ニュース


6月1日、日本への出張から帰ってくると、フィリピンは雨季に突入していた。スコールではなく、まるで日本の梅雨のように雨がしとしと降り続く。雨が降っていないときはどんよりとした曇り空で、気温も大分下がっている。今年はエルニーニョの影響で3月~5月は連日35度を超える猛暑が続いたが、それがぱたりと止んでしまっていた。     6月5日は退職ビザを申請中のカップルをタガイタイに案内したが、マニラ近郊にこんなすばらしいところがあるとは、と多いに感激してた。一見逆説的だが、そして日本の夏はフィリピンに避暑にやってくるということが成り立つ、と納得していた。タガイタイもそしてスカイウエイからながめるマカティの摩天楼も厚い雲に覆われていた。  街は暑さしのぎに水を撒いたようで、今までの暑さを思い起こすとすこぶる快適だ。傘をさすほどの雨でもないので苦にならない。しかし、これからは時折強い雨になるので傘の準備は欠かせないだろう。私は日本から超軽量の折りたたみ傘で、四角い長めのメガネケースのような傘を買ってきて、常にポシェットに入れて歩くことにしている。

フィリピンは雨季に突入 2010年6月12日


 例年であれば5月の後半ともなれば、そろそろ雨季の気配がするのだが、今年は一向に猛暑が衰えない。フィリピンの乾季は11月から5月の半年、前半は暑くなくて過ごしやすい。特に1月~2月はエアコンも不要で、田舎なら毛布が欲しいくらいだ。  ところが今年の乾季はあまり涼しさを感ずることなく後半の猛暑になだれこんだ。そして、3月、4月、5月とほとんど連日35度を優に超える暑さなのだ。雲ひとつない空に輝く太陽は強烈だ。この暑さにはさすがにマニラッ子もぐったり、暑い暑いを連発して、日傘をさして歩いている人が目立つ。最近、お産をしてようやく復帰した相棒は昼間、滅多に外に出ることはない。                       この暑さは、エルニーニョの影響と言うが、一方の日本は4月になっても真冬並みの寒さが続いたと思えば、今度は真夏並みの暑さになったり、世界的に天候不順になっているようだ。おかげで日本ではキャベツが一個400円もするそうで、食糧危機なんてことが現実になるんじゃないかと危惧される。気候とは関係ないかも知れないが、日本では牛肉も口にするのがはばかれる昨今だ。  

フィリピンは猛暑続き 2010年5月19日



   5月10日、統一選挙がついに幕を閉じた。大統領選はアキノ上院議員の圧倒的な勝利に終わったが、毛並みと誠実さだけでは政治はできない、という落胆の声も聞かれる。エストラーダは貧困層の根強い支持で2位につけた。当初優位にいたビリヤールは子供にお金を渡しているところをスクープされたりして3位に失速。知識層が期待するテオドロ・ギボやゴードンは下位に甘んじた。副大統領はアキノ陣営のロハスとエストラーダの相棒であるマカティ市長のビナイの接戦だ。マカティ市長にはビナイの息子ジュンジュン・ビナイが当選した。  大統領選は2月10日、地方選は3月26日に選挙運動が開始されたが、その間、街はポスターであふれ、選挙の応援カーが走り回っていた。選挙運動は前々日の5月8日で終了し、9日は、選挙戦の加熱を防ぐために、アルコール類の販売や提供は例年通り禁止された。 5月8日、マニラの南のバタンガスに行ったおり、地元の市長候補を応援するパレードが大量の人を動員して行なわれていた。もちろんお金で雇われた人たちだろうが子供までが混ざって候補者のシンボルカラーのT-シャツを着てトラックやトライシクルに乗って行列をなしていた。おかげこちらは渋滞に往生した。 選挙当日、我が家のあるバランガイ・サン・アントニオに投票場に出かけてみた。そこには日本の投票場では信じられないような人ごみが出来ていた。私なら、この人ごみを見ただけで投票場をあとにするだろう。有権者リストに自分の名前を見つけて、それが自分であることの証明としてIDを見せ、そして初めて投票を許されるというなんともいえない稚拙なシステムに原因があるようだ。ちなみに有権者数は5千万に超え、投票率は75%だから4千万に近い人が投票したことになる。投票場は約37000箇所だから、一箇所あたり、千人だ。しかし、ここのような人口密集地帯では10倍の1万人くらいになるのではないか。      投票場ではGMAテレビの取材が行なわれていた。投票日の寸前まで不具合が報告されていた電子投票システムが本番でどうなるのか極めて興味深いところだったが、順調に機能していたようだ。     人が集まるところには必ず食べ物の屋台が出るのはどこの国でも同じだ。投票を終えるまでに2~3時間は優にかかるだろうから、喉が渇いたり、お腹がすくのは当然だが、日本の投票場では決してこんな光景は見られないだろう。こんな状態では投票する人はいなくなってしまうだろう。 投票場の近くには今回の選挙で副大統領に立候補しているビニャイ市長の自宅がある。この付近ではちょっと見られない豪邸だ。家の前では冷たいジュースを無料で配っている。当方も少々の喉が渇いたのでご相伴に預かったが、さらにテントの中では只で食事が取れるそうだ。だから選挙期間中は貧しい人も食には事欠かなかったそうだ。ビニャイの自宅の前は粗末な家で、子供達が選挙の様子を伺っていた。また、ちょっと年寄りの人に声を掛けられたが、彼らは票を買う仕掛け人だそうだ。投票権があれば1000ペソほどの臨時収入になるところだった。  ビニャイ市長の自宅の前には別の投票場(サン・アントニオ・ハイスクール)があり、ここにも多くに人が群れていた。赤いT–シャツを着ている人はビニャイ市長の運動員だ。この人たちが何を待って行列をつくっているのか皆目わからないが、皆はただひたすらに順番を待っている。皆、中々忍耐強い。ここでもカメラマンが準備をしているが、きっとビニャイ市長が投票場へあらわれるのを待っていたのだろう。  通りには警察官と兵士が銃を持って控えている。全国で37000ヶ所もある投票場に、これだけの人が待機しているとなると、全国で20万人以上の人が動員されていることになる。カメラをかまえると、是非プリントしてプレゼントしてくれとせがまれた。日本では執務中の警官は、写真を撮ることさえ許されないというのに、むこうから写真を撮ってくれと目で合図してきたのだ。 これは投票用紙のサンプル。大統領、副大統領、上院議員のすべての名前が記載され、その横の○を塗りつぶすようになっている。これはエストラーダ/ビニャイ陣営が作成して配ったものだから、彼らの名前と陣営の候補者の名前だけが、黒い文字で浮き出ている。確かにわかりやすいやり方だ。  

5月10日、統一選挙 2010年5月11日


  4月7日、旅行から戻って、マカティ・スクエアに両替に行った時のことだ。地下の海賊版DVDの売り場場付近で悲鳴と銃声のようなパンパンと言う音が聞こえた。逃げ惑う人や警官のような人影が走り回っている。流れ弾にでもあたったらやばいと恐る恐る様子を見ていたら、DVDの詰まった箱を持って逃げる人がいて、それを警官が制して床にDVDが散らばったりして、パンパンという音がしているのだ。  さらに警官がDVDの店の商品を床にばら撒いているの見て、段々状況がわかってきた。警官が海賊版のDVDを押収しているのだ。息子はチャンスとばかりにカメラを持って地下に飛んでいった。野次馬根性はオヤジと変らないようだ。  しばらくして興奮した面持ちで戻ってきた息子が報告してくれた。チーフらしき男が中々のハンサムで(写真の右)、2階から発せられる黄色い声に手を挙げて答えたり、女の子がそばに来て記念撮影が始まってしまったとのことだ。警察の手入れにイケメン警官との撮影会なんて、フィリピンらしくて面白いものだと思った。 警官とその手下の私服の人たちが大量の海賊版DVDを袋に詰めて意気揚々と引き上げていく。それを撮影するテレビ局のカメラマンとおぼしき人たち。息子は良い経験をしたと満足げだった。  この話をお産直後の相棒のジェーンに話をしたら、ことの真相を話してくれた。彼女いわく、「海賊版DVDは100ペソ以下で10~30本くらいの映画が見れるので、映画館では閑古鳥がなき、どんどん閉鎖されている。これでは映画俳優や映画関係者が食いっぱぐれると、政府組織として、Video Regulatoryが組織されAnti Piracy(海賊版撲滅)の活動をPNP(国家警察)やNBI(国家調査局)の力を借りてやっている。この組織の前の会長は、今Vice Presidentに立候補しているエド・マンサノ(大統領候補ギボ・テオドロの相棒)。この日イケメン警官と思ったのは、今の会長で同じく映画俳優のロニー・リケだから、女の子がキャーキャーと騒ぐのは当たり前なのだ。また、明日になれば、また何も無かったように海賊版のDVDがならんでいるわよ」  たしかに、これだけ全国津々浦々に広まった海賊版DVDの販売網を簡単なことではつぶせないだろう。それに貧しい人々が多いフィリピンで格安で楽しめる海賊版DVDを取り上げてしまういかにも可哀想だ。映画関係の方々には申し訳ないが、海賊版DVDを庶民から奪い取ることには私は反対だ。  

アンタイ・パイラシーの手入れに遭遇 2010年4月11日



 5月10日の統一選挙に向けて、3月26日、下院議員、知事、市長、市議会議員などを選ぶ地方選の幕が切って落とされた。2月9日に解禁された全国選に引き続き、44日間の戦いが繰り広げられる。   全国選がテレビなどのメディアを中心に行なわれるのとは違って、地方選は、地域に密着した選挙戦が繰り広げられるので、よほど面白い。選挙応援パレード(ラリー)あるいは演説集会(パーティ)が中心となるが、それらはまるでフィエスタ(お祭り)のようで、日当をもらってパレードに参加するものや食事や芸能人によるアトラクションを目当てに集まる人々で街は溢れかえる。  3年毎の統一選は貧しいものにとって大変ありがたいイベントだ。パレードに参加すると500~1000ペソの日当をもらえるし、集会では只でT-シャツや食事にありつける。さらに有名芸能人のショーが入場料無しに見たい放題だ。評論家は富が貧民に還元されるいい機会だと評する。人々は仕事をするよりもパレードや集会に参加したほうがよほど金になるから、この期間は仕事をしないでも済む。  投票日の前日になると、アルコール禁止になるが、人々は寝ないで夜の訪問者を待つ。地方で500ペソ、都会では1000ペソの現金を持って、特定の立候補者へ投票するよう運動員が各家庭を回るのだ。彼らにとって青いお札(1000ペソ札)を手にするのは3年に一度のこの時だけだ。大統領、上院議員、下院議員、知事そして市長から1000ペソずつもらうとすると一人 5000ペソ程度の収入になる。夫婦で1万ペソは貧困層の2か月分の収入だ。しかも投票日は、投票所に食べきれないほどの食事が用意される。だから選挙には、皆ことの他興味をもって、その日を待ちわびる。ちなみに現マカティ市長のビニャイは3年前の選挙で2000ペソずつ配って市長の座を獲得したそうだ。  解禁日の26日、私の住むコンドミニアムのすぐ近く、マカティのパソンタモ通りとビトクルス・エクステンション通りの交差点、ショップ・ワイズ(大型スーパー・マーケット)の前で、マカティ市長候補、メルカドの選挙応援演説集会が行なわれた。この付近はマカティ市の中心からはずれ、スコーターなどもあり、多くの庶民が居住する人口密集地帯なので、選挙戦の目玉の地域なのだ。選挙ばかりは金持ちも貧乏人も一人一票の重みは変らない。だから立候補者はちょっとしたことで落ちやすい貧乏人を狙ったほうが対費用効果はずっと大きいのだ。 夜の7時、集会場はすでに数千人の人々で埋め尽くされ、立候補者の顔や名前が印刷されたT-シャツを着、チキンやスパゲッティの軽食を手にして応援演説に耳を傾けていた。   パソンタモ通りを遮断して作られたステージには候補者やその応援者が並んで座っている。後ろには特大のポスターが貼られ遠くからでもよくわかる。さらにステージの横には特大のスクリーンが設置されステージの演説や催し物が中継されている。演説が終わるたびに、ステージの後ろでは花火が打ち上げられいやが上でもお祭り気分を盛り上げる。ちなみにこれらの特大ポスターは耐候性の布地で作られているので、選挙後はスコーターの家の屋根や壁になるそうだ。 演説は聴衆をあきさせないよう早めに切り上げショータイムに突入だ。演説の内容はわからないが、主義主張というよりも、ほとんどが掛け声だけのようだ。まずはダンサーによる踊り。中々見ごたえのあるダンスだが、選挙とは何の関係も無く、聴衆を喜ばせるだけが目的だ。 この日のショーの目玉はテレビでおなじみのコメディアンの「バイス・ガンダ」だ。かなり有名なコメディアンだそうで、歌や踊り、そしてトークにやんやの喝采だった。中々面白い話をしているようだが、当方には皆目理解できない。ちなみに彼はバクラ(オカマ)で、名前のバイスは副大統領(バイス・プレジデント)の「副」、あるいは「不道徳」と言う意味。「ガンダ」はタガログ語で「美」という意味で、女性の美しさを表現する。また、「美しい」が「マ・ガンダ」、「すごく美しい」が、「アン・ガンダ」、などと変化する。「バイス・ガンダ」は「準美人」あるいは「不惑の美人」となり、オカマの彼にはふさわしい名前かもしれない。 一方、大統領選の方は、トップを走るビリヤールやアキノ候補はすでにテレビ放映枠(1局あたり120分)の規定を超えてしまったそうで、今後は地方選の自分の陣営の候補者の応援演説などで地方を回り大衆にアピールする選挙戦になるものと予想される。下の写真はアンヘレスで見かけたアキノ候補とエストラーダ候補のポスター。エストラーダは若き日の映画スターの時の写真を掲げ、あくまでもヒーローのイメージを訴えている。アキノは元大統領の母親のシンボルカラーの黄色いポスターだ。

統一地方選の幕が切って落とされた 2010年3月27日


次期統一選は5月10日。この日、大統領を初め、副大統領、1名、上院議員の半数12名、下院議員287名、その他、州知事、市長、市議など、合計 18000人の議席が争われる。2月10日は丁度その3ヶ月前にあたり、公式に選挙戦がスタートした。今回の選挙の目玉はポスト・アロヨの大統領の座だ。アロヨ大統領は憲法を改正し大統領の再選を可能とする画策をしてきたが、アキノ元大統領やラモス元大統領の反発を食らってその試みは頓挫した。特に昨年8 月のアキノ氏の葬儀における国民の熱狂を目の前にして、身を引く以外にはないと悟ったようだ。 ベニグノ・アキノ大統領候補(ノイノイ)の妹クリス・アキノは芸能界を代表する人気女優、右の女性はノイノイの彼女  現状において大統領選の有力候補は5人に絞られる。ベニグノ・アキノ上院議員、マニュエル・ビリヤール上院議員、ジョセフ・エストラーダ前大統領、ギルバート・テオドロ前国防長官そしてディック・ゴードン上院議員の5人だ。  ベニグノ・アキノ3世(ノイノイ):元アキノ大統領の長男、父親は英雄ベニグノ(ニノイ)・アキノでマニラ国際空港の名前にまでなっている。まだ新米の上院議員だったが、昨年の母親(コーリー・アキノ元大統領)の葬儀で一躍注目を浴び、大統領候補に祭り上げられた。マルコス政権を打倒の引き金となった父、そして清廉潔癖な大統領であった母の正当な後継者として大統領の座に挑戦するが、その政治的手腕には疑問があるとされている。人気女優のクリス・アキノを妹にもち、さらに有力財閥のコファンコ家をバックに、圧倒的支持を得てきたが、ここに来てビリヤール候補の追い上げにより、差が小さくなってきている。しかしテレビで演説を聴いていても何かカリスマ性に欠け、小物という感をぬぐえない。それよりもいっそ、人気女優で同じく英雄の血を引くクリス・キノ自身が立候補したほうが確実という気がするのだが。 副大統領候補はロハス上院議員。彼は、元々は自由党の次期大統領候補と目されていたが、昨年の熱狂的アキノ人気のためにベニグノ・アキノ3世に大統領候補の席を譲り、副大統領として立候補した。当選したら、経験の浅いアキノ候補を補佐して国政をおこなっていくことになるのだろう。 マニェル・ビリヤール(マニー):東洋一のスラムといわれるトンドでエビを売っていたが、その後不動産事業で財をなし、マニラの南、ラスピニャスの市長から、下院議員、上院議員と上り詰め、その仕上げとして大統領選へ挑戦した。選挙戦初日の演説会場には、多くの有名芸能人が集まり、歌や踊りを披露し、観衆にサービスした。さらに豊富な資金を武器に、テレビに頻繁に登場し、アキノ候補を猛追し、ほぼ互角の支持率を獲得している。マニー(金)というニックネームも皮肉だ。毒舌で有名なミリアム・サンチャゴ上院議員も赤いドレスを着て同じ国民党の候補であるビリヤール候補を応援した。副大統領候補は美人政治家のレガルダ上院議員。 超有名俳優のドルフィーとウイリービリヤール候補を応援するが、彼らは30M ペソ(約6千万円)の謝礼をもらって、応援しているという。フィリピンの大統領選はマニフェストがどうのこうのではなく、いかに人気俳優達の人気に背負われて票を獲得するかという競争なのだ。 ジョセフ・エストラーダ(エラップ):元人気アクションスターで、1998年大統領に選ばれたが、不法賭博フエテンによる不正蓄財等により2001年アロヨ副大統領らにより政権を追われた (EDSA革命2)。さらに2007年不正蓄財で有罪となり終身刑の罪となったが、アロヨ大統領は即刻、特赦をあたえ釈放した。その後、大統領の再挑戦を目指し活動してきたが、前大統領であるエストラーダの立候補については憲法違反であるとの指摘もある。しかし、貧民層への人気はいまだに根強いものがあり、72歳の最年長候補者だ。 自分自身が芸能界出身ということか、テレビコマーシャルでは派手なパフォーマンスは無く、静かに国民に語りかけるポーズをとっている。終身刑を食らった身で浮かれるわけにも行かないのだろう。副大統領候補はマカティ市長のビナイ市長。かねてから反アロヨの姿勢を明確にして、たびたび反アロヨのデモをおこなってきた政治家だ。 ギルバート・テオドロ(ギボ):名門フィリピン大学を主席で卒業し、ハーバード大法科大学院卒業というエリート。43歳の若さで現政権の国防長官となり、若干45歳の若手政治家だ。アロヨ大統領の正式な与党後継者だが、アロヨの政治とは一線を画している。アキノ候補と同様にコファンコ家の一員だが、知識層の支持を受けている。血統、金、人気で大統領を選ぶのではなく、能力で選べと、暗に他の大統領候補者を非難している。そのためか、テレビコマーシャルへの露出度は少ない。 リチャード・ゴードン(ディック):1990年代、アメリカ軍が撤退しフィリピンに返還されたスービック経済特別区の長官として、オロンガポの住民と共に海外から投資を呼び込み、スービックに今日の繁栄をもたらした。市民に生活の糧である仕事を与えるというキャッチフレーズで大統領を目指している。 […]

統一選挙戦の火蓋が切られた 2010年2月12日



日本で不動産業を営む50歳のKさんが退職ビザを取得中だが、その方はフィリピンで農業を営みたいとのことなので、現場に案内した。場所はマニラの北方約120kmのターラックにあるGreenstar Produce Phils., Inc.、大渕さんが経営するオクラの農場だ。ちなみにKさんはすでに13ヘクタールの土地をフィリピン人の妻の名義で所有し、最近250万ペソで8ヘクタールの農地を購入したとのこと。なんと平米当たり31ペソ、たったの60円/平米だ。  全くの予備知識無しに出かけていったので、到着して施設の立派さに驚いた。農家というより農協だ。大渕さんから詳しい話を聞いて納得したのだが、まさにここはオクラ専門の農協だったのだ。出荷するオクラの2割は自社農園、8割は契約農家から調達し、約150ヘクタールの畑から取れるオクラを年間18万ケース、700トン出荷しているそうだ。 http://www.greenstar-produce.com/top_japanese.htm 8~9月に植えつけて、10月~5月に収穫する。この時期は日本国内産のオクラが取れない時期で、このころスーパーで買うオクラはすべてフィリピンなどの南の国でとれるオクラなのだ。出荷したオクラは親会社であるワタリという商社を通じて日本全国へ出荷される。Greenstarのシェアはフィリピンから輸出されるオクラの30%以上だそうだ。まさに商社が独自に食料を海外の農場から直接買い入れ、販売している現場なのだ。(今日は日曜だったので、事務所は空だったが、オクラの袋詰め作業はフル稼働で休みなしとのこと)。 オクラ畑は広大だった。オクラの背丈は50cmほどだったが、すでに実をつけている。これから人間の背丈ほどになるまで実をつけ続けるのだ。オクラは成長が早く、一日収穫が遅れると大きく固くなって食用にできない。しかも身についた細かい毛が皮膚についてかゆくなるので、朝から晩まで毎日欠かせない収穫作業はきついものがある。人の目で見て食べごろのオクラを一個一個収穫しなければならないので、収穫作業を機械化するのは不可能。だから人件費の安いフィリピンにぴったりだ。実は私も30m2くらいのオクラ畑をタバコ市の農場で作ったことがあるが、毎日バケツ一杯取れるオクラに往生した。毎日ゆでたオクラを食べ続け、すっかりオクラ嫌いになってしまったものだ。 ちなみにオクラの花は黄色い可憐な花で、きり花としても使えそうだ。畑から直接とって食べるオクラはしゃきしゃきとしてとてもおいしい。右の写真は玉ねぎ畑。フィリピンの玉ねぎはとても小さく、ニンニクのように調味料として使うので単価が高い。しかもパンパンガは玉ねぎの名産地だそうだ。退職者が狙っているのがこの玉ねぎ、それに鶏の飼料用のとうもろこし、米などだ。 Greenstarの一階が袋詰め工場になっており、約60人のフィリピーナが働いている。彼らの給与は出来高制だが、一日250~300ペソとなり、現金収入の少ない農家にとっては貴重な現金収入だ。工場に入るためには白衣を着て靴も履き替えるという厳重さだ。 収穫されたオクラはまず選別される。大きさや傷など手際よく調べられ、全体の40%がはねられてしまう。廃棄されるオクラは充分食べられそうだが、なんとももったいない。その後は弱塩素水によって洗浄される。 そして袋詰め作業。慣れた手つきでどんどん袋詰めされる。すべてが手作業で厳重な衛生管理の下で作業が進められる。過剰品質ともいえないこともないが、一旦クレームがついたら、しばらくの間、オクラの出荷が停止されることになり、その損害は計り知れない。だから、絶対に不良品の出ない体制を敷いているという。 箱詰めを終えたオクラはマニラまでトラックで運ばれ朝便の飛行機で日本へ運ばれる。鮮度が命の野菜は時間が勝負だ。収穫から始まって、選別、洗浄、袋詰め、ラベル貼り、箱詰め、搬送の過程は24時間常に誰かが何かの作業に携わっていることになる。 農場からアンヘレスに戻る途中、あのスカイラインGTRに遭遇した。プレートナンバーもGTRという、なんとも凝った車だ。日本でも800万円して、現在世界最速のスポーツカーだと、大型バイクを乗りますのが趣味というKさんが教えてくれた。 この日の朝、ホテルでたまたま知り合った日本人のJさんが、有機肥料の生産販売をおこなっているというので、アンヘレスで落ち合って工場を訪問した。この方は、100ヘクタールの農地を持って農業も手がけているという実業家で次回はJさんの農場をじっくり訪問させていただきたいと思っている。

フィリピン産オクラの生産現場を訪問 2010年2月9日


マヨン火山噴火のニュースが流れて久しいが、すでに数万人の人々が避難生活を強いられている。テレビでもトップニュースとして毎日報道されている、25 日のクリスマスにタバコの農場に帰郷する予定だったので、それまでなんとか噴火しないで待っていて欲しいと願っていた。被害をこうむる人たちには申し訳な いが、噴火を間近に見るなど一生にあるかないかの貴重な経験だ。 幸い農場はマヨン火山の北側にあり、噴火口が向いているレガスピ市とは 反対側に位置しているので、火砕流や火山灰の被害はほとんどない。だから安心して噴火見物としゃれこむことができるのだが、レガスピ市にあるホテルは噴火 のニュースのおかげで、一目噴火を見ようと訪れる不謹慎で好奇心の強い外国人観光客で満員だそうだ。ビコール大学がクリスマス・年末年始の休暇のため学生 が帰郷している下宿屋さんは、ホテルに鞍替えして、噴火見物の観光客を一泊500ペソで受け入れてホクホクとのこと。 レガスピ飛行場に近づくと雲の上にマヨン火山の頂がのぞき、噴煙を上げていた。新聞ではマヨン火山は雲に隠れて観測ができないと報道していたが、これでは地上から頂を見ることはできそうにない。 毎度のことだが、セブパシフィックのスチュアーデスは美人が多い。この日もこっそりと一枚取らせてもらった。 一方、飛行場から見るマヨンはやはり雲に隠 れていた。天気が良ければ飛行機の向こうにマヨン火山の頂が見えるのだが、この日は辛うじて頂上付近の右斜面が見えるだけだった。 甥や姪の出迎えにご機嫌の相棒のジェーン。現在、彼女は妊娠6ヶ月。10人の甥や姪を自分の子供たちと思っていたが、いよいよ待望の自分の子供ができたの だ。到着は昼に近かったので、レガスピ市のなじみの店で食事をとったが、私はクリスマス・イブで現金を使い果たしてしまっていたので、写真右の右端に移っ ているジェーンの彼氏に払ってもらった。子供も含めて10人で食べて1400ペソ足らずと相変わらず格安だった。 せっかくだからレガスピ側から火山の様子を見ようと、飛行場の脇にあるリニヨン・ヒル展望台に車で上って見た。日ごろめったに人影を見ないのだが、この日 […]

マヨン火山の噴火 2010年1月5日



  台風16号オンドイにより壊滅的被害を受けたのがケソン市の東に位置するマリキナ市だ。メトロ・マニラを流れる唯一の河川ともいえるパシッグ川の上流、マリキナ川沿いに位置し、大雨が降るといつも洪水のニュースが流れるところだ。台風16号の大雨ではダムの放流水もあいまって、短時間の内に水位が10 メートル近く上昇し、川の水は軽々と堤防を越え、周囲を水没させた。3本目のメトロマニラ高架鉄道LRT2の終点Santoran駅の近くに建設された SMでは2階まで水浸しになったそうだ。  河岸に建てられた建物には1階の天井まで水位が上昇したあとが見える。周囲の家も2階まで水に使ったと住民が話していた。  ニュースで流れた高級ビリッジ、Probvident Villageは堅固な堤防に囲まれていたが、この100年に一回の大雨による増水には無力だった。水は堤防の上1メートルくらいまで達し、ビレッジの高級な家を水没させ、多くの住民が逃げ遅れて犠牲になった。  Provident Villageからさらに北に行くと、川沿いにMalandayというエリアがある。この地域は周囲より数メートル低く、川の水位と大差がない。堤防はあるものの、水は軽々と堤防を越え、周囲の家は水没した。その時、住民は近くの3階建ての学校に避難したそうだ。 集まってきた子供達はその時の経験を楽しそうに語る。ちなみにマリキナは靴の産地として有名で、川には大きな靴の模型が飾ってあった。  マリキナ川は氾濫を繰り返し、さらに下流のマニラ首都圏を洪水に巻き込むために、Manggahan Flood Wayという大規模な放水路が日本の援助で建設されている。水量が増したら、一旦バイ湖(ラグナ湖)に水を流し、調整池として機能させようという計画だ。合流点には大きな水門があるが、普段あけたままだという。しかしこの放水路も100年大雨の前には無力だったのだろうか。  マリキナ川、パシッグ川そしてバイ湖(ラグナ湖)からの放水路であるナピンダン川の交差するところに大規模な水門がある。一旦ラグナ湖に蓄えられた水をここで遮断し、マニラを洪水から守るのが目的なのだろうが、ここの水門もどういうわけか開けっ放しだという。いったい洪水管理(Flood Control)はきちんと行なわれているのだろうか。あるいは今回の台風による大雨があまりにも強力でなす術がなかったのだろうか。

防災科研の台風災害調査に同行(その2 メトロ・マニラ)2009年12月11日


  バギオでの災害調査の一歩はバギオ市長からのヒアリングだった。この市長は若干37歳、バギオで大学を経営するファミリーの一員で、この若さでフィリピン有数の都市を引っ張っている。市長と話をしているのは防災科研の調査一行の方だ。   この日は丁度、Safety Weekだそうで、市庁舎前の広場には学生が集まり、市長のスピーチに耳を傾けていた。なにしろ皆若い。バギオは若者の街といった印象だ。サングラスをかけた市長というのも絵になる。   今回の調査のアレンジをしてくれたのは、写真右下のラジオ局の人で、おかげでいろいろな人や現地をつぶさに訪問することができた。   翌日の土曜日は、偶然、この地方のお祭りのグランド・パレードが行なわれていた。バギオを中心とするルソン島北部、山岳地帯はCordillera Administrative Regionと呼ばれ、空中都市バギオのほかバナウエの天空に通じるライス・テラス(棚田)などで有名だ。偶然とはいえ、前回の訪問でもパレードに出っくわした。どうも毎週何らかの催し物を行い、観光客を喜ばしているのではないかと思う。   この地方の原住民はイグロット族と呼ばれるが、パレードの衣装はほとんどがイグロット族のもので、とても雰囲気がある。そういえばバギオに住んでいる人の顔つきは、マニラのものとはちょっと違う。マニラの人は多くが色白でスペインや中国の血が混ざっている人が多い。ここではそのような人はあまり見かけず、どちらかといえば色黒だ。実際。イグロット族の血が相当混ざっているのではないだろうか。

防災科研の台風災害調査に同行(その1 バギオ2)2009年12月11日