デバインの奮闘記 2012年4月22日


ホリーウイークの休暇でタバコ市の農場を訪れた折、最終日は空港のあるレガスピ市のカーネル(マム・ジェーンの亭主、KIANのお父さん)の実家に泊まった。翌日の便が早朝6時半出発で、暗いうちに空港に行く必要があるからだ。その際、夕食をとりにレガスピ港の脇にできた新しいモール(イン・バルカデロ・デ・レガスピ)にでかけた。そこには本ブログの主人公のデバインが働いているのだ。

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5年前、まだ17歳のデバインと私(ではなくて私の息子)。ちょっとお似合いのツーショットだ。

 デバインとのなれ染めは、私が2002年にレガスピ近郊のタバコ市に農地を購入し、そこの農場と住居を建設した際、もっぱら私の食事の世話をしてくれたのが、彼女だ。彼女は当時12歳だったが、すでに顔も体も大人で、すでに男心をくすぐるものをもっていた。インド人との混血で(当時はアメリカ人との混血と聞いていたが、その後インド人であることが判明)大きな目と整った顔つきで、すでにかなりの美形だった。しかし、今回久しぶりに会ったら、まだ若干21歳なのにかなりの重量級で、しきりにダイエットを勧めておいた。

CIMG1157s-4 彼女が働いているINASALは現在もっとも出店が盛んなファーストフードチェーンだ。

 マム・ジェーンのいとこである彼女の母親が若いときからパロパロ(浮気もの、もともと蝶という意味)で結婚前から異なる国籍のボーイフレンドの子供を作り続けた。そして、フィリピン人と結婚したら、それまで作った子供の面倒を見れなくなり、しかも、そのころおばあさんが亡くなって、デバインは親戚をたらいまわしされる羽目になってしまった。

 しかし、行く先々で、その美形に、預かってもらった家の亭主どもがちやほやするので、その女房達がやきもちを焼いて追い出される羽目になった(注)。そこで行きついた先が我が農場だ。そこでマム・ジェーンの母親(マミー)に面倒を見てもらいながら、ハイスクールと専門学校を終えた。私は2003年から 2004年の1年半を農場で彼女と過ごしたが、そのころ彼女はハイスクールの前半で(13~14歳)、拙著「金無し、コネなし、フィリピン暮らし」の191ページのメイドさん役で登場している。

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注:フィリピンでは再婚した妻の連れ後の女の子が成長すると亭主が無理やり手篭めにしてしまうということがまかり通っているそうで、義理の父親とて油断できない存在なのだ。ましてや妻の親戚の子供となったら、亭主はもっとも危ない存在だ。だから妻達のやきもちはもっともなことなのである。 

港を眺めながら食事ができるレストランは中々風情があって、パスコの法律顧問であるマリソール(写真左の左から2番目、端が亭主)が亭主とともにかけつけてくれた。ちなみに彼女は4人目の子供を宿していて、最近体調不良で仕事が遅くなっている。上の3人は全部男で金太郎飴のように同じ顔をしているが、亭主は、今度こそ女の子ができて欲しいと意気込んでいた。

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 農場で生活していたころ、デバインは何かと頼りにされ、何かマミーに頼んだり聞いたいるすると次の言葉は「デバイ~ン」と大きな声で彼女を呼びつける。ちょっと小言を言うと「デバイン・カセ」と彼女のせいにされ、それでも何一つ文句をいわず大きな家と農場を走り回っていた。

 現在、農場でその役割を担っているのがビアンカだ。彼女はすでに16歳と推定されるが(注)、立派な少女に育っている。今は年に数回農場を訪れる程度だが、そのとき一番の頼りになるのがビアンカで、家の中のことなら何でも知っており、農場の欠かせない人材になっている。現在ハイスクールの3年を終えたところで、後1年で大学進学となる。しかし、13人の甥や姪を抱えるマム・ジェーンに私立に行かせる余裕もないから、ビコール国立大学に入学できたらOKだが、それがだめだったら専門学校で何か手に職をつけさせることなっているそうだ。

注:ビアンカの生い立ちについてはいずれ別途ブログに掲載する予定

ホテルレストラン学科を卒業したデバインは、一時マム・ジェーンと折り合いが悪くなり、農場を出てレガスピでパン屋に勤めていたが、今はINASALのレジをやっていた。農場にはたまに来る程度で、去年のKIANの誕生日と今年の正月に面会した。彼女達はもはや全く屈託がないようで、久しぶりの再会を喜んでいた。食事の後、デバインの話を聞きたいので、生バンドのあるパブに席を移した。KIANは睡眠の時間で両親とともに帰宅した。

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PNP(フィリピン国家警察)の幹部であるヤン大佐に悲鳴を上げさせるKIANは怖いもの無しだ。右はいかにも福福しいデバイン。

 デバインは16歳の妹のクレヨを引き取ってハイスクールに復帰させ、自分自身も大学に通っているという。朝8時から午後3時まで大学に通って、夕方から深夜までINASALで働いて、寝る時間はあるのかと心配になる。給与は一日256ペソ(多分この地域の最低賃金だろう)。手取り205ペソ、毎日はたいても月々たったの6000ペソ程度だ(1万2千円)。この金で、二人分の宿、食事、交通費、学費を賄おうというのだが、とても可能とは思えない。それでも、いかにも明るく元気に生きているのだ。しかもこんなに太っている、これはINASALのライスのお代わりは無料というポリシーによるものらしい。「ボーイフレンドはいるのか」と聞いたら、「一人」と恥ずかしそうに答えていた。デートの金も時間もないと思うのだが。

農場では家族のように生活していたのだから、こんな話を聞いて黙っておれるはずも無い。マム・ジェーンには内緒だよと言って、3000ペソを握らせたら、大喜びしていた。翌日、早速学費の支払いに充当したそうだ。これこそ価値のあるお金を使い道だと大いに自己満足した。

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  彼女の境遇は、フィリピンでは、まだ、ましかもしれない。彼女の場合は自分と妹の面倒だけで済んでいるが、多くは病や無職の両親と5人~10人の兄弟の面倒を一身に背負って、花街で体を売る子も多いのだ。

 

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