Daily Archives: April 22, 2012


  4月19日、パスコホームページへのアクセスが70万回に到達した。昨年の5月19日に50万回に到達したので、丁度11ヶ月で20万回のアクセスとなった。一月あたり18200回、毎日600人強の方のアクセスがあったことになる。大台の100万回達成も、後1年半足らずだ。  最近、連絡のあった退職者の方が、このHPとブログの存在を知り、三日三晩、夜を徹して読み続けたとメールをくれた。読み始めると停められず、過去にさかのぼり、4年前の最初のブログ、「イメルダマルコスとの遭遇」まで、一気に読みきってしまったそうだ。ブログを書くものにとって冥利に尽きるといえる。最近改訂版を出した拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」を読み合わせると、フィリピンのことが手に取るようにわかり、フィリピンについてのバイブルと牧師の説教の様だとも評してくれた。  現在まで、約500件のブログを書いてきたが、できれば1000件まで書いてみたいと思う。そうなるとあと、4年は頑張らないといけないことになる。  2010年、3月に相棒のフィリピーナにベイビーKIANが誕生して以来、話題の中心がKIANに傾いてしまっている傾向が強いが、KIANの成長ぶりを報告する中でフィリピンの文化を読み取ってもらえるとありがたい。その他、退職者にとって有用な情報も仕事柄入手することが多いので、報告していきたい。  そんなわけで、ブログの話題集めに日々心がけるのだが、本業が忙しいとなかなかブログの執筆に手をつけられない。4月はまだ一件のブログをアップロードしただけだが、毎日、ブログの更新を楽しみにアクセスしてくれる600人の方には申し訳ない思いが強い。日々の業務に追われていると平日はどうしても落ち着いてブログを書く時間がとれない。土日がチャンスなのだが、逆に土日だからこそ出かけたり、たまった仕事を片付けたりで、あっという間に半月ぐらいご無沙汰してしまう。  しかし、「金無し...」とこのブログがビジネスの顧客と私を結ぶ唯一のパイプだと思うと、日々の業務もブログあってのものなので、今後も話題集めと執筆に努力していくつもりなので、読者の方々には楽しみにしていただきたい。

パスコホームページが70万回アクセスを達成 2012年4月22日


ホリーウイークの休暇でタバコ市の農場を訪れた折、最終日は空港のあるレガスピ市のカーネル(マム・ジェーンの亭主、KIANのお父さん)の実家に泊まった。翌日の便が早朝6時半出発で、暗いうちに空港に行く必要があるからだ。その際、夕食をとりにレガスピ港の脇にできた新しいモール(イン・バルカデロ・デ・レガスピ)にでかけた。そこには本ブログの主人公のデバインが働いているのだ。 5年前、まだ17歳のデバインと私(ではなくて私の息子)。ちょっとお似合いのツーショットだ。  デバインとのなれ染めは、私が2002年にレガスピ近郊のタバコ市に農地を購入し、そこの農場と住居を建設した際、もっぱら私の食事の世話をしてくれたのが、彼女だ。彼女は当時12歳だったが、すでに顔も体も大人で、すでに男心をくすぐるものをもっていた。インド人との混血で(当時はアメリカ人との混血と聞いていたが、その後インド人であることが判明)大きな目と整った顔つきで、すでにかなりの美形だった。しかし、今回久しぶりに会ったら、まだ若干21歳なのにかなりの重量級で、しきりにダイエットを勧めておいた。  彼女が働いているINASALは現在もっとも出店が盛んなファーストフードチェーンだ。  マム・ジェーンのいとこである彼女の母親が若いときからパロパロ(浮気もの、もともと蝶という意味)で結婚前から異なる国籍のボーイフレンドの子供を作り続けた。そして、フィリピン人と結婚したら、それまで作った子供の面倒を見れなくなり、しかも、そのころおばあさんが亡くなって、デバインは親戚をたらいまわしされる羽目になってしまった。  しかし、行く先々で、その美形に、預かってもらった家の亭主どもがちやほやするので、その女房達がやきもちを焼いて追い出される羽目になった(注)。そこで行きついた先が我が農場だ。そこでマム・ジェーンの母親(マミー)に面倒を見てもらいながら、ハイスクールと専門学校を終えた。私は2003年から 2004年の1年半を農場で彼女と過ごしたが、そのころ彼女はハイスクールの前半で(13~14歳)、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」の191ページのメイドさん役で登場している。 注:フィリピンでは再婚した妻の連れ後の女の子が成長すると亭主が無理やり手篭めにしてしまうということがまかり通っているそうで、義理の父親とて油断できない存在なのだ。ましてや妻の親戚の子供となったら、亭主はもっとも危ない存在だ。だから妻達のやきもちはもっともなことなのである。  港を眺めながら食事ができるレストランは中々風情があって、パスコの法律顧問であるマリソール(写真左の左から2番目、端が亭主)が亭主とともにかけつけてくれた。ちなみに彼女は4人目の子供を宿していて、最近体調不良で仕事が遅くなっている。上の3人は全部男で金太郎飴のように同じ顔をしているが、亭主は、今度こそ女の子ができて欲しいと意気込んでいた。  農場で生活していたころ、デバインは何かと頼りにされ、何かマミーに頼んだり聞いたいるすると次の言葉は「デバイ~ン」と大きな声で彼女を呼びつける。ちょっと小言を言うと「デバイン・カセ」と彼女のせいにされ、それでも何一つ文句をいわず大きな家と農場を走り回っていた。  現在、農場でその役割を担っているのがビアンカだ。彼女はすでに16歳と推定されるが(注)、立派な少女に育っている。今は年に数回農場を訪れる程度だが、そのとき一番の頼りになるのがビアンカで、家の中のことなら何でも知っており、農場の欠かせない人材になっている。現在ハイスクールの3年を終えたところで、後1年で大学進学となる。しかし、13人の甥や姪を抱えるマム・ジェーンに私立に行かせる余裕もないから、ビコール国立大学に入学できたらOKだが、それがだめだったら専門学校で何か手に職をつけさせることなっているそうだ。 注:ビアンカの生い立ちについてはいずれ別途ブログに掲載する予定 ホテルレストラン学科を卒業したデバインは、一時マム・ジェーンと折り合いが悪くなり、農場を出てレガスピでパン屋に勤めていたが、今はINASALのレジをやっていた。農場にはたまに来る程度で、去年のKIANの誕生日と今年の正月に面会した。彼女達はもはや全く屈託がないようで、久しぶりの再会を喜んでいた。食事の後、デバインの話を聞きたいので、生バンドのあるパブに席を移した。KIANは睡眠の時間で両親とともに帰宅した。 PNP(フィリピン国家警察)の幹部であるヤン大佐に悲鳴を上げさせるKIANは怖いもの無しだ。右はいかにも福福しいデバイン。  デバインは16歳の妹のクレヨを引き取ってハイスクールに復帰させ、自分自身も大学に通っているという。朝8時から午後3時まで大学に通って、夕方から深夜までINASALで働いて、寝る時間はあるのかと心配になる。給与は一日256ペソ(多分この地域の最低賃金だろう)。手取り205ペソ、毎日はたいても月々たったの6000ペソ程度だ(1万2千円)。この金で、二人分の宿、食事、交通費、学費を賄おうというのだが、とても可能とは思えない。それでも、いかにも明るく元気に生きているのだ。しかもこんなに太っている、これはINASALのライスのお代わりは無料というポリシーによるものらしい。「ボーイフレンドはいるのか」と聞いたら、「一人」と恥ずかしそうに答えていた。デートの金も時間もないと思うのだが。 […]

デバインの奮闘記 2012年4月22日



  4月2日(月)、ホリーウイークの連休(4月5日(木)~9日(月)の5連休)を利用して、久しぶりにタバコ市の農場を訪問した。早朝にも関わらず、ターミナル3は帰郷する人の群れであふれていた。 KIANは3月31日生まれなので、丁度2歳と2日目の帰郷となる。  ターミナル3はセブパシフィックとANAが利用しているだけで、部分開業だが、空港内の店も大分充実してきている。  空港内では相変わらずKIANが抱っこをねだる。こんな顔をされるといやとは言えず、重量級のKIANのおかげで、ひじと肩の関節の痛みが直る暇がない。いつも活発なKIANを飛行機の中で大人しくさせるためにカッパエビセンを握らせている。 マカティとボニファシオ・グローバル・シティが遠方に朝もやに浮かんで見える。  この日、下界は雲の下、雲海が美しい。レガスピ空港までの空のたびはほんの30分強で、雲に包まれるマヨン火山がそびえている。   レガスピ空港に降り立ったKIAN、正月以来、4ヶ月ぶりだが、今回はしっかりと記憶しているようだ。飛行機に向かって手を振っている。マヨン火山もKIANを歓迎して雲の上から顔を出している。 迎えの車の中でもおおはしゃぎで、いとこやおじさんとの再会を喜んでいる。ナイナイバーはKIANの得意だ。これを英語でPICK A BOO、ビコール語でブラガというそうだが、赤ちゃんの万国共通の遊びのようだ。 農場までの道のりを覚えているのか、盛んに何かを指差している。 1週間の農場滞在を終えて、4月9日(月)、連休の最終日はは父親の実家に移動した。バスターミナルはマニラに戻る人で一杯、一体いつバスに乗れるのか、あてもないままにひたすら待ち続けているように見える。  

KIANの2歳の帰郷 2012年4月22日