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2011年11月19日、アロヨ元大統領が選挙法違反の罪で病院内で逮捕された。 アロヨは、その数日前から脊髄の病気を理由に海外への脱出を試みていたが、最高裁の出国監視の差止め命令に逆らって入管が出国を阻止し、この日の逮捕にいたった。罪状は2007年に行われた上院議員での選挙妨害ということだが、アロヨは在職時代から2006年の大統領選挙そのものの不正、エストラーダ前大統領の恩赦、幾多の賄賂等で在職時代から何度か政権崩壊の危機を迎え、なんとか乗り越えてきた。 アキノ現大統領はアロヨの不正を暴くことを公約に大統領選を戦ったが、アロヨによる妨害で、1年半を経てようやくこの日の逮捕にこぎつけた。特に最高裁の長官および15人の裁判官のうち12人までが、アロヨ政権による任命で、アロヨ側に加担していることが、ことの進展を妨害してきた。  1998年からアロヨは副大統領の座にあったが、2001年、エストラーダ前大統領を不正蓄財の罪で追い落とし(エドサ革命2)自らが政権の座についた。そして2006年の選挙では人気男優のフェルナンド・ポーに僅差で勝利し、9年の長きに及ぶ政権の座を維持した。この選挙についても不正が行われたとの告発がなされ、追訴される可能性も大きい。  エストラーダ前大統領、そしてアロヨ元大統領かつ現役の下院議員の2代続いた大統領の逮捕とあって新聞やテレビは連日、その報道に終始した。しかし、巷の反応は冷静で、来るべくして来た、といった感じで、他の国のようにアロヨを指示する一派と、アキノを支持する一派の戦いなどという構図はフィリピンでは成立しない。選挙で新しい大統領が選ばれて、彼が元大統領を法に則って告訴するというきわめて民主的かつ平和的にことが進められている。  ところで、先ごろ世界経済フォーラムが発表した135カ国の「男女格差報告書」によると、フィリピンは堂々8位にランクされ、東南アジアにおいては断トツだった。ちなみに日本は98位、トップは北欧諸国が占めている。先のアキノ前大統領、アロヨ大統領をはじめ、上院議員でもサンチャゴやレガルダなどの男勝りの議員が活躍している。巷でも銀行の支店長などはほとんど女性だ。フィリピンでは男女格差というのは女性が上位であることに対して使うこともあるくらいだ。  だから、たとえ女性の大統領といえども、不正選挙や汚職など、男性の政権トップと同等あるいはそれ以上にやってのけるらしい。

アロヨ元大統領の逮捕 2011年11月28日


   ロングステイフェアに参加するために半年ぶりに日本の土を踏んだ。期待はしていたのだが、今年は柿の当たり年で、裏庭には食べごろの柿が豊作だった。 この柿を 30個ぐらいフィリピンにお土産に持って帰って来たのだが、周囲のフィリピン人は皆、ありがとうとは言うものの、そのまま冷蔵庫にしまって一向に食べる気配がない。たまたまマニラに来ていたマム・ジェーンのお母さんが大好物といって、ほとんどビコールの田舎に持って帰ってしまったが、フィリピン人特有のお愛想なのかどうか、彼らにとって食べられる代物でないのか、未だに不明だ。りんごやみかん、それにぶどうは中国産のものが大量に出回っているが、柿はほとんどみかけない。それだけ希少価値があると私は勝手に思っているだが。  ロングステイフェアの翌日の日曜日は孫娘(結月、ユズキ、3歳)の七五三だ。午前中、9時か10時といわれていたのだが、フェアが終わって気が抜けたのか、有明のホテルで8時ごろまで寝て、のんびりと横浜の家路についた。11時ごろ誰もいない家についたとたんに、電話がけたたましくなった。息子(三男坊の介哉、カイヤ)が、かんかんになって、一体何をやっているのか、直ちに着替えて近所の富岡八幡に駆けつけろというのだ。七五三などは三々五々、適当に神社にお参りに行けばいいくらいに思っていたが、そうでもないらしい。  しかしながら、私は携帯を持っていないし、息子としてはやきもきして苛立ちが頂点に達していたらしい。あわてて、久しぶりの礼服に着替えて八幡様に行ってみると、式は終わって記念撮影の時間となっていた。しかしなんとか記念撮影に間に合って事なきをえた。 引退して仕事を離れてしまって、日々のんびりしていたら、きっといつもこんな失敗をしでかして、女房や息子にぼけ爺と怒鳴られてばかりいるのだろうと、冷やりとした。この後は恒例の会食だが、嫁(智美さん)のお父さんは忙しくて欠席、近所で和食を楽しんだ。しかし、二人の娘をもうけ、1990年代ものとはいえ高級車のジャガーに乗り、新築の4LDKを手に入れて、好青年振りを発揮している介哉だが、震災のあおりでビジネスが思わしくなく、なかなか厳しいとのことだった。嫁さんは少しやせて和服がはえていた。 夕食は美味しい寿司が食べたいという私の願いで、近所のジャスコの回転寿司に行った。前はいつも待たされたのに、この日は、数組の客しかおらず、回転台に寿司が並べられず、注文しながら食べるというかえって贅沢をさせてもらった。5人半でしめて12000円は高いか安いか、金銭感覚が狂っている私には判断ができない。しかし、破竹の快進撃だった回転寿司も閑古鳥が鳴いているのは、100円寿司の攻勢に圧倒されているためだそうだ。そういえば高校のころ新宿歌舞伎町で10円寿司というのを食べたことがあるが、時代は繰り返すものなのか。  寿司屋には江ノ島在住の次男坊の恵之(ケイシ)が駆けつけてくれた。長男(史誠、シセイ)は結婚しているので、唯一の独身だ。フィリピン人と結婚させて私の農場の跡継ぎでもさせようと画策しているのだが、なかなか思うように行かない。最近は土木工事に没頭しているようで、期せずして土木屋である私の後を継ぐことになりそうだ。2級土木施工管理士にもチャレンジしたそうで、なにか土木屋(あるいは土方)としての貫禄が出てきたような気もする。  一方、介哉の子煩悩ぶりも半端でない様で結月(ユズキ)との戯れ方も手馴れたものだ。この日、私の自宅の3階の倉庫で介哉が探し物をしていた。折りたたみ式の階段であがるために、子供には少々危険だ。それで、介哉がジッジに抱っこしてもらいなさいと結月に話しかけたら、ついに孫娘のOKが出たのだ。前回の訪問では近づくと逃げていた結月だが、ついに肉親としての私の存在を認めてくれたようだ。お土産に毎回バッグを買ってきてやったのが効を奏したのかもしれない。 さて今回のブログの主役であるはずの夕芽(ゆめ)ちゃんは、いつも静かで大人しい、4ヶ月の女の子だ。まだちょっと人格が形成されていないようで、寝てばかりいる。次回、帰るときまでには元気な女の子に成長していることだろう、今度はバッグを二つ買うのを忘れない様にしないとまずい。      

半年振りの日本で二人目の孫に初顔合わせ 2011年11月28日



  マイナー(Miner)あるいはアンダー・エイジ(Under Age)とは18歳未満の未成年者を指すが、最近マイナーをめぐる外国人の逮捕・収監あるいは花街のクラブの閉鎖が相次いでいる。ちなみにフィリピンでは、日本のように20歳ではなくて、18歳をもって成人(Legal Age)とみなされ、それ以下をマイナーあるいはアンダーエイジと呼ぶ。 フィリピンでは12歳でハイスクールに進み、16歳で卒業する。その後大学へ進む子供は30%程度で、残りの70%はハイスクールどまりで、働くことになる。大半は貧しい家庭の子供だから、一家の大切な稼ぎ手となるのだが、18歳未満の未成年者の雇用は花街はもちろん一般のレストランなどでも禁止されている。そのため、ハイスクールを卒業した18歳未満の未成年者が年齢を偽って、働がざるを得ない状況がある。 外国人男性がフィリピンに来て、大いに誘惑されるのがこのマイナーの女の子を相手に買春をしたり、あるいは裸の写真を撮ったりすることだ。些細な金で可能であるので、つい誘惑に負ける。それを斡旋するけしからぬフィリピン人も後をたたないが、時には、その斡旋をしたフィリピン人が警察にちくって外国人を逮捕させ、示談金などをせしめる、という法律を逆手にたった犯罪もまかり通っている。大抵の場合は年齢を偽って働いているのだが、「知らなかった」という言い訳は効かないのが怖いところだ。最近は、たとえ外国にいても、サイバー・セックスなるものも同等にみなされるようなので要注意だ。  つい最近でも、かのミス・ユニバーサル・ナイトクラブが警察の手入れを受けて閉鎖に追い込まれた。容疑はマイナーに売春をさせていたということで、クラブのフロアー・マネージャーなども逮捕・収監されてしまった。しかもマイナーと人身売買(売春を最近は人身売買と称している)という容疑が重なると、保釈がなくて裁判の間も収監されたままとなる。さらに恐ろしいのは、その場に居合わせた客も共犯者として逮捕されてしまうことだ。ナイトクラブに遊びに行って、そこでたまたま、マイナーの女の子が年齢を偽って働いていたとして、そこに客として居合わせただけで逮捕・収監されてしまうとは、なんとも納得できないが、それが現実なのだ。いくら注意したところで、見知らぬところでマイナーの雇用が行われていることだから、どうしようもない。フィリピンも先進国のように遊びにくくなったものだとため息が出る。 フィリピンでは、たとえ殺人事件だとしても告訴する人間がいなければ犯罪としてなりたたない。これはアメリカの法律に則ったもののようだが、犯罪者の家族が、被害者の家族を抱きこんで、殺人事件を闇に葬ってしまうことさえも可能なのだ。しかしながら、マイナーの人身売買となると、検事は、例え被害者の告訴がなくても起訴することが可能だそうだ。件の年齢を偽って働いていたマイナーの子は自ら望んだものだから雇用主や客を告訴するはずがない。しかし、検事は独自の判断で起訴することが可能で、「相手が合意したから行為に及んだ」という言い訳は、やはり用をなさないのだ。 マイナーを雇うことは花街の接客係ばかりではなくて、レストランやメイドとして雇うことさえ禁止されている。通常は問題にならないだろうが、マイナー本人が雇用主から注意され逆恨みをして警察に駆け込んだりしたら、チャイルド・アビューズ(児童虐待)ということで逮捕されてしまう。また、第3者が密告すると雇用主が逮捕され、件のマイナーは職を失う、という状況も起こりうる。だから、人を雇う場合、マイナー本人は家のために稼ぎたいから当たり前に年齢を偽るが、成人であることを念入りに調べてからでないと、とんでもない爆弾を抱えこんでしまうことになる。  そこで疑問に思うのが、フィリピンは貧しい貧しいといいながら、ハイスクールを卒業してから大学へ進学しない70%程度の国民の就労機会を2年間剥奪するということが正しい国の政策なのだろうか、ということだ。16歳ともなれば肉体的には十分大人で、もはや子供ではないくて、大概の肉体労働は可能だ。幼稚園や小学生程度の子供が働かされているということが児童の就労として世界的に問題視されてはいるが、日本でも中学を卒業しても18歳まで働いてはいけないとしたら、大問題となるだろう。私はてっきり、18歳未満の未成年者が花街で接客を行うことを禁止していると勘違いしていたのだが、すべての職種で就労の機会を奪われているということに義憤を覚える。それがめぐりめぐって、外国人を思いがけない罪に陥れていることにもなっているのだ。政治家はマイナーの保護を何か勘違いしているのではないだろうか。逆に雇用の機会を奪い、マイナー本人は年齢を偽って働き、挙句の果てに雇用主を処罰するなど、無用な犯罪を誘発しているのではないだろうか。

マイナー(未成年)にご用心 2011年11月27日


  今年のロングステイフェアは有明のTFT(東京ファッションタウンビル)の西館で11月12日(土)に行われた。ロングステイ財団からマカティサロンとして公認されているパスコとして、昨年と同様、財団の要請で相談コーナーを担当し、約30名の方と面談した。前日は雨模様だったが、この日は快晴で、昨年を上回る9121名の入場者が訪れ盛況のうちに幕を閉じた。 前日は世界各国から駆けつけたロングステイ財団公認のサロンの交流会が開催された。財団の理事らの挨拶、そしてしぶりに一堂に会した各国のサロン運営の代表が挨拶を行い、各国の情報を交換した。 当日の会場は102団体が参加し広い会場を埋め尽くした。会場の案内係も、事前の打ち合わせに余念がない。 セミナー会場は50名収容のプライベートセミナーと500名収容の特別セミナーがあるが、ほとんどのセミナーは予約で一杯ということだった。 会場の入り口に張り出されていたのが、ロングステイヤーが目指す国別のベストテン。2005年にベストテンに顔を出したフィリピンは、ベストテン下位の常連となっているが、ハワイやオーストラリアなどロングステイヤー憧れの国を除いて、永住という観点に立った場合、マレーシア、タイについで第3位と言える。ちなみに第4位はインドネシアだ。フィリピンは危険というイメージが先行してマレーシアとタイの後塵を拝しているが、いずれ順位が逆転するものと期待している。 8時過ぎから顔を見せた出展者は準備に余念がない。となりのフィリピン観光省のブースではセミナーで配布する資料の準備におおわらわだ。 10時から来場客が現れたが、各ブースとも相談者で盛況だ。パスコとしては、先日、卒論のリサーチにフィリピンを訪問した美人女子大生の太田さんにアシスタントをお願いして花を添えた。また、観光省のブースには昨年同様、フィリピン退職庁(PRA)の幹部、広島大学留学中のフィリップさんが応援に駆けつけていた。 10時から17時のフェアは瞬く間に終了し、17時半からは打ち上げ会が行われた。我が友フィリピンさんと太田さんのツーショットで1年ぶりのフェアーは幕を閉じた。

ロングステイフェア2011開催される 2011年11月27日



  先日、退職者の方と一緒に日本大使館で用事を済ませたら、丁度昼時となり、昼食を一緒にとることになった。モール・オブ・エイシアが近いが、駐車やらなんやらで、簡単に昼食をとるには億劫だ。そこで思い出したのが、マカパガル通り、シーサイ・マーケット・レストランの向かい側にある香港サンプラザの一角にある香港シェフだ。 ここも安くてうまくて量が多いの3拍子そろった中華レストランだ。この日は5人で4皿頼んで、飲み物まで入れて1500ペソ程度。しかも注文してから10分足らずで料理がやってくるという超特急だ。はやっているレストランは早いという鉄則どおりだ。 メニューは中国語と英語なのでよくわからない。だから、ルートン・マカオでいつも注文するほうれん草のスープやパタ・ティムを注文した。ルートン・マカオの味になれた私には、少々大味の感じがしたが量が多いのにびっくりした。たくさんの人数で食べるのはうってつけだ。日本大使館に用があるときなど、是非試してみてほしい。きっと満足するだろう。

「香港シェフ」の紹介 2011年11月8日


数年前にSmall But Terrible(小さいけれど空恐ろしい)という言葉がフィリピンで大流行した。いわば流行語大賞だ。例えば、Small But Terribleの例として「Five Feet Eleven」と叫びつつ、自分の背と自分の一物を指し示す。すなわち、背は5フィート(約 150cm)で小粒だが、自分の一物は11インチ(約28cm)の大物だ、というわけだ。下の写真は、何かに集中していると口が半開きになって、舌を覗かせるKIAN。この顔になったら声をかけても聞く耳をもたない。 10月31日はKIANの17ヶ月目の誕生日だ。そのKIANがいよいよSmall but Terrible振りを発揮し始めたのだ。遊びに来ていたいとこのYANA(5歳)もKIANのやんちゃぶりにはとてもついていけない。 昼と夜は私が家にいる限りは、私と一緒に食事を取るのが慣わしだ。だからKIANは私が食べる納豆やのり、そして味噌汁が常食としている。しかし、フィリピンでは食事前でも平気でスナックを与えられるから、いつもお腹がすいているわけでもない。だから、この日、お腹が一杯で食べたくなくなった味噌汁をテーブルにぶちまけたので、普段は何も言わない私が文句を言うと、KIANは大声で泣き出してしまった。 散歩の帰りにKIANが必ず寄り道する事務所だが、瞬く間にKIANに占領されてしまう。KIANは、色々なものがおいてある事務所で遊ぶのが大好きなのだ。事務所のありとあらゆるものを手にとって確認している。またKAINはゆでたとうもろこしが大好きだ。 近所のスーパー、SHOP WISEでクリスマスの人形をつかんではなさないKIAN。 10月31日はAll Saint […]

SMALL BUT TERRIBLE 2011年11月7日



マカティのパサイロードからパソンタモのマカティ・スクエア界隈には20軒ほどのカラオケがひしめき、激戦地となっている。ドーシット・ホテルから順に、ブルー・エンジェル、アップ・ステージ、イルージョン、ラ・ジューラ、SHIAWASE、NEW SACHI、真珠の森、などの大型店や、美人座、原宿、KYO、クリーク・サイド、夢の中へ、スバル1、2、ラジューラ2などのカラオケが立ち並び、シノギを削っている。  一昨年のリーマン・ショックの後、企業の駐在員の激減や緊縮財政の結果、海岸に打ち寄せる波が引くように、これらのカラオケから客足が遠のいた。そこで始まったのが、飲み放題、歌いたい放題で400~500ペソ均一料金というディスカウント作戦だ。そのおかげで、はやっている店もあったが、それなりに台所は苦しかった。  ここのところ、長いことカラオケからは足が遠のいていたが、カラオケ友達ともいえる退職者の誘いで久しぶりにNEW SACHIを覗いてみた。去年行ったときは、客は我々二人だけで、何時間も二人だけでツーマン・ショーをやったこともあるくらいだ。これだけのGROを常時そろえて、オーナーの気苦労は大変なものだろうと、そのたびに同情したものだった。  件の退職者は風邪を引いて喉の調子が悪くて、しばらくの間、私のワンマン・ショーが続いていたのだが、ふと気がつくと、ほとんどの席がお客さんで埋まっているのだ。こんなことは記憶にないくらいのことだ。大きな席に一人二人というのもあって、満員とは言えないものの、かなりに賑わいだ。 カラオケにもかつての賑わいが戻ってきたと、なにか感動すら覚えた。 10時からのショータイムも復活している。元気の良いダンサーが踊りを披露し、オカマがバラエティ・ショーをやっている。ショーが終わるとダンサーが客席を回って、目の前でちょっとセクシーな踊りをしてくれる。以前は握手をするだけだったのだが、どうもチップのおねだりらしい。これもまた、一石2鳥の趣向で、目の前で腰をくねくねさせられると財布を開けざるを得ないのが男の性だ。 ざっと周囲を見回すと、どうも若い人が多い。企業の駐在員なのか、あるいは観光客なのか、定かではないが、1990年代のおじさま駐在員のグループとはちょっと違うニュー・ウエーブだ。彼らも日本脱出組みなのだろうか。先日、パサイ・ロードのカラオケ・ボックスのWAKOとクリーク・サイドのカラオケ、クリーク・サイドのオーナーと一緒する機会があったが、その方も長い厳冬期を乗り越えて、きっと我が世の春を謳歌しているのだろう。その方とは今度は歌比べをしようと約束しているのだ。  話は違うが、最近、マカティ・スクエアのカラオケないしナイトクラブのファラオに警察の手入れがあった。ここはフィリピン式の高級クラブで、マカティでは唯一、要は連れ出しが可能なカラオケなのだ。人身売買の容疑とあったが、起訴することに決まったそうで、しかも起訴の決め手は金魚鉢の存在だそうだ。 金魚蜂とは覗き窓のなかに女性が待機していて、客が選べるようになっている部屋だ。この手の金魚鉢はどこのショークラブにもあって、マニラでは常識だ。ファラオで働く女性達はすべて否認しているそうだが、窓から覗いて女性を選ぶというのはまさに人身売買だというのが当局の見解だ。そうなると例のAsian Entertainment Netwrk Manilaも危ない。マニラも段々遊びにくくなっていくようだ。 

カラオケにも春がやってきた 2011年10月29日


K.Kさんは2004年、私がPRAにいたころに退職ビザをとった。その方が、ご両親を連れて、奥さんの故郷、フィリピンに永住するためにやってきた。当時は、両親の介護があるので、フィリピン移住は当面先のこととおっしゃっていた。しかし、今回の大震災で両親の介護を日本でやることに不安を抱き、一家でフィリピンに移住することを決意したのだ。当時、両親の介護が必要だったら、ますますフィリピンに来るべきだと、私が主張したのを覚えている。ちなみに K.Kさんは東北、山形県在住だ。  ビザ申請の準備として、事前に日本大使館で婚姻証明を取得した。その時、窓口係りのMさんが、申請本人が1913年生まれと知って驚嘆の声を上げていた。数えで99歳、もうすぐ1世紀となるのがお父さんのS.Kさん、そしてお母さんのC.Kさんは89歳だが認知症を患っている。ともに大正生まれだ。 NBIで指紋をとっているところ 初日は、NBI、クリニック、銀行、PRAそして大使館を回ったが、車の乗り降りに20~30分かかるのと相変わらずの渋滞で、やっとのことで回りきった。さらに、ビザ申請と同時に、無税輸入、お母さんの口座開設、ビザ取消の委任状と口座の共同名義への変更、K.Kさんの免許証の書き換えなどを翌日の午後までに終えるために、おおわらわの二日間だった。たったの2日でこの有様だから、高齢のご両親を伴って一家で日本から移動してきたK.Kさんのご苦労は言葉に尽くせないものがあったと思う。  ビザの受け取りは私が代行する予定だが、そのため、事前にPRAを訪問して、ビザの受け取りの手続きをするようにとPRAにリクエストされた(まだ申請もしていないのだが)。窓口のミッシェルは営業部長のノエルに連絡し、さらにノエルがGMに報告して、PRA一同がK.Kさん一家を迎えた。恒例の記念写真をとってもらったが、多分、PRAの高齢者ビザ取得のレコードだと思う。帰り際、フレンドシップ・ツアーの岩崎さんに遭遇したが、高齢の退職者のビザ申請に「すばらしいことですね」とうれしそうに励ましてくれた。 Dusit HotelでK.Kさん夫妻と、ヤヤに抱かれてなぜか泣き叫ぶKIAN 2日目の午前中に免許証の書き換えを終わり、午後は、お母さんのレントゲンの取り直しと銀行で通帳の受け取りだけを残すところととなった。少々リラックスできたので、宿泊先のDusit Thani Hotelで食事をとることになった。当方もKIANを含む全員で参加したが、どうも奥さんの機嫌がよくない。  実は、当初私が、K.K さんのためにNTTホテルを予約したのだが、駐車場がないので、急遽ホテルを変えてしまった。ところがK.Kさんは、かつて日航が運営していたHotel Nikko Manila Garden(今のDusit Thani)しか知らないので、そこに宿を取った。しかし、宿泊料がNTTホテルの5倍位するので、しっかり者の奥さんが腹を立ててしまったのだ。レストランのメニューを見てまたびっくりして、自分達の分は注文はしないという徹底振りだ。奥さんにとっては、これから退職金などの預金だけで生活していかなければならないので、倹約ということがなによりも大事なことなのだろう。 […]

1913年生まれの申請者に大使館もびっくり 2011年10月20日



 1990年代、Hotel Nikko Manila Gardenと称してしていたころから、日本人に人気のホテルがこのDusit Thani Hotelだ。マカティのパサイロードとEDSA通りの角にあるこのホテルは、隣がSM、目の前がパークスクエア、グロリエッタも至近距離、さらにパサイ通り沿いの和食、カラオケ店にも近くて大変便利な場所にある。 今回は、高齢のご両親のビザ申請準備を無事終えたK.Kさんとランチを一緒にとった。ドーシット(正確にはデュシットと表記するらしいが、フィリピンではド-シットと発音したほうが通じが良い)には日本人が多く泊まるので、ここのロビーは私にとっては馴染みが深い。PRAにいるころ、コーポレートレートで一泊50ドルくらいで予約することができたが、現在は150ドル程度で隔世の感がある、ほんの5年程度の間に3倍だ。現在日航は手を引いてタイ資本で運営されているが、そのころ、弁慶といった一階奥の和食レストランは名前を変えて健在だ。1989年、私がフィリピンに乗り込んできたときはマカティにもろくな和食レストランはなくて、ここ、弁慶でよくフィリピン側のパ-トナーを招待して会食した。  現在はタイ風を前面に出しているので、ロビーではタイの琴のような楽器をいつも演奏している。それにいたく興味を示したのが、KIANだ。ママジェーンはKIANがいたずらして、琴を壊してしまうのではないかと、気がきではない。 一階左奥のビュッフェ・レストランで昼食を取ったが、食べ放題のビュッフェは遠慮して、いつもの単品を少なめにオーダーして、只のパンで腹を満たす作戦だ。久しぶりの美味しいパンにご満悦のKIANだ。 K.Kさんは東北人特有の人の良いまじめな人だ。KIANもたちまちの内に慣れて、パンを食べさせたり、食べさせてもらったりしていた。  お腹が一杯になるとじっとしていられないのがKIANだ。ある方向を指差して、あっちへ行けと要求して、その通りにならないと泣き叫ぶ。そろそろ我慢することをしつける必要があるようだ。  メニューに定番のパンシット・カントンがないのにがっかりした。すべての高級ホテルのパンシット・カントンを食べ比べてみたかったのだが。どんな料理でも500ペソ前後したのもちょっと気に入らなかった。だからメニューの写真を取る気になれなかった。下の料理は豆腐のステーキ、洋風がんもどきといったところか。野菜やきのこがたっぷりで大変ヘルシーだ。  

デュシット・タニ・ホテルでランチ 2011年10月20日


  バリクバヤンは何度かこのブログでも紹介したが、やはりおみやげ物を買うならここだ。最近ご夫婦あるいは女性の方を案内してここを訪れたが、やはり目の色が違う。グロリエッタやモール・オブ・エイシアに案内しても、日本とあまり変わらないと言って、たいした興味を示さない。しかし、ここはお土産によさそうな、フィリピン全土からの民芸品が集まっていて、とても興味深い。ちなみにバリクバヤンとは「ふるさとに帰る」という意味で帰郷といったところだ。バリクバヤン・ボックスという「フィリピン向け海外宅配便サービス」を知っている方も多いだろう。  場所はマカティのパサイロード沿い、マカティアベニューからちょっとEDSAに向かったところで、大きな建物なので分かりやすい。入り口には仁王像ならぬ大きな木像がおいてある。 1階は貝細工や装飾品、木でできた日用品、手作り石鹸にドライマンゴなどの特産品、バロンなどの民族衣装、ハンドバックやT-シャツなど、手軽に買える物が、所狭しと並んでいる。見ているだけでも楽しい。 フィリピンの手作り石鹸は肌にやさしいと奥様方に評判だ。 フィリピン土産の定番のドライマンゴもおいてある。        2階、3階に上がると大きめの木彫りの人形や工芸家具が並んでいる。特に黒檀(コクタン)の家具は数十万円もするが、ちょっと他では見られない一品だ。いつしか我が家にもと思っているが、その前に、この家具を納めるのにふさわしい家を建てるのが先決だ。 石鹸と食べ物を除いてすべて50%引きとなっているが、私が知っているアバカ(マニラ麻のハンドバッグ(タバコの名産品)で比べてみると、50%引きでもまだ倍くらいはする。それでもバッグを買いに飛行機でレガスピまで飛ぶわけにもいかないし、フィリピン全土のものが買えるということで良しとするしかないだろう。 モール・オブ・エイシアに近いマカバルト通りにバリクバヤンの支店がある。品揃えは基本的に同じだが、こちらの売り場は平屋で広大な広さをほこり、とてつもない大きなテーブルがおいてある。

お土産はやっぱりバリクバヤン 2011年10月12日