Yearly Archives: 2009


  野暮用でアンヘレスを訪問した際、フィールドアベニューの両替商を覗いてみた。1ドルあるいは1万円に対していくらのペソになるのかわかりやすく示されている。昼ごろ見た時は1万円で5,155ペソだ。最近連日の円高で、レートがどんどん良くなっている。1ドルが91円台をつけたとも報じられており、この先が楽しみだ。  そして同じ日の夕方、仕事を終えて食事に向ったら、さらに5,175ペソに上がっていた。同じ日のうちにレートが変わるなんて聞いたことがない。一方、金曜のマニラ新聞によるとマニラで一番良いレートの店で5,190ペソだから、アンヘレスのレートも悪くない。  退職者にとって為替レートの変化は死活問題だ。年金や蓄えに頼って生活している人がほとんどだから、その変化に一喜一憂する。2004年~2006年、私がPRAにいた時代は1万円が5,000ペソ前後を推移していた。また、PRA定期預金の金利も良いところで4~5%で、大いにフィリピンに生活することのメリットを説くことができたものだ。換算も1ペソ=2円だから極めて簡単。「100ペソという値段がついていたら、2倍して200円、物価差5倍を考慮して、さらに5倍して、1000円、すなわち、100ペソなら、10倍して1000円、1000ペソなら1万円と思えば、高い安いの判断が出来る」という 10倍理論もこの時登場した。  その後2007年に入ってペソが急騰して、1万円が4,000ペソを割り込むどころか、3500ペソにも達する勢いで、退職者の収入が3割も目減りしたばかりか、利子も半分程度に下降し、フィリピンに住む魅力が大いに減少した。この異常なペソ高は誰にも予測できなかった。しかし、ある目ざとい退職者はそれ以前にPRAのドル預金を全額ペソに変更し、さらにペソの高値の際にドルを買い戻したというのだから賢い。  関連記事は下記にアクセス。 2007年5月22日掲載ニュース「ペソが急騰しています」http://www.pasco-ph.com/main/index.php?pid=352 2008年10月27日掲載ニュース「ペソが急落しています」http://www.pasco-ph.com/main/index.php?pid=481    円高が一段落した今年の前半、4,800~4,900くらいで推移していたものが、ここに来て1ドルが90円にせまる勢いで、対ペソレートも軽く、 5000ペソをこえた。そもそもペソはドルに連動しているので、円高はそのままペソとの交換比率に影響する。ドル建て定期預金の利子が上昇する兆しはまだ見えないが、これが前のように4~5%に戻ったら、昨今の暗い日本を脱出し大挙して退職者がフィリピンに押し寄せるのではないかと期待しているのだが。

円高で退職者はハッピー 2009年7月12日


 先日、ビザの件で相談にこられた退職者の方が、開口一番、「いやー、フィリピンの洗礼を受けました」と仰られた。朝一、両替したら、1万円で5000ペソになるはずのものが3500ペソしかなかった、確かに店で数えているのを見ていたらあったはずなのに、後で数えたらたりないというのだ。当方の反応は「やられましたか、でも1万円だけ代えたというのは正解です。レートが良いというので欲をかいて、10万円とか100万円とかいう大金を両替して、騙される人が後をたたないのです。1万円でよい勉強をしましたね」だ。  労せずして儲かる話というものは世の中には決してあるものではない。苦労しても苦労しても儲からないのが世の常だ。本当に儲かるのなら人に教えないで自分でやるはずだ。両替店にしても他の店より極端にレートが良い店などあるはずがない。特にエルミタ・マニラにはマジック・マネーチェンジャーがごろごろしており、連日マニラ新聞の一面をにぎわせている。  つい先日、数十万円を両替して騙された日本女性が徹底的に追及してついに相手を追い詰めてついに全額取り戻すという快挙を成し遂げ、話題になった。彼女は30万円を両替して、7万ペソの不足に気がついて、即刻半分の3万5千ペソは取り返したものの、残りは後日返すと約束したまま、相手は行方をくらました。店が再開するのを待ちうけ、残りを取り返したというのだ。その間、警察や市民の協力を得るために、損害以上の費用を費やしたという。しかし騙されたままでは済まないという執念が勝ったのだった。  しかし目の前で数えていて、それがわからないというのだから、まさにマジックだ。数えている最中にたくみに紙幣を隠すそうだが、一度その技を見てみたいと思う。しかし、かの勇気ある日本女性のおかげで警察も重い腰を上げて取り締まりに乗り出したというから、そのチャンスも当面ないかもしれない。警察は捜査にはほとんど協力しなかったというが、警察も多分におこぼれに預かっているきらいがあるので無理もないかもしれない。

マジック・マネーチェンジャーの怪 2009年7月10日



 今年も退職庁(PRA)の創立記念日がやってきた。5年前、2004年の創立記念日に出席したのが初めてだったが、その時、当時のマルセロ副長官やリリヨ長官に強く勧められ、PRA入りを決意したのが昨日のように思い出される。 今回のパーティ会場は、開発が目覚しいボニファシオ・グローバルシティのJAIPURというインド・アラブ料理レストランだ。とても雰囲気のあるレストランで、30分ほど遅れて入ったら、アラビック・ダンスの真っ最中だった。ただ、中規模のレストランなので、参加者が数百人のパーティ会場としてはあまりに狭い。バギオを皮切りにマニラ、クラーク、セブ、ラグナ、ダバオとフィリピン全土でパーティを催すために予算が限られてしまっているためなのだろう。ちなみに、となりはEMBASSYという超高級レストラン・バーで、多くの有名女優や男優が集まることで有名だそうだ。    この日の成果は、私のPRA時代のボスである元副長官のマルセロさんに会えたことだ。元々の彼のビジネスである金鉱山の経営も、昨今の金の値上がりで順調で、そのほかにアメリカの退職者の医療保険のビジネスをやっているそうだ。その外、PRAの会長で、元国家警察長官のゼネラル・アグリパイ、ゼネラル・リンガット長官などと挨拶を交わした。またすでにPRAを辞めているかつての同僚で、カナダ国籍を取得したロエルは私を抱きしめてなかなか放してくれなかった。  ゼネラルリ・ンガット長官の隣にいるのがPRA職員のスカーレットだが )、彼女はパーティで見かけるたびに妊娠している。私の記憶では、これで5人目の子供だと思うが、子沢山は幸せな家族の象徴だそうだ。 フィリピン人の写真好きは格別なものがある。ゼネラル・アグリパイ会長を囲んでのPRAスタッフの記念写真に皆笑顔で集まってきてポーズをとってくれる。まるでパーティを開くのは写真を撮るのが目的と勘違いしているのではないかとさえ思ってしまう。

退職庁、24回目の創立記念に参加 2009年7月8日


 フィリピンで留学型の英会話学校がブームになって久しい。フィリピン全土に約700校、生徒数500~700人規模の学校もあるというが、これらは 100%が韓国資本だそうだ。これらの英会話学校は宿舎を併設し、韓国、台湾、日本などからの10代~60代の生徒に、1週間~1年程度、英語尽くめの生活を提供する。料金は3食、宿舎、マンツーマンの英会話授業付で1ヶ月10万~20万円程度。アメリカなどへ留学する5分の1~10分の1だという。英会話が出来なければ就職もおぼつかないという韓国からは年間5~10万人の留学生がフィリピンに押し寄せているという。  今回訪問した EIEN英会話学校はマカティから北にちょっと離れたオルティガスのビル街にあるが、オルティガスだけで40の英会話学校があるという。これは1990年代のビル建設ラッシュの時に大量の高層ビルが建設された結果、借り手市場になり、安い物件が大量に出たためと推測される。   EIENは韓国資本ではあるものの、本社を日本に置き、日本のマーケットを中心に生徒を募集している。したがって、生徒比率は日本、韓国、台湾がそれぞれ 30%、その他が10%だ。生徒数は現在、60名程度だが、昨年までは200名程度在籍した。来年になれば、韓国経済が復興し、再び大幅に生徒数が増えるものと見込んでいる。  社長の李さんは東大の大学院を終了した後、東大で社会学の講師をする傍ら、2006年にEIENを立ち上げたエリートだ。英会話の次はフィリピンで日本の介護老人を対象とした介護ビジネスを立ち上げようと計画している。EIENのURLは http://www.eienjapan.com/   学校の入り口はいかにも韓国式で派手派手だ。内部の設備も決して美しいとは言いがたいが、充分清潔で機能的だ。マンツーマンの教室も1.2m角程度で極端に小さい。日本人が経営したらこのような感覚は生まれてこないと思う。李さんによると、日本人経営では決してこの価格は実現できない、だから、フィリピンの英会話学校は100%韓国人経営なのだという。現在、63の教室があり、したがって63人の先生が働いている。もちろん先生は全員フィリピン人だ。毎日6時間、マンツーマンの英会話の授業を受けるそうだが、いやがうえでも英語が上達するだろう。そして外へ出れば、英語尽くしの世界が広がり、実戦の場にも事欠かない。  14階と15階が事務所、教室、自習室および食堂となっている。7階、16階、17階は居室で、一人、2人、3人部屋などがある。元々コンドミニアムであるものを改装して学校にしたものだ。   韓国人のフィリピンに対するイメージについて李さんに質問してみた。フィリピンで英会話を勉強しようと日本人に声をかけたとしても、10人中9人は、「あんな危険なところで?」と拒否反応を起こすだろうが、韓国も同じだったと、李さんは言う。しかし、1990年代、フィリピンで英語を勉強した人が見違えるように英会話がうまくなって帰ってきて、安い、近いということで、われもわれも押し寄せるようになったのだそうだ。フィリピンが危険などというのは単なるイメージであって、実際に行ってみればすぐにそんなイメージは払拭される。だから韓国からは、年間70万人の観光客が訪れ、日本をはるかに凌駕するようになっている。日本でも何かのきっかけで、そんなブームが来ないものかと期待しているのだが。

英会話学校、EIEN訪問 2009年7月6日



昨年11月に紹介した「鳥新」のオーナーの高橋さんが、同じエルミタのマビニ通りに居酒屋「祭りばやし」をオープンした。以前より少々広めでゆったりしているが、メニューは基本的に同じ、焼き鳥を中心にした各種居酒屋料理だ。9時ごろ入店したが、席がないほどの盛況ぶりだった。 「祭りばやし」はマビニ通りのホテル「アリラン」の脇にあり、パンパシフィック・ホテルから南へ、歩いて5分くらいのところにある。入り口は相変わらずに目立たないので気をつけないと見過ごしてしまう。  料理は一皿せいぜい100~200ペソなので、1000ペソもあれば二人で充分楽しめる。普通の和食レストランでは味わえない家庭料理が多いので注文するのが楽しみだ。メニューにはない日替わりメニューが壁に張ってある。しかし、少し遅く行くと品切れが多いのがはやっている証拠だ。この界隈は観光客を目当てに大小のレストランやカラオケが軒を連ねているが、「祭りばやし」は穴場中の穴場といえ、フィリピン通の日本人でいつもにぎわっている。

マニラ裏町探訪(その2)2009年6月28日


マニラにいよいよ恒例の洪水のシーズンがやってきた。マカティで頻繁に洪水被害が起きるのがパソンタモ通りだ。1990年ころアモーソロ通り沿いに流れる川から溢れ出た雨水によりパソンタモ通りに向って車が流れていったのを目撃したこともある。店で食事を終えて出てくると道路は川となり、そのまま数時間立ち往生したこともある。パソンタモ通りは、そんな洪水銀座だった。 2004年ごろから2~3年かけてパソンタモ通りに大きなカルバートの下水溝が設置され、これでパソンタモ川も姿を消すものと期待された。しかし、世の中はそんなに甘いものではないようだ。今年も雨季に入ったばかりというのに、パソンタモ周辺は早くも洪水に見舞われている。しかし深いところでもせいぜい 20cm程度の深さなので人々は靴を脱いで歩き、ジープニーやSUVは平気でかけ抜けている。   これほど簡単に道路が冠水してしまうのは、まず第1に、マニラそのものがほとんどフラットな地形のため、下水管に勾配がとれず、管を流れる雨水の量が少ないことだ(日本のように管を数十メートルの深さに埋めて、末端でポンプアップするなどという芸当はやらない)。だからちょっと強い雨が降るとすぐにキャパシティをオーバーしてしまう。第2に、下水管のメインテナンスをほとんどしないため、管内は泥やゴミで埋まってしまい、管の断面積が小さくなっている。しかも庶民は下水に平気でゴミを流す。第3に、当たり前だが、強い雨が頻繁に降る。  この辺のところを見越して、それぞれの店や家は50cm近く道路面よ り高くなっている。洪水になったら水が引くまでじっと待つ。これが庶民の防衛策で、ちょっと洪水になったからと言って、ギャーギャー騒ぐ人はいないのだ。ちなみに私のコンドミニアムは2階となっている。これは洪水になっても水に浸かる心配はない、停電でエレベーターが止まっても平気。火事になって2階から飛び降りても死ぬことはない、という色々な状況を考慮のうえでの選択だ。

マニラは洪水シーズンに 2009年6月27日



  ヌエバエシアのジャトロファ農園の見学をヘリコプターで行なった。陸路であれば往復12時間はかかろうというものが、たったの3時間で済ますことができた。快晴に恵まれた今日は、普段は見ることのできない空からのマニラ、そしてマニラの北、ブラカン、ヌエバエシヤ、パンパンガなどの風景を満喫することができた。 マニラ・ドメスティック・エアポートを出発。    アヤラ財閥が開発しているコンドミニアム「The Residence Green Belt」の威容。今、マニラで一番高いビルだ。右はマカティの商業の中心、アヤラセンターのグロリエッタ。これもアヤラ財閥の開発だ。  同じくマカティのビル群。前の写真とは90度角度が違う。中央のビルはシャングリラホテル。右はアヤラ通り沿いのパシフィック・プラザ。マカティで最初の高層コンドミニアムだ。  左はブエンディア通りとジュピター通りが並行して走る。左手前がウルダネッタ・ビレッジ、右はベルエアー・ビレッジの住宅街だ。マカティの中心市街地はこのほか、フォルベスパーク、ダイスマリニャス、サンロレンソーなどの高級ビレッジに囲まれている。右の写真はマニラ唯一の川ともいえるパシッグ・リバー。この先、マカティ中心市街地から外れて庶民の街と住宅が延々とつづく。  左はこのブログでもたびたび紹介しているEDSA通りのMRTの延長工事。右はすでにブラカンの田園地帯に入ったところにあったマンゴ農園。   マニラから北はバギオまで、ブラカン、パンパンガ/ヌエバエシヤなど県が続くが、ほとんどまっ平らの平野が延々と続く。規模としては関東平野よりはるかに広大だろう。しかもどういうわけか河がほとんどない。  農園に到着したヘリコプター。これから帰途に着く。右の整然とした建物群はなんと養豚場だ。  広大な平野にぽっつりとそびえるアラヤット山、第2次世界大戦中、抗日ゲリラのフグハラハップが立てこもったことで有名。右はピナツボ山の火山灰によって埋められた河。帰りは西側の山岳地帯に近いところを通ったので河が多かった。 ケソン市は大学の街としても有名で、フィリピンの名門、アテネオ大学のキャンパス。中央の道路の右側は天下のフィリピン大学(University of […]

ヘリコプターの旅 2009年6月27日


 アンヘレス行く途中、EDSA通りの高架鉄道(North Avenue~Monument間、約5km)の進捗を見るのを楽しみにしているが、3ヶ月ぶりに見ると、その工事の進捗の早さに驚いた。前回は柱しか建っていなかったものが、桁が半分以上乗っていた。この調子なら年末までには完成しそうだ。しかし、駅舎の他、MRT-North Avenueとの接続部分やノース・ルソン・エクスプレス・ウエイ(NLEX)との交差など、難工事が予測される部分の工事が着手されていないのが気にかかる。  ところで、この環状線が完成するとなると、次に期待されるのが放射線の着工だ。放射線が伸びるであろう、あるいは伸びて欲しいのは、 1.LRT1 -Monument駅から北、Malabon、Valenzuela方面、 2.MRT-North Avenue駅から北東Quezon City、North Caloocan方面、 3.環状線を横断するLRT2-Santolan駅から東、Marikina、Cainta方面、 4.LRT1-Baclaran駅から南、Paranaque、Laspinasを経由してカビテ県方面、 5.MRT-Magallanes駅から南、Taguig、Paranyaque、Muntinlupaを経由してラグナ県方面、 の都合、5本だ。 これらの建設には数千億円の巨費と10年あるいは20年の年月が必要であろうが、マニラ首都圏の交通は飛躍的に便利になり、都心に出入りするための地獄のような渋滞が緩和されるだろう。特に、ジープニーやバスに乗るしかない庶民には大変なメリットがある。先日ケソンの北方のNorth […]

メトロマニラ高架鉄道の建設状況(その2)2009年6月21日



 6月14日(日)は、あいにく小雨となってしまったが、マカティのマガリアネス・ビレッジで歯科医と技工士の学校を営むドクター小林の70回目の誕生パーティに参加した。出席者は100名前後と推定されるが、7~8割はフィリピン人だ。これだけの盛大なパーティを催すことができて、かつ多くに人に祝福され、小林さんも幸せものだと思う。(写真下、右がドクター小林)  マガリヤネスの豪邸の庭に設えられたテーブルは約、10脚、各々のテーブルに10人程度の客が座ることが出来る。それぞれのテーブルには日本人とフィリピン人が混在して談笑していた。  料理は天ぷら、すし、刺身などの定番の和食にフィリピン料理。大きなレチョンもあった。当方としてはやはり、すしや刺身に手が伸びる。ケイターリングの会社が入っていたが、かなりのボランティアの女性も手伝っていた。きっと、小林歯科と技工士養成学校のスタッフだろう。  ゲスト・シンガーによるショータイムの後、小林さんの長男が歌を披露してくれた。まずはアギナルドの世界的ヒット曲「ANAK、子供」、そして「ホテル・カルフォルニア」。ギターを爪弾きながら見事なものだった。ちなみに彼は日本語とタガログ語を母国語として話し、英語、さらにスペイン語を操る語学の秀才でもある。そして現在は歯科医並びに歯科技工士としてお父さんを手伝っている。  小林さんにはさらに3人の息子と、2人の娘さんがいる。お孫さんも3人いるそうだ。お子さん達は皆、いい子で、バイリンガルでかつ英語も達者。どうやったらこのように子育てができるのか、特に母親がフィリピン人の日比国際結婚で、一つのモデルとも言えるのではないかと、いつも感心して眺めている。

小林歯科医の誕生日に出席 2009年6月15日


 マニラ新聞で、オルティガス、ロビンソンGalleriaの3階でダイソーが100円ショップをオープンしたという情報を得て、早速出かけていった。店の名前は「SAIZEN」という。これはすでにアラバンで「ダイソー」という100円ショップがオープンしているで、本家本元のダイソーがフィリピンではその名が使えないものと推察される。そのほか、フィリピンでは「日本城」という100円ショップがオープンしている。100円ショップと言っても、値段は 85ペソ(約170円)均一。そもそも物価の安いフィリピンでは大分高めで決して気軽に買える値段ではない。 ロビンソンに入るとあちらこちらに「SAIZEN」の垂れ幕がさがり、新規開店は一目瞭然だ。場所は3階でちょっと奥まったところにある。広さは普通のパーマーケットスー程度。店の中に入って驚くのは、中は全くの日本の100円ショップそのものなのだ。商品はたとえ中国製や韓国製だとしても、ダイソーオリジナルで、すべて日本語のタグがついている。品揃えも2万点というからすごい。  たまに日本へ帰ると、暇なときは100円ショップを覗いてみるのが、そこにはこんなものが100円というものがたくさんある。フィリピンへのおみやげも 100円ショップに限っている。5千円も買えば持ちきれないほど買える。だから、フィリピンの生活にも100円ショップがかかせない。この日は、日ごろ欲しいと思っているものが、ほとんどあった。なにしろ、日本人の嗜好にあわせて開発して商品ばかりだから、ありがたい。箸や茶碗まで豊富にそろい、店はここがフィリピンであることを全く意識していないようだ。(以下陳列棚の写真をクリックして商品の詳細を見てください)  せっかくロビンソンGalleriaまで来たのだから、もう一歩足を延ばして、SM North EDSAに行って見た。ここはMRT高架鉄道の終点でもあり、最近Land Markもオープンして、にぎやかになったケソンCityへの入り口だ。旧SM Cityも大幅に改装してSM North EDSAとして最近新規オープンしたばかりだ。モールの前の駐車場に屋根をかぶせ、そこを広場にしたのが特徴だ。たしかに公園の少ないフィリピンではありがたい広場だ。モールの中も以前に比べて広々と明るくなっている。  しかし、モール・オブ・エイシアを知ってしまっている我々には少し物足らない。マカティ近辺あるいはその南に住んでいる人たちがわざわざ出かけて行くところではないだろう、というのが正直な感想だ。

100円ショップダイソーの開店 2009年6月14日