Monthly Archives: August 2008


  フィリピーノに、今なら100ペソ、明日ならば1000ペソ上げるというと、今の100ペソを選択するそうだ。明日のことなど当てにならないし、今確実に100ペソもらったほうがいいという。そして今日の稼ぎを全部使ってしまい、明日は明日の風が吹く、宵越しの金を持たないという江戸っ子気質をもっているのがフィリピーノなのだ。そのため貯金とか備えという概念が希薄で、お金を貯めているフィリピーノはほとんどいない。聞いてみるとほとんどが借金を抱え、それを返すのに汲々としている。これは、亜熱帯という気候が一年中作物をもたらし、備えということが必要のない暮らしを何万年もしてきたことによると私は解釈している。 この預金をしないということについて、最近気が付いたことがある。もし仮に思わぬ大金が転がり込んだとして、それを大事に預金したとすると、早晩姻戚や親しい友人のトラブルや病気やらでなくなってしまうことは目に見えている。もし姻戚にトラブルがあって金を無心されて、金があるのに断ったとする。そうなるとたとえ相手がそのことを知らないとしても、罪の意識に駆られて耐えることができない。あるいはまた、金があるのに助けてくれなかった、あいつは人の心を持たない悪魔のような奴だと逆恨みされてしまうのだ。そして結局は姻戚のためにすべての蓄えを使い果たしてしまうことになる。それならば、いっそ家や車など簡単に換金できないものに使ってしまい、自分の生活をエンジョイしたほうがましということになる。どうもフィリピンでは必要以上の現金を持つということは必ずしも良いことではなく、逆に人間関係を破壊する要因になることが多いようだ。フィリピンに住むならばフィリピン流に「宵越しの金は持たない」といった生活態度を身につけなくてはいけないのかもしれない。少なくともフィリピーノと家計を共にするのであれば「郷に入っては郷に従え」という原則がここでも活きているようだ。 この笑顔に一万年の重みがあるのです   お祭り(フィエスタ)が近づくと、できる限りの借金をして数百人分もの食べ物と飲み物を用意して、不特定多数の客を歓待する。そしてその翌日から1年間、次のフィエスタまで、その借金を返済するためにせっせと働くのがフィリピーノなのだ。言ってみれば先に貯めて使うか、使ってから貯める(返す)のかというだけの差かもしれない。ただ先に使って返済の形をとると利子を払わなければならないとことが違うだけだろうが、借金ならいざとなると踏み倒せるだけ有利かもしれない。いずれにせよ、フィリピーノにとっては、人から借りるのも、自分の貯金を使うのも、どっちにしても大差のないことなのだ。 このように常に金銭的に水平線以下で暮らしているから、フィリピーノはお金を借りることあるいはお金の無いことには慣れている。お金が入ったら持ち前の負の預金と相殺され、あっという間に消えてしまう。したがって、あげようが、貸そうが、預けようが、いずれにせよいったんフィリピーノの懐に入ったらその人のものになってしまい、もはや戻ってこないということが多発するのだ。こと金銭に関しては、あげる、貸す、預けるは、フィリピーノにとってはほとんど同義語だ。すなわち、借りた金を返さない、あるいは預かった金を使ってしまう、そして、それに対して特に罪の意識が希薄なのだ。その辺は、所有という概念が根本的に違うのか、日本人にとっては大変わかりづらいところだ。 水平線以下であろうとあるまいと子供は子供だ 水平線以下の生活に慣れると、まとまったお金が入るとそれを使うことに夢中になる。貯めておこうなどという発想は決して起きない。金がなければないでよし、金があったらなくなるまで使うのがフィリピーノなのだ。だから、いったん金があることを知られるとフィリピーノはあの手この手でその金を使うことを提案してくる。親や兄弟が実に頻繁に病気になったり、甥や姪が入学したり、使う理由は際限なく沸いてくる。金があるのに出さないと恨まれる、かといって出せばきりがない。 俺は金がたくさんあるなどということを絶対にくどき文句にしてはいけない。言質をとられてとことん使わされる。大きなお金は持ってこない、お金が無いのが一番、だまされることも無くフィリピンで安全に生きていくコツだ。本当にフィリピーナに愛されたら、お金なんぞなくても、きっと彼女が養ってくれるだろう。でも無一文で好きになってくれるかどうかは、保障の限りではない。 愛しのフィリピーナ予備軍 そこでフィリピーナと生計を共にすることになった時の注意点。 年金や給与あるいは利子など、月々の決まった収入で暮らす。例え全部使い切ってしまっても来月になればまた入ってくるので安心。 クレジットカードなどで日本の貯金が下ろせるようにしない。日本の金がなくなるまでとことん使われてしまう。彼女にカードを預けて勝手に下ろせるようにするなどもっての他。 フィリピンに大きなお金を持ってこない、また日本にあるお金も内緒にする。日本の資産は不動産など簡単に換金できない資産にしておくことが望ましい。 […]

豆辞典 フィリピーノは宵越しの金を持たない


前回に引き続きターミナル3の開港(その2)、到着ターミナルを紹介する。 今回は空港の東側から着陸したために、マカティ市の東に開発中のボニファシオグローバルシティの全景を眺めることができた。その後ろのビル群がマカティ市の中心街でフィリピンのもっとも近代的な光景をなしている。 全長1kmを超えるであろうと思われるターミナル3は未だそのほんの一部を使っているに過ぎず、ターミナルの端にセブパシフィックの中型機が数機、駐機しているだけだ。 ターミナルビルに入るとゆったりとした通路を経て、自然に荷物の受け取り場に到着する。もともと国際便用に設計されているために、入管や通関のブースがあるが国内便では使用されていない。通関を過ぎるとすぐに広々とした出迎えロビーに出て、出迎えの人に会うことができる。その点出迎えが大変困難なターミナル1とはずいぶん様相を異にする。  ターミナルビルを出ると長いタクシー待ちの行列がある。下手をすると1時間待ちかと覚悟しなければならないほどだが、さらに道路を渡ったところにクーポンタクシーのブースがあり、そこで申し込むとほとんど待たずにマカティまで440ペソで行ける。黄色の空港タクシーなら200ペソ程度ですむが、長いこと待たなければならないことを考えたら安いものだ。ただ、クーポンタクシーの存在がわかりにくいのでどうにかして欲しいものだと思う。  

マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港(その2) 2008年8月19日



 6年越しに開港が遅れていた第3ターミナルがついに開港した。当面はセブパシフィックなどの国内および国際線が供用を開始しているが、ゆくゆくは最新鋭の国際旅客ターミナルとして、現在の第1ターミナルにとってかわるものと期待される。6年前に完成したとはいえ、40年近く経過した第1ターミナルとは比較にならず、高い天井と広々とした空間は成田空港と比較しても遜色がない。旅客もまだわずかで、ほとんど待つことなしに待合室までたどり着ける。レイアウトもシンプルで自然に各種手続きを進めることができ、迷うという心配が全くない。  マニラからのアクセスもよく、サウススーパーウエイの料金所の手前を右折すればすぐにターミナルに到着する。以前のように渋滞や川べりのスラムを経由することもないので違和感無くマカティの近代都市にたどり着くことができる。このアクセスの改善はフィリピンの印象を向上させるのに大いに役立つだろう。特にフィリピン航空を除く国内線ターミナルは狭く、不便で、汚くて、まさに後進国でございます、と主張しているようなものだった。  第 3ターミナルは日本の竹中工務店が請け負っていたものだが、天井の落下事故をきっかけに、構造上欠陥があるとフィリピンの大手設計コンサルタントが指摘し、工事中断に追い込まれて完成が滞っていた。空港公団と竹中工務店が鋭意工事再開と完成に向けて交渉していたが、交渉は二転三転し、つい先日交渉決裂となってしまった。 ところがごく最近アロヨ大統領が早期開港を指示し、外遊の際、強引にターミナルを使用し、あっという間に開港の運びとなった。工事の再開と完成のニュースが無いうちに開港の運びとなってしまったわけで、なにがなんだかわからないけれども、実際に使ってみてなんら支障はないようだ。  まだほとんどのブースは空で、買い物などの楽しみはまだ先の話だろうが、簡単な食事など最低限の店は出ている。待合所もたくさんの椅子がゆったりと配置され、窓からの空港やマカティの景色を味わうことができる。航空便の掲示も見やすく、とにかく通路が広々としているのが休まる。ここではフィリピン独特の喧騒と混沌とは無縁だ。

マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港 2008年8月13日


 マニラの北約50km、高速道路で約1時間のアンヘレス市(Angeles City)は スービックのオロンガポと同様、巨大な米空軍基地をささえる街だったが、現在はその名の通りエンジェルの街として多くの観光客を集めている。元クラーク空 軍基地の出口にあるフィールドアベニューには百軒近いゴーゴー・クラブが軒を連ね、数千人のエンジェル達が、かつて繁栄を誇ったマニラ、 エルミタのデルピラ通りに取って代わって、日夜世界からの殿方を癒している。両替所がいたるところにあるが、そこではドルと円の交換比率が張り出されてい るが、こんなところでも円が幅を利かせている。  アンヘレスに隣接するクラークは、元米空軍の基地で1990年のピナツボ火山の噴火で壊滅的な被害を受けた後フィリピンに返還され、経済特別区として軽工業、リゾート、住宅地、デューティーフリー ショッピング などとして開発されている。クラークの約半分のエリアは国際空港であり、韓国などからは直行の定期便が飛んでおり、いずれ日本からも直行便が飛ぶものと期待されている。  クラークの中にはミモザなどの大型のビリッジがあり、外国人を誘致すると共に36ホールのゴルフコースまである。 クラークのフレンドシップゲートを出てすぐ左に折れると、フィールドアベニューの延長に韓国料理の店が軒を連ね、クラークはまさに韓国人に席巻された感がある。 クラークの入り口のすぐ近くにはSMモールがオープンしているが、SMグループのフィリピン制覇の一環だろうが、その巨大さに驚かされる。ダウンタウンのフィリピン独特の混沌と喧騒に比べて、ここは超近代的な街そのもので、多くの市民が冷房の利いたモールで快適なウインドーショッピングを楽しんでいる。 アンヘレス市はクラークを控えているせいか、とても活気のある街で、ダウンタウンのマーケットではフィリピンの街並みを満喫できる。

天使が飛び交う街アンヘレス・シティ2008年8月10日



 7月28日夜半、待望の初孫が誕生した。名前は結月(ユズキ)、女の子だ。体重は3240KG、23日が予定日だったのでちょっと心配されたが、順調なお産だったそうだ。両親とも長身のせいか、足や指がすらっとした赤ちゃんとのこと。実は私が48歳の時、長男が結婚し、40台で孫ができるのではないかと期待されたが、それから10年以上音沙汰がない。嫁さんが仕事優先で子供を作るのを躊躇しているためだそうだ。先日1月19日に3男の結婚式に帰国したが、その時花嫁はすでに身重であることを知らされた。この少子化の時代に、でかしたと褒めてやったものだ。  ちなみに私は5人兄弟の末っ子で団塊の世代の先頭を走る。兄弟が5人に配偶者を加えて10人から生まれた子供が丁度10人でなんとか人口を維持できた。そして孫の世代となると今度生まれた初孫が二人目だ。10人の子供の世代はすでに30~40歳になっているが、結婚しているのがたったの3人だ。こんな状況では我が家系はどうなってしまうのだろうと心配される。さらにまた、日本の人口はどうなっていくのだろう。女性一人当たりの出産する赤ちゃんの数が 1.29人とかいう数字を聞いたことがあるが、10人の子供に配偶者がいるとして20人に2人の子供ということになり、女性一人当たりの出産率はなんと 0.2だ。 一方フィリピンでも少子化の波をむかえつつあるとはいえ巷には子供があふれ、今でも一夫婦に3~4人の子供は当たり前だ。今でも人口は急速に増加しつつあり、学校を出ても就職できない若者が大勢いる。日本では介護老人の増加と若者の減少で近未来に十数万人の介護士やヘルパーが不足するといわれている。大いなる需要と供給があるのに、ビザの問題が大きく立ちはだかっており状況が改善される見通しが立っていない。両国の首脳がこの問題を正しく認識してこのギャップを埋めることができたら、どんなにか両国に寄与するであろうという思いがつのる。  話を戻して、いずれ近いうちに初孫の顔を見に日本へ久しぶりに帰ろうかと思う。孫は実の子より可愛いというが、おばあさん(私の妻)の孫について語る電話の声はまさにそれだ。

初孫誕生2008年8月5日


  2006年7月退職庁を辞め、フィリピンで新しい事業を開始した。その時の日本人パートナーが月の内3週間くらいフィリピンにいて、毎日の様に食事そしてカラオケに付き合わされた。そして3ヶ月くらい経過して、体重が10kgくらい減ってしまい、体の異常が気になり始めた。後で知ったことだが、尿が異常に増える、喉が渇いて仕方がない、水虫になりやすい、足がつる、疲れやすい、昼間から眠い、目がかすむ、などなど糖尿病の典型的な自覚症状のオンパレードだった。   翌年の2007年1月、60歳の誕生日で年金の手続きを行なうために日本に帰ったおり、病院をたずねた。成田空港に到着するやいなや、ペットボトルの飲料水を買い、成田エクスプレスを待ちながら、もう一本、横浜に着いたら、また一本と、ペットボトルを離すことが出来なかった。病院の検査を待っている間も喉の渇きや眠気に襲われ続けた。検査結果は血糖値が375、Hb-A1cが12.7、合併症がでる寸前で、危ないところだったと脅かされた。早速薬を処方されて、2~3日で渇きや眠気などの症状はなくなり、体調は回復した。  早速、糖尿病に関する書物やパンフレットを読み漁ったが、これは直ることがない病気で生涯付き合っていかなければならないが、血糖値のコントロールさえしっかりしていれば合併症など起こすこともなく、生涯を健康に過ごせるものだと知った。しかし、食後の急激な血糖値の上昇を阻害するαグルコシダーゼ阻害剤のベイスンは低血糖を引き起こすことがあるので、常にブドウ糖を持ち歩き、めまいでフラフラするような低血糖の症状が現れたら、服用するようにと強く注意された。低血糖は死に至る怖いものだそうだ。もう一つの薬はスルホルニ尿素剤のソロサという薬だ。これはすい臓からインシュリンの分泌を盛んにする薬らしい。  2ヵ月後の2007年3月おふくろがなくなり、その葬式に参加した折、再び病院を訪れたが、血糖値は77、Hb-A1cは7.4で、血糖値は低めだが、順調に推移しているということで安心した。普段はフィリピンに住んでいるので、日本から持っていった薬だけでは間に合わない。そこで当地の医者にかかって薬を処方してもらったが、その医者はコレステロールも高いので、それを下げる薬、血液をさらさらにするアスピリン、さらに魚の油(DHA)を飲むように指示された。都合5種類の薬を毎日飲むはめになった。   そして6ヵ月後の9月、所用で日本に出張した際、病院で検査をした。血糖値が70、Hb-A1cが5.5だった。医師は順調と言ってくれたが、血糖値が 70というの低血糖の寸前ではないか、このまま薬を飲み続けるべきなのか、不安な気持ちになった。その帰りに出会ったのが「糖尿病は薬なしで治せる」(渡邊昌著、角川書店発行)という本だった。医師が自分の糖尿病を薬なしで直したという経験を紹介した本だ。  著者の主張は「生活習慣病の治療は生活習慣を改善することにあり、薬にだけ頼っていては、やがて症状が悪化し、ますます薬漬けの生活を送ることになり、数々の副作用に悩むことにもなる」というものだった。ちなみにベイスンは低血糖の危険をはらみ、他にも副作用がある。ソロサは弱ったすい臓を鞭打ってインシュリンを出させ、いずれすい臓が機能しなくなり、インシュリン注射に頼らざるを得なくなる、とのことだ。  目からうろこに内容に、5種類もの薬を飲んで、いつも低血糖におびえていた私は、この主張に飛びついた。まず、簡易血糖値測定器をフィリピンで買い求めた。日本では保険がきかず数万円の高価なものだがフィリピンでは1万円はしなかったと思う。薬を段階的に減らしながら、血糖値が食後180以下、空腹時120以下におさまっているよう務めた。食事は六分目、油脂類は最小限、野菜を多め、そして食後は30分間の散歩が日課だった。はじめは空腹と物足りなさで情けなかったが、慣れてくると従来の半分くらいの量でも充分満腹感は得られる。それには良く噛んでゆっくり食べるのが秘訣だ。   そして1年後の2008年9月、初孫のお宮参りのおり、いつもの病院を訪れた。前回の検査とは時間があいたので初診扱いとなり保険外併用療養費というわけのわからない金を余計に取られた。しかし、なにか道場破りの思いで検査に臨んだ。初診なので、いつもと違う先生で、血糖値135、Hb-A1c、5.7という結果を見て「異常ありません、薬ももちろん必要ありません」ということだった。道場破りの成功だ。(左の写真が簡易血糖値測定器)  あれから、さらに1年近く、医者のお墨付きで慢心してしまい、ついつい甘いものや脂ののった肉に手を出してしまうこともあり、血糖値も200を超えることもしばしばだ。しかし、血糖値を計って異常がある場合は、即散歩に出て、30分も歩いて帰ってくると、50~100くらいは血糖値が下がっている。先日、 262という数字に真っ青になり、普段の2倍の1時間の散歩を消化したら、112に下がっていた。なぜ軽い運動で、こんなに劇的に血糖値がさがるのか、よくわからないが、間違いなく下がるのだ。だから薬無しでも食事と運動で血糖値がコントロールできると確信している。 […]

糖尿病体験記 2009年8月4日



ビアハウスとは文字通りビールを飲ませる場所だが、日本のビアガーデンやビアホールと違い、女性がお相手をしてくれる場所だ。もちろん相手をしてもらうためには、その女性にビールをご馳走しなければならないが、自分が飲むと50ペソとかせいぜい100ペソ止まりで、大変安くてうれしいのだが、女性の場合の料金は200とか300ペソもする。しかしそれ以外は基本的に何もかからないので、よしとするしかないのだが。 ビ アハウスはフィリピーノ庶民の癒しの場として、全国津々浦々にある。横丁で、はでなピンクや赤い光があったらそこはビアハウスだ。中では若いけれど もちょっと太目の女性が退屈そうに客を待っている。あるいは下手な歌をがんがん歌っている。中にはいるとママさんらしきおばさんが女性はいかがです か、とまずは聞いてくる。面食いの私にはまず誰も選ぶことができないのだが、仕方がないから、一番若い人などといって、人任せにしてしまうことになる。それでビールということになるのだが、彼女たちは、よくまあと思うほどビールをガブガブ飲みする。だから大概の女性が太っているのだ。 ビアハウスの女性は連れ出しができる店もあるそうだ。地方では1000とか1500ペソ程度ですむそうだが、女でさえあればなんでも、というような人向きかと思う。特にタガログ語がほとんどできない私にとっては会話を楽しむこともできないし、なんともお付き合いのしようがないのだ。 マカティ市内でもちょっとはずれるとビアハウスが点在している  アルバイ ポランゲ 私 の家のあるビコール地方アルバイ県周辺のビアハウスで働く女性はほとんどポランゲという町の出身だそうだ。ポランゲでは女の子が生まれると両親が大変喜 ぶそうだ。この子が大きくなったら売春婦として働いて家計を助けてくれるといって。そんなことが今のご時世にあるはずがないと、巷のことに詳しいある女 性に尋ねてみたが、本当だというのだ。そうなったら、その本家本元のポランゲにあるビアハウスに、ことに真偽を確かめに行くしかない。しか し、私の農場から車で一時間もの距離にあり、夜中、酔っ払い運転をするわけにもいかず、長い間、実現しなかった。 先 日のホリーウイーク明けの日曜日、日本からの訪問客とともにフィリピーノの案内で伝説のポランゲを訪問した。小さな街で、ことの真相は確かめることは […]

豆辞典 ビアハウスは庶民の遊びどころ


        キ リスト教徒が大半を占めるフィリピンでは、人生の最初のビッグイベントはバプティスマル(洗礼式)だ。世間への紹介を兼ねたバプティスマルでは両親の親 戚、友人、等が集まり、両親の資金力に応じて盛大なパーティが行われる。バプティスマルの儀式により、クリスチャンとして認められる一方、不病息災と幸 せな生涯を送ることができると信じられている。バプティスマルは原則として生後1年未満に行われるが、両親のパーティ資金の都合により、1歳を過 ぎてから行われることもある。通常は節約のため、1歳の誕生日を兼ねて行われることが多いようだ。 洗礼式の名の通り、頭に水をかける どこでもやり方は同じ(フィリピン人夫婦の次男の洗礼式)  フィリピン人は見栄っ張りで外国人が好きだから、あなたの知り合いに子供が生まれたとしたら、まずニノン・ニナン(God Farther・Mother) になってほしいと頼まれるだろう。これを決して断ってはいけない。友人であるフィリピーノと家族としての絆を築くチャンスでなのだ。ニノン・ニナン になると生涯、後見人として誕生日やクリスマスにはギフトをやり、そして就職の世話など、何かと面倒を見てやらなければならない。一方、その子供はあな たをファミリーの一員として一生忠誠を誓うのだ。したがって、両親は、出来るだけ力のある人、地元の有力者やお金のある外国人を依頼しようとする。ち なみに、かのマルコスは10万人の子供のニノンになったそうだ。 バプティスマルを無事に終えて喜びのご両親(日本人とフィリピン人のカップル) […]

豆辞典 バプティスマル(洗礼式)は人生のスタート



フィリピンでは、例え幾つになっても誕生日は、一年間に一度だけ誰もが自分に着目し祝福してくれる大切な行事だ。どういうわけか、皆お互いの誕生日を承知していて、その日が来ると“Happy Birthday”と声をかけあう。何とも友達がいがあって良い習慣だ。特に高齢者の誕生日は、長寿ということで特に祝福される。 歯科医小林さんの69歳の誕生日は盛大なものだった 来客に挨拶する小林さん 事務所では、ある日突然、スナックや昼食が皆に振舞われる。聞いてみると名前も聞いたことのない職員の誕生日だというのだ。フィリピンでは誕生日を向かえた人が皆に振舞わなければならない。これを“Blow out”といい、ポケットを空にしてまで皆に振舞うのだ。だから皆お互いの誕生日を覚えているのだろう。“Happy Birthday”と声をかけるのは、昼食を振舞って頂戴という催促でもあるのだ。もちろん誕生日プレゼントを上げるのはごく親しく大切な人あるいは恋人くらいで、ひたすら“Happy Birthday”の一言で振舞いにありつく。 バースディは事務所全体で祝うのが慣わしだ 薄 給職員にとってこの出費は痛手だろう。しかし、これをやらないと“けちんぼ”と陰口をたたかれるので、ひたすら皆、無理をする。だから私は誕生日を内 緒にしている。誕生日プレゼントをくれそうな人だけに教えるというわけだ。というわけで当事務所では毎月一度誕生会を開催して、その月に生まれた人を 祝うことにしている。もちろん費用は会社持ち。それでも個人的に宿舎で別途一人一人誕生会をやっている。これがフィリピーノの最大の楽しみなのだす。 今月は、この4人が誕生日を迎えた

豆辞典 いくつになっても誕生日はおめでたい