マニラ湾の埋めたて地、Sofitel(Philippine Plaza) Hotel の近く、Film Centerで毎日(月曜を除く)オカマのショーが開かれる。オカマといっても遠めには区別がつかない、本格的ダンスショーだ。8時、開演で、約1時間、たっぷり楽しませてくれるが、飲み物や食事は出ない。 当日チケット売り場でチケットを買えば十分で、予約の必要はない。無料雑誌Primerをもっていけば入場料は1200ペソだというので、窓口で2人分 2400を用意した。しかし、入場料は一人2500ペソというのでびっくり、二人で5000ペソは痛い。どうしてそんなに高いのだと、受け付けにごたごた言っている間に、日本人かと質問された。そうだと答えると、入場料は1300ペソだという。それならいいかと3000ペソを渡すと、1800ペソのお釣りがきた。ええっと、聞き返すと、フィリピン人は500ペソだという。そして、まだ来ない同伴者は「フィリピン人に間違いないわね」と念を押された。 いずれにせよ、1800ペソで済んだのは幸いとほくそえんだのだが、どうもいつもと違う。フィリピン人か価格の倍をいつも払わされて、何とかフィリピン人で通せないものかと思うのだが、今日は日本人だから、韓国人の半値とは、生まれて初めての経験だ。喜んでいいものなのか、屈辱なのか、複雑な気分だ。要は支払い能力によって同じ買い物をしても料金が違うわけだが、日本人は、支払い能力において、韓国人劣るとみなされているいとうことなのだ。 確かに韓国のサムソンが大きな利益を享受する一方、ソニー、パナソニック、シャープなどは軒並み大幅な赤字だ。かつての世界のブランド、ソニーが得意のテレビ部門でサムソンに水をあけられて、50過ぎの新社長が再生を誓ったばかりだ。 ところで、オカマショーの方は、映画館のような感じに座席が並んでおり、通路で三つに分かれた客席の真ん中の部分は韓国人で満員だ。両脇の客席はまばらで、我々のチケットでは真ん中に座らせてもらえなかった。金満韓国、貧乏日本てなところか。 ショーの内容はヨーロッパ、フィリピン、中国、韓国、日本の伝統的な踊りを披露し、中々見ごたえがある。これにマジックショーなど加えるともっと楽しめるような気もするが、フィリピンにはこの手のショーがほとんどないので、よしとしたい。同行したフィリピン人は瞬きもせずに見つめていたので、そこそこのもなのだろう。最近少々感受性の鈍くなった私にはショーよりも同行したフィリピン人の方が気になった。
shiga

4月19日、パスコホームページへのアクセスが70万回に到達した。昨年の5月19日に50万回に到達したので、丁度11ヶ月で20万回のアクセスとなった。一月あたり18200回、毎日600人強の方のアクセスがあったことになる。大台の100万回達成も、後1年半足らずだ。 最近、連絡のあった退職者の方が、このHPとブログの存在を知り、三日三晩、夜を徹して読み続けたとメールをくれた。読み始めると停められず、過去にさかのぼり、4年前の最初のブログ、「イメルダマルコスとの遭遇」まで、一気に読みきってしまったそうだ。ブログを書くものにとって冥利に尽きるといえる。最近改訂版を出した拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」を読み合わせると、フィリピンのことが手に取るようにわかり、フィリピンについてのバイブルと牧師の説教の様だとも評してくれた。 現在まで、約500件のブログを書いてきたが、できれば1000件まで書いてみたいと思う。そうなるとあと、4年は頑張らないといけないことになる。 2010年、3月に相棒のフィリピーナにベイビーKIANが誕生して以来、話題の中心がKIANに傾いてしまっている傾向が強いが、KIANの成長ぶりを報告する中でフィリピンの文化を読み取ってもらえるとありがたい。その他、退職者にとって有用な情報も仕事柄入手することが多いので、報告していきたい。 そんなわけで、ブログの話題集めに日々心がけるのだが、本業が忙しいとなかなかブログの執筆に手をつけられない。4月はまだ一件のブログをアップロードしただけだが、毎日、ブログの更新を楽しみにアクセスしてくれる600人の方には申し訳ない思いが強い。日々の業務に追われていると平日はどうしても落ち着いてブログを書く時間がとれない。土日がチャンスなのだが、逆に土日だからこそ出かけたり、たまった仕事を片付けたりで、あっという間に半月ぐらいご無沙汰してしまう。 しかし、「金無し...」とこのブログがビジネスの顧客と私を結ぶ唯一のパイプだと思うと、日々の業務もブログあってのものなので、今後も話題集めと執筆に努力していくつもりなので、読者の方々には楽しみにしていただきたい。
パスコホームページが70万回アクセスを達成 2012年4月22日

ホリーウイークの休暇でタバコ市の農場を訪れた折、最終日は空港のあるレガスピ市のカーネル(マム・ジェーンの亭主、KIANのお父さん)の実家に泊まった。翌日の便が早朝6時半出発で、暗いうちに空港に行く必要があるからだ。その際、夕食をとりにレガスピ港の脇にできた新しいモール(イン・バルカデロ・デ・レガスピ)にでかけた。そこには本ブログの主人公のデバインが働いているのだ。 5年前、まだ17歳のデバインと私(ではなくて私の息子)。ちょっとお似合いのツーショットだ。 デバインとのなれ染めは、私が2002年にレガスピ近郊のタバコ市に農地を購入し、そこの農場と住居を建設した際、もっぱら私の食事の世話をしてくれたのが、彼女だ。彼女は当時12歳だったが、すでに顔も体も大人で、すでに男心をくすぐるものをもっていた。インド人との混血で(当時はアメリカ人との混血と聞いていたが、その後インド人であることが判明)大きな目と整った顔つきで、すでにかなりの美形だった。しかし、今回久しぶりに会ったら、まだ若干21歳なのにかなりの重量級で、しきりにダイエットを勧めておいた。 彼女が働いているINASALは現在もっとも出店が盛んなファーストフードチェーンだ。 マム・ジェーンのいとこである彼女の母親が若いときからパロパロ(浮気もの、もともと蝶という意味)で結婚前から異なる国籍のボーイフレンドの子供を作り続けた。そして、フィリピン人と結婚したら、それまで作った子供の面倒を見れなくなり、しかも、そのころおばあさんが亡くなって、デバインは親戚をたらいまわしされる羽目になってしまった。 しかし、行く先々で、その美形に、預かってもらった家の亭主どもがちやほやするので、その女房達がやきもちを焼いて追い出される羽目になった(注)。そこで行きついた先が我が農場だ。そこでマム・ジェーンの母親(マミー)に面倒を見てもらいながら、ハイスクールと専門学校を終えた。私は2003年から 2004年の1年半を農場で彼女と過ごしたが、そのころ彼女はハイスクールの前半で(13~14歳)、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」の191ページのメイドさん役で登場している。 注:フィリピンでは再婚した妻の連れ後の女の子が成長すると亭主が無理やり手篭めにしてしまうということがまかり通っているそうで、義理の父親とて油断できない存在なのだ。ましてや妻の親戚の子供となったら、亭主はもっとも危ない存在だ。だから妻達のやきもちはもっともなことなのである。 港を眺めながら食事ができるレストランは中々風情があって、パスコの法律顧問であるマリソール(写真左の左から2番目、端が亭主)が亭主とともにかけつけてくれた。ちなみに彼女は4人目の子供を宿していて、最近体調不良で仕事が遅くなっている。上の3人は全部男で金太郎飴のように同じ顔をしているが、亭主は、今度こそ女の子ができて欲しいと意気込んでいた。 農場で生活していたころ、デバインは何かと頼りにされ、何かマミーに頼んだり聞いたいるすると次の言葉は「デバイ~ン」と大きな声で彼女を呼びつける。ちょっと小言を言うと「デバイン・カセ」と彼女のせいにされ、それでも何一つ文句をいわず大きな家と農場を走り回っていた。 現在、農場でその役割を担っているのがビアンカだ。彼女はすでに16歳と推定されるが(注)、立派な少女に育っている。今は年に数回農場を訪れる程度だが、そのとき一番の頼りになるのがビアンカで、家の中のことなら何でも知っており、農場の欠かせない人材になっている。現在ハイスクールの3年を終えたところで、後1年で大学進学となる。しかし、13人の甥や姪を抱えるマム・ジェーンに私立に行かせる余裕もないから、ビコール国立大学に入学できたらOKだが、それがだめだったら専門学校で何か手に職をつけさせることなっているそうだ。 注:ビアンカの生い立ちについてはいずれ別途ブログに掲載する予定 ホテルレストラン学科を卒業したデバインは、一時マム・ジェーンと折り合いが悪くなり、農場を出てレガスピでパン屋に勤めていたが、今はINASALのレジをやっていた。農場にはたまに来る程度で、去年のKIANの誕生日と今年の正月に面会した。彼女達はもはや全く屈託がないようで、久しぶりの再会を喜んでいた。食事の後、デバインの話を聞きたいので、生バンドのあるパブに席を移した。KIANは睡眠の時間で両親とともに帰宅した。 PNP(フィリピン国家警察)の幹部であるヤン大佐に悲鳴を上げさせるKIANは怖いもの無しだ。右はいかにも福福しいデバイン。 デバインは16歳の妹のクレヨを引き取ってハイスクールに復帰させ、自分自身も大学に通っているという。朝8時から午後3時まで大学に通って、夕方から深夜までINASALで働いて、寝る時間はあるのかと心配になる。給与は一日256ペソ(多分この地域の最低賃金だろう)。手取り205ペソ、毎日はたいても月々たったの6000ペソ程度だ(1万2千円)。この金で、二人分の宿、食事、交通費、学費を賄おうというのだが、とても可能とは思えない。それでも、いかにも明るく元気に生きているのだ。しかもこんなに太っている、これはINASALのライスのお代わりは無料というポリシーによるものらしい。「ボーイフレンドはいるのか」と聞いたら、「一人」と恥ずかしそうに答えていた。デートの金も時間もないと思うのだが。 […]
デバインの奮闘記 2012年4月22日

4月2日(月)、ホリーウイークの連休(4月5日(木)~9日(月)の5連休)を利用して、久しぶりにタバコ市の農場を訪問した。早朝にも関わらず、ターミナル3は帰郷する人の群れであふれていた。 KIANは3月31日生まれなので、丁度2歳と2日目の帰郷となる。 ターミナル3はセブパシフィックとANAが利用しているだけで、部分開業だが、空港内の店も大分充実してきている。 空港内では相変わらずKIANが抱っこをねだる。こんな顔をされるといやとは言えず、重量級のKIANのおかげで、ひじと肩の関節の痛みが直る暇がない。いつも活発なKIANを飛行機の中で大人しくさせるためにカッパエビセンを握らせている。 マカティとボニファシオ・グローバル・シティが遠方に朝もやに浮かんで見える。 この日、下界は雲の下、雲海が美しい。レガスピ空港までの空のたびはほんの30分強で、雲に包まれるマヨン火山がそびえている。 レガスピ空港に降り立ったKIAN、正月以来、4ヶ月ぶりだが、今回はしっかりと記憶しているようだ。飛行機に向かって手を振っている。マヨン火山もKIANを歓迎して雲の上から顔を出している。 迎えの車の中でもおおはしゃぎで、いとこやおじさんとの再会を喜んでいる。ナイナイバーはKIANの得意だ。これを英語でPICK A BOO、ビコール語でブラガというそうだが、赤ちゃんの万国共通の遊びのようだ。 農場までの道のりを覚えているのか、盛んに何かを指差している。 1週間の農場滞在を終えて、4月9日(月)、連休の最終日はは父親の実家に移動した。バスターミナルはマニラに戻る人で一杯、一体いつバスに乗れるのか、あてもないままにひたすら待ち続けているように見える。
KIANの2歳の帰郷 2012年4月22日

2月に引き続き再びプエルトガレラを訪問した。今回は平日で、しかも雨なので人は少なかったが、乾季の真夏にほとんど一日中雨だなんて、異常気象もはなはだしい。今回は私の不肖息子の嫁の両親とその兄弟と友達の4人を案内した。もともとパラセーリングをやりたいということで、前回のホワイトビーチ訪問でで発見して、ここに案内したのだが、パラセーリングはボラカイに移動したそうで残念ながらNG。そこでボートで島巡りをして、翌日は朝一のボートに乗り、途中タガイタイによって例のマホガニー・マーケットのトロトロ・レストランでで名物の骨付き牛肉のスープ、ブラルーを食べるという段取りに変更した。 マカティを7時に出発し、途中ドライブインで朝食、そして9時半にはボートに乗っていた、乗船時間は約1時間だ。この日は雨模様で波もちょっと荒れていた プエルトガレラの中心はPoblacionの港で、今回はボートはここでおりて、ジープでホワイトビーチへ向かった。おかげで6km、15分ほどのジープで山道を走る体験をした。しかし、ジープといっても日本製の中古の軽トラックを改造して荷台に座席をつけたもので、フィリピン名物のジープニーとは味わいが違っていた。 昼食後早速、ボートで島巡りに向かったが、ホワイトビーチから直接ボートを出すことができなくなり、近くの港にトライシクルで向かった。ここでも期せずしてトライシクルを体験することになった。ボートは10人ほど乗れ、快適だった。トライシクル代も入れて〆て3000ペソ。時間の制限はない。 プエルトガレラには入り組んだ入り江と島が複雑な海岸線を形成しているが、その中で最大のビーチとリゾートが立ち並ぶのが、ホワイトビーチとサバンだ。その他は無人の島や浜が多く、弁当持参でピクニックと海水浴を楽しむのが昼間の遊び方だ。 かの有名なサバンは、Poblacionの港から国道を反対に向かって、やはり15分ほどのところにある。サバンには数軒のゴーゴークラブがあり、観光客でにぎわう繁華街がある。ホワイトビーチから出かけていくとなると30分の道のりで往復500ペソ程度かかるそうだ。 ほとんど人のいない浜に到着、何人かの白人が泳いでいたが、お弁当を持参してこんなところでゆっくり泳ぐのがプエルトガレラの遊び方だ。 あいにくの雨だったが、かえって涼しくて気持ちが良い。たとえ雨が降っても寒くて泳げないなんてことがないのが熱帯のメリットだ。 翌朝、7時半に出発ということで浜のはずれに行ったら、7時15分の乗船で、7時30分出航、あわてて駈足で乗船する羽目になったが、フィリピンでは珍しく時間ぴったりの出発だった。
プエルトガレラ訪問(その2)2012年4月1日

JALなどほとんどの外国航空会社が発着するターミナル1での出迎えの難しさについては何度か報告してきた、特に拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」の136~141で詳しく解説しているが、ターミナルビルを出てから、道路を横断し、左右の斜路を下ってやっと待合所に到着する。そしてさらに道路の反対側で待っている群集の中から出迎え人を探し出さなければならないという、世界最悪と揶揄されるほどのややこしさなのだ。 出迎えの人は到着客が待つ場所とは道路を挟んで向かい側で待たなければならない。かなり離れているので顔見知りでない限り見つけることは不可能だ。 私自身が出迎えるのならばまだしも(自家用車で行って、待合所で降りて到着客を待つこともできるが、タクシーできたり、運転手のみではそうはいかない)。フィリピン人に任せたとしたら、果たして出会うことができるのか、神頼みといえる。だから出迎えを頼まれたとしても、タクシーあるいはホテルリムジンで市街地へ向かうのが間違いないと、ほとんどの場合、断っている。私に断られたので、別途出迎えを手配したら、出会うまで3時間かかったという話もあった位だ。 到着客が待つ場所には出迎え人は入ることはできないが、運転手付の自家用車でやってきて、ここで降りて客を待ってもとがめられることはない。これは外国人だけに許される特権かもしれないが。 最近、女性の一人旅で、初めてのフィリピン訪問、さらに夜中に到着し、しかも当社のゲストハウスを利用するということで、出迎えを送らざるを得ないことがあった。あらかじめ詳細を連絡し、柱番号1で待つようお願いした。お互いの顔も知らずに、見つけることなど不可能に近いから、出迎えの運転手に写真を渡し、本人は指定された場所で待って見つけてもらうという段取りだ。もちろん運転手の写真も送ってはいるが、フィリピン人は皆、同じに顔に見えるし、道路越しでは発見は不可能だ。よく名前を書いて掲げているのを見かけるが、これもちょっと当てにならない(他の人が真似をして名前を掲げて、どっかへ連れて行かれてしまう、という話を聞いたこともあり、ちょっとはばかれる所だ)。 しばらく前にアルファベットだったものが、番号に変わっていて、大慌てしたことがあった。そうしたら、評判が悪かったのか、またアルファベットに戻ってしまった。 この日、当社のスタッフのボボイを出迎えにやったが、彼から柱番号1などという表示はない、その代わりにアルファベットの看板が下がっているという連絡が入った。だから本人のイニシャルの下で待っているよう伝えて欲しいという。しかし、もはや手遅れで連絡のしようがない。だからボボイには一箇所で待たず、待合所の端から端までの往復を繰り返して探すよう指示した。それから小一時間して無事に出会ったとの連絡を受け取り、ほっとして寝たが、すでに夜中の1時を回っていた。 他の方の話だが、私の勧めで、空港タクシーでマカティにやってきた。料金はいかがでしたかと聞くと、1000ぺそ支払ったという。本人も高いと思ったので、問いただしたが正規料金ということで支払ったとそうだ。これはタクシーではなくてレンタカーだったのだ。そのため、空港から市街地へ向かう方法について触れる。空港から乗れる公共交通手段は4種類あって、値段は2倍、4倍、8倍と異なるので要注意だ。しかし、一番高いものでマカティまで2000円程度なので大勢に影響はないが。 一番安いのが一般の乗り合いタクシー。ターミナル2なら階段を上にあがって出発客が降りたところをつかまえればよいが、ターミナル1では難しいが、ターミナル3は乗りあいタクシー用の乗り場があって、いつも長蛇の列だ。これなら100ペソちょっとでマカティまで行ける。 次はイエロータクシーで黄色い車が並んでいるところで待てばよい。値段は初乗りが70ペソ(一般のタクシーは40ペソ)でほぼ倍の料金、マカティまでは200ペソ代。しかし、一桁上の料金(2000ペソ)を請求されたり、ドル建て料金(200ドル)だと吹っかけるけしからんドライバーもいるので要注意。 次にちょっと高いが一番安心できるのがクーポンタクシー、バンタイプの車が多いので荷物が多くても大丈夫だ。料金は固定性でマカティまで440ペソ。もちろん運転手はチップを要求するが20~50ペソも渡せば十分だろう。クラークやスービックなどの遠距離サービスもある。 クーポンタクシーはこの看板のあるところで申し込む。行き先を告げると料金の書いてある紙(クーポン)を渡される。料金は下りるときに運転手に支払う。 最後に空港職員にタクシーはと聞くと、必ずといっていいほど、連れて行かれるのがレンタカーのブースだ。空港職員だから間違いないと思うのが大間違いで、規定料金なのではあろうが間違いなくコミッションが入るのだろう。しかも、事情を知らない外国人は、マカティまで1000ペソ(2000円)という料金は安いとさえ感じて、はいそうですか、と法外な料金を支払ってしまうのだ。仮に空港の誰かに聞くとしたら、単にタクシーではなくて、イエロータクシーあるいはクーポンタクシーはどこかとはっきり告げることだ。下右の写真にあるようなTransport Serviceなどとなんだかはっきりしないのはやめておいたほうが良い。 […]
NAIA ターミナル1の出迎え 2012年3月31日

フィリピンではシニア・シチズンシップという制度があって、60歳以上になると買い物やレストランなどで10~20%の割引が受けられ、大変ありがたい。しかし、これは原則フィリピン人あるいはフィリピン人配偶者を持つ外国人に限って適用され、退職ビザを持っていてもその対象とならない(現在、法改正により、退職ビザ保有の外国人にも適用しようという動きがある)。それで小耳に挟んだのが、シニア・シチズンシップとまで行かないもののブルー・カードというものがあって、これを貰うと、例の悪法のカラー・コーディングの適用にならないとのこと。ちなみにカラー・コーディングとは車の末尾番号により、月曜から金曜のうちの1日、車を走らせることができないという、苦肉の渋滞緩和策だ。このマニラで週に一回車に乗れないなんてどんなに不便か想像がつくだろう。ブルーカードはPRAに申請すれば1ヵ月後位に発行される。 やっと手に入れたブルーカード、ただしマカティ市限定だ。 そこで早速私もこのブルー・カードを申し込んだ。当方の車は末尾番号が1と2で、両方とも月曜は乗れないので、お客さんの集中する月曜は四苦八苦している。申請から1ヵ月待ってようやくブルー・カードを手にすることができた。しかし、私の相棒は、これはマカティ市発行だから、マカティ市内だけに通用するもので、パサイ市、マニラ市では通用しないから、役立たずだと切り捨てられた。しかし、私の行動はほとんどマカティ市内だから、そう役立たずでもなかろうが。 以下、最近街で見かけた光景だ。 モール・オブ・エイシアのまん前のロータリーにある巨大な地球儀、夜は広告塔になっていて、中々見ごたえがある。 演説中のリム・マニラ市長。何を演説しているのか知らないが、上院議員から出戻りして最初にやらかしたのが名物のベイウオークの出店の撤去、古くは1990ごろにはデルピラ通りのゴーゴークラブを一掃したり、ろくでもない市長として庶民に恨まれている。ただし、女性の支持者は多いらしい。 最近見つけたマウスケアのダブルミント、飴は甘すぎるし、うがい薬は使いにくい。これは粉を固めた錠剤で口の中で溶かすので長持ちする。シュガー・フリーとなっているが、心なしか甘味があるのが今一。 ショップ・ワイズで見つけた、キリン一番絞り、フィリピンの普通のスーパーで、キリンビールが、現地のサンミゲルビールと大差のない値段で売っていた。明治チョコレートも現地価格で頑張っているが、果たして味の素、リポビタン、ヤクルトなどのように現地に浸透できるのだろうか。
ブルーカードを取得 2012年3月31日

マカティのパソンタモ通りを北に向かってブエンディア通りを横切って2本目のヤカール通りを左に入って100m位のところにヨーロッパ食材を売るサンティス・デリカテッセンというお店がある。ここはヨーロッパ食材を売る店で、ハムやチーズ、牛肉やワインなどが豊富においてある。値段も高級で145ペソなどと書いてあるが、普通Kg単位の値段がここでは100g単位と日本と一緒だ。チーズやハムなど、その種類の豊富さに驚かされるが、どれもこれもとてもおいしそうで、食通の方にはたまらないだろう。 今回は、もとスイスに本社のある外資系の会社に勤めていた方が、この店のすぐそばのスイス・レストラン、チェサ・ビアンカで食事がしたいというので同行した。この方は、本社のあるスイスに行くたびに生ハムを食べるのが楽しみで、無料雑誌Primerでこの店を見つけて、久しぶりに、生ハムを食べたいということだった。 店の雰囲気は白木作りのいかにもスイス風で雰囲気がある。メニューを見ても良くわからないが、値段は一品あたり300~500ペソ、メインディッシュは 600~1000ペソで一流ホテル並みだ。もうそんなに食欲もない我々は生ハムのアペタイザーとスパゲッティを一皿ずつ、ほとんど前菜とボトル一本のワインだけで腹が一杯になってしまった。 生ハムを楽しんでいるころ、店に入ってきた人が、元フィリピン観光省に勤めていた顔なじみの日本人で、さすが元観光省、通の食事どころを知っていると関心した。
サンティス・デリカテッセンとチェサ・ビアンカ 2012年3月31日

サウス・スーパー・ハイウエイとブエンディア通りの角、マニラ寄りにCash and Carryというスーパー・マーケットがある。Hyper Market(SM系)、Hyper Mart, Pure Gold、Shop Wise、Robinson、Walter Martなど大型のスーパーマーケット・チェーンが幅を利かせているが、ここは1980年代からの老舗でお金持ち用のスーパーとして名が通っている。ちなみにCashは現金、Carryは運ぶという意味だから、現金取引問屋といった意味合いだ。 現在の広大な駐車場には、かつて輸入雑貨を扱う店がたくさんあって香水、タバコ、薬、くつなどを売っていた。それらが名前の由来にもなっている。それらは火事で消失して、改装された建物の2階に移って営業しているが、現在もNikeやAddidasのFactory Defect(傷物)が格安で手に入るそうだ。 久しぶりに行って見ると、とてもきれいになっていて、2、3階はモールで、映画館も併設され一大ショッピングセンターと化していた。入り口付近にはJolibee、太った少年(テリヤキボーイ)、Pancake Houseなどなど一通りのファスト・フード店も出店していてゆったりと買い物と食事を楽しむことができる。 広々としたスーパーはKIANもお気に入りで、カートに飽きると店内を走り回っている。あまりに広いので迷子にならないかとちょっと心配だが。 […]
スーパーマーケットの老舗、Cash and Carry 2012年3月18日

私の事務所のあるサンアントニオ・ビレッジを横切るチノロセス(通称パソンタモ)通りのブエンディ通りからカマゴン通りまで、4つの交差点がある(Malugay、Yakal、Bagtikan、Estrella)。しかし、そこには信号機がついておらず、ラッシュ時には交通警官が交通整理を行うのが習慣だった。そして先日、ついに信号機が設置されたのだ。通りの名前も明記されてとてもわかりやすい。これで事務所への道もわかりやすくなるだろう。 マカティ市の中心はさておいてマニラには信号が実に少ないと、はじめてフィリピンを訪れた方が感想を漏らす。フィリピンでは、人が通りを渡ろうとしても車は停まらないから、混んだ道ではいつまでたっても通りを渡れないとこぼす。特に車の多いパソンタモ通りのマカティスクエア(リトル東京界隈)では、通りを渡ることができず、向かいのスーパーで買い物をすることをギブアップされた方もいた。 私の農場のあるタバコ市には信号機が一個もない。レガスピ市にあっても2個だけだ。まあ、田舎は車も少ないのでどうってことはないが、車の多いマニラでは死活問題だ。 時々、ラッシュでもないのに、やけに道が混んでいるときがある。交差点まで来ると、信号機を止めて交通警官が交通整理をしている。それで納得、交通警官が交通整理をしているから混んでいたのだ、余計な事をするものだと。彼らに言わせれば混んでいるから交通整理をマニュアルでやっていたのだと主張するだろうが、私にはそうは見えない。 パスコの事務所に来るときは上の写真の信号機があるパソンタモ(チノロセス)とバグチカンの交差点を目指すと判りやすい。徒歩の場合は、ここで車を降りて左に曲がるとパームタワーのコンドミニアムに面したセントポール通りに出る、そこを右に曲がるとすぐにパームタワー・コンドの前に出る。車だと一本先のエステレリアを左に曲がって、さらに一本目の角を左に折れて回り込む必要がある。 信号機がついたとなると、もはや交通警官は不要になる。彼らはTraffic Enforcerと呼ばれ、国家警察の組織とは関係なく、市役所に雇われているが(だから市ごとに制服の色が違う)、交通違反を取り締まる権限も持っている。この交通違反の取締りが、実際は彼らの小遣い稼ぎの場となっているのだ。 なんだかわけのわからない理由で彼らは車を停めてイチャモンをつける。特に外国人が運転しているとターゲットになる。例えば、左折をしようとして対向車がなくなるのを待ち、信号が変わる瞬間に道を横切る。そうすると件の交通警官がタイミングよく現れて、信号違反だから免許証を見せろとなる。日本ではこれは交通ルールの常識で、問題ない、と主張しても、ここはフィリピンだなどと意味のない議論がはじまる。結局500ペソほど渡して無罪放免となるのだが、なんとも癪に障る(フィリピン人ドライバーなら100ペソ程度が相場)。もちろん、彼らはそういう微妙な場所に張ってかもを待っているのだ。 信号機がついて、彼らが職を失う羽目になったら、それは大いに結構なことだ。もっと生産的な職業について欲しい。しかし、信号機がついて交通整理をやらなくも良くなって、彼らに交通取り締まりに専念されたとしたら、これはやばい。街の角々に張ってかもを待ち、しょっちゅう車を停めていたら、それこそ渋滞の元凶となってしまうだろう。