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  パスコの相棒のジェーンに赤ちゃんが生まれた。34歳の高齢初産の上、臨月になって赤ん坊の体重が9ポンド(4kg)もあると医者に告げられ、難産が危惧されたが、帝王切開で3月31日、無事に男の子を出産した。 マンダルヨン市、ボニーの中規模の病院で出産したが、早速お見舞いに行くとたくさんの生まれたての赤ちゃんが並んでいた。どれもこれも同じ顔をして区別がつかないが、ガラス越しに連れてきてもらうと確かに大きな赤ちゃんで、髪も黒々としていた。お父さんのカーネル(大佐)は昨夜の入院以来一睡もしないで、つきそっていたとのこと。また、写真におさめた分娩の様子を見せてもらったが、最近は父親が分娩に立ち会うのがトレンドのようだ。  翌日私はホリーウイークを利用して息子と一緒にルソン島北部(バギオ、イロコス)の旅に出たが、7日に戻ってくる丁度その日に母子が退院した。フィリピンでは分娩後通常2日ほどしか病院にいないが、帝王切開のため、1週間以上入院していたことになる。帝王切開の上、1週間も入院していたため、病院からびっくりするような請求書が来て一同頭を痛めていたが。 国家警察の幹部と言う重職にありながら、カーネルは入院以来一週間パタニティー・リーブを取って、つきっきりで赤ん坊と母親の面倒を見ている。メイドもいるのだが人には任せてはおれない、といったところだろう。夜中も泣き止まない赤ん坊を抱いて育児に専念しており、仕事どころではないようだ。私が子育てをしていたころはパタニティ・リーブなどという概念は無くて、合計たったの3日間の有給休暇だけで、余分な年休をとると上司にいやみさえ言われたことを思い出す。       本文とは関係ないが、家の近くにある木が満開の黄色い花を咲かしていた。花の形は藤の様でもあるが、日本では丁度桜の季節なのでお花見の気分を味わうことが出来た。

相棒に赤ちゃん誕生 2010年4月11日


  4月7日、旅行から戻って、マカティ・スクエアに両替に行った時のことだ。地下の海賊版DVDの売り場場付近で悲鳴と銃声のようなパンパンと言う音が聞こえた。逃げ惑う人や警官のような人影が走り回っている。流れ弾にでもあたったらやばいと恐る恐る様子を見ていたら、DVDの詰まった箱を持って逃げる人がいて、それを警官が制して床にDVDが散らばったりして、パンパンという音がしているのだ。  さらに警官がDVDの店の商品を床にばら撒いているの見て、段々状況がわかってきた。警官が海賊版のDVDを押収しているのだ。息子はチャンスとばかりにカメラを持って地下に飛んでいった。野次馬根性はオヤジと変らないようだ。  しばらくして興奮した面持ちで戻ってきた息子が報告してくれた。チーフらしき男が中々のハンサムで(写真の右)、2階から発せられる黄色い声に手を挙げて答えたり、女の子がそばに来て記念撮影が始まってしまったとのことだ。警察の手入れにイケメン警官との撮影会なんて、フィリピンらしくて面白いものだと思った。 警官とその手下の私服の人たちが大量の海賊版DVDを袋に詰めて意気揚々と引き上げていく。それを撮影するテレビ局のカメラマンとおぼしき人たち。息子は良い経験をしたと満足げだった。  この話をお産直後の相棒のジェーンに話をしたら、ことの真相を話してくれた。彼女いわく、「海賊版DVDは100ペソ以下で10~30本くらいの映画が見れるので、映画館では閑古鳥がなき、どんどん閉鎖されている。これでは映画俳優や映画関係者が食いっぱぐれると、政府組織として、Video Regulatoryが組織されAnti Piracy(海賊版撲滅)の活動をPNP(国家警察)やNBI(国家調査局)の力を借りてやっている。この組織の前の会長は、今Vice Presidentに立候補しているエド・マンサノ(大統領候補ギボ・テオドロの相棒)。この日イケメン警官と思ったのは、今の会長で同じく映画俳優のロニー・リケだから、女の子がキャーキャーと騒ぐのは当たり前なのだ。また、明日になれば、また何も無かったように海賊版のDVDがならんでいるわよ」  たしかに、これだけ全国津々浦々に広まった海賊版DVDの販売網を簡単なことではつぶせないだろう。それに貧しい人々が多いフィリピンで格安で楽しめる海賊版DVDを取り上げてしまういかにも可哀想だ。映画関係の方々には申し訳ないが、海賊版DVDを庶民から奪い取ることには私は反対だ。  

アンタイ・パイラシーの手入れに遭遇 2010年4月11日



ホリー・ウイークを利用してルソン島北部をフィリピン訪問中の息子と旅した。手始めになじみの深いアンヘレスを目指したが、4月1日はホリーウイークの初日とあって、北へ向うビクトリー・ライナーのバス・ステーションには切符を求める人々が長蛇の列をなし、とても乗れる状況ではなかった。そこでタクシーの運ちゃんに話をすると2500ペソと言うので、生まれて始めてタクシーで長距離を旅するという贅沢をするはめになってしまった。  普段はがらがらのエンレックス(NLEX,North Luzon Express Way)も日本の高速道路と同様渋滞数十キロというありさまだ。サービス・エリアのレストランはたくさんの人が並び、車の脇で休む様も日本と同様だ。 初日のアンヘレスはたびたび紹介しているので割愛するが、実石さん宅を訪問し、ランチをご馳走になるとともに、息子に貴重なビジネスの話をしていただいた。フィールドアベニューも相変わらずの賑わいだった。  アンヘレスからバギオまでの道のりは約170km、バスで約4時間の道のりだ。大分込み合っていたがなんとか席が取れた。バギオに近づくと、昨年の台風で被害を受けた橋が修理中でバスは河を横切って進んだ。乾季でほとんど水がないので、こんな芸当が可能なのだ。  昨年、あんなに被害を受けたというのにバギオは人で溢れていた。ホリーウイークを利用してバギオ旅行としゃれ込んだのだろうが、ほとんどのフィリピン人は田舎に帰ってキリスト復活を祈るはずなのだが、そうでない人も多数いるようだ。おかげでホテルはどこも満員で、知り合いの紹介で何とか泊まる事が出来たが、一泊2700ペソは大幅な予算超過だった。 有名なマインズ・ビューも人で溢れていて前に進めないくらいだった。いつも過剰なおみやげ物屋の数に呆れるのだが、この日はどこも繁昌しているようだった。 ちなみにバギオは涼しいので日本と大差のない農作物が出来る。トーモロコシも丸々と太りおいしそうだ。右の写真の中段にある赤い食材はちょっとわかりにくいが、すずめの串刺しのようだ。  バギオ市の中心、セッション通りのはずれにあるシティ・マーケットの人ごみも尋常ではなかった。バギオ名物のイチゴやイチゴジャム、野菜やソーセージ、それに原住民、イグロット族の工芸品を買い求める人でごった返していた。 バギオ市の中心には大きなBURNHAM公園があるがその入り口付近にイグロット族の英雄の像が建っていた。なかなか勇敢な種族だったようだ。

ホリーウイークの旅(その1)バギオ編 2010年4月11日


  バギオからイロコスのビガンまでは約150km、3時間の道のりだ。昼近くにバス・ステーションに行って見ると3時までバスはないという。仕方がないので、相乗りのミニバンで行くことにした。料金はバスとほとんど変らず一人130ペソ程度だ。途中退屈な景色が続くが、見慣れない植物が延々と栽培されていた。聞いてみると煙草で、この地方の名産だそうだ。 イロコス地方は東側に深い山々を控えているせいか、大きな河が多い。この河を渡るともうすぐ古都ビガンだ。 まずはホテル探しだが、ブルゴス広場の裏に由緒あるホテルが数件ある。一軒は満員だったが、もう一軒で空きがあった。料金は朝食付で1700ペソでまあまあだ。  アニセトマンションというホテルだが建物は1800年代に建てられたようで、なかなか趣のあるホテルだ。隣はこれまた由緒のありそうな教会で重厚な壁が続く。       ホテルの前で馬車を頼むと名所を案内してくれる。しかし名所といっても、要はホテルの左に続く通りだけで、他にあまり見るものはなさそうだ。しかし、その通りがなかなかすばらしい。ホテルからその通りに行く途中にCafe Leonaの前、通路に広げられたテーブルで食事をとっていると脇を馬車が通リ抜けて行く。まるで200~300年前の中世にタイムスリップしたようだ。ちなみに馬車は1時間150ペソで、マニラのように後で、一人につき150 ペソだとか、150ドルだなどと、ぼられることも無くて気分がよい。 古都ビガンとして有名なだけに通りはホリーウイークを利用した観光客で埋まっていた。しかし、なぜか道行く人々はスペイン風の美女が多い。地元の人なのか、ホリーウイークに旅行をしているスペイン系の良家の子女なのかさだかではない。 昼間は比較的静かだが、中世の雰囲気がそのまま残っている。しかし、ほとんどの家は土産物屋で、もう少し、色々な店があっても良いような気がする。ただ、一角に現代的なディスコがあり、若者でにぎわっていた。 街の主要な交通手段はトライシクルだが、馬車(カレッサ)も充分交通手段としての役割を果たしている。ブルゴス広場を県庁舎(プロビンシャル・キャピタル)に向うと、衣類や雑貨の屋台が続いている。フィリピンの問屋街、デビソリア並みの価格だ。  県庁舎を過ぎたところに博物館がある。ブルゴスの住んだ家だそうだが、かなり荒れている。しかし昔の上流階級が済んだ家を垣間見ることができる。(マニラのイントラムロスにもCasa Manilaがあるがここは再建ではなくてもそのまま残っているらしい)。ところでブルゴスはマカティのブルゴス通りがゴーゴーバーのメッカとして有名だが、著名なヒーローの名前だっとは知らなかった。

ホリーウイークの旅(その2)ビガン編 2010年4月11日



   ビガンから北へ約70km、バスで1時間半のイロコス・ノルテの州都ラワグ(Laoag)はマルコスの故郷だ。途中外の景色は相変わらずトウモロコシと煙草だけで稲作は少ない。ラワグの街は清潔で街にゴミが落ちて折らず、日本人にも違和感無く生活できそうだ。マルコスの出身地だけあって市民は、政治に興味を持っているようで、選挙戦のポスターが目立つ。  ラワグの観光のメッカの一つはパワイ(Paoay)教会だ。世界遺産ともなっている由緒のある教会だが、この日は訪れる人もおらず、一人夏の日差しを浴びていた。珊瑚の岩を積んだ建物は素朴で重厚だった。 同じパワイに「北のマラカニアン」と呼ばれる元マルコスの別荘がある。この日は月曜であいにく休館日だったがスペイン風の風情ある建物だった。そして周囲にはマルコスファミリーの選挙ポスターが掲げられていた。 パワイの隣町のバタックにはマルコスの遺体が安置されている。小さめのピラミッドのような石積みの建物の中に本物のマルコスの遺体が眠っているというが、どう見ても蝋人形のようにしか見えなかった。       周囲の建物にはマルコスゆかりの品々が置かれ、生前の写真が飾られているが、若き日のイメルダ婦人の美貌はさすがだ。またマルコスの履歴も超エリートだったことがよくわかる。  ホテルで紹介されて食事をとったのが、県庁舎に近いLa Preciosarレストランだ。イロカノ・レストランだが、スペイン風の建物はとてもしゃれている。料理もいけるし、値段もそこそこだ。  同じ道も車で戻るのも大儀なので帰りは飛行機に乗った。一人片道1830ペソ、バスで行っても1000ペソ近いからOKとした。マニラまでたったの45分のフライトであっという間に1週間の旅を終わってしまった。地方空港にしてはとてもしゃれたターミナルだった。ただ食事をするところがないのはどうかと思う。  右下の写真は元マカティ警察署長のジミー・バトンさん。PRA時代の知り合いでホテルでばったり出会った。現役時代は大分鳴らしたらしいが、今はキリスト教の布教みたいなことをボランティアでやっているそうだ。

ホリーウイークの旅(その3)ラワグ編 2010年4月11日


マカティ、リトル東京(パソンタモ通り、マカティスクエアの近く、新宿、きくふじの並び)の日本食材店「ちょっとストップ」が頑張っている。先日、店を覗いてみたら、ほとんどの商品に正札がついていない。店員に値段を聞いてみると75ペソと即座に答える。どれを聞いても75ペソだと言う。要は正札のついていない商品はすべて75ペソなのだ。酒や調味料、冷凍の魚などを除いてすべて75ペソ均一だ。他の店では100~200ペソはする商品なのでかなり安い。品揃えも豊富だ。100円ショップのように一々値段を気にしないで買えるのが今風でうれしい。 フィリピンでも「日本城」という100円ショップがあちこちにあるが、そこは80ペソ均一だ。ただし日本食はほとんど置いていない。また、オルティガス、ロビンソン・ガレリアのダイソーの経営する100円ショップ、「サイゼン」もあるが、遠くて不便だ。 「ちょっとストップ」は軽食レストランを併設している。弁当やどんぶり物、ラーメンやそば・うどんなどメニューは平凡だが、弁当が220ペソ均一、ラーメンが150ペソと安い。となりの新宿に比べてもかなり割安で、新宿も値段を下げないと客をとられてしまうかもしれない。 「ちょっとストップ」の入り口はパソンタモ通りに面しているが、中に入るとそのままリトル東京の中庭へ抜けられる。そちらに面しているのが軽食レストランだ。入り口ののぼりの文字が裏を向いているのがちょっと気にかかるが、客席には漫画本や週刊誌がたくさんあって、一人で食事を取るには向いている。コロッケ定食とソースやきそばを注文したが、味もまあまあだ。ビールも飲んで2人前、500ペソであがった。(注:その後、レストランは閉店したが食材店は営業している)

リトル東京の「ちょっとストップ」が安い 2010年3月30日



マカティ・アベニューのアンソン・電化デパートの向い、あるいはランドマーク・デパートのはす向かい、グリーンベルト4の一角にあるのがアヤラ・ミュージアムだ。フィリピン在住15年にして始めて中をのぞいてみたが、建物は数年前に新築したばかりでミュージアム(博物館)にはふさわしくない近代的なつくりだ。入場料は225ペソだが、シニア(60歳以上)は年齢を言うだけで125ペソの学生/子供料金となる。  ミュージアムの見せ場は4階の金の装飾品の数々だ。10~14世紀のネックレスやイヤリングが並ぶ。エジプトのツタンカーメンの面を期待する向きには少々物足りないが、フィリピンにはスペイン時代の前には歴史がないと思っていたが、フィリピンにもこれらの装飾品を身につける高貴な人々がいたのだろう。 3階に下りるとフィリピンがルソンと呼ばれていたころの陶磁器が並ぶ。このころは日本との貿易も盛んで、これらの陶磁器が貴重品として扱われていた。多分に中国の影響で、これら陶磁器を生産していたと思われる。 2階は、フィリピンの歴史をジオラマでわかりやすく見せている。数十万年前からフィリピンにも人類が栄えていたようだが、この島国に回教徒、中国、キリスト教徒(スペイン)、そして近代文化をもたらしたアメリカがやってきて、今の混血国家フィリピンが出来上がってきた経緯がよくわかる。それ以前のフィリピン人は、現在でもピナツボのふもとのパンパンガでもよく見かける縮れ髪で色黒のブンドック(山の民)が主流だったのだろう。  歴代の大統領の等身大の絵が身長と共に描かれているのも面白い。現大統領アロヨの身長が幾ばくのものか興味があるところだが、残念ながらアキノ大統領までしかなかった。 アヤラ・ミュージアムを出て、最近完成したグリーンベルト5を歩いてみた。樹齢数百年と思われるアカシヤの大木が茂り、都会のオアシスともいえる庭園が広がっている。近代的な建物と緑が調和して、マニラそしてマカティで一番美しい街並みを形成している。丸い天井の教会は、1989年、この辺がまだ、ただのスーパー・マーケットや駐車場だったころからのものだが、今では周りの景観に溶け込んで、グリーンベルトのシンボルとなっている。 グリーンベルトに隣接して建設中のコンドミニアムが名門アヤラ不動産が開発した「ザ・レジデンス・グリーンベルト」だ。まるで、グリーンベルトを庭のようにあしらい、現状では最高級コンドミニアムと言えるだろう。このあとグリーンベルト2まで歩いてイタリアネスで食事を取ったが、ピザとスパゲッティの二皿で1500ペソはやはり高級だ。 グリーンベルトの向い、ランドマークの隣ではラッフルズ・レジデンスが建設中だ。ホテルとコンドミニアムを併設した建物で、アヤラのザ・レジデンスとこれが完成したら、この付近はフィリピン随一の居住空間としてその地位はますます上昇するだろう。  

アヤラ・ミュージアム訪問 2010年3月28日


 5月10日の統一選挙に向けて、3月26日、下院議員、知事、市長、市議会議員などを選ぶ地方選の幕が切って落とされた。2月9日に解禁された全国選に引き続き、44日間の戦いが繰り広げられる。   全国選がテレビなどのメディアを中心に行なわれるのとは違って、地方選は、地域に密着した選挙戦が繰り広げられるので、よほど面白い。選挙応援パレード(ラリー)あるいは演説集会(パーティ)が中心となるが、それらはまるでフィエスタ(お祭り)のようで、日当をもらってパレードに参加するものや食事や芸能人によるアトラクションを目当てに集まる人々で街は溢れかえる。  3年毎の統一選は貧しいものにとって大変ありがたいイベントだ。パレードに参加すると500~1000ペソの日当をもらえるし、集会では只でT-シャツや食事にありつける。さらに有名芸能人のショーが入場料無しに見たい放題だ。評論家は富が貧民に還元されるいい機会だと評する。人々は仕事をするよりもパレードや集会に参加したほうがよほど金になるから、この期間は仕事をしないでも済む。  投票日の前日になると、アルコール禁止になるが、人々は寝ないで夜の訪問者を待つ。地方で500ペソ、都会では1000ペソの現金を持って、特定の立候補者へ投票するよう運動員が各家庭を回るのだ。彼らにとって青いお札(1000ペソ札)を手にするのは3年に一度のこの時だけだ。大統領、上院議員、下院議員、知事そして市長から1000ペソずつもらうとすると一人 5000ペソ程度の収入になる。夫婦で1万ペソは貧困層の2か月分の収入だ。しかも投票日は、投票所に食べきれないほどの食事が用意される。だから選挙には、皆ことの他興味をもって、その日を待ちわびる。ちなみに現マカティ市長のビニャイは3年前の選挙で2000ペソずつ配って市長の座を獲得したそうだ。  解禁日の26日、私の住むコンドミニアムのすぐ近く、マカティのパソンタモ通りとビトクルス・エクステンション通りの交差点、ショップ・ワイズ(大型スーパー・マーケット)の前で、マカティ市長候補、メルカドの選挙応援演説集会が行なわれた。この付近はマカティ市の中心からはずれ、スコーターなどもあり、多くの庶民が居住する人口密集地帯なので、選挙戦の目玉の地域なのだ。選挙ばかりは金持ちも貧乏人も一人一票の重みは変らない。だから立候補者はちょっとしたことで落ちやすい貧乏人を狙ったほうが対費用効果はずっと大きいのだ。 夜の7時、集会場はすでに数千人の人々で埋め尽くされ、立候補者の顔や名前が印刷されたT-シャツを着、チキンやスパゲッティの軽食を手にして応援演説に耳を傾けていた。   パソンタモ通りを遮断して作られたステージには候補者やその応援者が並んで座っている。後ろには特大のポスターが貼られ遠くからでもよくわかる。さらにステージの横には特大のスクリーンが設置されステージの演説や催し物が中継されている。演説が終わるたびに、ステージの後ろでは花火が打ち上げられいやが上でもお祭り気分を盛り上げる。ちなみにこれらの特大ポスターは耐候性の布地で作られているので、選挙後はスコーターの家の屋根や壁になるそうだ。 演説は聴衆をあきさせないよう早めに切り上げショータイムに突入だ。演説の内容はわからないが、主義主張というよりも、ほとんどが掛け声だけのようだ。まずはダンサーによる踊り。中々見ごたえのあるダンスだが、選挙とは何の関係も無く、聴衆を喜ばせるだけが目的だ。 この日のショーの目玉はテレビでおなじみのコメディアンの「バイス・ガンダ」だ。かなり有名なコメディアンだそうで、歌や踊り、そしてトークにやんやの喝采だった。中々面白い話をしているようだが、当方には皆目理解できない。ちなみに彼はバクラ(オカマ)で、名前のバイスは副大統領(バイス・プレジデント)の「副」、あるいは「不道徳」と言う意味。「ガンダ」はタガログ語で「美」という意味で、女性の美しさを表現する。また、「美しい」が「マ・ガンダ」、「すごく美しい」が、「アン・ガンダ」、などと変化する。「バイス・ガンダ」は「準美人」あるいは「不惑の美人」となり、オカマの彼にはふさわしい名前かもしれない。 一方、大統領選の方は、トップを走るビリヤールやアキノ候補はすでにテレビ放映枠(1局あたり120分)の規定を超えてしまったそうで、今後は地方選の自分の陣営の候補者の応援演説などで地方を回り大衆にアピールする選挙戦になるものと予想される。下の写真はアンヘレスで見かけたアキノ候補とエストラーダ候補のポスター。エストラーダは若き日の映画スターの時の写真を掲げ、あくまでもヒーローのイメージを訴えている。アキノは元大統領の母親のシンボルカラーの黄色いポスターだ。

統一地方選の幕が切って落とされた 2010年3月27日



本年はPRAが1985年に創立されて以来、25周年の節目の年だ。またさらにPRAを管轄している官庁がBOI(投資庁)からDOT(観光省)に移行され、PRAの新しい時代が始まる。先日、観光省のドラノ大臣がPRAを訪問し、関係者との会合が持たれたが、大変気さくな人だとの評判だった。また、彼は先日瀬里奈で我々と遭遇したことを憶えており、相棒のジェーンはどこかとPRAスタッフに質問をしたとのこと。PRAが観光省の配下に入ったことを契機にアグリパイ会長は退いて、ドラノ大臣がPRA会長を兼務することになったそうだ。ドラノ大臣が実質的にPRAを運営すると言うことはありえないが、幸先の良い出会いをしたものだと思う。  今年は、例年の創立記念パーティを開くだけはなく、色々な催しものが企画されている。退職者の方も参加できるので、是非連れ立って出かけてほしい。なお、、電話かE-メールで事前に予約が必要とのこと。 3月の行事    20日(土) 海水浴、 場所:キャノンコーブ    退職者とPRA職員の手工芸品の展示会、 場所:PRA受付、Citybank Tower 29階 ゲートボール 4月の行事 18日(土)家族ゲーム、開催場所:アヤラ・トライ・アングル、集合時間:午前6時 5月の行事 15日(土)歴史探訪(イントラムロスなど)、 集合場所:PRA、集合時間:午前7時 6月の行事 […]

PRA創立25周年記念行事 2010年3月24日


2名の退職者を案内してタバコの農場を訪問した。2泊3日の短期だったが、真夏の農場はブーゲンビリアが咲き乱れ、赤ちゃんラッシュだった。しかし、マニラ周辺のような容赦ない陽射しはなくて、毎日、何度か雨のお湿りがあるすごしやすい天気だった。またそのせいでマヨン火山が顔を見せたのは2日目の早朝のほんの一瞬だった。  2日目の朝、例の双子が訪問して、農場で面倒を見ている3歳のヤナと一緒に歓迎の歌を披露してくれた。親に指示された様子もなく、3人でタガログ語や英語の歌を5~6曲披露してくれた。私にはどれも同じに聞こえたが、最近大流行している韓国ソング「Nobody nobody but you」だけは私にもわかった。右は、臨月を迎えた相棒のジェーン。 赤ちゃんラッシュの目玉は牛だ。小さめの牛なのでまだ子供だと思っていたが、その牛が赤ちゃんを産んだのだ。まだ2ヶ月しかたっていないが、もうしっかりしている。しかし、この赤ちゃん牛の誕生でわりを食ったのがボス犬のアイスだ。こんな子牛は犬の絶好のターゲットになる。だからアイスは鎖でつながれ、かわいそうに一日中吼え通していた。鎖ではあまりにも可哀想なので、緊急に2坪ほどの小屋を作って、しばらくはそこで暮らすように計らった。 ちなみに牛のことをタガログ語で「バカ」という。日本語のバカは馬鹿と書いて、馬と鹿だから、まんざら遠い意味でもないようだ。さらに水牛はカラバオというが、これは働き者を指す。フィリピンではカラバオは水田や畑の耕作の労を一手に引き受けているので頼りになる存在なのだ。 ブタ小屋にも数頭の赤ちゃんがいた。前回生まれた赤ちゃんと一緒だが、小さいほうが今回のものだ。母豚は3~4歳だが、年をとっているので生まれる子豚の数が少ないのだそうだ。したがって近々処分の対象になるそうだ。テラピアは今夜の夕食の目玉。とりたての食材で、ゲストはしごくご満悦だった。 農場では闘鶏も飼育している。その闘鶏も赤ちゃんラッシュだった。闘鶏はもちろんオスだが、生まれたばかりではオスかどうかわからない。今はみんな可愛いが、オスの雛は数ヶ月たつとあの闘志満々の闘鶏に育つのだ。鳩の赤ちゃんも生まれていたが、残念ながら巣箱の奥に隠れていて写真を取ることはできなかった。ちなみにこの暑いのに生まれたての雛にとって、電球は母のぬくもり代わりだ。 七面鳥やガチョウは今回は赤ちゃんがいなかった。1月に来たときに見た七面鳥の赤ちゃんはアイスの犠牲になったそうだ。こうなるとアイスは可哀想だが、農場のために一生犬小屋で生活することになるのだろうか。 水田は収穫の時期を迎えていた。あと1~2週間もすれば収穫だ。前回正月に来たとき田植えだったから、丁度3ヶ月だ。野菜や穀物は種まきから丁度3ヶ月で収穫できる。これは日本でもフィリピンでも共通だ。農家の人にとってこんなことは常識だろうが、私が家庭菜園をやっていて、このことに気がついたときは実に不思議だった。だから、農場では準備と後始末に1ヶ月、種まきから収穫まで3ヶ月、合計4ヶ月、年3回の収穫が可能となる、はずなのだが、どういうわけか、フィリピンで米作は2毛作だ。有機肥料をほとんど使わないので、田んぼを休ませる時間が必要なのか、灌漑用水あるいは雨の具合なのか、まだよくわからない。 農場に家を建ててから7年近くが経過した。その時植えた果物の木が実をつけ始めている。世界で一番大きい果物といわれるランカ(ジャックフルーツ)もたくさんなっていた。バナナも豊作だ。 最近雇ったメイドがカラバオ(働き者)で農場の空いている場所にたくさんの野菜を植えていてくれた。左がピーナッツ、右がキャッサバ、左下がカモテだ。右下は農場の写真ではないが、近所に生えていたアバカだ。ピーナッツは落花生と呼ばれるが、これは花が咲いた後、それが地下にもぐって実をつけるという変リだねだからだ。キャッサバは南方ではどこにでも生える芋の一種だ。。カモテは日本のサツマイモ。日本のサツマイモのように甘さはないが、どこでも育つので米の代替としていざという時には役に立ちそうだ。アバカとバナナはほとんど同じに見えるが、一方はマニラ麻として、戦前日本への輸出の目玉だった。一方のバナナは現在の輸出の目玉。日本のバナナ・ブームを支えているのがまさにフィリピンなのだ。 農場の一角にはなんとも珍しい「綿の木(コットン・ツリー)」が生えている。高さは10m以上の大きな木だ。20cmくらいの実がつくが、それが熟れるとはじけて、中から綿が吹き出す。 落ちている綿の実を拾ってみると、それはまさに綿だ、純白に輝いている綿の繊維は細く絹のようだ。しかし絹のように繊維は長くないので紡ぐのは難しいのかもしれない。だから、ここの人は中にある種を取り除いて、枕の綿にする。ちなみに果樹はそのおいしい果実を動物に食べさせて、種を遠くに運ばせる。一方、綿やタンポポはそのふわふわした繊維により、中の種を風で遠くへ運ばせるというなんとも知恵に満ちた自然の世界だ。

真夏の農場は子沢山 2010年3月23日