Yearly Archives: 2008


 フィリピンでは新築の家や事務所は牧師を呼んでお払い(ブレッシング)を行うのが慣わしだ。ビコールの我が家は建設後すでに5年を経過するが、台風の被害にあったり、あまりよいことがなかった。それはブレッシングをしなかったせいだということになり、この機会にブレッシングを執り行った。  相棒の同級生が牧師をやっているというので、相棒の友達や家族を一緒に招いた。たくさんの知り合いを呼んで一緒に家の安全と存続を祈ってもらうのだ。タガログ語と英語を織り交ぜたお祈りをひとしきりやると、牧師が先頭になり、それぞれの部屋に聖水を振りかけながら、清めて歩く。人々はろうそくを掲げながら後に続く。   それぞれの部屋のブレッシングが終わったら、家の主人がコインをばら撒く。子供たちはそれを必死に拾う。子供がいなければ大人たちだ。さすがに子供がいる場合は大人たちはそれに混じってコインを拾うのは恥ずかしいようだ。事務所のブレッシングでの大人たちが歓声をあげてコインを拾うさまはすさまじいものがある。これらのコインは縁起物とされ大事にとっておくそうだ。子供たちにとってはもちろんおやつを買う軍資金となる。ちなみに犬たちは何がおきているのか、そ知らぬ様子だが彼らもご馳走のお余りにありつけることは間違いない。  もちろん祝い事に食事は付き物だ。招待された人たちではとても食べきれない料理が並ぶ。肉料理が数種類に甘い飲み物とデザート、野菜は一切ない。野菜は客を歓待するにはむいていない。あくまでも肉が主体だ。フィリピンでは野菜は貧乏人の食物とされているのだ。   フィリピンで人々と仲良くやっていくには何かと機会をとらえて、振舞うことだ。けちけちしないで誰でも招待して、たらふく食わせる。そうすれば気前がよくて良い人という評判が定着して、なにかとかばってくれたり、助けたりしてくれるだろう。これが人間関係を築く上で最小の投資で最大の効果を得ることができるこつだ。

ハウス・ブレッシング2008年12月29日


 本年度のクリスマス、正月休みは見事につながってしまい、12連休という最長の大型連休となってしまった。ちなみに、それぞれの休みの理由は下記のとおりだ。 12月24日(水):クリスマスイブで官庁は半日、個人的に休む人が半数以上で実質的に休み 12月25日(木):クリスマスの祝日 12月26日(金):クリスマスと土曜にはさまれたブリッジ休みで大統領令による特別休日 12月27日(土):休日 12月28日(日):休日 12月29日(月):日曜と祝日にはさまれたブリッジ休み 12月30日(火):リザール・デイの祝日 12月31日(水):年末特別休日 1月1日(木):正月の祝日 1月2日(金):正月と土曜にはさまれたブリッジ休み 1月3日(土):休日 1月4日(日):休日  24日のクリスマスイブは官庁は実質的に休みとなってしまうので、23日までに官庁手続きを終えないと、来年の1月5日まで12日間も待たされることになる。幸い、2名の退職者のPRA関連の手続きはぎりぎり23日で終了し、ほっとした気持ちで連休を迎えることができた。  一方、街の混雑は23日までで、地方へ向かうバスステーションや道路、そして最後の稼ぎをもくろむ行商人などで繁華街は人や車ででごった返した。また、普段は見かけない物乞いがやたらと目に付いた。これらの人々は明らかに装いを異にしており、普段山奥に住んでいる人たちが里に下りてきたといった雰囲気だ。下町のエルミタで人と会う約束があったが、タクシーを拾うのはまったく不可能。仕方なくジープニーでLRTブエンディア駅に向かい、それからLRTでペドロヒル駅でおり、目的地まで歩いた。おかげでちょっとした冒険をしてしまった。 […]

フィリピンの超大型12連休2008年12月28日



 世界的金融危機のあおりを受けてPASCOも苦しい経営を強いられているが、クリスマスパーティはフィリピーノ社員にとって欠かせない行事ということで、ささやかながら事務所でパーティを行った。料理はすべてスタッフによる手作り、その代わり小さなギフトや景品を大量に用意した。時節柄カラオケもなしとし、代わりに先日Bank of Commerceのパーティで知った、現金のお札をまるめて短く切ったストローに入れ、それを目隠しして選ぶくじ引きを行なった。一等賞は500ペソ、2 本、2等賞は100ペソ、2本だ。  フィリピンでは何を行なうにもお祈りから始まる。まずは神への感謝の言葉を述べ皆でアーメンを唱える。そして、ご馳走の前で記念撮影。会長、社長の挨拶などつまらぬ訓示は無しで、即、食事に突入だ。  参加者は社員が11名、ゲストが3名と1/2、だが食事は20人前程度用意された。あえて残るようにするのだ。残った料理は皆でTake Outし、2次会で食べたり家族に振舞ったりするのだ。このTake Outがないと何かもの足らず、フィリピーノは満足感を得ることができないそうだ。  パーティには定番の鳥のから揚げ、シャンハイルンピアを初めアドボン・バボイ、スパゲッティ、ビーフンなど。から揚げはあげすぎ、スパゲッティは甘すぎると文句を言うのは日本人くらい。皆、これでもかこれでもかと言うくらい、腹いっぱいに食べていた。  おなかがくちくなったら今度はゲームだ。おなじみの椅子取りゲーム、ビールの早飲み、などなど。今夜は13歳と3歳のお嬢様が参加したので、男女のセクシーなゲームは遠慮したようだ。ゲームの勝者には景品が贈られ、その間に随時くじ引きが行なわれた。社員は興奮のルツボにはまりっぱなしだった。  ゲームやくじ引きの景品、それにおみやげ(Give Away)をたくさん手にしたスタッフはいかにも幸せそう。これがないと1年を締めくくることができない。会社への忠誠心などもこのようなパーティで培われると言っても過言でもない。

PASCOクリスマスパーティ開催2008年12月23日


 またまたアンヘレスで申し訳ないが、今回はクリスマスを控えあわただしい車窓の風景を中心に紹介したい。  フィリピンの高速道路沿いにはおびただしい広告塔が建っている。特にEDSA沿い、サウス・スーパー・ハイウエイ、今回走ったノースルソン・エクスプレスウエイ (NLEX)等には所狭しと建ち並び独特な景観をかもし出している。下はNLEXとEDSAの交差点にそびえる巨大広告塔。  EDSA沿いに走る高架鉄道、MRT(写真)はSMシティがあるノースEDSAで工事が中断し、マニラ湾に走る高架鉄道、LRT終点のモニュメントにつながっていない。これがつながれば、マニラ都心をぐるりと囲む高架鉄道が完成し、マニラの足も格段に向上する。その工事がやっとはじまったらしい。 NLEX入り口の近くで橋脚の工事をやっていた。南のスカイウエイの延長など遅まきながらもフィリピンも着実に発展しているのだと実感できる。   NLEXをしばらく走ると料金所がある。片側20ブース以上の巨大なものだ。上りと下りでは別々のところにあるが広大なエリアを占めている。自動のETC 専用のブースもあるが、現金、つり銭なし、クーポン、などとブースが分かれていて間違えるとやばい。ちなみにマニラーアンヘレスの料金は普通車で158ペソ、約300円の安さだ。     NLEXの中ごろに数kmに渡る陸橋がある。多分、湿地帯で地盤が悪いので新幹線のように高架にしたのだろう。この陸橋の下にもスコ-ター(不法占拠住宅地帯)がある。ちゃっかり高架の下に家を建てて住み着いているのだ。ここは道路の下で国有地であり、地主がいないからこうなってしまうのだ。  バスの車内ではステーションごとに物売りが入ってきて、飲み物やスナックを売っている。駅弁のように地方の特色が出ていておもしろい。一日いくら売れるのか知らないが、家族が生計を立てていけるくらいにはなるのだろう。  ここのところガソリンの値段が下げ止まらない。アンヘレスに幾たびに値段が下がっている。この日も2ペソ下がって、33ペソ台、ピーク時の半値に近い。それでもマニラの街でタクシーを拾うと、「いくら払う」と公然と交渉してくる。ガソリン代が半分になってもこうなのかと腹が立つが、「そうだ、クリスマスなのだ」。運転手も年越しのための稼ぎが必要なので必死なのだ。  クラークの入り口付近にあるジープニーのターミナルでは数多くのジープニーが整然と並んでいた。こんなに多くのジープニーが動かないで入るというのは何事なのだろう。ここだけで50台ほど並んでいた。はやばやとクリスマス休暇を決め込んでいるのだろうか。  広大なターミナルはほとんど使われておらず、なんのためにこんな所にこんなに大きなターミナルを建設したのか不思議だ。まるでアンヘレス全部のジープニーを収容できるくらいだ。 […]

金なしコネなしフィリピン旅行その4「アンヘレス編2」2008年12月22日



 12月21日住まいのあるコンドミニアムで小火が発生した。オーナーの不在中に何らかの原因で家具に火がついたらしい。我が家のメイドが窓から煙が出ているのを発見しすぐさま消防署に連絡したのだが、すでに他からも通報が行っていた。火は段々大きくなる一方、十数分後に2台の消防車がやってきた。   しばらくの間サイレンが聞こえたが、コンドの入り口で手間取っていたらしい。入り口は少し急な坂になっているので、消防車が登れなかったのかもしれない。到着後、なにやらばたばたと消防員が準備していた後、放水が始まった。  放水から数秒後、あっけなく火は消えてしまった。その後しばらく放水を続けていたが、瞬間の出来事だった。放水は簡単に窓ガラスを壊し、その威力をまざまざと見せ付けた。小火とはいえ、出火から消火まで本物の火事のプロセスを見るのは我が人生で初めてだった。  普段は閑散としたコンド内の通りだがこのときばかりは、よくまあというほどの人出だった。火事とけんかは江戸の花などというが、人々は興味深げにノンフィクションのショーを見物していた。マカティの消防署は車で5分程度のところにあり、迅速な対応が可能だったのが幸いだったが、これが燃え移ってコンド全体の火事にでもなったら大事だった。教訓として家や事務所には消火器を購入し、いつもバケツ一杯の水を用意しておくことにした。

コンドで小火発生2008年12月22日


 地球温暖化が取りざたされている昨今だが、12月17日の早朝、バギオはこの冬一番の寒さ、10.8度を記録した。マニラも19.1度だった。フィリピン厚生省は風邪や発熱の注意報を発令した。20度という気温はフィリピン人にとって相当な寒さである。雨上がりなど気温が25度以下に下がると我々日本人は心地よく感じるが、フィリピン人にとっては寒いと感じて長袖やジェケットを着る人が出て来る。フィリピン人が寒いと言うと、私は「寒いのではない、暑く無いだけだ」といつも言い張っている。本人が寒いと感じるのだから勝手なことなのだが、本当に寒いといえるのは10度以下に気温が下がったときだけのはずだと思う。  しかしバギオは1000mを超える高地にあるだけに本当に寒くなるときがある。一度Tシャツ一枚に半ズボンで何の着替えもなしに出かけたことがあった。あいにくの雨模様だったが、しばらくの間外で待たされた時、寒くて寒くてふるえが止まらなかった。それでも長袖にズボンだったら何の問題もなかったろう。しかしフィリピンで寒さに震えるなんて想像だにしなかった出来事だった。  この日、今年一番の寒さにバギオの人々はジャケットにマフラーそれに手袋のいでたちだったという。バギオでは普段でもマーケットなどではジャケットを着ている人を見かけるが、とにかくフィリピン人は寒さに弱い。しかしかのジャパユキさんは日本の寒さをどう凌いだのだろうか。郷に入っては郷に従えのことわざのようにすぐに順応してしまうらしくて、日本の寒さをそんなに恨めしそうに言うジャパユキさんはいない。それよりも一冬過ぎてフィリピンに戻ってくると皆色が白くなって美人になって帰ってくる。  元来フィリピン人はスペインや中国の血を引くために、地は案外色白で、普段は陽に焼けて黒くなっているだけなのだ。そこで、話はちょっとずれるが、肌の色について興味深い話を一つ披露したい。 いつか、NHKで色の黒い白いは日光の強弱に人類が適合した結果だという番組をやっていた。元来人類はアフリカで生まれ、体毛を捨てた黒い肌により強い日光から身を守り、草原を走り回って多くの獲物を捕まえ繁栄して行ったそうだ。人類が世界に散らばる過程で日光の乏しい北方に移動するためには数万年の時が必要だったという。それは白い肌を得て、少ない日光を有効に体内に取り入れ骨の形成に必要なビタミンDをつくる能力を獲得するのに何百世代もの世代交代による進化が必要だったのだ。一方日光の強い南アジアには人類はあっというまに広がっていった。その名残が今でもニューギニアやオーストラリアの原住民に見られる。  現代は飛行機でその日のうちに北や南の国に移動できる。その結果、イギリスに住むインド人の子供が日光不足でクル病にかかったり、オーストラリアでは強すぎる紫外線のために皮膚がんにかかる白人が多発しているという。要は彼らは短期間の内に肌の色を変えることができないためにこのような病気になってしまうのだ。一方、かのジャパユキさんは、北の日本にいると白くなって、フィリピンに戻ると黒くなるという、住むところの気候にたくましく適合しているのだ。これはなにもジャパユキさんに限ったものではなく、東洋ないし東南アジアに住む人々の全般的特徴ではないかと思う。色黒の白人というのは聞いたことが無いし、黒人は何百年アメリカに住んでいても黒いままだ。そうなると世界の距離がなくなった今、世界をまたにかけて活躍できるのは肌の色を変えるという特殊能力をもったアジア人=黄色人種ではないかと思う(ちょっと誇大妄想のような気がしないでもないが)。

フィリピンに寒波襲来2008年12月19日



 モーターバイクといえば商業用のトライシクルの需要がほとんどだったが、昨今はバイクを通勤やレジャーに乗り回す人が急増している。地方のモールや闘鶏場にはバイクで乗りつける人が多数を占めるようになってきている。街の道路でもジープやトライシクルに混ざって小型バイクで疾走するする人が目立つようになっている。  車優先のフィリピンでは歩行者は車の間をすり抜けて歩かなければならないが、さらに車の陰にバイクが走ってくるのでますます道路横断が難しくなっている。その点トライシクルのお世話になっていれば安全なのだが、マカティなどの中心街ではトライシクルの乗り入れが禁止されているのでそうも行かない。  最近の新聞に「ホンダXRM-RSの新型車が56900ペソで発売になった」との記事が載っていた。8代目で街乗りを楽しむバイクと銘打っての発売だそうだ。それだけ個人の需要が増えているということだろう。エンジンは100cc程度で、ホンダ、ヤマハ、カワサキなど日本のメーカーが現地生産によりほとんどの需要を賄っている。また、まるでハーレーダビッドソンのようなスタイルに小さなエンジンを載せた中国製のバイクもたまに走っている。  一方、若者には250cc以上の中~大型バイクがあこがれの的となっている。フィリピンでは生産されていないから日本などからの中古車の輸入となるが、ホンダCBR400などが人気の的で2000年前後に生産されたもので30万円前後で取引されているという。  そのため、中古大型バイクの輸入販売ビジネスが盛んで、買い手はいくらでもいるという。まず日本の中古バイク市場で仕入れて、それも分解して運ぶ。運賃と税金を安くするためだ。完成車は車と同じ100%以上の税金がかかるそうだ。それをフィリピンで組み立てて売りさばくそうで、400ccの手ごろなものから1000cc級のものまで、日本でもあまり見かけない超大型バイクを目にすることもある。また、ヨーロッパブランドやあるいはアメリカのハーレーダビッドソンまでもある。  エンジンのない自転車もブームになってきており、郊外に出かけると本格的なコスチュームで走っているのを見かける。案外とお年の人も多いようだが、自転車は健康に大変良いので老化防止のために乗っているのだろう。私も昔取った杵柄で引退したらマヨン火山の麓を走り回ってみたいと思っている(実は学生時代サイクリング部に所属していたので)。

モーターバイクがブームに2008年12月19日 


 12月ともなると街のあちこちはクリスマスの飾り付けでにぎわう。世界的不況の影響か年々地味になってきているような気もするが、フィリピーノにとってクリスマスは絶対欠かせない、1年でもっとも大事な行事だ。16日からは熱心な信者が早朝暗い内からミサに出かけるから、教会周辺の警護が厳重になっているという。PASCOの事務所のあるGMA LOU-BELプラザでも入り口にキリスト生誕を模した人形が飾られた。  引越しから2ヶ月近くたってPASCOもやっとここの住民と認めれ、入り口に会社名が誇らしく掲げられている。各階に3室しかないから、9階にさえ来てもらえれば大きなPASCOのロゴがあるので迷うことはない。ちなみにこのガラスドアは前の事務所のドアを移設したもので、ロゴもそのまま持ってきている。   事務所にもクリスマスの飾りつけが取り付けられた。スタッフの工夫で見事にクリスマスの雰囲気をかもし出している。来週23日、仕事の山が過ぎたところで、ささやかながらクリスマスパーティを開催する予定だ。社員はそれを心待ちにしているが、きっと翌日のクリスマスイブまで24時間パーティを続けてしまうに違いない。それが過ぎたら、25日から翌4日まで11連休という歴史的長期休暇に突入するのだ。   現在、PASCOは退職者関連の業務のほかに、日本から建築の積算の業務を受けている。積算スタッフ8名にシステムエンジニアー1名の構成だ。マンション不況のせいで仕事が滞りがちなのが頭痛の種。ほとんど皆エンジニアーでコンピューターの取り扱いには慣れているので、なにか他の仕事ができないか模索しているところだ。  また事務所スペースにも空きがあるので、これからビジネスを立ち上げようとしている人の連絡事務所、あるいは当座の執務スペースとして利用してもらえるだろう。事務所の場所も便利なところにあるので規模の小さいうちは余分な経費を節約できる。会社登録には、まず初めに事務所を手配しなければならないが、その目的にも利用できる。会社設立登記等はPASCOの本業なので、会社運営のインフラにまで一歩踏み込んだサービスができるのではないかと期待している。

PASCOの事務所にもクリスマスがやってきた2008年12月17日



 12月17日は先日、デラ・ホーヤとの世紀のミスマッチといわれた試合に勝ったフィリピンの国民的英雄マニー・パクヤオの30歳の誕生日だった。テレビに放映された誕生日を祝う様子はまさに国家的行事だった。故郷ゼネラル・サントス市で開催された誕生パーティにはアロヨ大統領を初め、上院議員、パクヤオと試合を行なった元世界チャンピオンなど2000人を超える人々が招待された。会場はラスベガスを模した舞台がしつらえられ、ショーもラスベガススタイルだった。さらに会場がから1.5kmはなれた一般人の会場では誕生会の模様がモニタースクリーンに映し出され、5千人を超える人々が、レチョンを初めとする無料の料理に群がった。スポンサーであるサンミゲルビールからは大量のビールが振舞われ、くじ引きの一等賞は家一軒という豪華な景品が出たそうだ。  パクヤオはゼネラル・サントス市の貧しい家庭に育ち、少年時代サリサリストアから借りたパンを食べ、ボクシ ングの試合に臨み、賞金でその代金を支払ったという。その後、パン職人として生計を立てながら、世界チャンピオンへの道を歩んだ。まさにアメリカンドリー ムを成し遂げたゴールデンボーイだ。    パクヤオは50人にのぼるメイド、ドライバー、ガードマンなどを雇い、フィリピン人の雇用に寄与しているという。もっぱらラスベガスで試合を行い数百万ドルという外貨を稼ぎ、それを多くのフィリピン人にばら撒いているというわけで、おおいに結構なことだ。かつての独裁者のように国民を搾取してそれをスイスの銀行に溜め込んでいたことなどと比べるとはるかにフィリピンに寄与していることになる。フィリピンの人気テレビチャネルABS-CBNのアナウンサーの質問に答えるパクヤオもその顔を見るとその辺のフィリピーノとなんら変わらないのだが。  パクヤオも多くのフィリピン男性と同じように美貌の妻の尻の下に敷かれているそうだ(フィリピンではこれを「アンダー・デ・サヤ/ペチコートの中」と表現する)。メスティーサ(白人との混血)の妻は妊娠中で現在ラスベガスに滞在中。パクヤオも誕生会のあとラスベガスに戻り妻とともに暮らし、次回の世界戦に備えるとのこと。

英雄パクヤオの誕生日2008年12月18日


 私の事務所のあるパソンタモとバグティカン通りの角は4軒のトロトロが並ぶ庶民の食事どころだ。トロトロとは出来合いの料理を指し示して注文することを意味する。ほとんどのフィリピンの食堂はこの形式で、今風に言えばファーストフードだ。デパートの地下などでも多数のトロトロが並び、好きな店から好みの料理を選んでセルフサービスで共同のテーブルで食べるシステムになっている。パソンタモ通りはマカティのオフィス街のはずれになっており、比較的事務所も多い。そのため昼食時となると多くの人がやってきて列をなしている。一番人気が奥から2番目、次が一番奥、そして最後は皆満員となる。さらに夜間もこの付近に住んでいる人の夕食で賑わい、夜間はカラオケを楽しむ人が夜中までビールを飲んでいる。まさに庶民の憩いの場だ。最近は土日も休まずオープンしている。   ここの名物は豚や魚のバーベキューだ。豚のばら肉を味付けして炭火で焼いたバーべキューはとてもおいしい。これ一枚に野菜、ライス、さらにビールを一本つけて100ペソ程度で済む。毎日側を通る時、こんなに仕込んで売れるのだろうかと心配するが、昼食時の行列を見るとなるほどとうなずける。    フィリピン人は一日5回食べるというから、10時と3時のミリエンダ(おやつ)もかかせない。トロトロの前にはおやつや飲み物を売る屋台が出ている。ブコジュースは飲み物の一番人気、フライドポテト、パイナップル、グリーンマンゴなどはミリエンダの定番だ。  トロトロよりももっと安く済ますなら、屋台でバーベキューあるいはフライドチキンなどとライスを買って、事務所あるいは道端で食べることもできる。これなら50ペソ程度で満腹になる。フライドチキンのおばさんは毎日20~30羽は売るので、3000~5000ペソ程度の売り上げとなり、平均毎日1000ペソ近い儲けを出している勘定になる。ただし、トンボイの彼氏と二人がかりで夜中までやっているから、さほどおいしいビジネスではないが。   4軒のトロトロの間には比較的大型のサリサリストアが24時間営業をしている。常に2~3人の客があり、一人相手するのに1分くらいかかるとすると、1時間に60人、1日千人近い客が来ることになる。客単価は数ペソ~数十ペソだろうが、それでも一日1万~2万ペソ程度の売り上げになり、2千~3千ペソ程度の収入にはなるだろう。  節煙のため、毎回2ペソでタバコの一本買いをとなりのサリサリでしているが、毎度のことなのですっかり顔を覚えられ、何も言わなくてもタバコを差し出すようになっている。そのためか、クリスマスが近いわよ、とクリスマスギフトの催促をされてしまった。フィリピンではサービスを受けるものが感謝の意を表さなければならないのだ。

大繁盛、庶民の胃袋を満たすトロトロ2008年12月16日