shiga


  ハロハロといえば、フィリピンの代表的デザートだ。日本のかき氷のようなものだが、トッピングがハロハロなのだ。ハロハロとはごちゃ混ぜという意味で、ちなみの写真のハロハロのトッピングはチーズ、ウベ芋、プリン、ゼリー、ミルク、などなど数え切れないくらいのお菓子の食材が乗っている。  このハロハロは第2次世界大戦後、元日本兵が食うためにかき氷を売り始めたのが起源といわれ、最近ではファストフードの雄、チョーキンも大々的に売り出している。夏には街角にハロハロショップがひしめくが、特にエルニーニョの影響で猛暑が続くマニラでは飛ぶように売れている。  タバコの北にある地熱発電で有名なTIWI(ティーウィ)という街に、DjCというハロハロ専門店がある。ここでハロハロを食べるのが、私のタバコ案内のお決まりコースだ。20年ほどに開店したそうだが、マニラ、レガスピ、ナガなどの都市に支店を出すほどの繁昌ぶりだ。かつて大手のレストランからレシピを買いたいと申し入れがあったが、オーナーはそれを拒否して、秘伝の味を守ったそうだ。 店は極当たり前のサイズだが、テーブルは満員だ。そして、15~30分程度で食べ終わって、どんどん回転していく。一杯50ペソ(100円)と決して安くはない値段なので、相当儲けていると推定される。ちなみに売り上げは10テーブルx4人x2回/時間x12時間x50ペソ=48,000ペソ。粗利率を 50%と仮定すると、一日24,000ペソの粗利になる。1ヶ月で72万ペソの粗利。その半分が利益だとしても月々36万ペソの利益という、まさにリッチなビジネスだ。  

デザートの王様、ハロハロ 2010年3月23日


洗車やマッサージパーラーも、もう古い。インターネットカフェ、ロンドリー、飲料水、タクシーオペレーター、5-6(金貸し業)などなど、かつては小資本で開業できて、儲けが大きいと、雨後の竹の子のようにオープンしたが、これらのビジネスは、もはや過去の遺物だ。そして、フィリピンで今一番はやっている新商売が古着屋だ。フィリピン全土、街のあちらこちらに新しい店がオープンしている。古着とはいえ、新品同様の服がショートパンツやT-シャツが50ペソ、ジーンズなどが100~200ペソ程度で買える。こういう店を「UKAY-UKAY」というが、「UKAY-UKAY」とは「かき回して探す」というような意味で、バーゲンセールの特設売り場で主婦が服をかき回して気に入ったものを探す様子を指したものだ。はじめてみたときは日本語の「愉快愉快」からとったものなのかと思ったが、違うようだ。 すべてが日本、香港、アメリカ、ヨーロッパなどで使われた古着だから、ものは良い。デザインもよいし、中にはブランド物もある。一度や2度手を通しただけで、品質の良いものが新品の半値以下で買えるのだから、実利的な人は皆ここで買う。だからデパートの服売り場は閑古鳥が鳴いている。まさにフィリピン庶民の味方ともいえる商売だ。  これらの服は、海外からの援助物資の横流しだそうで、税関が、これらの援助物資を金を取って業者に流しているらしい。バリクバヤン・ボックスという日本からフィリピンへ引越し荷物やお土産などを送る運送形態がある。箱の大きさは74x54x64cm角の大き目のダンボールで、重さは60kgまでで、1万円程度で送れる。このバリクバヤン・ボックス一杯に古着が詰まったのを12,000ペソで仕入れられるそうだ。中身は見てのお楽しみ、中には高く売れる服もあるが、くず服ばかりで損をすることもあるそうだ。古着の詰まったバリクバヤン・ボックスを20~30個も仕入れれば、そこそこの品揃えになるから小資本で商売を始めるにはうってつけかもしれない。しかし、今のうちが勝負だ。そもそも商品に限りがあるから、あとから参入しても仕入れが出来ないだろう。

古着屋が愉快愉快 2010年3月23日



マヨン火山の雄姿を期待してリニョン・ヒル(LIGNON HILL)にのぼったが、厚い雲の覆われたマヨンは姿を見せてくれなかった。一方、マヨンの反対側に広がるレガスピ市はきれいに見えた。今回は飛行機の発着のタイミングには会わなかったのが残念はだった。  リニョン・ヒル展望台のアトラクションとして作られたのが、ジップラインだ。ジップとはジッパーのジップで日本語なら「ビリー」と布が破れる音の擬音だ。この遊びはロープに取り付けられた椅子に乗ってロープをすべるだけの単純な遊びだが、マヨン火山を眺めながらすべる十数秒はスリル満点に違いない。高所恐怖症の私には試して見ようもないが。 下の写真は今回の訪問で唯一撮影することが出来たマヨン火山の写真だ。レガスピ空港から離陸直後の一枚だ。

人間ロープウエイ(Zip Line) 2010年3月23日


Yさんの死により、ビザのキャンセル手続きが暗礁に乗りあげてしまった。 Yさんの失効パスポートと死亡証明書を持ってPRAにキャンセル手続きの継続を依頼したら、担当者の第一声はこうだ。 「入管の手続きはすでに完了しているものの、2万ドルの定期預金の引き出し許可証は、発行する相手が死んでいるので、家族の誰かが、家族であるという証明を持って受取に来て欲しい。」 このまま黙って引き下がるわけには行かない。状況を再度説明して、再検討を依頼したら、出張中の上司に相談して決定すると云うので、とりあえずPRAを後にした。もはやあせっても仕方がないので、とりあえず引き下がることにしたのだ。数日後、その上司に面会し、事情を説明した。上司は、これまでのいきさつを充分承知しており、かつ今回の事態がPRA担当者のお役所的対応の末に起きてしまったことを充分認識している。担当者を呼んで、1時間程度、喧々諤々の議論した。その結果、下記の結論を得た。 「この退職者は家族と縁が切れており、引き出し許可証を家族が受け取ることはありえない。一方、日本では弁護士が法定代理人として退職者の財産を管理している。したがって、、引き出し許可証のコピーに代理人である弁護士の署名をもらって、退職者本人の署名とみなす。許可証の原紙は、退職者からの委任者であり、かつ代理人の依頼を受けている私が受取る。それ以降、銀行からの引き出し手続きは委任状を持った私と銀行との交渉次第とする。」 まずPRAの攻略に成功した。翌日、引き出し許可証のコピーを受取り日本の弁護士へ送付、翌々日は許可証の原紙の受取と銀行への提出と、駒はとんとん拍子に進んだ。銀行は、「委任状については本店の法務部門の承認が必要」と事務的に言うだけだった。ここで重要なことは、ややこしい議論を避けるために退職者の死亡という事実を伏せておくことだ。そして、1週間後、銀行から「委任状が承認された」という連絡があり、胸を高鳴らせて銀行へ向った。2~3枚の書類に署名をして、待つこと約30分、ついに2万ドルの引き出しに成功したのだ。 銀行での引き出しに成功した後、そのまま大使館に向ってYさんの死亡届を提出した。大使館もすでに状況を知っているので、快く私の申請を受け付けてくれた。これで一件落着だ。私のなすべきことはすべて終わった。後は介護婦が2万ドルの現金を下ろすだけだ。 以前、報告したように、2万ドルは退職者と介護婦の共同名義の口座に振り込まれるので、退職者の死亡の事実が銀行に知れると、その口座そのものも凍結されてしまう恐れがある。したがって、この2万ドルを引き出して他の口座に移動してしまうまで安心できない。休み明けに引き出すこととして、銀行には現金の予約をしておいた。そして、月曜日、農場からの帰りの空港タクシーの中で、介護婦から「2万ドルの引き出しに成功した」との報告を受けて、やっと肩の荷がおりた。病院への支払いを完了して事務所に現れた介護婦の顔には安堵の笑顔が溢れていた。

ある退職者の死の教訓(2)その3 2010年3月23日



各種栄養素が豊富なばかりではなく、多くの抗酸化、抗炎症物質を含み、糖尿や高血圧、メタボや性欲減退等々、熟年世代のあらゆる悩みに効き、免疫機能の改善や体力増強、老化防止に効果があるという、奇跡の野菜と注目されているのがマロンガイだ。お茶やカプセルとして大々的に売り出されており、日本にも輸出されている。先週、マニラ新聞でも1週間くらい連続して紙面半分を使って広告されていた。  そもそもマロンガイは珍しくもなんともない庶民の野菜で、田舎に行けば各家庭の庭に植えられ、その小さな葉が食用とされている。モンゴという緑色の小豆のような豆と一緒に煮てスープにして食べるのが一般的だ(ギネサン・モンゴ)。残念ながらレストランでは食べられないが、お世辞にもおいしいとはいえない料理だ。しかし、健康的であろうことは実感できる。良薬は口に苦しと云う例えの通りだ。  バギオのマーケットでは健康野菜を豊富に売っている 2~3年前から話題になっているので、農場で散歩するたびに庭に生えているマロンガイの葉をそのまま食してみるが、独特な苦味があり、決しておいしいものではない。野菜なんて生で食べておいしいはずもないが、フィリピンでは古い時代からの知恵で、家庭の常備薬として庭に植えて食してきたのだろう。 糖尿の気のある私もアンパラヤ(ニガウリ)のカプセルと共に常用しているが、その効果を実感するには至っていない。しかし、薬無しで血糖値はコントロールできているし(空腹時で100~120、食後で160~200程度)、ほとんど疲れも感じないし、風や下痢、腹痛などにも滅多にかからない。もしかしたらアンパラヤとマロンガイの相乗効果なのかもしれない。今度農場に帰ったら、マロンガイを菜園の周りに大量に植えようと思う。フィリピンの植物は挿し木で簡単にいくらでも増えるから楽勝だ。そしてお客さんにはマロンガイとモンゴのスープを薬用食として提供しようと思う。ほっておけば勝手に育ってくれて、奇跡の良薬が只同様に手に入るのだから、利用しない手はない。 マロンガイは枝ごと収穫して、枝から葉っぱを取り除く。小さな葉なので中々手間がかかるが、子供でも出来るので、小さい女の子の役割だ。 フィリピンで一般的に食用に供される野菜の中で健康に良いとされているのが、アンパラヤ(ニガウリあるいはゴーヤ)、アルバティ(つる紫)、サルヨット (モロヘイヤ)、オクラなどだ。アンパラヤを除いて、いずれも粘り気のある野菜だが、強い日差しを浴びてフィリピンではいくらでも育つ。特にオクラはシネガンスープなど日常的に食され、日本にも大量に輸出されている。    

奇跡の健康野菜「マロンガイ(モリンガ)」の紹介 2010年3月16日


フォート・ボニファシオ・グローバル・シティは、マニラ・ゴルフやフォルベス・パークなどの高級住宅地を挟んでマカティの東に隣接する新興都市だ。もともと国軍の基地(フォート・ボニファシオ)だったものが、1990年代半ばに民間に払い下げられた。そして2000年に入ってから急ピッチで開発が進められ、瞬く間に都市が出来上がってしまった。現在も高層ビルの建設ラッシュで、あちらこちらで槌音が聞こえる。マカティあるいはオルティガス並みの都市になるのにさほどの時間は必要としないだろう。  フォート・ボニファシオのシンボルはアメリカン・セメタリーだ。第2次世界大戦で日本と戦って死んだ兵士のなきがらが眠っている。ここだけはいくら開発が進んだとしてもそのまま残るだろう。フィリピーノの死者に対する畏敬の念は絶大だから、ここを移設するというような発想は絶対に出てこない。写真中央がアメリカン・セメタリー、その上がグローバル・シティのコンドミニアム群、遠くに見えるのがマカティのビル群だ。手前はマッキンレーの新興高級住宅街。 30ヘクタールはあろうかという広大な墓地は、墓地と言うより公園だ。周囲のビル群との対比が美しく緑がまぶしい。私はここをマニラで最も美しいところと称し、多くの人を案内しているが、当のマニラッ子は意外と行ったことがない人が多い。入場料も取られないので、少なくとも一度は訪ねてみる価値があるだろう。 中央の回廊には埋葬された兵士の名前が刻まれた壁が延々と続く。その数ざっと4万人と膨大だ。さらに中央のマリア像がある付近には、当時の戦闘の模様がモザイクで刻まれている。レイテ海戦など耳にした事のあるタイトルがついている。   ボニファシオは、マニラ国際空港(NAIA)の滑走路の延長線上にあり、ひっきりなしに飛行機が往来する。紺碧の空にフィリピン航空のエアバス(?)が飛ぶ姿は、よく空を眺めていた子供のころを思い出す。 ボニファシオ・グローバル・シティの商業の中心がマーケット・マーケットだ。ユニークな巨大な屋根を持つ、近代的モールで、経営はビサヤ地方に根拠を置くガイサノだ。モールは人であふれ、中央の吹き抜け部分から人の動きが良く見える。 巨大な屋根の下はオープンマーケットの雰囲気を醸し出している。多くの屋台が健康野菜やそれぞれの地方の名産品を売っている。その地方に旅行をしたような気分になる。 非常にゆったりとしたレイアウトで、車やバイクのの展示場などもあり、屋根の下のベンチでくつろぐ人もたくさんいる。 マーケット・マーケットの周りにはアヤラ開発の中層高級コンドミニアムのセレンドラや多くの高層コンドミニアムが建設中だ。しかし、マーケット・マーケットで買い物する人々はそこからやってくる人ばかりではなくて、タギグなどの周辺の庶民がたくさんやってきてるようだ。学校をサボって朝から晩まで冷房の利いたモールで過ごし、夜は友達と飲みに行く毎日で、挙句のはてにハイスクールから追い出されてしまう、というワルな女生徒も多くいるそうだ。 ボニファシオも病院や学校が建てられ、いよいよ都市としても機能が充実してきている。左はセント・ルークス病院。ケソンの一流病院の最新鋭病棟だ。オープンしたばかりで、現在もっとも最先端を行く病院と言える。

フォート・ボニファシオ・グローバル・シティの紹介 2010年3月15日



メトロマニラの中心であるマカティはここ15年ですっかり高層化され、国際都市の仲間入りをしている。これらほとんどの高層ビルは1990年代後半に建設されたものだが、これら近代的なビル群は鉄筋コンクリート製で、日本のように鉄骨ないし鉄骨鉄筋コンクリート製のビルはほとんどない。  マカティに建てられた最初の高層ビルはマカティ・アベニューとブエンディア通りの角に建っているパシフィック・スタービル(左下写真)で1989年に完成した。これだけは鉄骨製だ。さらに最初の高層コンドミニアムが同じごろアヤラ・アベニューに建設されたパシフィック・プラザ(右下写真、左側)で、このころは海外の設計者のデザインによるものが多く、多分鉄骨製だろう。その後、DMCIなどの大手建設会社が鉄骨製の設計に対して鉄筋コンクリートがはるかに安いと設計変更を施主に提案し、鉄筋コンクリート製の高層ビルが定着していった。 何故鉄筋コンクリートが安いのか。フィリピンに製鉄所はないから鉄骨はすべて輸入される。一方、セメント、砂利、砂はフィリピンで調達できる。それに人件費が安いから現場で手間暇のかかる鉄筋コンクリートの方がはるかに安く上がる。しかも、マカティの地盤は日本の都市のようにふわふわな粘土の沖積層や比較的固い砂利層の洪積層ではなくて、まるで岩盤のような、いわば砂岩のような地層だ。だから地震があってもあまり揺れず、重量の大きい鉄筋コンクリート製のビルでもしっかり支えてくれる。かつて自社ビルを建てた折、たったの数メーターの深さの地盤をバックホーで掘削していたら火花が出たくらいだ。数十メートルの掘削も土留め無しで掘っているし、マカティで杭を打っているのを見たことがない。ほとんどすべてのビルの基礎は直接基礎で基礎工事が極めてシンプルだ。  今、マカティは再びビルの建設ラッシュだが、ほとんどのビルはコンドミニアムだ。私の事務所があるパソンタモ通りを南に下り、パサイ通りを左に折れて、ドーシットホテルに向うビル街の外周コースを歩くと、交差点ごとに高層のコンドミニアムが建設中だ。そのすべてが鉄筋コンクリート製なのだ。   鉄筋コンクリートはご存知の通り、階ごとに柱や梁の鉄筋を組んで、支保工と型枠をつくり、コンクリートを流し込んで出来上がり。それを繰り返し、上へ上へと上がっていく。日本のように一気に鉄骨を組み立てて、あっという間にビルの骨格が出来上がるのと違い、極めてのろい。しかし、上層で骨格を作っている間に、下層階は仕上げに入っているなど、並行して工事が出来るの、建設期間はそんなに差がない。また、さほどの重量物を運ぶ必要が無くて、タワークレーンもちゃちで、いまだにT字型のクレーンが主に使われている。  コンクリートの柱、梁、床の骨格が出来ると、壁はほとんどの場合ブロックで作る。ブロックは安いし、断熱、遮音効果もあって、中々優れた材料だが、重くて手間がかかるのが難点だ。しかし、地盤が良く、手間賃の安いフィリピンにはぴったりだ。それに現場で積み上げていくので、どんな形でも自由自在に作れて、精度の心配もない。だから実石さんの作るブロックが飛ぶように売れわけだ。 マニラの高層ビル群を眺めてみると、ここ15年の様変わりに感心する。写真下の中央がシャングリラホテルで、後方がサルセド・ビレッジ及びレガスピ・ビレッジでマカティの高層ビル群の中心地だ。左隅の低層ビル街はコマーシャルエリアでデパートやモールだ。右の写真はアヤラ通り沿いに立ち並ぶ高層ビル、手前はマカティ・メディカル(病院) マカティの東、かつての軍の基地を払い下げて開発中のフォート・ボニファシオ・グローバル・シティのビル群。2000年代の開発の目玉だが、急ピッチな開発のために空室が目立ち、値下がり傾向にあるそうだ。右の写真の手前は名門マニラゴルフ。マカティとフォートに挟まれ、都会の一等地にあるゴルフ場で、値下がりが目立つゴルフ会員権の中で、ここだけは高値を堅持しているそうだ。 さらにマカティとフォートの間には広大な高級ビレッジのフォルベス・パークとダスマリニャス・ビレッジが広がる。大使公邸や商社の支店長、そしてフィリピンのお金持ちが住む別天地だ。右の写真はマカティに続く高層ビル群のオルティガスだ。ここは、写真手前のアジア開発銀行を囲むように1990年代後半、瞬く間に高層ビルが建ち並んだ。

マニラの高層建築は鉄筋コンクリート製 2010年3月14日


退職者のYさんはフィリピンに移り住んで15年、そして7年前、脳梗塞を患って倒れた。幸い、回復して退院したものの、口も聞けず、感情を表すのがやっとだった。Yさんにとって幸いだったのは、倒れる前に介護婦のMさんと知り合い、色々面倒を見てもらっていたことだ。「Yさんはとてもやさしい、いい人で、近所にもたくさんの友達がいた」と、7年間介護を続けたMさんは思い出を語る。  1日24時間、週7日、休みなしに一人のメードと交代で介護を続けたMさんは、月々の収支報告を日本の弁護士に送り、家計から家事、そして介護とまさに献身的な働きをした。そのため、結婚話にも耳を傾けず、Yさんの回復を祈っていたという、まさに美談だ。一度、日本の記者を連れて行ったことがあったが、女性記者と話をしていて、二人が号泣していたのを憶えている。彼女はYさんの遺体を故郷のネグロスの実家に葬り、一生、一緒に過ごすと語っている。  Yさんは元気なうちにMさんという人と知り合えて、とてもラッキーだった。それもYさんの人柄がよくて、皆に愛されていたからだろう。家族の方の出席は無かったものの、フィリピンの家族に囲まれてYさんは天国へ旅立った。葬儀には大勢の方々が参列してくれたそうだ。通夜の間中、Mさんの家族は24時間、交代で寝ずにYさんのなきがらを見守った。Yさんが寂しくないように誰かが24時間つきそうのがフィリピンの習慣だそうだ。 Mさんはネグロスになきがらを運ぶのは大変なので、火葬にすると言っていた(弁護士からはなきがらはMさんに預けると言う了解をもらっていた)。しかし、その前日、Yさんが熱い熱いと叫んでいる夢を見て彼女は気が変わった。そもそもフィリピンでは土葬にするのが普通で、なきがらがあれば毎年ホリーウイークには現世に帰ってきて再会できると信じている。だから、なきがらはフィリピン人にとってとても大事なのだ。  Yさんは夕方、近所の教会に行くのが日課だった。だから教会の牧師やシスターも知りあいだ。葬儀には教会から牧師が来てミサを行い、多くの方が別れを惜しんでくれたそうだ。フィリピン人の別れ行く人への思いいれは格別なものがあるのだ。  

ある退職者の死の教訓(2)その2 2010年3月13日



先日、バタンガスのアニラオのビーチに退職者を案内していたおり、Yさんという退職者の危篤の一報が入った。翌朝早速、Yさんを面倒見ている介護婦と面会し、ことの次第と今後の策について話し合った。 Yさんは、5年前、私がPRAに入ったころ、脳溢血のためほとんど意思が表示できない状況にあった。そのため日本から来た代理人の弁護士らと話し合い、今後の生活や生活資金などについて、ルールを決めたいきさつがある。それから5年経過し、体調が悪化して入院し、医師から長くはないと告げられ、介護婦がどうしたらよいものかと相談してきたのだ。日本の弁護士とも連絡を取っているが、言葉の問題でうまく意思が伝わらないと言う。ちなみに、Yさんには家族はあるが、訳があって縁が切れており、代理人の弁護士がYさんのすべての財産を管理している。 問題は、年金生活をしているYさんには入院費を支払う預金がないことだ。もしこのまま亡くなってしまったら、入院費が払えず、病院は遺体を引渡さないばかりか死亡証明も発行してくれない。いわば人質として取られてしまうのだ。そうなると問題を解決する方法がない。入院費は最終的に100万ペソ程度になると予測され、葬儀などの経費も合わせると百数十万ペソの資金が必要になる。退職ビザを保有するYさんは幸い5万ドルの定期預金が手付かずで残っていた。これを速やかに引出し、入院費等に当てるしかない。Yさんが亡くなってからではその引き出しには相続手続きという気の遠くなるような手間暇が必要で、その間、遺体は病院においておかねばならないという、とんでもない事態になってしまう。 そのため、PRAとも話し合い、代理人の弁護士の了解のもとに下記の方針で進めることとした。 1. 5万ドルの内、現行の必要定期預金2万ドルとの差額、3万ドルをすみやかに引き出す PRA並びに銀行職員と一緒に病院に赴き、申込書や定期預金証書にYさんの拇印をもらい、手続きを進めこととした。さらに、私宛の委任状に拇印をもらい、私がPRAから引き出し許可証を受け取り、銀行に提出するなどの手続きをできるようにもした。翌日、PRAからの引き出し許可証の受取、翌々日、銀行で引出し手続きを行なったが、所詮お堅い役所と銀行のやることで、何やかやと丸々二日間事務所で待ち続けるはめになってしまった。ほとんどが上位者や本部の承認待ちだが、特に銀行は本人が署名できる状況にないことから、ことのほか慎重で、ずるずると時間だけが経過していった。 引き出した3万ドルはYさんと介護婦の共同名義の口座に振り込むこととしたが、もしYさんが死亡したばあい、共同名義とあれども口座は凍結され、一方の名義人はおろすことができなくなる恐れがある。したがって、介護婦には別の口座を作成して、速やかに資金を移動するよう指導した。ところがこの銀行はどういうわけか介護婦が別のドル口座を開設することを許さなかった。そのため、ドルを現金で下ろして別の銀行にドル口座を開設して移動した。現金にした理由はデマンド・ドラフト(外貨の銀行振り出し小切手)ではクリアランスに2週間程度かかり、その間現金に手をつけられないからだ。なんともはや、お堅い銀行で、やることなすこと、この調子で、呆れて腹が立ち、ついに銀行員を怒鳴りつけてしまったことには多いに反省している。 2. ビザを速やかにキャンセルして、残りの2万ドルを引き出す 問題はパスポートが昨年の11月で切れており、Yさんは現在有効なパスポートを保有していないことだ。失効したパスポートの更新には日本から戸籍謄本を取り寄せなければならない。戸籍謄本の入手を待って、パスポートを更新して、それからキャンセルと銀行手続きでは、Yさんにそれまで、とても待っていてもらえないだろう。そのため、PRAと入管に、有効なパスポート無しに失効したパスポートだけでビザをキャンセルして2万ドルの引き出し許可証を発行したもらうよう交渉した。しかし、PRAと入管はお互いけん制しあって、どうしても有効なパスポートがなければビザのキャンセル手続きはできないと言い張る。いずれにせよビザのキャンセルには多少の時間がかかるので、とりあえず申請して手続きを進めてもらう一方、並行してパスポートの更新をおこない、新しいパスポートの発行と同時にビザのキャンセル手続きと引き出し許可証の発行が完了するよう段取りした。 3. パスポートの更新 大使館によると、パスポートの申請代行は出来ても、署名と受領は本人がしなければならないという。しかし、医師の診断書の提出と日本の弁護士の了解のもとに、申請と署名は私が代行して、受取は領事が病院に出向いて行うということで見通しがたった。 申請から4日で発行される新規のパスポートを受取り、それをPRAに持ち込んで、直ちにキャンセル手続きを行ない(入管からはキャンセルのオーダーがすでに届いている)、引き出し許可証を発行してもらうことが出来る。そして、銀行手続きも一両日の内に完了する、というところまでこぎつけた。これでまずは一安心、あと1週間で私の大事な役目は終了するはずだった。 ところが、翌朝未明Yさんが亡くなったと言う報が入ったのだ。早速、大使館に赴きパスポートの申請を取り下げようとしたら、死亡証明を持ってこなければ、提出した書類は返せないと言う。それもそうだろうと、早速病院に赴いて死亡証明をもらって、なんとかパスポートを大使館から取り返した(ここでも、大使館には、市役所に登録した正式な死亡証明をもってこいなどと言われ、少々切れてしまった。それでもなんとか説得してOKとなり、逆に「頑張ってください」と励ましの言葉をいただいてしまった)。 その後、PRAに失効したパスポートを提出し、キャンセル手続きを進め、すみやかに引出し許可証を発行するよう依頼した。しかし、PRAの担当者は即決できず、上司が出張から戻ったら相談すると言う。退職者本人が死亡している状況では、引出し許可証は相続人が受け取り、さらに煩雑な相続手続きを経て現金の引き出しが可能になるのが通例だ。それを私が退職者の生前の委任状を楯にすべての手続きを代行してしまおうとしているのだ。 手続き中の退職者の死という、私が恐れていたことが現実となってしまったが、今後どうなるか予断を許さない。 続く

ある退職者の死の教訓(2)その1 2010年3月7日


マニラ観光のメッカ、イントラムロスの城壁の周りを囲むようにレイアウトされているのがクラブ・イントラムロス・ゴルフ場(パー66、4326ヤード)だ。マニラ市内のど真ん中に位置するゴルフ場は貴重な存在で、まるで皇居の周囲のお堀がゴルフコースに改修されたようなものだ。パブリックなので誰でもプレイできるが、土日は混むので予約を入れたほうがよい(527-6612)。 ショートコースとは言え、なかなか難関なコースで、ドライバーで攻めるコースもいくつかあるが(フェアウエイが狭いのでドライバーの方向性に自信があればの話だが)、砲台グリーン、池、バンカー、城壁などに多いに悩まされることだろう。ボールは1ダースほど用意しておいたほうが良いかもしれない。この日はある退職者のたっての誘いで、3年ぶり、21世紀2回目のプレイをすることになり、前の日から良く眠れなかった。 受付やクラブハウスは城壁の一部を利用しており、近代的なゴルフ場と比べたら、ちょっと物足りないが、返って情緒があっておもしろい。いかにも歴史地区のゴルフ場といった雰囲気がある。 キャディは男性と女性がいるがプレイヤー、一人に一人のキャディがつくのがフィリピンの常識だ。それに日中の暑さに備えてアンブレラ・ガールをリクエストすることができる。キャディもアンブレラ・ガールも同じ1ラウンド300ペソとは少々不公平な気もするが、それが定価だ。そのため4人一組のプレイヤーにお供が8人、全部で12人でコースを回ることになるから、プレイ中はとてもにぎやかだ。 ちなみにプレイ費はフィリピンの住民かどうか(長期ビザを持っているかどうか)、昼間か夜間かによって大きく異なる。住民で、平日の昼間ならば1100ペソからプレイが出来る。 コースは街中にあるためにイントラムロスに通じる道路を横断するところが数箇所ある。城壁の上を渡ったり、スペイン時代の服装の交通警官の案内で道路を横断したり、なかなかユニークだ。イントラムロスの中にはマプア工科大学など4つの大学あるから、この道路は女子学生などが多く歩いている。 コースにはカラチュチの花がたくさん咲いていた。ここのは白いが、赤、ピンク、黄色など様々な色のものがある。この花は強い芳香があり、ハワイのレイなどに使われるそうだ。ちなみにこの白いカラチュチは墓地に植えられるものだそうで、私が農場にこの花を植えるという試みはことごとく拒否され未だに実現していない。 イントラムロスの城壁の周囲は日本のお城のようにお堀があったようで、各ホールには大小の池がプレイヤーに立ちはだかる。池越えのショート・ホールはざらで、半数近くのミドル・ホールのグリーンの手前には池があるし、フックをしてもスライスをしても池ポチャというゴルファー泣かせのコースが多い。  歴史地区だけあって、由緒のあるビルが周辺に見える。左は国立博物館、右はマニラ・ブルテン(老舗の新聞社)だ。さらに左下の塔はLYCEVM大学。そういえば、夕べ出会ったカラオケのGRO(ホステス)がここのツーリズム専攻の3年生と言っていた。大学3年といってもフィリピンでは中高(ハイスクール)あわせて4年しかないから、まだたったの19歳だ。右下はマニラ市庁舎。かつてエルミタのデルピラ通りのゴーゴー街を閉鎖し、最近ではベイウオークの店を一掃した悪名高いリム市長がいるところだ。 アカシヤの大木の向こうにそびえているのがかつてのフィリピンNo.1の老舗ホテル、マニラホテル。池の広さも半端ではない。 18番ホールでスライスすると城壁の中に叩き込んでしまう。案の上、やったかと思ったらセーフでとなりのグリーンのそばに落ちたらしい。そこからサングラスの人相の悪い人が声をかけてきたので、ぶつけてしまったかとひやりとした。ところが、いつもカラオケに誘ってもらう退職者の方で、私とは「夜に会うことが多いが昼間に会うのは初めて」と言っていたが、とんだところを見つかってしまった。これからはゴルフの誘いが多いのではないかと心配している。 ゴルフ場料金の詳細は左の写真をクリックして拡大して見てください。単位はペソ。

イントラムロスのゴルフ場で久しぶりにプレイ 2010年3月1日