shiga


 日本から、1年間の予定でロングステイしているYさんが農場に滞在しているので、ご機嫌伺いに今年3度目の訪問を行なった(要は毎月の訪問)。  この日はメイン滑走路を横切る南北に走る第2滑走路から飛びだったため、窓からは普段は見ることのできないPAL専用の第2ターミナルやメイン滑走路が良く見えた。  レガスピ空港に近づくと、今年初めてマヨン火山が窓からくっきりと姿を見せてくれた。毎月行ったとしても年に数回しか見れない故郷のシンボルだ。  農場からもマヨン火山はその雄大な姿を惜しみなく楽しませてくれた。子供たちは相変わらず明るい笑顔で歓迎してくれた。  この日は再び満月で夜空にぽっかりとまん丸の月が浮いていた。天気が良いときは満点の星空も満月に遠慮してまばらだった。蛍もまだ早いようであまりいなかった。  フィリピンに入国するとき21日間のビザがもらえるが、そろそろYさんのビザを延長しなければならないので、レガスピの入管に出かけていった。街のお店に混ざってこじんまりとした事務所を覗いてみると、ほとんど誰もいない。退屈そうにしている人がオフィサーらしい。申請書を埋めている最中に、いつもらえるのかと聞くと、もう出来ているという。全く簡単なものだ。マニラでは必ずそこを根城にしているフィリピン人が声をかけてきて、幾ばくかのお金を払うと、いろいろな部署を回って特急でやってもらえるが、それでも2時間ほどかかる。ここでは申請書を埋める間の15分ほどで終わってしまった。これで一安心だ。これから1年間滞在するためにYさんの2ヶ月に一度のお仕事になるのだ。  先月生まれた子豚が元気に育っていた。そろそろレチョンにしようかと提案したが、もう一月育ててホリーウイークにしましょう、というYさんの意見で、子豚一匹の命が救われた。豚は雑食で、その辺に生えているカンコンを与えると親豚、子豚とも先を争うように食べていた。自然の食べ物は、いつもの飼料と違いさぞおいしいのだろう。いずれ、豚小屋ではなく、自然の中で育てる放牧養豚をやろうと思っているのだが、手ごたえを感じた。豚の飼育も4年目を迎え、かなりの糞が溜まっているはずだ。発酵も十分進んでいるだろう。ファームハウスの前に準備している菜園にまいて肥えた土壌を作るよう指示をしてきた。  前回、パームツリーが大きく育っているのを発見したが、今回は花を目撃した。これが右のような実になる。それを絞ったのがパームオイルで、いずれ食用油も自給できるようになるだろう。先日、タイで農園を所有している退職者に会ったが、17ヘクタールの農園にパームオイル、ゴム、などを栽培しているとのことだった。その方によると間違いなくパームツリーの実だと仰っていたが、油の作り方はご存じないとのことだった。  マニラ空港のメイン滑走路の東の端はサウス・スーパー・ハイウエイが走っている。道路から見るとすぐ真上を巨大な飛行機が横切る様は圧巻だ。この日は逆に空から高速道路を見ることができた。ここの部分は従来の高速道路とスカイウエイが横に並んで走るために写真中央から左一杯まで100mはあろうかという幅だ。ちなみに右から、高速道路に沿って走る一般道、中央、料金ゲートがあるのがスカイウエイ、そして国有鉄道、林の左側が従来の高速道路サウス・スーパー・ハイウエイだ。 この写真はマカティ方面に向いて撮ったもの。

久しぶりのマヨン火山2009年3月22日


 サロン・デ・パスコの開所式を15人の招待客を向かえ、盛大に(?)執り行った。3時からの予定だったが、料理の準備が遅れ、4時近くになって開始されたが、日本人の招待客のほとんどは3時前に姿を見せ、フィリピンの生活についての話題に花を咲かせていた。  特に、この日の朝、ロングスティ財団から届いた「ロングスティ海外サロン」の認定証を紹介するとともに5月18日に東京で行なわれる「フィリピンセミナー」にロングスティアドバイザーの勉強会「査証の詳細セミナー」に小職が講師として招かれたことなどタイミングよく紹介することができた。今後、このサロンが日本人ロングスティヤーのゲートとしておおいに利用されることが期待される。 この日、何よりもうれしかったのは、元PRAの副長官のマルセロ氏が何の予告もなしに姿を現したことだ。マルセロ氏は小職のPRAジャパンデスク時代にボスだった人で、日本からより多くの退職者を招聘するためにどのようなサービスの改善が必要かなど話し合い、日夜励んだものだった。 そもそも退職者のたまり場、情報交換の場として発足したものだから、特に儀礼的なものは無しで、皆さん料理や飲み物を楽しみながら時をすごされた。  パラニャケにご在住の日本人は、退職者の死後、SRRV用の定期預金やフィリピンの財産はどうなるのか、遺言書はどこまで有効で間違いのない遺言書はどうやって作成・保管できるかというテーマで、夜の8時まで熱心に相談されていった。今後、この問題が重要になると現在鋭意研究中のテーマだけに興味ある話題だった。   さらに介護施設「アモーレの里」の運営を始めようとされている岸田さんは、認知症の入居者の支払いや財産管理をいかに引き受けるかなど銀行などと詰めているそうで、介護を必要とされている方が安心してフィリピンで過ごすことができるシステムの構築が急がれる。

サロン・デ・パスコ開所式2009年3月19日



 サロン・デ・パスコの準備が一週間遅れでようやく整ったので、3月9日よりオープンすることになりました。また、3月18日(水)午後3時より開所式を行ないます。どなたでも自由に参加出来ます。お知り合いの方も誘って是非お出でください。簡単なスナックと飲み物を用意します。   場所はパソンタモ通りとバグチカン通りの角(ブエンディア通りからパソンタモ通りを北へ3本目、1階はMETRO BANKの支店)、GMA LOU-BEL PLAZAの9階です。入り口のドアにPASCOのロゴが張ってあります。 入り口を入るとレセプションの両側に歓談、読書あるいは碁や将棋などを楽しめるテーブルが2脚あります。  奥はインターネット、DVDあるいはCD鑑賞、ゲームなどを楽しめるインターネットカフェとなっています。さらにその左は小さなミーティングルームとなっており、少人数でのミーティングや英会話教室などにご利用いただけます。  休憩あるいはマッサージなどが行なえる個室があり、ベッドが2脚供えてあります。本棚には「課長島耕作」などの本があります。本の数はまだ少ないのですが、おいおい充実していく予定です。  サロンの主目的は退職者の方の情報交換や憩いの場ですが、地方にお住まいの方、あるいは日本からフィリピンを訪問された方にとってもフィリピンの生きた情報を得られる場所として機能することを目指しています。また、志賀が常駐し、色々な相談を受け付けていますが、出かけることもありますので、事前にアポをとっていただけると幸いです。サロンの利用料は毎月1000ペソ、一日会員は200ペソ/日です。利用時間は無制限です。月曜~土曜、8時~18時、日曜、祝日は休みです。

サロン・デ・パスコ開所式のお知らせ2009年3月8日


 2月25日より3月1日まで、退職者2名を農場とその周辺を案内した。マニラは夏がやってきてとても暑いが、ビコールも前回に比べて大分暑くなっていた。しかし、相変わらず雨が多く、今回もマヨン火山を見れたのはたったの一回だけだった。  タバコ市の北のTiwiには地熱発電所があるが、それを過ぎるとまるで三陸か北陸の海岸線のような地形で、当地ではHanging Roadと呼ぶ道路が続く。  Tabaco市のあるAlbay県のはずれはJoroanという村で有名な教会があるが、今回は割愛してその先の滝を訪ねた。急な坂道を降りていくと海に2本の滝が流れ込んでいる。まさに三陸海岸だ。滝の上では村の女性達が洗濯をしていた。  タバコ市に昨年8月「水仙」という日本レストランがオープンした。退職者の一人はこれから1年間滞在する予定なので、たまには日本食が恋しくなるだろうと、試食をしてみた。120ペソ程度で定食を食べることが出来るが、まあまあの味だった。ただし、客は我々だけで、いつまで持つか心配だ。  レガスピ市から海岸線をちょっとタバコへ向ったところで、10分ほど山道を入るとゴルフ場がある。あるいはあったというべきか。かつては立派なゴルフ場だったそうだが、1980年代の噴火で壊滅的な被害を受け、今はコースがあるだけだ。それでも土日はプレイする人がいるそう。ちなみにグリーンフィーは 300ペソ。キャディフィーが300ペソだそうだ。 下の写真はなんとクラブハウス、第1ホールは海に向ってのショットだ。グリーンの上には子牛がたむろしていることもあるので注意が必要だ。牛に命中したらワンペナかどうか定かではない。  レガスピ空港のすぐ脇には200m位の小高い丘がある。現在車で上ることができて、頂上には休憩所が建設中だった。レガスピ市を一望できて すばらしい。タイミングがよければマヨン火山の勇姿も一望できる。  タバコ市には闘鶏場が2箇所あり、毎日どちらかが開いている。この日は平日のため、出場する闘鶏が少なく盛り上がりにかけていたが、来たる3月21日にはダービーがあり最高賞金は12万ペソだそうだ。    農場からはマヨン火山の中腹にある展望台が見える。この日は比較的天気が良かったので退職者を展望台に案内した。トライシクルに大人3人、子供が5人も乗り込んだので、途中何度もとまりながらやっとの思いで到着した。展望台からは遠くにタバコ市、そして農場も見える。  展望台には新しくレストランもオープンしていた。しばらくいると子供達が寒いからもう帰ろうと言い出すしまつ。バギオやタガイタイのような気候で晴天でも肌寒さを感じる位だ。途中鈴なりのジープニーに出会って一枚。   展望台のちょっと手前の水溜りでくつろぐカラバオ(水牛)の親子。日陰で気持ちよさそうに水に浸かっていた。  農場の近くは籐家具の産地だ。道路わきに製品を並べて売っている。下の写真のリビングセットが13000ペソ(26000円と日本と一桁違う価格で売っていた。いずれ農場にコッテージを建設したら、籐家具を置くのが安いし豪華でよさそうだ。 […]

農場と周辺の案内2009年3月5日



  昨日、NHKワールドのクローズアップ現代という番組で「認認介護」というテーマを取り上げていた。認知症の夫を、これまた認知症の妻が介護をしていて、妻が夫を殴り殺してしまったという事件である。妻は傷害致死犯として告訴され、執行猶予の刑を受け、現在自宅で一人暮らしをしているという。また、妻は夫を殴り殺したという事実を記憶しておらず、なぜ夫が死んでしまったのかと首をかしげているそうだ。この事件が家庭内介護をとりまく問題を提起し、役所そして介護ビジネスに関わる人々がいろいろ議論を重ねているという。  この番組をフィリピンで見ていると、まず気になるのが家族はどうしていたのか、子供はいないのか、兄弟はいないのか、家族が一緒に暮らしていればこんな悲惨な事件は発生しなかっただろうに、ということである。フィリピンはご承知の通り、大家族で年老いた親が一人あるいは夫婦だけで暮らしているなどという状況はありえない。お年よりは多くの子供や孫に囲まれてたとえ貧しくても幸せに暮らしている。老老介護や認認介護などという状況はありえないのだ。 私の友達に、最近フィリピンで結婚したことを悔やんでいる方がいた。一人で暮らしていたほうが金はかからないし、気楽だし、それに妻が色々と用事を言いつけたり、小言を言われたり、うっとうしくてたまらんというのだ。数年前に結婚したときは周囲のアドバイスも聞かず結婚に夢中になったいたのにだ。この人には84歳の車椅子のお父さんが一緒にフィリピンで暮らしている。お父さんが2年ほど前に脳溢血で倒れたとき、一人っ子の彼は途方にくれたが、フィリピン人の妻がフィリピンに引き取ったらという思いがけない提案に、思い切って連れてきた。その後、お父さんの回復は目を見張るようで現在は車椅子も不要になり、元気に暮らしているそうだ。さらにお父さんの年金だけで十分家族一同の生活が賄えるという、願ってもない状況だ。もし彼が独り身だったらどうなっただろうか。日本に帰ってお父さんの面倒を見るという介護の生活が始まるのか。そしてもし自分自身も病気にでもなったら、一体どうなるのだろう。悠々とフィリピンで暮らしていられるのも妻とその家族のおかげであるわけで、その妻の要求をうっとうしいなどと言っては罰が当たるというものだ。 家族があれば介護の問題や、子供の世話などという問題は起こらない。家族のメンバーが、それぞれが役割も持って家族を維持すればすべては解決される。少子化大臣や介護保険など、ややこしい仕組みや議論は必要ない。この家族という仕組みこそが人類100万年の歴史が獲得した解決策なのだ。この家族のメカニズムが日本では核家族などと言って崩壊し始めているから、認認介護のうえの夫殺しなどというとんでもない事態が起こるのだ。 先日、NHKで非常に興味ある番組をやっていた。男と女の問題で、恋愛は子孫を残すためのメカニズムだというのである。恋愛をするとき、男は視覚脳が活性化し、女は記憶脳が活性化する。要は男は目で、女は頭で恋をする。男が女を見るとき、ほとんど腰と尻に注目しているそうだ。要は腰がくびれて尻が出ているセクシーな体型を好むのだそうだ。それはその女が子供を産むのに適しているかどうか見極めているのであって、男は自分の子孫を残す本能を働かせているのだ。一方、女はこの男が本当に約束を守り、自分に子供が出来て育児に専念しているときにしっかり養ってくれるかどうか、記憶脳を駆使して見極めているのだという。だから女は昔の約束やベッドで、男がついしてしまった約束を覚えていてその実行をせまったりするのだ。これも子孫を残すという女の本能なのだ(見てくれの悪い男性よ、あきらめることなかれ、誠意さえ尽くせば女は惚れてくれるのだ)。 それで二人は恋に落ちるのだが、他の動物のようにセックスをしたらおしまいでは困る。人間は二足歩行のために、母親の産道が狭く、赤ちゃんを未熟児のままで出産する。だから赤ちゃんは2~3年は母親の手厚い保護の下に育てられなければならない。そして母子は父親に食料の面倒を見てもらわなければならない。父親としてはセックスをして子供を作ってしまえば用はないはずであるが、それでは母子が生きて行けないので、無条件で相手に尽くすという恋愛のメカニズムが必要となるのだ。だから、この恋愛は赤ちゃんの手があまりかからなくなったら一段落するようになっている。そもそも恋愛は数年で冷めてしまうものなのだ。 NHKの番組はそこまでだったが、その先に結婚というメカニズムがあり、さらに家族というメカニズムがある。恋愛、結婚、そして家族、それが人類をして世界を制圧することを可能として、究極の仕組みだったのではないかと思う。子孫を残すという本能の恋愛から始まって、やがて恋に冷める男性を結婚で束縛して、家族を形成する仕組みだ。 老人問題が家族で解決できるのはいいが、なぜ役に立たなくなった老人がいるのか、その老人は家族に対して何の役割を持っているのか。動物界では狩を出来なくなったものは死を迎えるのが決まりなのではないか。動物界では閉経を終えたメスは速やかに死を迎えるそうだ。であれば生殖能力を失ったあるいは食料を獲得することが出来なくなったオスはそれで生涯を終えることになる。しかし、人類においては閉経を迎えた女性はさらに数十年間生き続ける。子供を作ることができないおばあさんが娘の子供、要は孫の面倒を見ることにより、より多くの子孫を残すことができる。すなわちおばあちゃんのいる家族の存在こそが人類繁栄の鍵だったのだそうだ、 神様はオスとメスを作り、セックスという快楽を与え、それによって意図せずとも子孫が残されるという、奇想天外な仕組みを生物に与えた。そこまではどんな動物でも同じだ。しかし、人類は百万年の歴史の中で恋愛、結婚、家族という仕組みを獲得することにより、ここまで繁栄できたのだ。介護問題や少子化問題でゆれる日本、この家族という仕組みを捨てようとしている日本はやがて滅びの道を歩むのではないかとさえ思う。フィリピンでは家族の絆は相変わらず強烈だ。巷は子供で溢れている。そんなフィリピンに人類としての力強さを感じる。期せずして本年のマニラ生活電話帳は家族の象徴でもある子供を抱く女性の姿が表紙となっていた。

恋愛・結婚・家族のメカニズム2009年3月4日


 世界的な不況が騒がれる中で、フィリピンの中心であるマカティ市、特にパサイ通り沿いは大型マンションの建設ラッシュで沸いている。もともとパサイ通り沿いはマカティの中でも古いビルが並ぶちょっと取り残された感のある通りでもあった。この通りは和食レストランやカラオケが並んでおり、日本人には大変なじみのある通りだが、1990年以降開発されたグロリエッタやグリーンベルトのモダンな街並みに比べて、いかにも見劣りがする。ところが最近、様相が一変しつつあるのだ。下の写真は名門デベロッパーであるアヤラ・ランドが開発中のザ・レジデンス・グリーンベルトのコンドミニアム群だ。パサイ通りとグリーンベルトの間に建設中で、1、2棟目はすでに完成し、3棟目が建設中だが、すでにすべて売れ切れているという。マカティでも超高級のコンドミニアムなのに建設開始と同時にすべて売れてしまったそうだ。  いわゆるパサイ通りの繁華街はマニラ側(西)はパソンタモ通りから始まる。その角に建設中なのがビーコンだ。ここも3棟のコンドミニアムがまとめて建設される予定で、都会の中のリゾートというふれこみで販売が行なわれている。  パソンタモ通りから通り1本東へ向ったアモーソロ通りのとの角に建設中なのがザ・カラムス。すでに2棟のビルが立ち上がり始めている。同名のザ・カラムスはブエンディア通りとアヤラ通りの角にやはりアヤラ・ランドの開発で大型のコンドミニアム群が建設されている  冒頭のザ・レジデンス・グリーンベルトはパサイ通りとパセオ・デ・ロハス通りの角、もともとボーリング場やレストラン「さいさき」があったアンソン・アーケードのあった場所にあるが、さらに東へ向ってマカティ・アベニューに至ると、かつてアンソン・デパートとジープニーの停車場があったところにラッフルズ・レジデンスの開発が始まっている。ここも第1期工事は完売とという景気の良い話だ。 右下の写真の遠くに見えるのがドーシット・ホテル、かなりの規模の開発であることがうかがえる。   ついでにマカティ中心街の最近の開発事業を紹介する。グリーンベルトはモダンな若者の街としてにぎわっているが、このほどグリーンベルト5がオープンした。中はブランド店が建ち並ぶハイセンスなモールとなっている。  次にインターコンチネンタル・ホテルとルスタン・デパートの間に建設されていたグロリエッタ5がオープンした。まだすべての店はオープンしていないが、先の爆発事故で閉鎖中のグロリエッタのブリムス家具店などが移転する予定だ。  マカティアベニュー沿いのランドマークデパートのとなりにはアンソン電化のデパートが新装開店した。パサイ通りから移ったものでモダンな本格的電化専門デパートだ。

マカティ市パサイ通りの発展2009年2月22日



 マカティのブエンディア通りとパソンタモ通りの角に24時間営業のマクドナルドがある。対面にコールセンターがあるため、24時間いつもにぎわっていて、ピーナッツやタバコを売る屋台も多数出て、下町の喧騒がここにはある。  この店はマカティ市長のビニャンの息子さんが経営しているそうで、ちょっと離れたところにあるマカティ市役所の職員の誕生日の振る舞いや簡単な職員のパーティはすべてここからの仕出しによるそうだ。市役所以外でも幼稚園などの市の経営する施設の仕出しは一手に引き受けて、幼稚園の先生はいつもいつもマクドナルドのハンバーガーを食べる羽目になってうんざりしているそうだ。一旦権力を握るとあらゆる局面でその力を利用して家族や友人に便宜を図るのがフィリピンの通例なのだ。

マクドナルドの大繁盛店2009年2月22日


  つい先ごろ、寒波襲来のニュースを載せたかと思ったら、今度は夏のニュースだ。ここ1週間、毎日暑い日が続いている。ここのところ涼しくて気持ちの良い天気が続いていたので、ますますそう感じるのかもしれない。日中外を5分も歩くと汗が噴出してくる。しばらくご無沙汰だった太陽もさんさんと輝いている。  朝の7時ともなると太陽がピカーッと照り始める。ジープニーの中では扇子で扇ぐ人もちらほら。こんな時、ジープやトライシクルなど短距離の交通機関が多いのに助かる。  フィリピンの学校は3月後半から夏休みに突入する。6月の第1週まで、2ヶ月以上の長期休暇だ。人々は家族あるいは友達と一斉に郊外へアウティングに出かける。やはり海が人気で、マニラ南方のカビテやバタンガスの海岸はアウティング客で一杯になる。日帰りかせいぜい一泊の旅行で、大量の食材や飲み物を持って、現地で料理をして食べるのだが、そのための施設があちらこちらにある。  アウティングの主役は男性。料理の準備をしたり、女性に飲み物を用意したり大忙しだ。そして帰宅だが、ご多聞にもれず渋滞でマニラにいつ到着するかもしれない車で、運転役を除いて皆疲れて居眠りをするのが通例だ。

フィリピンに夏がやってきた2009年2月22日



 2月19日、ロングスティ財団の山田部長及びフィリピン観光省東京支局の横山チーフ一行が来比され、PRAを表敬訪問した。山田部長とはPRA時代に色々コンタクトはあったもののお会いする機会がなかった。そのため、今回の  訪問の情報を得て、PRAで面会することをお願いして了解いただいた。 PRAの入り口で皆さんと挨拶して帰ろうとしたら、山田部長もPRA営業のノエル部長も、そうはいかない、PRAリンガットGMとのミーティングに出席しろ、と無理やり中に連れ込まれてしまった。   ミーティングではリンガットGMがMr.Shigaを連発していた。多分はじめて会う人々に色々質問されて緊張していたのだろう。私の助け舟が必要だったようだ。また、山田部長の方も私の解説が必要な場面もあり、思わずPRAジャパンデスクとして働いていたころを思い出した。 皆で記念撮影。左から3番目が山田部長、その隣がリンガットGM、横山チーフ、そして右端がノエル部長だ。

ロングステイ財団とPRAのミーティング2009年2月20日


 2月19日も当たりが出ず、ついに賞金額は2億5千万という史上最高額に達した「スパーロト6-49」は一口20ペソで1-49から任意に選んだ数字6 つを的中させる、日本のナンバーズに相当する宝くじ。最後に当選者が出たのが2008年12月21日で、それ以来賞金が積み重なって次回抽選の22日には 3億ペソに達する見込みだそうだ。  夢の賞金を当てようと一攫千金を夢見る庶民がロト売り場に押し寄せている。街のあちこちにあるロト売り場には一体何事かと思うばかりの長蛇の列ができている。人々はロトを買うことに夢中だ。たとえ当たらなくても良い(絶対に当たらないのだが)、一時でも夢を見れればよいと、一日の稼ぎのほとんどを費やしてロトにつぎ込むのがフィリーピーノだ。このときばかりは奥さんも文句は言わない。一家全員が夢を肴にして食卓を囲むのだ。  下の写真がロトの申込書。意中の数字を鉛筆でマークして窓口出すと、即座にコンピューターで読み取って数字を記載したチケットが渡される。このデータは即座にホストコンピューに送られてリアルタイムで賞金額がはじかれる。当たり番号は厳正な監視の中で1~49の番号から6つの数字が選ばれ、その模様はテレビで中継される。  19日のテレビではロト売り場の様子が中継されていた。今フィリピンの最もホットな話題はこのロトなのだ。

スーパーロト6-49の過熱2009年2月20日