ぶり。一方、原料はセメントとピナツボの灰でほとんど無限といえるほど存在する。  この日は日曜で休みなので、一組しか働いていなかったが、全部で250人雇っているそうだ。ゲートのガード代わりか、入り口ではワーカーの家族が笑顔で迎えてくれた。 ブロックの製作はすべて人力だ。モルタルをミキサーで練って、型枠に流し込み、それを機械で押し出す。3個一組で1サイクル10秒以下の作業で、3人一組で作業を行なう。ヤードには養生中のブロックが無数に並んでいる。3個x6サイクル/分x60分x8時間=8640個、x12組=103,680個となり、12組で日産10万個が可能となる。一日あたり10万個を出荷するとなると、1台の10トントラックで2500個運べると仮定して、1日40台のトラックが首都圏に向うことになる。運搬は夜間に限定され、一日2往復しかできないので、20台ものトラックが首都圏を毎日往復していることになる。 ブロック工場の脇は採砂場になっている。ブロックを作る砂のほか、砂そのものを建設材料として首都圏に出荷している。実石さんはここに200ヘクタールの採砂場を確保しているが、30mに及ぶピナツボの砂の層にはざっと6千万m3の砂があり、1日5000m3(ダンプ500台、1台あたり10m3)を出荷して、12000日(40年)分の砂があることになる。ちなみに出荷価格はダンプ1台で950ペソだそうだ。  ピナツボの砂の層の間にはプラスティックのゴミが見えるが、これは砂と一緒にゴミが流れて埋まったものだ。この砂の層を見ていると現代もまさに地球が大地を育む営みが続いていると感じる。「100万年前あるいは1億年前の地層から発掘された化石」などということをよく耳にするが、遠い将来20世紀の地層から化石ならず、プラスティックが古代の遺跡として出土されるのだろうか。  実石さんの家と農場があるバランガイへ行くには実石さんの所有する私道を通らなければならない。実石さんの私道が唯一バランガイへ行く方法だそうで、実石さんがこの私道を作るまで、バランガイは陸の孤島でそこへ通じる道路はなかったそうだ。この辺一帯が実石さんの農場だが、全部で100ヘクタールという広大なものだ。道路の左ではとうもろこし、右にはひまわりの栽培試験農場がある。とうもろこしは飼料に利用し、ひまわりはバイオ燃料としての利用するための実験栽培だそうだ。 農場の中央には有機肥料の倉庫がある。ここで藁やとうもろこしの茎、さらに牛糞、鶏糞などを混ぜて発酵させている。実石さんはこの有機肥料の使用を強力に推し進めいているが、フィリピンでは化学肥料万能で、このままでは10年後には収穫が激減するであろうと、警鐘をならしている。日本では数十年前に有機肥料の重要性を再認識し、藁や鶏糞等を利用する有機肥料の生産が奨励され農家や園芸家の必須作業となったのだが、フィリピンの農家ではこの有機肥料の生産をほとんどやっていない。藁は燃され、豚の糞は廃棄物として処理されているだけだ。 肥料工場には大型の農作業の機械が数台置いてある。自分の農場以外にも貸し出して高い稼働率となっているそうだ。また、この日はとうもろこしの収穫機械が中国から到着し、組み立て中だった。日本製なら1000万円はするだろうが、これは300万円程度で購入したそうだ。この機械で1日に5ヘクタールは収穫でき、余っている時間は自分の農場以外にも貸し出すことを計画している。フィリピンでは暑い日中のとうもろこしの収穫作業などの重労働を行なう人が減ってきて、逆に人手不足と言うおかしな現象がおきつつあるのだそうだ。右下の写真は実石さん夫妻。 実石さんのお宅を訪問してびっくりした。まるでゴルフ場のクラブハウスだ。敷地は2ヘクタール(2万m2)あるそうだが、通常の家の敷地が200m2としたら、100軒分で、小さな団地並みの広さだ。まあ、100ヘクタール所有する農地のほんの一部だろうが、とにかく広い。一方、家のあるバランガイの住人の50%以上が実石さんのところに働いているそうだ。まさにバランガイの村長さんで、皆に慕われており、どこへ行っても住民が笑顔で迎えてくれる。バランガイの住人は皆家族と同じだから、実石さんも安心してここに住んでいられる。地域の住民に愛されること、これがフィリピンで安全に暮らすコツなのだ。   この日、マカティに戻ってきたら、前をポルシェ・カレラが走っていた。見たことのない新車のカレラだ。本文には何の関係もないがフィリピンにはお金持ちがたくさんいるものだと、ため息がついた。

パンパンガのブロック工場と農場訪問 2010年2月25日


マニラから日帰りが可能な唯一のダイビング・スポットがアニラオだ。バタンガス市から西へ約20km、タガイタイ経由でも行けるが、約3時間かかる。この日は退職者2名の案内と、パスコのマッサージ嬢2名の慰安旅行もかねて、タガイタイ経由、アニラオで海水浴としゃれ込んだ。平日だったので道路も混んでなくて約3時間の快適なドライブを楽しむことが出来た。 アニラオは工業地帯があるバタンガス湾と反対側のバラヤン湾に面し、マニラ湾の外に位置しているために水がきれいだ。アニラオのリゾートの基点になるのが半島の根元にアニラオの港。港と言っても小規模なものだが、マーケットや海水浴客用の商店があり、ちょっとした買い物が出来る。ちなみにカツオはキロ100ペソでマニラの2~3分の一程度だった。ここから船ないし陸路で20以上あるダイビング・リゾートへ行くことが出来る。港から海の水を見ると海底まで透き通って見える。この辺で泳ぐことも充分可能だ。 アニラオ半島の先端近くにあるのがイーグル・ポイントでアニラオのリゾートの中では最大級だ。ここまで車で行き、昼食を済まし、ボートを借りて、マリカバン島に行くことにした。しかし、それが失敗だった。イーグルポイントは数年前マリカバン島のビーチに休憩所を作り、入場料をとリ始めたのだ。それがなんと500ペソ/人という法外なものなのだ。5人で2500ペソ、とんだ予定外の出費だった。船は往復と3時間の待機で1600ペソとリーゾナブル。 イーグル・ポイントのレストランは海に面していて、とてもすばらしい景色だ。海を見ているだけで心が安らぐ。マッサージ嬢のタンとデビナも初体験にうれしそう。食事はマニラの高級料理店と変らない。しかし味もそれなりに良かった。6人で1850ペソはそんなに高いともいえないが。  20年ほど前に行ったときは全くの秘境的雰囲気を醸し出していたマリカバン島だが、今ではイーグル・ポイントのレストハウスができてありきたりの海岸になっている。当時は何もないから、食料/飲み物はもちろん、ビーチパラソル、テント、クーラーボックス、ゴムボートなどなどありとあらゆる物資とさらにメイドまで連れて行ったものだ。左下の写真はソンブレロ・アイランドでこの一帯で目印となる島だ。ここでキャンプをしたこともある。 海岸は比較的粗めの珊瑚砂であるため水が全くにごっていない。以前は水に入るとすぐにさんご礁があり、もぐらなくても美しい珊瑚を楽しむことが出来た。しかしながら、イーグル・ポイントのレストハウスが出来たために来客が増え、ボートの錨でさんご礁は破壊され、珊瑚の死骸が累々と続いていた。退職者の方には美しい珊瑚が見られると豪語していただけに至極がっかりした。しかし、何の施設もない隣の浜には珊瑚が破壊されないで残っているそうなので、次回はイーグル・ポイント経由ではなくて、アニラオの港で船をチャーターして未開の浜に向うつもりだ。そうすれば一人500ペソの入場料もいらなくなる。 元々、さんご礁の存在も、泳ぐこともろくすっぽできないタンとデビナは美しい景色と水に至極ご満悦で、ご機嫌ではしゃぎまわっていた。ところでフィリピーナは一般に肌を出すことを嫌う。恥ずかしいからかあるいは陽に焼けるのがいやなのか、定かではないが、パンツにT-シャツにブラまでつけてしっかりとガードしている。右下の写真は七面鳥の一種パボという珍しい家禽で、リゾートを歩き回っていた。

バタンガス・アニラオで海水浴 2010年2月18日



今年の2月14日はバレンタイン・デイとチャイニーズ・ニューイヤーとが重なり、しかも日曜日とあって、チャイナ・タウンの混雑は尋常ではなかった。この日はビザの発行を待っている日本人と二人で旧正月恒例の竜と獅子の舞を見にチャイナタウンを訪問した。下の写真はLRT-カリエド駅からのながめ。竜や獅子の舞は夕方なので、とりあえずカリエド駅から東のキアポ教会へ向った。この付近一帯はスモール・デビソリア(フィリピン全土の商店の問屋街)とも呼ばれるが、退職者はその人出に圧倒されていた。ちなみにキアポ教会はブラック・ナザレというキリスト像を祭るもので、毎年1月9日の祭りには100万人の熱心な信者が集まり、街に繰り出したブラック・ナザレに触れようと怪我人まで出る騒ぎとなる。   教会の周りには相変わらず怪しげな占い師(Fortune Teller)や薬草を売る店が並ぶ。この日はバレンタイン・ディとあってバラの花を売る店が目立った。 キアポ教会に向う参道は4本あるが、それぞれ売っているものが違う。洋品雑貨、メガネ/薬品、野菜/果物など、それぞれの通りごとになんでも格安で売っている。  カリエド駅に戻って反対方向に進むとチャイナ・タウンの中心、サンタクルス教会に出る。中央広場には大きな噴水があり、教会と反対側の中国門があるところがオンピン通りで、チャイナタウンを横断してビノンド教会にいたる通りだ。門には「恭喜発財」(コンシーファッチョイと読む)と書かれているが、これは中国語の「謹賀新年」だ。さすが中国、新年を祝うと同時に金をもうけようと志を新たにするのだろう。 オンピン通りは金を売る店がたくさんあるが、通りの屋台では今年の干支にちなんで安物のトラの置物が売られていた。 チャイナ・タウンでは馬車が現役で働いている。観光客と見るとすぐに乗らないかと声をかけてくる。しかし、外人と見ると必ずと言っていいほどぼるのでやめておいたほうが良い。先日、退職者の方が、50と言われて乗ってみたら、降りるとき50ドルを請求されたそうだ。私も50ペソといわれて乗ったら、後で一人50ペソと言われて3倍取られたことがある。 中国人は正月にティーコイを食べる。ゆでて食べる餅だが、意外とおいしい。またパイナップルとみかんで作った飾り物がユニークだが、これはやはり金を意味して、お金が手に入ることを祈願したものだ。  夕方、5時過ぎ涼しくなってきたところで、獅子舞や竜の踊りを見ることができた。太鼓に合わせて二人一組で獅子を舞う。中はさぞ暑いだろうと同情される。退職者の方も竜の踊りを見てやっと満足してくれた。その後はいつもの川沿いの屋台で格安の中華料理を楽しんだ。通りには人ごみに乗じて選挙宣伝カーが走る。

チャイニーズ・ニューイヤーとバレンタイン・デイ 2010年2月16日


フィリピンにおいて天候に左右されずマーケットに安定的に供給されているのが養殖魚のテラピアとバゴスだ。しかも、一般の海水魚がキロ、300~400 ペソもする昨今、その半値以下で買える庶民の味方だ。テラピアは淡水魚でフナか鯉のような形をしているが、白身のあっさりした味で、鯉のように泥臭くなくとてもおいしい。塩焼き、から揚げ、ココナツ・ミルク煮など、食べ方も色々ある。  一方、バゴスは淡水と海水が混じるブラッキッシュ・ウオーターと呼ばれる海岸沿いの養魚場で育ち、鯉のように小骨の多い魚だ。独特の味わいのある魚で、開きのグリル、シネガン・スープ、ラリヤノ・バゴス(後述)、ダイニンナ・バゴス(酢漬けで骨まで食べられる)、ティナパン・バゴス(骨抜きの燻製)など、色々に料理される。この魚の代表的料理であるラリヤノ・バゴスはその厚い皮を生かした面白い料理だ。まず、マーケットの魚屋さんで背骨と肉をえらの部分から全部抜きだして皮と中味に分けてもらう。その手際はなかなか見事なものだ。次に肉から小骨をぬきとるが、これがなかなか大変な作業だ。だからラリヤノ・バゴスを出すレストランは少ない。骨を抜いた肉を細切れの野菜といためて、魚の腹に戻す。そして、それを油で揚げて出来上がりだ。なかなかおいしい料理なので是非試してみて欲しい。この料理はイカなどでもあって、ラリヤノ...と名がついていたら、同じ料理法だ。 テラピアは淡水さえあればどこでも育つ。地方に出かけて大きな池があったら、そこはテラピアの養魚場と思って間違いない。下の写真はタガイタイのタアル湖。無数に浮かぶいかだはテラピアの養殖生簀だ。湖岸の屋台では取りたてのテラピアの塩焼きを安く食べさせてくれる。下の写真はアンヘレスでフレンドシップ・クラブを経営する根本さんの所有する典型的なテラピアの養魚場。1ヘクタール(10,000平米)位の養魚場に数万引きのテラピアが育てられている。ここで育つテラピアは、メスは薬で人工的にオス化され、全部オスだそうだ。オスの方が育ちが早いし、オスとメスが一緒だと子育てを始めてしまい、何かと具合が悪い。そして収穫は、養魚場の水を落とし一気におこなわれるが、池からテラピアをすくうのは買取業者の役割だそうだ。これだけの規模でやるとソコソコ儲かるそうだ。   下の写真は私の農場のテラピアの養魚池。このサイズでは商用にはならず、趣味程度だ。ここではオスとメスが一緒なので、時には稚魚も見ることができる。テラピアは母親の口の中で子育てをする。水面に顔を近づけると、1cm位の稚魚の下に母親がいて、すうーっと稚魚を口の中に吸い込んでどこかへ行ってしまう。テラピアは魚類では珍しい子育てをする魚なのだ。左下写真はバギオのマーケット。山間部のマーケットではほとんどが、テラピアとバゴスで占められる。新鮮な海の魚は入荷が不安定なのだろう。右下の写真はアンへレスのマーケットの行商。やはりバゴスやテラピアが主体だ。

養殖魚の王様、テラピアとバゴス 2010年2月14日



次期統一選は5月10日。この日、大統領を初め、副大統領、1名、上院議員の半数12名、下院議員287名、その他、州知事、市長、市議など、合計 18000人の議席が争われる。2月10日は丁度その3ヶ月前にあたり、公式に選挙戦がスタートした。今回の選挙の目玉はポスト・アロヨの大統領の座だ。アロヨ大統領は憲法を改正し大統領の再選を可能とする画策をしてきたが、アキノ元大統領やラモス元大統領の反発を食らってその試みは頓挫した。特に昨年8 月のアキノ氏の葬儀における国民の熱狂を目の前にして、身を引く以外にはないと悟ったようだ。 ベニグノ・アキノ大統領候補(ノイノイ)の妹クリス・アキノは芸能界を代表する人気女優、右の女性はノイノイの彼女  現状において大統領選の有力候補は5人に絞られる。ベニグノ・アキノ上院議員、マニュエル・ビリヤール上院議員、ジョセフ・エストラーダ前大統領、ギルバート・テオドロ前国防長官そしてディック・ゴードン上院議員の5人だ。  ベニグノ・アキノ3世(ノイノイ):元アキノ大統領の長男、父親は英雄ベニグノ(ニノイ)・アキノでマニラ国際空港の名前にまでなっている。まだ新米の上院議員だったが、昨年の母親(コーリー・アキノ元大統領)の葬儀で一躍注目を浴び、大統領候補に祭り上げられた。マルコス政権を打倒の引き金となった父、そして清廉潔癖な大統領であった母の正当な後継者として大統領の座に挑戦するが、その政治的手腕には疑問があるとされている。人気女優のクリス・アキノを妹にもち、さらに有力財閥のコファンコ家をバックに、圧倒的支持を得てきたが、ここに来てビリヤール候補の追い上げにより、差が小さくなってきている。しかしテレビで演説を聴いていても何かカリスマ性に欠け、小物という感をぬぐえない。それよりもいっそ、人気女優で同じく英雄の血を引くクリス・キノ自身が立候補したほうが確実という気がするのだが。 副大統領候補はロハス上院議員。彼は、元々は自由党の次期大統領候補と目されていたが、昨年の熱狂的アキノ人気のためにベニグノ・アキノ3世に大統領候補の席を譲り、副大統領として立候補した。当選したら、経験の浅いアキノ候補を補佐して国政をおこなっていくことになるのだろう。 マニェル・ビリヤール(マニー):東洋一のスラムといわれるトンドでエビを売っていたが、その後不動産事業で財をなし、マニラの南、ラスピニャスの市長から、下院議員、上院議員と上り詰め、その仕上げとして大統領選へ挑戦した。選挙戦初日の演説会場には、多くの有名芸能人が集まり、歌や踊りを披露し、観衆にサービスした。さらに豊富な資金を武器に、テレビに頻繁に登場し、アキノ候補を猛追し、ほぼ互角の支持率を獲得している。マニー(金)というニックネームも皮肉だ。毒舌で有名なミリアム・サンチャゴ上院議員も赤いドレスを着て同じ国民党の候補であるビリヤール候補を応援した。副大統領候補は美人政治家のレガルダ上院議員。 超有名俳優のドルフィーとウイリービリヤール候補を応援するが、彼らは30M ペソ(約6千万円)の謝礼をもらって、応援しているという。フィリピンの大統領選はマニフェストがどうのこうのではなく、いかに人気俳優達の人気に背負われて票を獲得するかという競争なのだ。 ジョセフ・エストラーダ(エラップ):元人気アクションスターで、1998年大統領に選ばれたが、不法賭博フエテンによる不正蓄財等により2001年アロヨ副大統領らにより政権を追われた (EDSA革命2)。さらに2007年不正蓄財で有罪となり終身刑の罪となったが、アロヨ大統領は即刻、特赦をあたえ釈放した。その後、大統領の再挑戦を目指し活動してきたが、前大統領であるエストラーダの立候補については憲法違反であるとの指摘もある。しかし、貧民層への人気はいまだに根強いものがあり、72歳の最年長候補者だ。 自分自身が芸能界出身ということか、テレビコマーシャルでは派手なパフォーマンスは無く、静かに国民に語りかけるポーズをとっている。終身刑を食らった身で浮かれるわけにも行かないのだろう。副大統領候補はマカティ市長のビナイ市長。かねてから反アロヨの姿勢を明確にして、たびたび反アロヨのデモをおこなってきた政治家だ。 ギルバート・テオドロ(ギボ):名門フィリピン大学を主席で卒業し、ハーバード大法科大学院卒業というエリート。43歳の若さで現政権の国防長官となり、若干45歳の若手政治家だ。アロヨ大統領の正式な与党後継者だが、アロヨの政治とは一線を画している。アキノ候補と同様にコファンコ家の一員だが、知識層の支持を受けている。血統、金、人気で大統領を選ぶのではなく、能力で選べと、暗に他の大統領候補者を非難している。そのためか、テレビコマーシャルへの露出度は少ない。 リチャード・ゴードン(ディック):1990年代、アメリカ軍が撤退しフィリピンに返還されたスービック経済特別区の長官として、オロンガポの住民と共に海外から投資を呼び込み、スービックに今日の繁栄をもたらした。市民に生活の糧である仕事を与えるというキャッチフレーズで大統領を目指している。 […]

統一選挙戦の火蓋が切られた 2010年2月12日


 パンデサール(Pandesal)とはパンの一種だが、直訳すると塩パンといったところだ。かすかに甘みがあって焼きたてはそのまま食べてもとてもおいしい。直径5cmくらいの小さなパンで、一個たったの2ペソだ。評判のパンデサールを売る店がマカティの北のはずれ、パシッグ川沿いのJPリザール通りにある。フィル・マリスというパン屋さんは裏でパンデサールを焼いており、焼きたてのパンを売る午後3時ごろになると店先に人が絶えない。 しばらく前、小さな女の子を連れて事務所にやってきた退職者がいた。まだフィリピンに来て数日という3歳くらいの女の子は、お腹がすいたようで、パンデサール、パンデサールとフィリピン人の母親におねだりしていた。その時はまだパンデサールが何かを知らなかった私は、あとからそれを見せられてびっくりした。しかし、食べてみると意外とおいしくて、その子がねだっていたのもわかるような気がした。  先日、児童養護施設でボランティをしていてなくなった日本人は、おやつ時になると、このパンデサールを買ってきて施設の職員に配るのが習慣だったそうだ。パンデサールは店先にはおいてなくて、注文すると売り子が中に入って行って、熱々のやつを持ってきてくれる。一つたったの2ペソだから、50ペソで25 個、100ペソ買ったら50個でかなりの量になる。 その売り子がなかなか愛想が良くて一枚写真を取らしてもらった。ポーズもとってくれたが、良く写っていないので割愛する。

熱々のパンデサールはいかが 2010年2月12日



先日NHKで日本の子供の学力低下が問題となっていると報道されていた。とある19歳の女性は両親が離婚して母親が毎日遅くまで働いていて、妹の世話や家事で勉強する暇がなかった。わからないことがあっても教えてくれる人もいなかった。そのため、学校の授業について行けず、結局高校を中退して働いた。しかし職場でも簡単な算数ができず、学力不足ゆえの疎外感のため、将来の人生が描けないでいるという。  その例えとしてあったのが、「面接で1か月分の給与の額を聞かされて、1年でいくらもらえるのか即座に計算できなかった」だった。今、仮にフィリピンで巷の人に、「1ヶ月の給与が12000ペソで、1年で幾らになりますか」と聞いて、何人の人が144000ペソと暗算で即座に答えることが出来るだろうか。 10人に一人いればいいほうだろう。となると、フィリピン人は皆学力がとてつもなく低いのだろうか。 パソコンに興じる子供達  近所のサリサリ・ストアーで2本のサンミゲルビールを買って帰るのが私の毎日の日課だが、2本のビール(1本ビン付で21ペソ)に氷5ペソを買って、50 ペソ支払ってお釣りがいくらか、売り子は計算機を使わないとわからない。21+21+5=47、50-47=3、を一々計算機で計算するのだ。だからボタンを押し間違えて、とんでもない結果になっても、暗算でわからないから評価できず、計算機に従ってお釣りをよこそうとする。 サリサリのお姉さんではさもありなんというところだが、かつて、フィリピン随一の法律事務所、シッシップ・サラサールの会社法専門のエリート弁護士と打ち合わせを持った時のことだ。フィリピンの会社法の説明を受けているとき、彼女は簡単な計算を黒板で試みた。一応エンジニアーを専門とする当方としては、いとも簡単な計算だったが、彼女はわけがわからなくなりパニックに陥ってしまったのだ。こんな優秀な弁護士でも、こと計算となると日本の小学生並みなのだ。  私の知り合いに計装の施工会社の社長さんがいるが、彼がアメリカの大学院に留学していたときの話だ。かれはもともと数学が苦手だったが、アメリカの大学院では数学に関して最優秀の学生だったそうだ。だから、アメリカ人は数学がまるでだめだと笑っていた。 マクドナルドのドライブスルーのお姉さん  何故、欧米系の人々は数学ないし算数が苦手なのだろう。もちろんすべての人ではないだろうが、一般的にそう感じられる。フィリピンの算数/数学の教育は小学校から英語でやるから、教育の仕方は欧米系と一緒だろう。これは一体何だろう、と色々話し合ったことがあるのだが、小学校で反復練習した九九に原因があるのではないかという結論に至った。英語で九九を言うと、日本語ならKuku hachijuichiというところをNine times Nine equal Eightyoneとなり、いかにもまどろっこしくてリズム感がない。こんなものでは何度反復しても憶えられないだろう。これが算数のスタートで決定的なネックとなり、大多数の生徒が暗算で計算するのを放棄してしまうのだろう。特に現代は計算機があるので何とか繕うことができてしまいあきらめるのも早いのだ。 […]

日本の学力低下 2010年2月10日


日本で不動産業を営む50歳のKさんが退職ビザを取得中だが、その方はフィリピンで農業を営みたいとのことなので、現場に案内した。場所はマニラの北方約120kmのターラックにあるGreenstar Produce Phils., Inc.、大渕さんが経営するオクラの農場だ。ちなみにKさんはすでに13ヘクタールの土地をフィリピン人の妻の名義で所有し、最近250万ペソで8ヘクタールの農地を購入したとのこと。なんと平米当たり31ペソ、たったの60円/平米だ。  全くの予備知識無しに出かけていったので、到着して施設の立派さに驚いた。農家というより農協だ。大渕さんから詳しい話を聞いて納得したのだが、まさにここはオクラ専門の農協だったのだ。出荷するオクラの2割は自社農園、8割は契約農家から調達し、約150ヘクタールの畑から取れるオクラを年間18万ケース、700トン出荷しているそうだ。 http://www.greenstar-produce.com/top_japanese.htm 8~9月に植えつけて、10月~5月に収穫する。この時期は日本国内産のオクラが取れない時期で、このころスーパーで買うオクラはすべてフィリピンなどの南の国でとれるオクラなのだ。出荷したオクラは親会社であるワタリという商社を通じて日本全国へ出荷される。Greenstarのシェアはフィリピンから輸出されるオクラの30%以上だそうだ。まさに商社が独自に食料を海外の農場から直接買い入れ、販売している現場なのだ。(今日は日曜だったので、事務所は空だったが、オクラの袋詰め作業はフル稼働で休みなしとのこと)。 オクラ畑は広大だった。オクラの背丈は50cmほどだったが、すでに実をつけている。これから人間の背丈ほどになるまで実をつけ続けるのだ。オクラは成長が早く、一日収穫が遅れると大きく固くなって食用にできない。しかも身についた細かい毛が皮膚についてかゆくなるので、朝から晩まで毎日欠かせない収穫作業はきついものがある。人の目で見て食べごろのオクラを一個一個収穫しなければならないので、収穫作業を機械化するのは不可能。だから人件費の安いフィリピンにぴったりだ。実は私も30m2くらいのオクラ畑をタバコ市の農場で作ったことがあるが、毎日バケツ一杯取れるオクラに往生した。毎日ゆでたオクラを食べ続け、すっかりオクラ嫌いになってしまったものだ。 ちなみにオクラの花は黄色い可憐な花で、きり花としても使えそうだ。畑から直接とって食べるオクラはしゃきしゃきとしてとてもおいしい。右の写真は玉ねぎ畑。フィリピンの玉ねぎはとても小さく、ニンニクのように調味料として使うので単価が高い。しかもパンパンガは玉ねぎの名産地だそうだ。退職者が狙っているのがこの玉ねぎ、それに鶏の飼料用のとうもろこし、米などだ。 Greenstarの一階が袋詰め工場になっており、約60人のフィリピーナが働いている。彼らの給与は出来高制だが、一日250~300ペソとなり、現金収入の少ない農家にとっては貴重な現金収入だ。工場に入るためには白衣を着て靴も履き替えるという厳重さだ。 収穫されたオクラはまず選別される。大きさや傷など手際よく調べられ、全体の40%がはねられてしまう。廃棄されるオクラは充分食べられそうだが、なんとももったいない。その後は弱塩素水によって洗浄される。 そして袋詰め作業。慣れた手つきでどんどん袋詰めされる。すべてが手作業で厳重な衛生管理の下で作業が進められる。過剰品質ともいえないこともないが、一旦クレームがついたら、しばらくの間、オクラの出荷が停止されることになり、その損害は計り知れない。だから、絶対に不良品の出ない体制を敷いているという。 箱詰めを終えたオクラはマニラまでトラックで運ばれ朝便の飛行機で日本へ運ばれる。鮮度が命の野菜は時間が勝負だ。収穫から始まって、選別、洗浄、袋詰め、ラベル貼り、箱詰め、搬送の過程は24時間常に誰かが何かの作業に携わっていることになる。 農場からアンヘレスに戻る途中、あのスカイラインGTRに遭遇した。プレートナンバーもGTRという、なんとも凝った車だ。日本でも800万円して、現在世界最速のスポーツカーだと、大型バイクを乗りますのが趣味というKさんが教えてくれた。 この日の朝、ホテルでたまたま知り合った日本人のJさんが、有機肥料の生産販売をおこなっているというので、アンヘレスで落ち合って工場を訪問した。この方は、100ヘクタールの農地を持って農業も手がけているという実業家で次回はJさんの農場をじっくり訪問させていただきたいと思っている。

フィリピン産オクラの生産現場を訪問 2010年2月9日



マカティ、パソンタモンのマカティスクエア、リトル東京にあるのが、ラーメンの老舗、「新宿」だ。下手な日本のラーメン屋さんよりよほどおいしくて種類も豊富だ。右下の写真はマカティ・アベニュー沿いにある支店だ。マカティスクエア界隈は日本料理やがひしめく激戦地だが、「新宿」は中でも、もっとも古くその激戦を勝ち抜いてきたつわものだ。その秘密は多くのフィリピン人に支持され、特にマカティ・アベニュー店はほとんどの客がフィリピン人だ。 パソンタモ本店は数年前リニューアルされ、以前の倍ぐらいの大きなモダンな店に生まれ変わった。もともととなりは同じ経営の「原宿」というカラオケだったが、そのスペースを取り込んだのだ。「新宿でラーメン食べて隣の原宿でカラオケをやってくる」という会話に、日本から来たお客さんは「一体何を話しているのか」と首をかしげていたものだ。 私が駐在をはじめた1989年は日本料理といえば、数件しかなく、この「新宿」は貴重な存在で、94年に事務所をアラバンに移転するまでの約5年間、毎日昼食をここで取ったものだ。中でも一押しは辛口ネギラーメン。このラーメンを食べたのは100回を下らないだろう。その外、マーボー・ラーメンやチャーハン、固いやきそば、餃子に野菜炒めなどなど、和式中華料理が何でもおいしい。 最近はフィリピン人の客が多いせいか、すし、刺身、天ぷら、鉄板焼きなど、和食料理の定番もメニューに載っている。フィリピン人は和食料理店となれば当然のごとく天ぷらや刺身を注文してくるので、店側としては、「ここはラーメン屋で日本料理はありません」とは答えても理解されないのだろう。この日は二人だったが、3人分注文して約1200ペソかかった。(メニューがピンボケですみません)  

老舗ラーメンや「新宿」2010年2月4日


Max’sレストラン・チェーンはフィリピン料理専門店としてフィリピン最大のチェーンで、マニラのみならず全国展開をしている。料理は伝統的なフィリピン料理で、フィリピン料理を試してみたかったら、ここで食べれば間違いない。このほかにも有名なフィリピン料理の店としては、カマヤン(手食)、アリストクラット(高級)、バリオ・フィエスタ(村祭)などがあるが、外人向けで少々高い。1945年創業のMax’sは今年で65年目を迎える老舗でもある。 フィリピンの味噌汁、シネガン・スープはすっぱい味がなんとも健康によさそうだ。この酸味はサンパロック(タマリン)の若い実をゆでてすったもので、サンパロックのほかにもグアバやミソの実を使ったシネガンもある。具は豚肉、エビ、ラプラプなどの魚など色々だが、今日はちょっと変わった鮭のシネガンを注文した。右はカレカレ、フィリピンのカレーといったところだが、ピーナッツベースの味は少しも辛くなく、バゴオン(塩辛)をあえて食べる。 フィリピン人は案外豆腐を好んで食べる。熱い鉄板に載せて持ってくるのをシズリングといい、肉や魚のシズリング・ステーキがポピュラーだが、豆腐シズリングというのもある。これが案外美味だった。ちなみに朝早く、タホー、タホーといいながら、ステンレスの大きな容器を担いで歩いている人は、豆腐にシロップを混ぜて、5~10ペソで忙しいサラリーマンの朝食代わりに売っているのだ。右は最もポピュラーなフィリピン料理、パンシット・カントン(やきそば)だ。これにチョップソイ(野菜炒め)を頼んでおけば間違いないし、不足がちな野菜も取れる。  フィリピン料理といえば、このほかに、クリスピー・パタ(豚足のから揚げ)やカルデレータ(牛肉などの柔らか煮、ソースかけ)、レチョン(子豚の丸焼き)などが有名だが、糖尿病の私にはちょっと手が出ない。しかし、取って置きはデザートのハロハロだ。かき氷の一種だが、アイスクリーム、プリン、三つ豆、寒天(ナタデココ)などできる限りの具材を入れてごちゃ混ぜにして食べるのがフィリピン式だ。これも糖尿病の私は分け前に預かることは出来なかった。 Max’sの看板料理はチキンのから揚げで、一匹丸まるのから揚げがサイズにより300~400ペソだ。その他の料理の値段は150~300ペソ程度。3人で多めに頼んで飲み物、デザート込み1100ペソだった。(メニューは拡大して見てください) SMマカティの中にあるMax’sに行ったが、なかなか混雑している。一人や二人で食べている人もいて、気軽にフィリピン料理を楽しめる場所だ。

フィリピン料理Max’sレストラン 2010年2月3日