動物は会話をするのか(思考、言葉、そして文字)2015年4月7日 1


先ごろ、シンガポールの建国の父といわれるリー・クァンユー元首相が死去した。享年91歳だった。私が、就職した年、初めての海外赴任がシンガポールだったので、懐かしい思いがした。新入社員にとってはじめての海外赴任、そしてさらに初めての海外渡航は胸躍るものがあった。その時、問題だったのが、英会話だ。高校時代は英語を点数稼ぎにするくらい得意だったのだが、いざとなると全く英語をしゃべることはできなかった。早速、英会話帳のようなものを手に入れて赴任前、毎日、首っ引きで眺めたが、何の効果もなかった。そして、いよいよ、某年、1月1日、先輩とシンガポール行きの飛行機に乗ったが、飛行機の中で、となりに座ったカンボジア人が英語でしつこく話しかけてくる。ろくすっぽ会話などできないので、うっとうしくて、「私は英語を話せません」と英語で辛うじて言ったら、「これからシンガポールに行くのに英語をしゃべれないでどうするのか」と、叱られてしまった。

シンガポールに到着してまもなく、 ホテルで電話を使いたくて、先輩に「電話を使いたい」をどのように言ったらいいかと聞いたら。「Can I use telephone」だと、教えてくれた。なんだ、こんなことかと思って使ってみたら、確かに通じた。読み書きにはある程度自信があったのだが、思ったことを即座に英語にすることができない。そこで、思いついたのが、毎晩のキャバレー通いだ。仕事が終わったら、夕食後、毎晩、夜が更けるまで、キャバレーで時間を過ごした。たしか、1時間、15シンガポールドルで、気に入った英語のうまい女の子を指名するのだが、1000円/時間足らずの出費で、英会話教師を雇うより安かったと記憶している。気楽な時間に気楽な場所で、ただ、ひたすら馬鹿話をするだけだが、相手もそれでお金がもらえるのだから、快く付き合ってくれた。まさに一石二鳥だ。そして、半年、なんとか思うことを英語で表現できるようになった。それ以来、私は、英会話は学ぶのではなく、慣れるもの、実践あるのみ、と説いている。

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部屋においたゴミ箱にトウモロコシとバナナの食べかすを捨てたら、ほどなく小さなアリが列を成していた。彼らの情報伝達能力には驚くべきものがある

そのころは、まさにシンガポールの勃興期で、私は、シンガポールに石油精製プラントを建設する一役を担っていたのだが、50歳過ぎのリークァンンユー首相が活躍しており、私にとっても会社人生の出発点でもあった。シンガポールは、多民族国家で、共通語は英語、そしてもともとの地元の言葉がマレー語、それから国民の大多数を占める中国語だ。しかし、この中国語が、出身地域により北京語、広東語、福建語、海南語などと多数の言語が使われる。さらにポルトガル語を話す人も若干いた。だから、シンガポールでは少なくとも、五ヶ国語を話さないとスムーズな会話ができないといわれていた。人が顔を合わすと、お互いの共通語を探し出し、もっとも話がしやすい言葉で会話をはじめる。3人寄れば3つの言葉が飛び交うと言われ、場合によっては、中国人同士がマレー語で会話することもしばしば起こる。

その時、あるシンガポール人に「ものを考えるときはどの言葉で考えるのか」と質問をした。そうしたら、しばらく考えて、「英語で話をしているときは英語、中国語で話をしているときは、中国語だ」と答えた。今になって考えてみると、それは間違いだと思う。人がものを考え、思い、あるいは感じるときは、言葉ではなくて、五感および感情などで構成される思考回路というものが別にあるのだと思う。その証拠に夢に出てくるのは映像や感情が主体で、言葉は出てくることは少ない。自分自身、英語で話しているときは、頭の中は英語で充満されている。しかし、思考そのものは、使用している言語に関係ない世界(脳)で行われ、単に、その思考を英語で表現するか、あるいは日本語で表現するかの違いだけなのだと思う。

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黒豚の家族たちの行動もなかなか統率が取れており、そこにはお互いのコミュニケーションがあるように思える

この五感などで構成された思考を言葉に表現して声に出すことが会話であり、さらに文字で書き表すことが文章だ。人間がいつから話をするようになったかは、わからないが、数百万年の歴史があるのだろう。一方、文字の文化は数千年に過ぎない。人類には数千の言語があるが、それらはすべて後天的なもので、生まれてから数年のうちに身につけ、種族を区別する根源となる。一方、文字は、主だったもでは、ローマ字、漢字、アラビックなど数えるほどしかないが、その習得には、十数年の歳月を要する。

五感においては、動物も人間も共通で、場合によっては動物のほうが優れている。しかし、言語を獲得した人類は思考を言葉により表現できるようになった。そして、さらに文字を使い文章にして情報交換するようになり、動物とは徹底的な差別化を行い地球を制覇した。一方、思考をつかさどる五感というものは、すべて動物が持っているものだから、数億年の歴史があるといえるだろう。

すでに高度な英会話能力を獲得しているKIANだが、文字を読んだり、書いたりすることは、まさにビギナーで、その差は驚くべきものがある。最近では、本人が、タガログ語もビコラノ語もわかると豪語しているが、文章に関しては、あきれるくらいにレベルが低い。このことが、まさに数百万年の言語の歴史と、数千年の文字の歴史の差だと思う。しかし、数億年の歴史を持っている五感は、赤ちゃんが生まれたときから高度に備わっているもので、場合によっては大人よりも優れていることが知られている。動物もしかりで、五感の能力は人をしのぐものがあり、赤ちゃんや動物の能力を馬鹿にしてはいけない。

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鳥は、かなり勝手な行動をとって、さほどのコミュニケーションがあるようには思えない

動物は、いつまでたっても思考を言葉にして伝えることができないが、それは、人間がわからないだけであって、その実、彼ら同士では豊かなコミュニケーションを図り、高度な社会生活を営んでいるかもしれない。以前、「CAT and DOG」とかいう映画があったが、人は意外にも犬や猫よりも低いレベルの文化を持っており、これらの動物の庇護下にあると描かれているという物語だ。少なくとも、動物たちには先天的にそれぞれの種により本能といわれる社会生活のルールがあり、ある程度のコミュニケーションを図っているのは紛れもない事実だ。ありや蜂の高度で複雑な社会生活をとってみても、お互いの意思、役割が会話なしで成り立っているとは思えない。ほかの動物も、それぞれの役割や掟は厳然としたものがあり、本能だけでは説明できないものがある。

赤ちゃんは、数年のうちに生まれ育った土地の言葉を習得し、大人たちと会話を行い、自分の感情や思考を伝える能力を身につける。そして、言語の獲得が相乗効果を生み、高度な思考能力を身につけていく。しかし、言語と思考との間には一線があって、環境が整っていれば、複数の言語で、その思考を表現することも可能になる。その能力の獲得においては、明らかに赤ちゃんのほうが大人よりも高く、若ければ若いほど容易に他言語の習得が容易だ。

さらに、会話能力とそれを文字情報に変換する能力は、KIANの例からも全く別物だといえる。非常に話し上手の人が、必ずしも、それを文章に表現することができないという事実もよくあることだ。

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カタツムリのような虫に近い存在でも、しっかりコミュニケーションを図っている気配がある

フィリピンでは、学校の勉強は基本的に英語で行われる。しかし、一方、通常の会話はタガログ語あるいはその地方の方言だ。だから、英語の読み書きの能力は、ほとんどのフィリピン人が獲得しているにも関わらず、英語を話す機会の少ない地方では、英語を話すことができない人が多い。英語の知識だけでは英会話はできないということを物語っている。

また、文章を読んだり、話を聞いても、その内容が理解できない場合がある。要は言葉や文章が、言っていることはわかっても、それが何を意味するのか理解できないのだ。たとえば、専門書を読んでも、その道の基本知識がなければ、理解できない。すなわち、概念/思考というものは、言葉/文字とは別もので、脳の別の部分が機能しているのだ。その証拠に、言葉や文字で習ってもなかなか身に使いないが、実体験をすると忘れない。それは五感で直接覚えているからだ。さらに、記憶術のほとんどは、言葉を図形に関連付けて記憶しておいて、それを図形から言葉を連想して記憶を引き出す。要は、言葉や文字よりも、図形等の五感による記憶の方が、はるかに大量で確実なのだ。

一方、人間は文字/文章をそのまま理解する(概念として脳に取り込む)能力は持っておらず、それを言葉にして読むことにより(音読あるいは黙読)理解しているのだそうだ。このことからも、言葉と文字そして思考が、それぞれ別途の脳の機能であることがわかる。

すなわち、概念/思考、音声/言葉、そして文字/文章というものは、独立した能力あるいは脳の機能であって、それぞれ独自に訓練しなければ身につかない。そして、五感による概念/思考は数億年、音声/言葉が数百万年、そして文字/文章が数千年という歴史で、その歴史が短いほど、人間に本来的に備わっていないので長い時間をかけて後天的に学習することが必要なのだ。

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サルと会話するアティ・キム、いや、サルをちょっとからかっているだけだ。さるは、どういうわけか女の子に敵愾心を燃やす。散歩する鶏の親子の間には、しっかりとコミュニケーションがあるようだ

フィリピンあるいは外国で暮らそうとしたら英会話の習得は必須だ。英会話を学ぼうと英会話学校に行くと、大量の教材を与えられ、学生のときにやったように文法の勉強や発音そして文章の暗記を強要される。しかし、いつまでたっても一向に英会話能力が身につかない。これは、上記のように、文章の能力を必死に鍛えなおしているだけであって、英会話、すなわち、「自分の考えを言葉にして発する」という、赤ちゃんがやっている訓練をしていないからだ。人間の会話能力は、思考→言葉→文字、という順序であって、決して、文字→言葉→思考、という順序にはならないのだ。文字から思考を獲得するのは、いろいろな知識を身につけるためのものであって、会話の学習ではない。われわれは英語で会話をしたいのであって、英語という言語の専門家になろうとは誰も思っていない。

だから、英会話の学習は、赤ちゃんの真似をして、ひたすら、自分の思うところを口に出して表現する。なんと英語で表現できなかったら、相手の言っていることを真似をすればいい。その時、教材をみたり、辞書を引いて調べたり、悠長なことはやっていては、いつまでたっても会話能力は身につかない。だから、「外国語は、その国の長い髪の先生にベッドの上で習うのが一番」といわれる所以なのだ。


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One thought on “動物は会話をするのか(思考、言葉、そして文字)2015年4月7日

  • yuji haji

    そうなんですよね~
    でも海外支社の方に、気をつけることは知らないうちに女言葉にならないようにしないと誰に教わったか、知れちゃうよ!でした・・・笑