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  正月を農場で過ごしたばかりだったが、農場を見学したいという退職者がフィリピンを訪問され、再度農場を2泊3日で訪れることになった。農場は相変わらず雨で今回は一度もマヨン火山を拝むことは出来なかったが、訪問するたびに新たな発見をする。また、今回は退職者の方にちょっぴり農場の日常を体験していただいた。   ハイビスカスといえば赤い花が相場だが、フィリピンではピンクや黄色、白など色々改良されたものが庭を飾っている。庭には鉢物だが黄色いハイビスカスが大輪を咲かせていた。また庭先には美しいチョウチョが飛来した。   農場の周辺を散歩してみると、モウソウ竹のような大型の竹が自然に生えている。これらは建築材料に使えるが、是非農場にも植えて竹炭を作ってみたいと思う。通常バナナは2~3mで実をつけるが、身が固くて料理用に使うサバというバナナは10m近い高さとなり、いかにも熱帯のジャングルを思わせる風情だ。カボスに似たカラマンシーは調味料としてフィリピン料理に欠かせないが、2m位の小さな木に鈴なりになっており、マーケットでは安く売っているのがうなずける。一方この辺の小川はマヨン火山の麓で勾配が急なために日本の小川のようだ。    農場ではキャッサバという芋が収穫時期を迎えていた。収穫方法は幹をつかんで引っこ抜くだけで極めて簡単。退職者の方に体験収穫をしてもらった。このキャッサバは道路淵などいたるところで栽培されており、幹を20cmくらいに切ってななめに挿しておけば肥料もなしに数ヵ月後には収穫できる。もっと大量に栽培し、これで豚などのえさも賄って、さらに豚の糞を肥料にするなど、いずれ農場内で食物連鎖を完結させたいと思っている。現在は豚、闘鶏、テラピアなどの飼育に飼料を買って与えてるが、えさ代が販売価格にさえ追いつかない。それに世界恐慌そして食糧危機にでもなれば、農場の資源を最大限に使わなければ生き抜いていけないなど、自給自足の夢をめぐっていろいろと空想も膨らんでくる。     キャッサバは実をおろしてから液を絞りバナナの皮に包んで蒸して食べるが(この液には毒があって、そのまま食べることはできないそうだ)、まさにちまきといったところだ。ココナッツミルクや砂糖などで味付けをするが、甘さ控えめに作ってもらったら、お餅のようでとてもおいしかった。   一方、5年前に植えたココナッツは早いものは背の高さくらいのところに実をつけていた。若いココナッツの実は中の液を飲むことができるが、大変あっさりしていて、まさにスポーツ飲料の原点ではないかと思う。ココナッツをぐるぐる回して幹から取ろうとしたらありの大群に襲われてしまった。ココナッツの花を包んでいた黒い花弁が彼らの棲家だったのだ。   好奇心の強い退職者は、さらにカラバオ(水牛)の体験乗車を試みた。農場で働いている農夫がいとも簡単に乗るので、やってはみたもののお尻の位置が安定せず、なかなか難しいものであったとのこと。 […]

農場初体験 2009年1月18日


 1月11日は小生の?回目の誕生日だ。この日は友人に誘われてチャイナ・タウンにあるフィリピンで一番古いスペイン/フィリピン レストラン、 Ambos Mundos(アンボス・ムンドス)で昼食をとることにした。そのため12時過ぎ、願い事が何でもかなうといわれるチャイナ・タウンのキアポ教会の前で待ち合わせた。   日曜のミサの時間にぶつかったために、教会の前や横には入りきれない大勢の人々がスピーカーから流れる牧師の祈りに聞き入っていた。キアポ教会と言えば、一昨日のフィエスタでは200万人を超える人々が教会から運び出されたブラック・ナザレの像の行列に殺到したことで話題になったばかり。しかも幸いにも今年は死者がでなかったと関係者は胸をなでおろしていたそうだ。   キアポ教会の周りは野菜や果物、日用品そしてロウソクや怪しげな薬品を売る屋台で一杯だ。さらに教会からPaterno(パテルノ)通りに入るとメガネ、Raon(ラオン)は電気製品など、専門店街が続く。もちろん格安でなんでも揃っている。   キアポ教会からしばらく歩いてTorres(トレス)通りのAmbos Mundosレストランにたどり着いた。入り口には黒豚2頭を置いているのが印象的だったが、創業1888年、120年の歴史をほこるレストランの威厳を感じさせるほどのものではない。前日テレビで紹介されたせいか、店は満員だった。しかし、注文してから1時間近くも待たされ、いささかうんざりした。料理も特に老舗らしさを味わえるものでもなかった。一緒に経営されている1955年創業のWah Sun中国料理店のほうがかえってにぎわっていた。   レストランから程遠くないSta. Cruz(サンタ・クルス)教会はチャイナ・タウンの中心だ。しかしこの地域は地図を見てもチャイナ・タウンとは書いていない。Quiapo(キアポ)、 Binondo(ビノンド)、Devisoria(デビソリア)などの地区を総称してチャイナ・タウンと呼んでいるのだ。 […]

誕生日にチャイナタウンを探訪 2009年1月12日



   1月6日、タガイタイ・シランに近々開業が予定されている介護施設アモーレの里の新年会に参加した。この日はあいにく私の相棒がアンヘレスに行く用事があり、車が使えない。仕方が無いので、バスとジープニーを乗り継いでいくことにした。事前のヒアリングによると直行のバスは無く、まずメトロマニラの南の玄関となっているアラバンまでバスで行き、そこからジープニーを乗り継いで行かなければならないとのこと。アンヘレスで大分ジープニーの修行を積んだので何とかなるだろうとで1時間以上余裕を持って出かけていった。アラバンまではスムーズに行けたが、そこから先は乗り合わせた人にジープニーの乗り代え場所と行き先を聞きながら、手探りの旅となってしまった。   アンヘレスのバリバゴといえば有名なフィールドアベニューのあるところだが、同じな地名のところにタガイタイ等に向うジープニーステーションがあった。ようやくそこでタガイタイに向う最後のジープニーに乗ることができたが、すでに開会の3時をとうにすぎていた。知っているつもりのビニャンやサンタロサも実は高速道路沿いのほんの一部を知っているだけで、おかげ様でアラバンから南の一般道路沿いの多くの街をこの機会に見学することができた。 アモーレの里に到着したのが4時半近く、会はすでにたけなわだったが、おかげ様ですぐに食事にありつくことができた。   地上5階、地下一階の大変立派な建物だが、1階部分の内装が完成しており、モデルルームもできて、開業を待つばかりになっている。野菜畑では立派に野菜が育っている。玄関にはアモーレの里のモットーが掲げられていた.   。   中央通路は広々としていて入居者がくつろげるようになっている。また、クリニック、キオスク、喫茶店、ジム、客室、事務所などが地下に配置される予定だ。  建物の前、屋外にしつらえられた宴席にはすでに40~50名の客が、スタッフによるカルチャーダンスを楽しんでいた。久々のおせち料理やつきたてのもちを楽しんだ後はゲームやビンゴなど皆でを楽しんだ。   5時過ぎ、8名のシスターが到着した。なぜシスターか招待されたのかわからないが、ビンゴの時間になると日本語での数値の読み上げに対して躊躇せず紙に穴を開けている。このシスターは日本語がわかるかと疑問に思って耳をすましていると、日本語で話している。そこで話しかけてみると全部日本人だという。ラグナのドンボスコ校の人だそうだが、確かに良く見ると日本人だ。日本人のシスターがフィリピンにいるなんてはなから思っていないから、てっきりフィリピン人だと思いこんでいた。そうやって見ると日本人もフィリピン人もあまり見てくれには区別がないようだ。    […]

アモーレの里の新年会 2009年1月7日


 退職者の一人が農場を訪問した主な理由は、マニラのおおみそかの喧騒を逃れるためだった。マカティのコンドミニアムから眺めると、花火と白煙で街はまるで火の海になるとのことで、室内に流れ込んだ硝煙と喧騒に朝まで悩まされるそうだ。そのため今回は農場で静かな夜を過ごそうという算段だったが、夜も更けてくると、花火の音が激しくなってきた。しかし、周囲100mには家が一軒もない農場では、これらの音も遠くで汽笛を聞くようで、かえっておおみそかの雰囲気が増して心地の良いものだった。タバコの市街地付近ではかなりの花火が上がっており、街の硝煙と喧騒はマニラと同じではなかったかと推察される。  12時になると本来はなべや釜をたたいたり、ラッパを鳴らして、少しでも喧騒を助長し、新年を迎えるのがフィリピン流だ。しかし、今回は件のお客さんがあることから、なべや釜はやめて家から少々離れてラッパを鳴らすだけにした。ラッパが一段落したら年越しそばならぬ、年越しのスパゲッティやそのほかのご馳走を食べる。日本のおせち料理というところだが、ここでは夜中から食事が始まるのだ。何人かの子は眠気なまこで食事に向かっていた。  そして食事のあとはお正月のギフトだ。マニラのデビソリアでしこたま買い集めた安物のおもちゃや衣類、靴などをギフト用の紙にくるんで配る。このときばかりは子供たちの目はらんらんと光っていた。  正月の飾りは13個以上の丸い果物や卵とナッツ、米、それに現金で、ともに収穫と富を象徴するものだ。これにより今年の豊作と収入を祈るのだが、たぶんに中国的影響が強い気がする。そのためか師走のマーケットは果物を売る店がやたらと多かった。1月1日は教会へ行ってミサを行う。そして2日は日本と同様、親戚や知り合いの家を訪問する。この日は二組、20人ほどの客があった。私の相棒は同窓生との食事のあとはダンスに興じていた。  近所を散歩するとバランガイの子供たちが道端でダンスを練習していた。この子供たちから将来有名なダンサーが生まれるかもしれない。ボクシングの英雄、マニー・パクヤオやビリヤードの世界チャンピオン、エフレン・レイエスもこういう巷のチャンピオンから生まれたのだ。

フィリピンのおおみそかと正月 2009年1月5日



 退職者の二人を案内して闘鶏見物にでかけた。年末ということで普段にも増して人が集まり、闘鶏場はほぼ満員、駐車場には入りきれないくらいのオートバイが並んでいた。ここタバコでも庶民の足としてのバイクが定着している証拠だ。  闘鶏場の控え所には多くの人々が自慢の闘鶏を胸に抱いて出番を待っている。悲しいながら、このうちの半分は1時間もしないうちに生涯を終えることになるのだ。        戦う2羽の闘鶏が出てくるとまず、闘志を掻き立てるために別の闘鶏とにらみ合ったりかみ合ったりさせる。さらに戦う2羽を対面させるあたりから賭けが始まる。まるでせりのような掛け声で場内は騒然となるが、手振り身振りで賭け金と賭ける闘鶏のコーナーを示す。賭けの相手を見つけて金額が折り合うと賭けが成立する。青コーナーはメロン(有る)、赤コーナーはワラ(無い)と呼び、かけ方はいたって単純だ。胴元はいなくてあくまでも客同士1対1の勝負だ。戦いが始まると賭けは終了。あとは勝敗を見守る。勝負がつくと、負けたほうが賭けの相手にお金を渡しておしまいだ。賭け金は1階席が500ペソ以上、2階席が 100ペソ以上だ。なお、掛け金の10%はコミッションとして闘鶏場に支払わなければならない。 1回の勝負で数千ペソのお金のやり取りが行われるからフィリピンでは大変な金額だ。この間、われわれには誰と誰がいくらで賭けが成立したのか皆目見当がつかない。しかし、彼らは試合が終わるとちゃんとお金を渡しあい、何のトラブルも発生していない。コンピューターも使わないで短時間のうちに闘鶏の死を賭したゲームが進行していく様は驚異に値する。もし自分も賭けに参加したいと思ったら隣で大声をあげている人に頼めばよい。メロンに500ペソ、などとだけ告げて、結果を見守る。負けたら500ペソを支払い、勝ったらコミッションを除いた450ペソを回収して渡してくれる。ただしその場合、チップを10%程度渡すことをお忘れなく。    闘鶏はそもそも闘争本能が旺盛でオス同士が出会うとあっという間に喧嘩が始まる。だから2匹のオスは決して一緒にできない。喧嘩の方法は親指にあたる突起で相手を攻撃するものだが、闘鶏ではそこに鋭い刃物を取り付けて戦わせる。だから、出会い頭の一発のけりで勝負が決まってしまうことが多い。負けたほうはもちろんオーナーあるいは負けた相手のオーナーの胃袋に納まってしまう運命だ。   勝ったほうでも傷だらけになることが多いが、その場合は場外の獣医に傷口を縫って治してもらえる。たまには相打ちで引き分けということも有る。また、決定打が出ないままずるずると戦いが続いて双方が疲れてしまい、どうしようもなくなることも有る。その場合は10分の制限時間があり、タイムオーバーの引き分けとなる。 ちなみに場内にはほとんど女性はいない。いてもスナックの売り子ぐらいのものだ。大金を儲けたり、すったりする博打は女性の敵なのだ。一方、バードウオッチングが趣味の退職者は闘鶏を初体験して大変満足した様子だったが、これもバードウオッチングの内なのかと首をかしげていた。

闘鶏入門 2009年1月5日


  タバコの中心はZiga Avenue(シガ通り)というが、その周辺とマーケットには人があふれていた。この街のこんなに人がいたのかと思うほどだが、正月は帰郷ラッシュで人口は倍ぐらいに増えているのに違いない。市営マーケットビルの前の広場はテント作りの屋台がひしめきあっていた。これは入居金が高すぎてマーケットビルに入れない人たちが自衛手段として建てたものか、あるいは、従来屋台のあった場所に新たにマーケットビルを建設中なので、そこから移動したかだろう。いずれにせよ普段の倍近い店が出て年末商戦を繰り広げていた。  タバコ唯一のデパートのLCCにも人があふれていた。教会前にも花火売りの屋台が並び、1年間でたった数日の商戦にかけていた。これらの花火はおおみそかの1時間くらいの間にすべて消費されるのだ。   市庁前や街の主要な場所にはメイヤーの家族を写した大きなポスターが掲げられていた。年末年始の挨拶ということであろうが、下院議員ラグマンの娘のクリセル市長の自己顕示欲は留まるところを知らないようだ。しかもこれは2010年の統一選挙を見据え公費による選挙活動を行うというしたたかな作戦でもある。   教会のクリスマスの飾りはそのまま残されていた。星型の飾りには名前や写真が張られ、日本のお祭りの寄付の名札に似ている。いくばくかの寄付を教会にした人たちが名前を掲げているのだ。また、市庁舎や広場に飾られたクリスマスツリーもそのままだ。一方、セブパシフィックが発着するターミナル3も大きなクリスマスの飾り付けがなされたままだった。  この日は土砂降りの雨降りで、しばし雨宿りを強いられたが、雨の水を使ってシャワーを浴びている子供を目撃した。スコーター(スラム)の子供は水道もないから、このスコールでシャワーを浴びるのだ。   師走となれば人出が多い。人出が多いとそれを運ぶ手段が必要だ。そういうわけでトライシクルやパジャック(サイドアカーをつけた自転車)が列を成していた。心なしか普段より数が多い気がするが、気のせいだろうか。彼らも年越しの金を稼ごうと必死なのだ。 マニラに戻るとターミナル3にはまだ巨大なクリスマスランタンが飾られてた。また、農場ではこのランタンのような花を見つけた。

師走の街には人があふれていた 2009年1月5日



 ビコール地方の12月、1月は雨季の真っ只中だ。おまけに今年は気温が日中でも25度以下となり、まさに寒波の襲来だった。我が家のメイドはこれを Super Coldと称していたが、まだ半袖に半ズボンで居られるくらいだからいささか大げさだ。でも彼らは本気でそう思っているのだ。  昨年は年末年始に10日ほど滞在して一度もマヨン火山の勇姿を拝むことはできなかった。今年もどうせ無理だろうと思っていたが、退職者二人を迎えた12月29日の午後、雲間に浮かぶマヨン火山を垣間見ることができた。実にこの日だけがチャンスで、あとは間欠的に雨が降り続け、マヨンはまったく姿を隠し、退職者にとってはまことにラッキーな瞬間だった。  退職者の一人は最近バードウオッチングに凝っており、農場に飛来する野鳥を解説してくれた。カラバオ(水牛)にまとわりついてえさを探すサギや日本から飛来してくるというもずなど、いながらにして色々な野鳥を観察することができた。農場に植えた木々が成長して林になればさぞ色々な野鳥が飛来するものと今から期待される。この5年間、数百本の各種苗木をせっせと植え続けた効果が出るのもさほど遠くないはずだ。  雨季のため花は比較的少ないが、それでも25度前後の気温はあるから、そこそこ花を咲かせていた。日本にはちょっと見られないめずらしいサボテン系のユーロ・ホビア、可憐なカディナ・デ・アモール、それに定番のブーゲンビリアなどだ。一方、田植えを終えたばかりの水田は豊富な雨のために青々と茂っていた。  近所を散歩している時、20cm前後の大きさに育った柑橘系のロクバンというホメロに似た実をつけた木を見つけた。ミンダナオ名物のホメロはおいしい大きな実をつける上、大変香りが良いそうなので、農場にも5~6本植えてある。ビコールでもうまく育つか心配だったが、近所で類似した木が立派に育っているので、何とかなりそうだ。このほか、農場ではランブータン、ランツォーネス、マンゴ、ランカ、カラマンシー、グアバ、アボカドなど熱帯特産の果物を植えてある。また、ビコール特産のピリやカカオなどのナッツの木もある。もちろんおなじみのバナナ、パパイヤ、パイナップル、ココナッツもいっぱい植えてあり、いつか農場が果物やナッツであふれる日を夢見ている。  話は変わるが、フィリピンでは住所を示す丁目のことをプロックという。農場の住所は689、Purok6、Barangay San Antonio、すなわちアルバイ県タバコ市サンアントニオ町6丁目689番地となる。サンアントニオは籐家具をはじめとする伝統家具の産地で、いたるところに小さな家具の工場がある。マニラの半値程度で家具が買えるが、運搬が大変だ。また、タバコではアバカ(マニラ麻)で作ったハンドバッグなどの手工芸品もしゃれたものが安く買える。これは持ち運びも簡単だからお土産に重宝だ。その他の名産は刃物(タバック)でタバコ市の名前もここから来ている。手軽なお土産はビコール特産のピリ・ナッツだが、どういうわけかマニラではほとんど見かけない。  雨降りのため子供たちはベランダの手すりに座って遊んでいた。この手すりは座れるように幅が20cm程度あり子供たちの格好の遊び場となっている。まだまだ子供だと思っていた相棒の甥姪だが、一番上の子は13歳(右から2番目)、ハイスクール1年生となり、もう少女といえる年頃になっている。

農場は毎日が雨だった 2009年1月5日


 フィリピンでは新築の家や事務所は牧師を呼んでお払い(ブレッシング)を行うのが慣わしだ。ビコールの我が家は建設後すでに5年を経過するが、台風の被害にあったり、あまりよいことがなかった。それはブレッシングをしなかったせいだということになり、この機会にブレッシングを執り行った。  相棒の同級生が牧師をやっているというので、相棒の友達や家族を一緒に招いた。たくさんの知り合いを呼んで一緒に家の安全と存続を祈ってもらうのだ。タガログ語と英語を織り交ぜたお祈りをひとしきりやると、牧師が先頭になり、それぞれの部屋に聖水を振りかけながら、清めて歩く。人々はろうそくを掲げながら後に続く。   それぞれの部屋のブレッシングが終わったら、家の主人がコインをばら撒く。子供たちはそれを必死に拾う。子供がいなければ大人たちだ。さすがに子供がいる場合は大人たちはそれに混じってコインを拾うのは恥ずかしいようだ。事務所のブレッシングでの大人たちが歓声をあげてコインを拾うさまはすさまじいものがある。これらのコインは縁起物とされ大事にとっておくそうだ。子供たちにとってはもちろんおやつを買う軍資金となる。ちなみに犬たちは何がおきているのか、そ知らぬ様子だが彼らもご馳走のお余りにありつけることは間違いない。  もちろん祝い事に食事は付き物だ。招待された人たちではとても食べきれない料理が並ぶ。肉料理が数種類に甘い飲み物とデザート、野菜は一切ない。野菜は客を歓待するにはむいていない。あくまでも肉が主体だ。フィリピンでは野菜は貧乏人の食物とされているのだ。   フィリピンで人々と仲良くやっていくには何かと機会をとらえて、振舞うことだ。けちけちしないで誰でも招待して、たらふく食わせる。そうすれば気前がよくて良い人という評判が定着して、なにかとかばってくれたり、助けたりしてくれるだろう。これが人間関係を築く上で最小の投資で最大の効果を得ることができるこつだ。

ハウス・ブレッシング2008年12月29日



 本年度のクリスマス、正月休みは見事につながってしまい、12連休という最長の大型連休となってしまった。ちなみに、それぞれの休みの理由は下記のとおりだ。 12月24日(水):クリスマスイブで官庁は半日、個人的に休む人が半数以上で実質的に休み 12月25日(木):クリスマスの祝日 12月26日(金):クリスマスと土曜にはさまれたブリッジ休みで大統領令による特別休日 12月27日(土):休日 12月28日(日):休日 12月29日(月):日曜と祝日にはさまれたブリッジ休み 12月30日(火):リザール・デイの祝日 12月31日(水):年末特別休日 1月1日(木):正月の祝日 1月2日(金):正月と土曜にはさまれたブリッジ休み 1月3日(土):休日 1月4日(日):休日  24日のクリスマスイブは官庁は実質的に休みとなってしまうので、23日までに官庁手続きを終えないと、来年の1月5日まで12日間も待たされることになる。幸い、2名の退職者のPRA関連の手続きはぎりぎり23日で終了し、ほっとした気持ちで連休を迎えることができた。  一方、街の混雑は23日までで、地方へ向かうバスステーションや道路、そして最後の稼ぎをもくろむ行商人などで繁華街は人や車ででごった返した。また、普段は見かけない物乞いがやたらと目に付いた。これらの人々は明らかに装いを異にしており、普段山奥に住んでいる人たちが里に下りてきたといった雰囲気だ。下町のエルミタで人と会う約束があったが、タクシーを拾うのはまったく不可能。仕方なくジープニーでLRTブエンディア駅に向かい、それからLRTでペドロヒル駅でおり、目的地まで歩いた。おかげでちょっとした冒険をしてしまった。 […]

フィリピンの超大型12連休2008年12月28日


 世界的金融危機のあおりを受けてPASCOも苦しい経営を強いられているが、クリスマスパーティはフィリピーノ社員にとって欠かせない行事ということで、ささやかながら事務所でパーティを行った。料理はすべてスタッフによる手作り、その代わり小さなギフトや景品を大量に用意した。時節柄カラオケもなしとし、代わりに先日Bank of Commerceのパーティで知った、現金のお札をまるめて短く切ったストローに入れ、それを目隠しして選ぶくじ引きを行なった。一等賞は500ペソ、2 本、2等賞は100ペソ、2本だ。  フィリピンでは何を行なうにもお祈りから始まる。まずは神への感謝の言葉を述べ皆でアーメンを唱える。そして、ご馳走の前で記念撮影。会長、社長の挨拶などつまらぬ訓示は無しで、即、食事に突入だ。  参加者は社員が11名、ゲストが3名と1/2、だが食事は20人前程度用意された。あえて残るようにするのだ。残った料理は皆でTake Outし、2次会で食べたり家族に振舞ったりするのだ。このTake Outがないと何かもの足らず、フィリピーノは満足感を得ることができないそうだ。  パーティには定番の鳥のから揚げ、シャンハイルンピアを初めアドボン・バボイ、スパゲッティ、ビーフンなど。から揚げはあげすぎ、スパゲッティは甘すぎると文句を言うのは日本人くらい。皆、これでもかこれでもかと言うくらい、腹いっぱいに食べていた。  おなかがくちくなったら今度はゲームだ。おなじみの椅子取りゲーム、ビールの早飲み、などなど。今夜は13歳と3歳のお嬢様が参加したので、男女のセクシーなゲームは遠慮したようだ。ゲームの勝者には景品が贈られ、その間に随時くじ引きが行なわれた。社員は興奮のルツボにはまりっぱなしだった。  ゲームやくじ引きの景品、それにおみやげ(Give Away)をたくさん手にしたスタッフはいかにも幸せそう。これがないと1年を締めくくることができない。会社への忠誠心などもこのようなパーティで培われると言っても過言でもない。

PASCOクリスマスパーティ開催2008年12月23日