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 マニラの北約50km、高速道路で約1時間のアンヘレス市(Angeles City)は スービックのオロンガポと同様、巨大な米空軍基地をささえる街だったが、現在はその名の通りエンジェルの街として多くの観光客を集めている。元クラーク空 軍基地の出口にあるフィールドアベニューには百軒近いゴーゴー・クラブが軒を連ね、数千人のエンジェル達が、かつて繁栄を誇ったマニラ、 エルミタのデルピラ通りに取って代わって、日夜世界からの殿方を癒している。両替所がいたるところにあるが、そこではドルと円の交換比率が張り出されてい るが、こんなところでも円が幅を利かせている。  アンヘレスに隣接するクラークは、元米空軍の基地で1990年のピナツボ火山の噴火で壊滅的な被害を受けた後フィリピンに返還され、経済特別区として軽工業、リゾート、住宅地、デューティーフリー ショッピング などとして開発されている。クラークの約半分のエリアは国際空港であり、韓国などからは直行の定期便が飛んでおり、いずれ日本からも直行便が飛ぶものと期待されている。  クラークの中にはミモザなどの大型のビリッジがあり、外国人を誘致すると共に36ホールのゴルフコースまである。 クラークのフレンドシップゲートを出てすぐ左に折れると、フィールドアベニューの延長に韓国料理の店が軒を連ね、クラークはまさに韓国人に席巻された感がある。 クラークの入り口のすぐ近くにはSMモールがオープンしているが、SMグループのフィリピン制覇の一環だろうが、その巨大さに驚かされる。ダウンタウンのフィリピン独特の混沌と喧騒に比べて、ここは超近代的な街そのもので、多くの市民が冷房の利いたモールで快適なウインドーショッピングを楽しんでいる。 アンヘレス市はクラークを控えているせいか、とても活気のある街で、ダウンタウンのマーケットではフィリピンの街並みを満喫できる。

天使が飛び交う街アンヘレス・シティ2008年8月10日


 7月28日夜半、待望の初孫が誕生した。名前は結月(ユズキ)、女の子だ。体重は3240KG、23日が予定日だったのでちょっと心配されたが、順調なお産だったそうだ。両親とも長身のせいか、足や指がすらっとした赤ちゃんとのこと。実は私が48歳の時、長男が結婚し、40台で孫ができるのではないかと期待されたが、それから10年以上音沙汰がない。嫁さんが仕事優先で子供を作るのを躊躇しているためだそうだ。先日1月19日に3男の結婚式に帰国したが、その時花嫁はすでに身重であることを知らされた。この少子化の時代に、でかしたと褒めてやったものだ。  ちなみに私は5人兄弟の末っ子で団塊の世代の先頭を走る。兄弟が5人に配偶者を加えて10人から生まれた子供が丁度10人でなんとか人口を維持できた。そして孫の世代となると今度生まれた初孫が二人目だ。10人の子供の世代はすでに30~40歳になっているが、結婚しているのがたったの3人だ。こんな状況では我が家系はどうなってしまうのだろうと心配される。さらにまた、日本の人口はどうなっていくのだろう。女性一人当たりの出産する赤ちゃんの数が 1.29人とかいう数字を聞いたことがあるが、10人の子供に配偶者がいるとして20人に2人の子供ということになり、女性一人当たりの出産率はなんと 0.2だ。 一方フィリピンでも少子化の波をむかえつつあるとはいえ巷には子供があふれ、今でも一夫婦に3~4人の子供は当たり前だ。今でも人口は急速に増加しつつあり、学校を出ても就職できない若者が大勢いる。日本では介護老人の増加と若者の減少で近未来に十数万人の介護士やヘルパーが不足するといわれている。大いなる需要と供給があるのに、ビザの問題が大きく立ちはだかっており状況が改善される見通しが立っていない。両国の首脳がこの問題を正しく認識してこのギャップを埋めることができたら、どんなにか両国に寄与するであろうという思いがつのる。  話を戻して、いずれ近いうちに初孫の顔を見に日本へ久しぶりに帰ろうかと思う。孫は実の子より可愛いというが、おばあさん(私の妻)の孫について語る電話の声はまさにそれだ。

初孫誕生2008年8月5日



  2006年7月退職庁を辞め、フィリピンで新しい事業を開始した。その時の日本人パートナーが月の内3週間くらいフィリピンにいて、毎日の様に食事そしてカラオケに付き合わされた。そして3ヶ月くらい経過して、体重が10kgくらい減ってしまい、体の異常が気になり始めた。後で知ったことだが、尿が異常に増える、喉が渇いて仕方がない、水虫になりやすい、足がつる、疲れやすい、昼間から眠い、目がかすむ、などなど糖尿病の典型的な自覚症状のオンパレードだった。   翌年の2007年1月、60歳の誕生日で年金の手続きを行なうために日本に帰ったおり、病院をたずねた。成田空港に到着するやいなや、ペットボトルの飲料水を買い、成田エクスプレスを待ちながら、もう一本、横浜に着いたら、また一本と、ペットボトルを離すことが出来なかった。病院の検査を待っている間も喉の渇きや眠気に襲われ続けた。検査結果は血糖値が375、Hb-A1cが12.7、合併症がでる寸前で、危ないところだったと脅かされた。早速薬を処方されて、2~3日で渇きや眠気などの症状はなくなり、体調は回復した。  早速、糖尿病に関する書物やパンフレットを読み漁ったが、これは直ることがない病気で生涯付き合っていかなければならないが、血糖値のコントロールさえしっかりしていれば合併症など起こすこともなく、生涯を健康に過ごせるものだと知った。しかし、食後の急激な血糖値の上昇を阻害するαグルコシダーゼ阻害剤のベイスンは低血糖を引き起こすことがあるので、常にブドウ糖を持ち歩き、めまいでフラフラするような低血糖の症状が現れたら、服用するようにと強く注意された。低血糖は死に至る怖いものだそうだ。もう一つの薬はスルホルニ尿素剤のソロサという薬だ。これはすい臓からインシュリンの分泌を盛んにする薬らしい。  2ヵ月後の2007年3月おふくろがなくなり、その葬式に参加した折、再び病院を訪れたが、血糖値は77、Hb-A1cは7.4で、血糖値は低めだが、順調に推移しているということで安心した。普段はフィリピンに住んでいるので、日本から持っていった薬だけでは間に合わない。そこで当地の医者にかかって薬を処方してもらったが、その医者はコレステロールも高いので、それを下げる薬、血液をさらさらにするアスピリン、さらに魚の油(DHA)を飲むように指示された。都合5種類の薬を毎日飲むはめになった。   そして6ヵ月後の9月、所用で日本に出張した際、病院で検査をした。血糖値が70、Hb-A1cが5.5だった。医師は順調と言ってくれたが、血糖値が 70というの低血糖の寸前ではないか、このまま薬を飲み続けるべきなのか、不安な気持ちになった。その帰りに出会ったのが「糖尿病は薬なしで治せる」(渡邊昌著、角川書店発行)という本だった。医師が自分の糖尿病を薬なしで直したという経験を紹介した本だ。  著者の主張は「生活習慣病の治療は生活習慣を改善することにあり、薬にだけ頼っていては、やがて症状が悪化し、ますます薬漬けの生活を送ることになり、数々の副作用に悩むことにもなる」というものだった。ちなみにベイスンは低血糖の危険をはらみ、他にも副作用がある。ソロサは弱ったすい臓を鞭打ってインシュリンを出させ、いずれすい臓が機能しなくなり、インシュリン注射に頼らざるを得なくなる、とのことだ。  目からうろこに内容に、5種類もの薬を飲んで、いつも低血糖におびえていた私は、この主張に飛びついた。まず、簡易血糖値測定器をフィリピンで買い求めた。日本では保険がきかず数万円の高価なものだがフィリピンでは1万円はしなかったと思う。薬を段階的に減らしながら、血糖値が食後180以下、空腹時120以下におさまっているよう務めた。食事は六分目、油脂類は最小限、野菜を多め、そして食後は30分間の散歩が日課だった。はじめは空腹と物足りなさで情けなかったが、慣れてくると従来の半分くらいの量でも充分満腹感は得られる。それには良く噛んでゆっくり食べるのが秘訣だ。   そして1年後の2008年9月、初孫のお宮参りのおり、いつもの病院を訪れた。前回の検査とは時間があいたので初診扱いとなり保険外併用療養費というわけのわからない金を余計に取られた。しかし、なにか道場破りの思いで検査に臨んだ。初診なので、いつもと違う先生で、血糖値135、Hb-A1c、5.7という結果を見て「異常ありません、薬ももちろん必要ありません」ということだった。道場破りの成功だ。(左の写真が簡易血糖値測定器)  あれから、さらに1年近く、医者のお墨付きで慢心してしまい、ついつい甘いものや脂ののった肉に手を出してしまうこともあり、血糖値も200を超えることもしばしばだ。しかし、血糖値を計って異常がある場合は、即散歩に出て、30分も歩いて帰ってくると、50~100くらいは血糖値が下がっている。先日、 262という数字に真っ青になり、普段の2倍の1時間の散歩を消化したら、112に下がっていた。なぜ軽い運動で、こんなに劇的に血糖値がさがるのか、よくわからないが、間違いなく下がるのだ。だから薬無しでも食事と運動で血糖値がコントロールできると確信している。 […]

糖尿病体験記 2009年8月4日


ビアハウスとは文字通りビールを飲ませる場所だが、日本のビアガーデンやビアホールと違い、女性がお相手をしてくれる場所だ。もちろん相手をしてもらうためには、その女性にビールをご馳走しなければならないが、自分が飲むと50ペソとかせいぜい100ペソ止まりで、大変安くてうれしいのだが、女性の場合の料金は200とか300ペソもする。しかしそれ以外は基本的に何もかからないので、よしとするしかないのだが。 ビ アハウスはフィリピーノ庶民の癒しの場として、全国津々浦々にある。横丁で、はでなピンクや赤い光があったらそこはビアハウスだ。中では若いけれど もちょっと太目の女性が退屈そうに客を待っている。あるいは下手な歌をがんがん歌っている。中にはいるとママさんらしきおばさんが女性はいかがです か、とまずは聞いてくる。面食いの私にはまず誰も選ぶことができないのだが、仕方がないから、一番若い人などといって、人任せにしてしまうことになる。それでビールということになるのだが、彼女たちは、よくまあと思うほどビールをガブガブ飲みする。だから大概の女性が太っているのだ。 ビアハウスの女性は連れ出しができる店もあるそうだ。地方では1000とか1500ペソ程度ですむそうだが、女でさえあればなんでも、というような人向きかと思う。特にタガログ語がほとんどできない私にとっては会話を楽しむこともできないし、なんともお付き合いのしようがないのだ。 マカティ市内でもちょっとはずれるとビアハウスが点在している  アルバイ ポランゲ 私 の家のあるビコール地方アルバイ県周辺のビアハウスで働く女性はほとんどポランゲという町の出身だそうだ。ポランゲでは女の子が生まれると両親が大変喜 ぶそうだ。この子が大きくなったら売春婦として働いて家計を助けてくれるといって。そんなことが今のご時世にあるはずがないと、巷のことに詳しいある女 性に尋ねてみたが、本当だというのだ。そうなったら、その本家本元のポランゲにあるビアハウスに、ことに真偽を確かめに行くしかない。しか し、私の農場から車で一時間もの距離にあり、夜中、酔っ払い運転をするわけにもいかず、長い間、実現しなかった。 先 日のホリーウイーク明けの日曜日、日本からの訪問客とともにフィリピーノの案内で伝説のポランゲを訪問した。小さな街で、ことの真相は確かめることは […]

豆辞典 ビアハウスは庶民の遊びどころ



        キ リスト教徒が大半を占めるフィリピンでは、人生の最初のビッグイベントはバプティスマル(洗礼式)だ。世間への紹介を兼ねたバプティスマルでは両親の親 戚、友人、等が集まり、両親の資金力に応じて盛大なパーティが行われる。バプティスマルの儀式により、クリスチャンとして認められる一方、不病息災と幸 せな生涯を送ることができると信じられている。バプティスマルは原則として生後1年未満に行われるが、両親のパーティ資金の都合により、1歳を過 ぎてから行われることもある。通常は節約のため、1歳の誕生日を兼ねて行われることが多いようだ。 洗礼式の名の通り、頭に水をかける どこでもやり方は同じ(フィリピン人夫婦の次男の洗礼式)  フィリピン人は見栄っ張りで外国人が好きだから、あなたの知り合いに子供が生まれたとしたら、まずニノン・ニナン(God Farther・Mother) になってほしいと頼まれるだろう。これを決して断ってはいけない。友人であるフィリピーノと家族としての絆を築くチャンスでなのだ。ニノン・ニナン になると生涯、後見人として誕生日やクリスマスにはギフトをやり、そして就職の世話など、何かと面倒を見てやらなければならない。一方、その子供はあな たをファミリーの一員として一生忠誠を誓うのだ。したがって、両親は、出来るだけ力のある人、地元の有力者やお金のある外国人を依頼しようとする。ち なみに、かのマルコスは10万人の子供のニノンになったそうだ。 バプティスマルを無事に終えて喜びのご両親(日本人とフィリピン人のカップル) […]

豆辞典 バプティスマル(洗礼式)は人生のスタート


フィリピンでは、例え幾つになっても誕生日は、一年間に一度だけ誰もが自分に着目し祝福してくれる大切な行事だ。どういうわけか、皆お互いの誕生日を承知していて、その日が来ると“Happy Birthday”と声をかけあう。何とも友達がいがあって良い習慣だ。特に高齢者の誕生日は、長寿ということで特に祝福される。 歯科医小林さんの69歳の誕生日は盛大なものだった 来客に挨拶する小林さん 事務所では、ある日突然、スナックや昼食が皆に振舞われる。聞いてみると名前も聞いたことのない職員の誕生日だというのだ。フィリピンでは誕生日を向かえた人が皆に振舞わなければならない。これを“Blow out”といい、ポケットを空にしてまで皆に振舞うのだ。だから皆お互いの誕生日を覚えているのだろう。“Happy Birthday”と声をかけるのは、昼食を振舞って頂戴という催促でもあるのだ。もちろん誕生日プレゼントを上げるのはごく親しく大切な人あるいは恋人くらいで、ひたすら“Happy Birthday”の一言で振舞いにありつく。 バースディは事務所全体で祝うのが慣わしだ 薄 給職員にとってこの出費は痛手だろう。しかし、これをやらないと“けちんぼ”と陰口をたたかれるので、ひたすら皆、無理をする。だから私は誕生日を内 緒にしている。誕生日プレゼントをくれそうな人だけに教えるというわけだ。というわけで当事務所では毎月一度誕生会を開催して、その月に生まれた人を 祝うことにしている。もちろん費用は会社持ち。それでも個人的に宿舎で別途一人一人誕生会をやっている。これがフィリピーノの最大の楽しみなのだす。 今月は、この4人が誕生日を迎えた

豆辞典 いくつになっても誕生日はおめでたい



 7月18日から20日まで久しぶりにビコール地方タバコ市に戻った。我が家の目の前にそびえるマヨン火山は相変わらずその雄大な姿で私を出迎えてくれた。  農場には米が実り始めており、特に今年は豊作の見込み。この世界的な食糧危機の折、なんとも頼もしい限りだ。スーパーでは1kgあたり40ペソ(100 円)を超え数年前の倍近い価格となっており、貧困家庭では3度の飯にありつくのが困難なほどだ。マーケットに行くと政府が拠出しているはキロ23ペソの米を買おうと大勢の人が列をなすのが常態化している。  5年前、この土地を入手し家を建てた時に植えたランカの木に大きな実がなっていた。世界最大といわれるこの果物は英語ではジャック・フルーツといわれ、ほのかな芳香を漂わせるあっさりとした甘みで、果物のジャイアンツと言える。このほか農場にはパイナップル、バナナ、パパイヤ、ココナッツなどが実っていたが、いつか農場いっぱいに1年中フルーツが実って、米や野菜、そして家畜があふれる楽園にしたいと思っている。現在、犬は4匹飼っているが、今度も5匹の赤ちゃんを産んでいた。  世界一大きな果物ジャックフルーツ(ランカ)  今回の帰郷の目的の一つは友人夫婦の子供の洗礼式に出席することだった。クリスチャンにとっては人生最初の重要な儀式だ。洗礼式により赤ちゃんは世間に受け入れられ、多くの人に見守られて育って行く。前日我が家を訪れた友人夫婦には、洗礼式の後のパーティに供するために2匹の子豚をプレゼントした。哀れな子豚ちゃんと思う無かれ。これが彼らの宿命なのだ。パーティには不特定多数の知人が出席してご馳走を味わって帰る。我々も二人招待されただけだが、総勢11 人で出かけていった。人数制限のないのがフィリピーノ流招待だ。ちなみに出席者の一人、私の相棒であるフィリピ-ノの8歳になる姪はその美形に将来を嘱望されている。 将来が嘱望されるジェーンの美形の姪  最近はディスカウント航空券の普及でマニラ空港から最寄のレガスピ空港までたったの往復2000ペソ足らずで行けるようになった(ただし、十分余裕を持って予約しないと最大5000ペソ程度になってしまう)。バスだと約10時間もかかるうえ、一番高いバス料金が1800ペソだから、早めに安いチケットを確保するとバスとほとんど代わらない料金となる。ディスカウント航空券で最近急速にシェアを伸ばしているのがセブ・パシフィックだ。マニラ・ドメスティック空港にはセブパシフィックの新型飛行機が所狭しと並んでいた。各種トラブルで開港が6年越しで遅れていた最新鋭のマニラ空港(NAIA)第3ターミナルで7 月22日より部分的に運航を開始することになっている。  マニラ空港(NAIA)大3ターミナルにはセブパシフィックの機体が並ぶ

久しぶりの帰郷 2008年7月21日


 7月4日(金)、フィリピン退職庁(PRA)の第23回創立記念パーティが催された。PRAは退職者ビザを発行する機関で、日本を始めとする中国、韓国、アメリカ、イギリスなど世界各国の退職者に退職後の人生をフィリピンですごしてもらい、フィリピン経済に寄与してもらうことを推進する政府機関だ。PRA のトップはゼネラル・アグリパイという元フィリピン国家警察(PNP)の長官を務めた著名人だ。  この日はPRAの職員のほか、銀行などの協力機関、フィリピン在住の各国の退職者を招待し、年に一回の顔合わせのパーティだ。場所はマンダルヨンのランカスタースイートというコンドミニアムのメザニン(中2階)で、聞いたことも無く、まずその場所を探すのに一苦労した。駐車場も少なく、大きなパーティを開くにはどう見ても適しているとは思えない。会場も狭く、入り組んでいてなぜこんなところで開催したのだろうかと疑問に思い、PRAの職員に聞いてみると、MRT(電車)の駅に近く職員が帰るのに都合がいいからだという。そもそもPRAは毎年会場を代えるのでいつも場所を探すのに苦労する。どうも地理に疎い退職者のことは二の次のようだ。  翌日、とある退職者から私に抗議の電話が入った。パーティの通知が来ず、知らなかったというのである。しきりに文句を言っていたが、私に言われても仕方がない。私はもはやPRAの職員ではないのだ(私はかつてPRAに2年間コンサルタントとして勤めていた)。考えてみると退職ビザを持っている私にも招待状は来なかった。ただ仕事がら多くの退職者の住所に事務所の住所を使っているため、招待状の存在を知っていたのだ。PRAとしては退職者の便宜を図ることに傾注はしているものの、どうもやることがちぐはぐで、所詮フィリピンの役所の域を出ることは困難なのだろう。とかく文句の多い各国の退職者の目から見ると PRAは一体何をやっているのだという批判が絶えない。

フィリピン退職庁の創立記念パーティ2008年7月8日



 原油の異常な高騰のあおりを受け、世界的に穀物等をはじめとするあらゆる食材が高騰し、食糧危機の到来が取りざたされている。フィリピンでもガソリンがリッター当たり60ペソ(150円)にのせるなど、人々の生活を直撃している。しかしフィリピンではもう一つの食糧危機が到来しているのだ。ラプラプやマグロなどの海水魚(写真上)が半値以下に値下がりし、一方ではテラピア(写真下右)やバゴス(写真下左)などの養殖魚が倍以上に値上がりしている。それでもラプラプなどを買って食する人はまれで、ただ放棄されているという。  その原因は、先日の台風6号(フランク)により、シブヤン海、シブヤン島沖(ルソン島、ミンドロ島、パナイ島に囲まれた内海)で大型フェリーが沈没し800 人近い死者を出したが、その遺体が回収されず、海に漂い、魚のえさになっているとうわさである。キリスト教信者が大半を占めるフィリピンでは、極端にこのようなことを忌み嫌う。そのため、マニラの市場では誰も海水魚を食べようとしないのだ。  またさらに、この界隈の漁民は漁を行なうことを禁止され、その日の糧にも窮しているという。パラワン島など遠く離れた漁場で取れた魚は関係ないと思うのだが、海はつながっているから、人々は気持ち悪がって手を出そうとしない。そのため、全国の漁業関係者、おろしや小売などまでも大打撃を食らっている。ただほくそ笑んでいるのは、魚の養殖業者だ。普段はラプラプなどの海水魚の半値以下で売られているテラピアやバゴスが一気に倍以上の値をつけ、ラプラプよりはるかに高値で取引されているというのだ。

もう一つの食糧危機2008年7月3日


 タバコとは煙草のことではなく、刃物などを示すビコール語のタバックから来ている。タバコ市は国際港があり、サンミゲル島やカグラライ島により、波も静かな天然の良港で、日本の船員さんもたまに見かける。そのためカトンドゥアネス島へのアクセスもタバコ港であり、さらにレガスピ市と並んで周辺市町村の物資の集積地でもある。新装なったタバコ市営マーケット  街そのものはZiga (シガと読む)通りの両側500m2ほどだが、夕方から人であふれかえっている。周辺は一帯に水田が広がる穀倉地帯だが、その西側にそびえるマヨン火山の絶景が有名だ。産物はお米以外にはアバカ製品(マニラ麻)が有名で、ハンドバッグなどの民芸品は、安い上にデザイン的にもすぐれ、おみやげ物屋にあふれかえっている。  2003 年8月、旧タバコ市営マーケットは火事で消失してしまった。火事の後、アロヨ大統領が見舞いにやってきたほどの大火事だったそうだが、うわさでは、マーケットのビルを立て替えるのに入居している店が邪魔なので、市の関係者が火をつけたということだ。その直後、市の経済を牛耳る中華系フィリピン人のグループとインド人のグループが秘密の会議を開いた。中華系は、今こそ、市の小売業を独占するチャンスであると気勢をあげた一方、これら小売商に資本を提供して、日銭を稼いでいるボンバイことインド人グループは、マーケットの小売商が閉店してしまっては日々の集金ができないので、死活問題と嘆くばかりだったそうだ。  消失したマーケットビルを取り壊し、新たに完成したのが、2007年5月。この間、小売商は、マーケットの近くの空き地にバラックをつくり、たくましく商売を続けてきた。一方、新装なった新しいマーケットビルには、ぼちぼち入居が始まっているものの、使用権を買うのに最低20万ペソ程度必要で、そんなお金を支払える人はそうはいない。そのためマーケット周辺では露天商が並び、返ってかの喧騒と混沌のフィリピンらしい雰囲気を醸し出している。  日本では新宿、渋谷などの一部の都心をのぞいてほとんど雑踏といえるものを見ることがなくなった。どこへ行っても人影はまばらで、活気がある、あるいは生きているという実感がなくなって来ている。道路や建物はとてもきれいになったが、人がいないのだ。特に子供がいない。ところが、マニラから500kmも離れたフィリピンの田舎街で、まさに人々は生きているのだ。ここにはあふれかえる生がある。国としてあるいは個人として、日本と比べたら微々たるお金しかないかもしれない。しかし、彼らは、ここで幸せを満喫しているような気がするのだ。

ビコール地方タバコ市の紹介2008年7月2日