Yearly Archives: 2015


今日は、色々回らないで、一箇所を集中的に見たいというので、チャイナタウン周辺を攻めるることにした。この方は70歳を越えるが、フィリピンの下町を歩いていると、昔、同じところにいたことがあるという錯覚(デジャブ)を覚えることが頻繁にあるという。なにか、ここで、戦後の日本を感じるのだという。 トンド トンド地区に入ると周囲のスコーターを見て、一分ごとに「すごい、すごい」を繰り返し、ここの住民の壮絶な暮らしぶりに、ため息を漏らしていた。こんなところで火事が起きたらひとたまりもないだろうと話をしていたら、この日、まさにスコーターで火事が発生し、数百人の人が焼きだされてしまった。 キアポ 庶民の信仰を集めるキアポ教会の門前町に並ぶ無数の屋台、衣料品、靴、雑貨、生鮮野菜、それに怪しげな薬草、ここは、マニラで一番物価が安いと有名で、各種野菜も一皿10ペソ前後で売っている庶民の町だ。ここでも、数回デジャブを経験したそうだ。この界隈興味深いものだろう。 キンタマーケット 1980年代に流行った「キンタの大冒険」を地で行くような「キンタマーケット(金玉蹴った)」という名前のウエットマーケットを訪問。魚は丸のまま、肉はカギでつるして売るという、昔ながらの売り方をしている。パックした肉や魚になれた日本人には異様な雰囲気だが、フィリピンでこれが普通の売り方なのだ。 チャイナタウン この日はチャイニーズニューイヤー、オンピン通りは人で埋まっていた。この日の目玉は、獅子と竜の踊りだ。通りの角には爆竹を並べ、威勢の良い音に合わせて獅子と竜が舞う。しかし、問題は、こんなときでも交通規制をしないので、人でいっぱいの本通りに車が入ってくることだ。こんなところに入り込んだら出ようがないと思うのだがなんとも理解しがたい。 さらに川岸の屋台で、格安の中華料理を堪能しようと思ったが、さすが正月、たくさんの人で席がない。そこで、すぐそばの普通の中華料理屋に入ったが、種類も少なくて、値段も高いので、誰も入っていない。そこで、食べていると、見覚えのあるフィリピン人を見かけた。そうしたら、向うから「Mr. Shiga?」と声をかけてきた。20年以上前、私が駐在員として運営をしていた会社のエンジニアーだったが、まだ、その会社に勤めているという。社員数は、1000人を超え、契約社員が600人、合計1600人の社員を抱える大会社に育っているそうだ。 この後、同行した息子さんの希望で、ゴーゴークラブやナイトクラブに足を運んだが、こんなご機嫌なお父さんを見るのは久しぶりとのことだそうで、案内の甲斐があったというものだ。

チャイナタウンの旧正月2015年4月12日


2000年台後半、フィリピンにコンドミニアムブームが到来し2010年代前半から物件の完成・引渡しが始まった。多くは、転売ないし賃貸を目論んだ投資目的だから、今度は転売と賃貸のブームとなり、コンドミニアム市場は転換点を迎えている。 ボニファッシオ・グローバル・シティの裏手に開発中のコンドミニアム群はタギッグ市の低級住宅地と隣りあわせだ(左)。スカイウエイからのマカティのビル群の眺望は、相変わらず国際都市と呼ぶにふさわしい(右) とある退職者から、新築のコンドミニアムを完成後(新古コンドミニアム)、第一次購入者から転売・購入して、代金を支払い、物件の引渡しは終了したものの、一向に所有権移転の作業が進展しない、一体どうなっているのか、という質問が来た。詳しい話を聞いてみると、契約を行い、お金を支払い、鍵を預かったものの、仲介に当たったフィリピン人が、全くの素人で、何をすべきかもわからず、ほったらかしにされてしまっていたらしい。仲介手数料さえもらってしまえば、後の面倒な手続きにはそ知らぬ顔を決め込んだもののようだ。そこで、登記移転に当たっての必要書類、手順について下記の通りアドバイスを行った。 所有権の移転に必要な書類は下記となるが、下記のうち1.~4.は物件購入の際、売主に提示を求め、その存在を確認できない場合は、後日、登記移転に支障をきたすので、購入を控えたほうが無難だ。 1. 売主名義の権利書(CCT、Condominium Certificate of Title) 2. 売主が登記したときのCAR(Certificate Authorizing Registration)税務署の権利移転の許可証) 3. 売主名義の納税申告書(Tax Declaration)、および固定資産税(Real Property Tax)の支払い領収書(Official […]

新古コンドミニアム購入の留意点2015年4月7日



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先ごろ、シンガポールの建国の父といわれるリー・クァンユー元首相が死去した。享年91歳だった。私が、就職した年、初めての海外赴任がシンガポールだったので、懐かしい思いがした。新入社員にとってはじめての海外赴任、そしてさらに初めての海外渡航は胸躍るものがあった。その時、問題だったのが、英会話だ。高校時代は英語を点数稼ぎにするくらい得意だったのだが、いざとなると全く英語をしゃべることはできなかった。早速、英会話帳のようなものを手に入れて赴任前、毎日、首っ引きで眺めたが、何の効果もなかった。そして、いよいよ、某年、1月1日、先輩とシンガポール行きの飛行機に乗ったが、飛行機の中で、となりに座ったカンボジア人が英語でしつこく話しかけてくる。ろくすっぽ会話などできないので、うっとうしくて、「私は英語を話せません」と英語で辛うじて言ったら、「これからシンガポールに行くのに英語をしゃべれないでどうするのか」と、叱られてしまった。 シンガポールに到着してまもなく、 ホテルで電話を使いたくて、先輩に「電話を使いたい」をどのように言ったらいいかと聞いたら。「Can I use telephone」だと、教えてくれた。なんだ、こんなことかと思って使ってみたら、確かに通じた。読み書きにはある程度自信があったのだが、思ったことを即座に英語にすることができない。そこで、思いついたのが、毎晩のキャバレー通いだ。仕事が終わったら、夕食後、毎晩、夜が更けるまで、キャバレーで時間を過ごした。たしか、1時間、15シンガポールドルで、気に入った英語のうまい女の子を指名するのだが、1000円/時間足らずの出費で、英会話教師を雇うより安かったと記憶している。気楽な時間に気楽な場所で、ただ、ひたすら馬鹿話をするだけだが、相手もそれでお金がもらえるのだから、快く付き合ってくれた。まさに一石二鳥だ。そして、半年、なんとか思うことを英語で表現できるようになった。それ以来、私は、英会話は学ぶのではなく、慣れるもの、実践あるのみ、と説いている。        部屋においたゴミ箱にトウモロコシとバナナの食べかすを捨てたら、ほどなく小さなアリが列を成していた。彼らの情報伝達能力には驚くべきものがある そのころは、まさにシンガポールの勃興期で、私は、シンガポールに石油精製プラントを建設する一役を担っていたのだが、50歳過ぎのリークァンンユー首相が活躍しており、私にとっても会社人生の出発点でもあった。シンガポールは、多民族国家で、共通語は英語、そしてもともとの地元の言葉がマレー語、それから国民の大多数を占める中国語だ。しかし、この中国語が、出身地域により北京語、広東語、福建語、海南語などと多数の言語が使われる。さらにポルトガル語を話す人も若干いた。だから、シンガポールでは少なくとも、五ヶ国語を話さないとスムーズな会話ができないといわれていた。人が顔を合わすと、お互いの共通語を探し出し、もっとも話がしやすい言葉で会話をはじめる。3人寄れば3つの言葉が飛び交うと言われ、場合によっては、中国人同士がマレー語で会話することもしばしば起こる。 その時、あるシンガポール人に「ものを考えるときはどの言葉で考えるのか」と質問をした。そうしたら、しばらく考えて、「英語で話をしているときは英語、中国語で話をしているときは、中国語だ」と答えた。今になって考えてみると、それは間違いだと思う。人がものを考え、思い、あるいは感じるときは、言葉ではなくて、五感および感情などで構成される思考回路というものが別にあるのだと思う。その証拠に夢に出てくるのは映像や感情が主体で、言葉は出てくることは少ない。自分自身、英語で話しているときは、頭の中は英語で充満されている。しかし、思考そのものは、使用している言語に関係ない世界(脳)で行われ、単に、その思考を英語で表現するか、あるいは日本語で表現するかの違いだけなのだと思う。 黒豚の家族たちの行動もなかなか統率が取れており、そこにはお互いのコミュニケーションがあるように思える この五感などで構成された思考を言葉に表現して声に出すことが会話であり、さらに文字で書き表すことが文章だ。人間がいつから話をするようになったかは、わからないが、数百万年の歴史があるのだろう。一方、文字の文化は数千年に過ぎない。人類には数千の言語があるが、それらはすべて後天的なもので、生まれてから数年のうちに身につけ、種族を区別する根源となる。一方、文字は、主だったもでは、ローマ字、漢字、アラビックなど数えるほどしかないが、その習得には、十数年の歳月を要する。 五感においては、動物も人間も共通で、場合によっては動物のほうが優れている。しかし、言語を獲得した人類は思考を言葉により表現できるようになった。そして、さらに文字を使い文章にして情報交換するようになり、動物とは徹底的な差別化を行い地球を制覇した。一方、思考をつかさどる五感というものは、すべて動物が持っているものだから、数億年の歴史があるといえるだろう。 すでに高度な英会話能力を獲得しているKIANだが、文字を読んだり、書いたりすることは、まさにビギナーで、その差は驚くべきものがある。最近では、本人が、タガログ語もビコラノ語もわかると豪語しているが、文章に関しては、あきれるくらいにレベルが低い。このことが、まさに数百万年の言語の歴史と、数千年の文字の歴史の差だと思う。しかし、数億年の歴史を持っている五感は、赤ちゃんが生まれたときから高度に備わっているもので、場合によっては大人よりも優れていることが知られている。動物もしかりで、五感の能力は人をしのぐものがあり、赤ちゃんや動物の能力を馬鹿にしてはいけない。 鳥は、かなり勝手な行動をとって、さほどのコミュニケーションがあるようには思えない […]

動物は会話をするのか(思考、言葉、そして文字)2015年4月7日


当たり前のところには、自分たちで行くから、自分たちだけでは行けないようなところに案内して欲しいというちょっと変わった案内を頼まれた。すなわち、フィリピン人でも憚れるようなスコーター(スラム)、下町などにいたく興味があるというご夫婦だ。 そこで、ジェーンの兄、アランに案内を依頼して、彼の知り合いが住んでいるというパサイ市のマリバイ、トラモ地区のスコーターエリアに向かった。フィリピン人にとっても、つてなしでスコーターに入るのは危険きわまりない行為なのだ。 普 通の通りから一歩はいると、川沿いにスコーターは広がっていた。海岸や河岸は防災の関係で、一定の範囲は国有地となっている。そこを違法に占拠(スクワッ ト)しているのがスコーターだ。国有地は誰のものでもないから、危険な思いをしてあるいは非情に追い出しに躍起となる役人はいない。 スコーターだからと言って、皆が皆、悪い人ばかりとは思えないが、行くところがなくなってたどり着いた人も多いから、そこの住人以外にとっては、危険人物が多いのだ。特に、日本人がつてもなくて入り込んで行ったら、そのまま出てくるのは至難の技だろう。 中に入ってみると外見とは裏腹に部屋の中は意外とこぎれいにしている。また、洗濯物がやたらと干してあり、フィリピン人の清潔好きは、ここでも感じられる。同行した、奥さんは、慣れればここでも暮らして行けそうと感想を漏らしていた。皆、なつっこそうに、ものめずらしげに、こちらを眺めている。なかなかかわいらしい少女もいて、ジャパ行きさんの故郷を見る思いだった。 ジャパ行きさんと親しくなって、結婚の申し入れに実家を訪ねると、そこはスコーターでショックを覚え、別のところに二人の家を構えると、家族一同が移り住んできてしまった、などという話が現実味を帯びてくる。 消防車などは、中に入れるはずもないので、一旦、火事が発生したら、自然に鎮火するまで手の施しようがないと思う。特に、この辺は、上へ上へと積み木のように部屋が伸びているので、上階の人は逃げようがないだろう。どういうわけか、ここのところスコーターの火事が目立つ。 ちなみに、案内をしてくれたアランの知り合いは、本当の話かどうか知らないが、ヒットマン(殺し屋)で、警察でも一目を置いている悪だという。しかし、我々の足元を気にしたり、気のよさそうなおじさんだった。 バクララン スコーターはバクラランに近いので、その後、バクラランの商店街に向かった。ここは、南のカビテ県の玄関口で、人々でにぎわう。ここにあるのが南のあめや横丁の商店街だ。無数の一坪ショップが軒を並べ、衣料品、靴、バッグなどを売っている。入り口には、北のキアポ教会の向こうを張って多くの信者を集めるバクララン教会があり、奥手はLRT(高架鉄道)の終点だ。 トンド 次の向かったのが、東洋一といわれるスラム街のトンドだ。ここも無数のバラックが立ち並び、一種異様な雰囲気をかもし出している。もともとここは、港の荷物、あるいはマニラ首都圏のゴミ捨て場、スモーキーマウンテンがあったところで、そのゴミを糧に生きている人々がスラムを形成しているのだ。 キアポ […]

スコーター潜入 2015年4月7日



マカティ市中心街(EDSA通り、ブエンジア通り、パサイロード、パソンタモ通りに囲まれたエリア)は、四つの地区に分けることができる。グロリエッタやグリーンベルトなど、国際的な商業施設が立ち並ぶコマーシャルエリア、高級住宅街のウルダネッタビレッジ、事務所とコンドミニアムが立ち並ぶサルセ・ドビレッジとレガス・ピビレッジの四つだ。これらの地域を区分しているのが、マカティアベニュー、パセオデロハス、そしてアヤラアベニューの三本の大通りだ。そして、その中心にアヤラ・トライアングルの緑地公園がある。これらの位置関係が頭に入っていれば、マカティで迷うことはない。 サルセ・ドビレッジのど真ん中にあるのが、最近、KIANがお気に入りのサルセド緑地公園だ。公園の少ないマニラにおいては貴重な存在で、まさに都会のオアシスだ。毎週、火曜と木曜日、公文での数字のお勉強の後、この公園で遊ぶのがKIANの日課となっている。公文に行くのは、お勉強というよりは、ここで遊べるのが楽しくて通っている気配が多分にあるが、一石2鳥、大いに結構なことだ。ちなみにKIANが通う公文は、公園の目の前のツー・サルセドという高級コンドミニアムの2階にある。           公園の周囲は、高層のコンドミニアムが立ち並び、まさに、ビルの谷間のオアシスで、隣の駐車場では、毎週、土曜日、蚤市が開かれ、有機食品などユニークな商品を売っている。サルセド・ビレッジには、モールなどの商業施設が全くないので、この市は周囲の富裕な外国人でにぎわっている。 ここで、遊ぶ子供達は、フィリピン随一の高級コンドミニアム街の住人の子弟だから、ほとんどが外国人で、欧米、韓国、日本、アラブ人などなど、まさに国際色豊かだ。通用する言葉はもちろん英語。KIANはしゃべり始めたころから英語を主体に話すようにしつけられているから、違和感無し、躊躇なく、周囲となじんでいる。ちなみに公文に通う子供達もほとんどが外国人の子弟で、KIANは着々と国際人として育っている。 KIANの付き添いはビアンカの役割だが、子供一人に、ヤヤが付き添い見守っている。こんなことができるのもフィリピンならだろう。ちなみに、母親が付き添っているのは日本人くらいのものだ。 この公園を知ったのは、3年ほど前に、公園の正面にあるワン・サルセドという高級コンドミニアムの改装のお手伝いをした時だ。完成間近いコンドミニアムにKIANを連れて行った時、KIANはこの公園を見つけて、目の色を変えた。KIANが2歳を間近に控えた時で、そのあどけない顔が今でも目に焼きついている。 それが、公文の通い始めて、懐かしい公園に気がついたKIANは、ここで遊ぶといってきかなかった。その時は、公園は工事中で、地面にスポンジ状のゴムを敷き詰め、転んでも怪我をしないようになった。 KIANにとって、ここで遊べる2時間はあっという間に過ぎてしまう。現在、KIANのお気に入りのNO.2で、ちなみに、第一位はKidzooona(キズナ)だ。しかし、そこは、一回400ペソもかかるが、ここなら只なので、私にとっては大いにありがたい。

サルセド・パークはKIANのお気に入り 2015年2月14日


マニラ湾の沿いのロハスブルバード通りを、空港方面(南)に走り、モール・オブ・エイシアを過ぎた辺りの埋立地の開発が急ピッチで進んでいる(行政地区としてはパラニャケ市に属する)。エンターテイメント・シティと称し、カジノを中心としたリゾート施設、経済特区で、最終的には、約一兆ペソの投資が行われるという。空港からのスカイウエイの建設も急ピッチで進められ、モノレールの建設計画もある。いずれ、ラスベガスあるいはマカオに次ぐ一大カジノ地帯が出現し、中国、香港、シンガポールなどのカジノ好きの中国人など、東南アジアの観光客でにぎわうことになるだろう。 その地域に、SOLAIREに次いで第2弾として開業したのが、CITY OF DREAMS MANILAだ。金色に輝く巨大なビルにカジノと三つのホテル、広大な駐車場は、まさに未来都市だ。フィリピンは、政府系のPAGCOR(フィリピン・アミューズメント・アンド・ゲーミング公社)経営のカジノが各地にあり、隠れたカジノ天国でもあった。ちなみに、マニラには、リゾートワールド(ニューポートシティ、パサイ)、ヘリテージホテル(EDSA、パサイ)、マニラ・パビリオン・ホテル(エルミタ、マニラ)、ハイアット・マニラ・ホテル(マラテ、マニラ)などの本格的カジノがある。 マニラ新聞でグランドオープン(2月2日)の記事を見て、早速、見物に行った。マカパガル通りを南に下ると、やがでも金色の外側に色とりどりの柱を配したビルとCITY OF DREAMS の大きな文字が目に入るので、その手前を左に折れると、駐車場への入り口に通じる。まずは、その広大な駐車場にびっくりするが、開業したばかりだというのに、駐車場の一階は、車で一杯だった。 まさに未来都市を髣髴させる奇抜な外観のビル群に圧倒される。 広大な駐車場は、通路もゆったりとして、そのへんのモールの駐車場とは一線を画す。      カジノは一階と2階で、上階はホテルとなっているらしい。そこには無数のスロットマシンやテーブルが配置され、ディーラーが手持ち無沙汰に客を待っている。ちなみに21歳未満は入場禁止だ。カジノの中の全容をムービーで撮ろうとしたら、係りの人があわてて駆け寄ってきて、制止されてしまった。 カジノ場の周辺は、レストランとショッピングモールだが、まだ、工事中のところが多い。先日、ここで撮影されたデカプリオ(右端)の映画の写真がいたるところに飾ってあった。 CIMG9106 […]

CITY OF DREAMSがグランドオープン2015年2月14日



2週間の農場滞在を終えて、いよいよマニラに帰還する日がやってきた。モンテーロはすでにマニラに帰ってしまっているので、一般の乗合自動車(UV Express)でレガスピ空港に向かった。年末年始の大盤振る舞いで懐がさびしくなったジェーンは、我々だけになると、にわかにけち臭い。 農場訪問の初日と二日目はマヨンが顔を出したものの、その後は、ずっと雨で、最終日になって、やっとマヨンが顔を現してくれた。これはチャンスと、飛行機の中で見たいから、席は右側とジェーンに念を押した。しかし、ボーディングパスをみると左側、ジェーンは、すでに右の窓側は一杯で左しか取れなかったと言い訳を言う。       ところが、飛び立ってみると、通常、旋回して、マヨンの南(マヨンは飛行機の右側)を通過するのが、この日はパイロットの気まぐれか、マヨンをぐるっと回って、マヨンの北側(マヨンは飛行機の左側)を通過したのだ。しかも、快晴でマヨンの絶景が目の前だ。こんなことは過去、一回しかないまれな経験だ。 残念ながら、窓際に陣取ったKIANのおかげで、眼下の農場を見つけることはできなかった、そのあたりの写真を必死に収めた。        KIANもこの絶景に感激かと思いきや、さほどではなく、飛行機が飛び立つとまもなく、お腹がすいたと、カップラーメンを注文していた。 飛行は順調で、40分も経つと、マニラ空港に到着。ターミナル3の目の前は、SKY WAYからターミナルに通じる立体高速道路の建設がたけなわだった。マニラの道路事情も徐々に良くなっていくようだ。  

マニラ帰還(マヨンの絶景を満喫) 2015年2月7日


今年は、帰りのチケットの関係で、1月6日(火)まで農場に滞在した。1月5日(月)ともなると、学校が始まって、周囲は、にわかに日常になる。 1月5日(月)は学校が始まっていたのだが、いとこのヤナはKIANのお相手で、学校を休まされた。午後になると、学校を終えて、他の子供達も農場にやってきて、KIANのお相手をしている。 いよいよ農場滞在の最終日だが、今度は、私の誕生日(1月11日)の早めのお祝いということで、再び、食事会。素敵な中華料理屋ができたというふれこみだったが、マカティのルートンマカオとは比較にならなかった。それでも皆、大いに盛り上がっていた。 話は違うが、農場からタバコ市に向かう国道の拡幅工事が行われていた。2車線4を車線に拡幅するものだが、ところどころお店や樹木を残しながら、道路工事だけは、かなり進んでいる。ちなみに樹木は、市の許可が下りなければ伐採することはできない。また、土地の収用を担当する部署も工事部門とは連携は取れていないようで、ちぐはぐな工事がすすんでいた。いずれは、辻褄が合うのだろうが、いかにもお役所仕事だと感心する。 農場も、なんとなく日常が戻ったような雰囲気だ。散歩する鶏の親子も田舎ならではの光景だ。カラバオも毎日雨に現れて機嫌がよさそうだ。 黒豚の脱走事件により、フェンスを修復するための資材が配達された。フェンスの根元を玉石で固めて、穴が掘れないようしようという算段だ。 農場のゲートハウスは改修されて、立派な居室となっているが、当面、使用する気配がない。左が内側で、右の写真は農場の外側の写真だ。この界隈ではオレンジゲートの家として有名だ。  

正月開け、農場の日常 2014年2月7日



三が日も開けた4日(日)、今をときめくオカマのタレント、バイス・ガンダが、なんと、こともあろうに大統領とトークショーを行ったのだ。数日前から、テレビで予告していたが、見逃すまいと、皆に檄を飛ばしておいた。参考ブログ「バイス・ガンダの物語 2014年2月24日」参照。 トークの内容は、大統領の私生活に関する他愛もない質問で、大統領は、笑みを浮かべながら質問に答えていた。たとえば、シャンプーは何を使っていますかなど、毛の薄い大統領に対して、予想外で他愛のない質問をぶつけていた。 アキノ大統領は私立の雄、アテネオ大学の出身だが、経済学を前大統領のアロヨに教わったとか、知られざるエピソードも紹介された。 それにしても一介のコメディアンが、大統領を相手に一時間番組をこなすなど、日本では考えられないことだ。一方、我が家の聴衆は、終始、笑顔で、バイスガンダの話術に聞きほれていた。私と言えば、写真を撮るだけで、彼らに何を話しているのかと聞いても、ちょっと訳しようがない、ジョークの連発だったらしい。

バイス・ガンダが大統領とトークショー 2015年2月7日


アヤ・メデルと言えば、かつて一世を風靡したセクシー女優だ。宿敵、ロザナ・ロシェスと同様、日本で働いていたこともあり、日本人との間にイシという女の子をもうけ、レストランの名前は,自分と子供の名を取って、Ishi・Aya Garden Bistro と名づけている。 彼女が、農場のあるタバコ市に和食レストランを開業しているというので、早速、皆を引き連れて、久々の日本食を食べに行った。         レストランはガーデン・ビストロというだけあって、かなり広めの庭にテーブルがたくさん並んでいた。和食と銘を打っているだけには日本風の絵や飾りがたくさんあったが、そのセンスと言えば、いかにもフィリピン風だ。 有名人の開いた店というもの珍しさもあって、店内はほぼ満員だった(ただし外のガーデンにまで客がいるほどではなかった。こっちは、きっと夜用なのだろう)。ウエイトレスの衣装はこれまた、いかにもフィリピン風着物だ。       日本食に飢えていた息子と私は、早速、日本食を注文しようとした。しかし、マグロもエビもなくて、あるのはサーモンの刺身とカルフォルニア巻きだけ。ちょっと、 がっかりしたが、こんな田舎で本格的な日本料理を注文する人もいないだろう。周りが注文しているのはクリスピーパタなど、まさにフィリピン料理の定番ばかりだった。        アヤ・メデルとジェーンは友人だという。同郷のよしみかと思ったら、Face Bookで知り合ったのだという。アヤは調理師の免許を取って、ここでチーフシェフをしている。単に、オーナーとしてふんぞり返っているのではなくて、厨房で忙しそうに働いていた。こんな根性なら、ここもはやるかもしれない。

往年のセクシー女優 アヤ・メデルの日本レストランで食事2015年2月6日