Monthly Archives: April 2009


 昨夜、NHKの「追跡A to Z」という番組で「無届老人ホームの闇」というのをやっていた。生活保護を受けている介護が必要な老人が特別養護老人ホームにも入れず、行くつくところは、全国に600箇所もある劣悪な環境の「無届老人ホーム」しかない、と言った内容だ。またさらに、全国に特養の順番待ちが30万人おり、これら老人はその一部だそうだ。  特養は従来、貧困層を優先していたが、介護保険の導入以来、富裕な層も平等に扱うべきという建前から、貧困層が行き場を失い「無届老人ホーム」に流れているそうだ。しかも、その「無届老人ホーム」に入居を斡旋しているのが市役所だというのだ。市役所の担当者もそれ以外に貧困介護老人を世話する方法がないのだろう。さらに新規の特養はよりよい環境という掛け声で高級/高額化し、特養に入居の申し込みさえできない貧困層が出ているそうだ。放送の中で識者が「いつのまにこんな日本になってしまったのか」とコメントしていた。  フィリピンなら生活保護で支給される10万円程度のお金で家賃と食事さらに介護も含めて十分やっていける。ビザ取得のための1万ドル(年金生活者)と施設建設の初期投資が問題だが、これを制度的に解決すれば、これら介護老人に個室や手厚い介護を提供することが可能だ。これは日本のゴミ捨て場に追いやられている老人を救う大いなる慈善事業ともいえる。  ところで、私のタバコの農場には日本人退職者が一人ロングステイしている。個室、3食、その他すべての面倒を月々4万ペソ (約8万5千円)で賄っている。人手は十分あるので介護が必要になったとしても何の問題もない。彼は新しい家族に囲まれて極めて快適な生活を送っている。これをヒントに思いついたのが、フィリピンにおける介護老人のホームステイだ。   フィリピンで居室に余裕がある家庭に日本の介護老人を預けるのだ。1ヶ月4万ペソを支払うとすれば、ほとんど無数の人が手を上げるだろう。そして住環境や家庭環境を調べたうえで合格と判断されたら、日本から介護老人を招聘して送り込み、定期的に巡回して満足度をチェックするという仕組みだ。フィリピン人の老人を大事にする心は定評があるから、きっと手厚い介護をしてくれるだろう。ビザの問題はPRAと掛け合って年金や生活保護費だけで退職ビザ発行されるようなアレンジが必要だろう。  上記の仕組みの問題点は医療の問題だろう。いろいろな病気を抱えているお年よりも多いから、それに適切に対応できるかだ。すくなくとも「無届老人ホーム」よりはましだろうが、色々なところから疑問の声が上がることは目に見えている。日本人がこれならばと思える医療施設や介護施設を整えるとなると、どうしても一人数百万円の初期投資がかかってしまう。既存の施設などを利用してそれをいかに安く押さえるかが鍵だろう。医師を巡回させるなどという仕組みも必要だろう。

「無届老人ホームの闇」2009年4月26日


 私の友人のロリーの50歳の誕生パーティに招待された。グリーンヒルのクラブ・フィリピーノという大きな会場で華やかに行なわれた。我々日本人は50歳あるいは60歳といった年になると、なんやら情けなくて、誕生会を開いてお祝いする気にもならないが、フィリピンでは1歳の誕生日以来、死ぬまで祝うのだ。特に年を取れば取るほど長寿がめでたいということで祝うのだそうだ。 しかし、彼の場合は格別の意味がある。若いころから、自分はせいぜい40才位までしか生きられないと言っていた。それは肝臓か腎臓に疾患があって、体型も超肥満型で、私もダイエットをして体型を整えないと長生きできないと、忠告していた。しかもつい先日脳梗塞をわずらって倒れたのだ。半身麻痺の状態だったそうだが、この日会ったら、全く元へ戻っていた。   ロリーとはクゥエートの建設現場に駐在していた時に、私の部下として働いて以来、26年の付き合いだ。フィリピンでも会社の幹部として長いこと使っていた。現在は独立して建設マネージメントの会社をやっているが、中東のプロジェクトを受注するなど順調だそうだ。彼は私の知っている人(日本人も含め)の中では5本の指に入るほどの優秀な頭脳の持ち主で、並みの日本人ではとても太刀打ちできない。 会場には100人ほどの招待客が、高級料理とされる子牛のレチョンなど料理を楽しんでいた。大き目の豚のレチョンも2頭ほど用意されていたが、子牛のあっさりしたレチョンの方がはるかに美味だ。口にしたのは15年ぶり2度目の貴重な体験だ。  簡単なスピーチをやらされたが、スクリーンには彼の若いときの写真が映し出され、歌やダンスなど催し物もふんだんだった。ダンスタイムではプロのダンス・インストラクターがお相手をしており、なんども誘われたが、皆上手に踊っているのでとても踊る勇気はなかった。  帰りの足が心配で10時過ぎに失礼したが、パーティは12時過ぎまで続くそうだ。ここにはフィリピン独特のスクォーターや貧しさなどの気配もなく、皆、紳士、淑女、そして子供は太り気味な子が多かった。  一方、先日の日曜日には友人の日本人の子供の1歳のパーティに招待された。グロリエッタのDadで、こちらも50人ほどの人を招待して行なわれた。もちろん本人は分けがわからないだろうが、誕生日というのはことのほか大きなイベントなのだ。ちなみに誕生日プレゼントは別に気にしなくてもよいようで、出席して祝うということが重要らしい。  

誕生日は幾つになっても祝うのがフィリピン流2009年4月22日



 男が女を選ぶ条件は一にも二にも可愛いかどうか、に尽きるといってもいいだろう。性格がどうだとか、頭がどうだとか、金にどうだとか、そんなものはほんの付随的条件にすぎない。いかにも単純なのが男の条件だ。さて女性、とりわけフィリピーナ(フィリピン女性)は一体どういう基準で男性を選び、結婚を決意するのだろうか。 カラオケ・ショークラブ、ニューサチのダンサー達   最近、元花街で働いていたフィリピーナとプライベイトに話す機会があった。彼女は日本人の男性と良い仲になり、場合によっては結婚という可能性もある。その男性を横においての会話である。彼女は21歳、すでに一児の母で、ある程度世の中のことがわかっている大人の女だ。 まず第一番目の条件は  1. 優しいこと  フィリピンでは人を誉めるとき、マバエット(やさしい)と評する。これですべての人格が表現されてしまう。男性は優しいこと、フィリピンではこれが最も重要で、日本人の男性はほとんど落第するのではないかと思う。フィリピーノ(フィリピン男性)の優しさにはとても足元に及ばない。フィリピン流の優しさとは日本のものとは少々勝手が違う。あくまでも表面に現される態度が重要で、日本人が心の底に秘める思いやりなどとはあまり関係がない。  特に日本人亭主の妻に対する横柄な態度はフィリピーナにとっては悪魔のように映るだろう。人前で妻をののしったり、怒鳴ったりしたら、100年の恋も愛もどっかへすっ飛んで一生の敵となることは間違いない。妻や子供そして妻の家族などに対してはどんなに優しくても優しすぎることはないのだ。   どんなに腹が立っても人前では妻に対してはあくまでもにこやかにしていなければならない。そして二人きりになったとき、なぜ、そういうことになったのか、やんわり聞いてみる。妻としてもそれなりの事情があったわけで、良く話し合ってみるべきだ。大概は日本人のフィリピンについての理解不足が原因で、フィリピンでは日常で、ささいで、当たり前なことに腹を立てている自分に気がつくだろう。   さらに夫婦である限り、妻の義理も自分の義理で、妻のお愛想にも付き合わなければならない。フィリピン人の人間づきあいは日本の数十年前の田舎のようで、義理と人情にがんじがらめなのだ。だから、フィリピーノのホスピタリティを身につけなければ早晩、妻に愛想を着かされてしまうだろう。 フィリピンのGRO(ホステス)はとても可愛くてホスピタリティに溢れ、熟年諸氏をとりこにする  そして第2番目の条件は  2. 生活力があること  そんなに大きな金は入らないが全うな生活をして行く位の金あるいは稼ぎがあること。結婚ということを考えた場合、当然のことだろう。フィリピンには、これを満足できず、彼女をはらましたらドロンという輩が多すぎる。堕胎が禁止されているフィリピンでは、男に逃げられ、生まれた子供を養うために花街に落ちていく女性が数知れない。   この点ほとんどの日本人は合格だろうが、多少のまとまった金を持ってはいるが年金や給与などの定期的な収入がない、というのは少々具合が悪い。フィリピーナはご承知の通り、預金というものをしない、あるいはそんな金を持ったことがない女性がほとんどだ。特に花街に働く女性やジャパユキさんにとって 100万円というお金は天文学的数字で、いくら使ってもなくならないと感じるだろう。だから彼氏や亭主がそんなお金を持っていたら、バカスカ使ってしまい、早晩使い切ってしまう。亭主としてはしっかり財布の紐を縛っておかないとやばいことになる。その点、年金などの定期収入があると、なくなってもまた入ってくるので安心だ。その亭主がいなくなると収入も途絶えてくるので、家族をあげて大事にしてくれるだろう。 […]

フィリピーナの結婚の条件2009年4月20日


 農場のあるタバコ市の港から、サンパンボートで約1時間のところにPinamintoganという小島がある。干潮では本島のCagararay島と陸続きになる、2~3ヘクタールの小さな無人島だ。島には何の施設もないが、500mほどのビーチが我々一行で独り占めだ。そこは絵に描いたような白砂と椰子の木の海岸が広がる。そして海は透明であくまでも青い。快晴に恵まれたこの日、二人の山さんと15人ほどの連れがピクニックを楽しんだ。 遠浅の海岸なので海の中をあるいて上陸しなければならない、荷物運びは男の役割だ 遠浅の砂浜は子供達が遊ぶにはもってこいだ。波もほとんどない   昼食は港で買ったイェローフィンという小さなマグロの刺身とバーベキュー、木陰はとても涼しい ビーチの連続写真上の2枚と下の2枚が合計4枚が連続している 帰り道はCagararay島の反対側をぐるっと一回り、海と島とマヨン火山の景色を満喫した    この日、タバコ湾から眺めたマヨン火山はまるでたすきを巻いたような雲がかかっていた。空気が澄んでいるせいか、雲はあくまでも白く、空は青い。それだけに陽射しも強く、肌を露出しているとあっという間に日焼けしてしまう。だからフィリピーナは皆T-シャツを着て泳ぐ。 港に到着、降りるのに一苦労する、隣はイエローフィンやカツオを荷揚

小島訪問2009年4月12日



 聖週間と訳されるホリーウイークはイエス・キリストの磔による死を悼み、そして、その復活を祝う宗教的行事だが、市民がキリストやマリアの像を引いて歩く姿は日本の夏祭りと通じるところがある。木曜と金曜は祝日で翌土曜と日曜の4連休となり、それぞれの曜日にちなんだ催し物が行なわれる。ホリーウイークの日程は毎年異なるが、本年は4月9日(木)~12日(日)となり、その前後の交通機関は故郷へ向う人そしてUターンでどこも超満員だった。   タバコ市のメインストリートのZiga 通り、遠くに見えるのがタバコ教会  木曜日はMaundy Thursdayと呼ばれ、聖書を読んだり、聖書にちなんだ劇を見たりして敬虔な気持ちになる。金曜日はGood Fridayと呼ばれ、キリストが磔に処される日だ。この日、人々はキリストの痛みを知るために、地方によっては裸足で十字架を担いで歩いたり、本当に釘を手足に打ってで磔になったりする。だが、普通はキリストやマリアの像を引いて街を歩くだけだ。土曜日はBlack Saturdayと呼ばれ、キリストの死を悼む。この3日間は肉を食べてはいけないことになっているが、さほど厳密に実行されているようではない。日曜日はEaster Sundayと呼ばれ、キリストの復活を祝う日だ。   街はバランガイごとに自慢の山車を引いて歩く 夜の7時を過ぎると20~30mごとに山車が並び、さながらラッシュアワーのように渋滞する  行列は2時間足らずで終わるが、行列に参加しないで見物する人たちもかなりのものだ。タバコ市だけでも双方合わせて、3~4万人に達するのではないかと推定される。見ていて飽きるほどの人が並んで歩いていた。一方、マニラはガランとしており、渋滞も大気汚染もなく、生粋のマニラッ子にとってもありがたい1 週間だったろう。 行列を見物する人々が道の両側を埋め尽くす

ホリーウイーク中、田舎は人で一杯2009年4月12日


 ホリーーウイーク(4月9日~12日)の連休を利用してタバコの農場に戻ったが、今回はすでに農場にロングステイしている山さんに加え、もう一人の山さんを同行した。ホリーウイークの様子は別途報告するが、今回特筆すべきことは、もともとここで6年間暮らしていたデビナが戻ってきたことだ。 夏を迎えてマヨン火山はその勇姿を惜しげなく見せてくれた(ファームハウスのベランダから)  デビナ(下の写真の右端)は私の相棒の親戚で家庭の都合から小学校6年からカレッジの2年まで、この農場で暮らしていた女の子だ。昨年の8月、母親に呼び戻され、2年制のカレッジを中退して、マニラ近郊のラグナの実家に戻っていた。今は学校の卒業シーズンなのだが、最後の学期を残して中退したはずのデビナが、成績優秀故、卒業させてもらえることになったのだそうだ。彼女もこれで立派に学卒として人生のスタートを切ることになった、花の19才だ。私が始めてあったときはまだ12歳だったが、その時からすでに大人の雰囲気を漂わせていたが、美人はませて見えるというが、まさにその通りだ。   フィリピーナ達に囲まれて幸せそうな山さん 、右がデビナ、左は親戚のキム13歳、中央が3歳の双子 レガスピ空港に降り立ったもう一人の山さんカップル、右はマヨン火山中腹の展望台にて 二人の山さんを迎えて食卓にのぼったテラピア、右の子豚はレチョンにする予定だったが、ホリーウイーク中は殺生したり、肉を食べてはいけないというので、かろうじて命を救われた。  現在、わが農場ではファームリゾートとして5棟のコッテージとプール、庭園などの建設を計画している。私の引退後の再就職先となる予定だが、もともとデビナはそのためにHRM(Hotel Restaurant Managementホテル・レストラン運営学科)に通わせていた。家庭の事情で中退してしまったことを痛く悔やんでいたのだが、念願の卒業がかなったのだ。すでにロングステイしている山さんもゆくゆくここに永住することを考えており、常時、5人から10人程度の宿泊客を迎えるリゾートとなる予定だが、やはり誰かマネージする人がいる。さらにまた小さなリゾートだから料理からメイドの仕事まで自分でこなさなければならない。彼女なら若いしうってつけだ。私の世話を2年間ほどやったのだから、日本人の気持ちもよくわかっている。そんなわけで、ビバリーファームリゾート第1号の社員として就職が決まったのだ。   先月生まれた子犬たちが双子の良い遊び相手となっていた

ホリーウイークの帰郷2009年4月12日