Yearly Archives: 2009


 8月5日午前11時半、マニラ大聖堂を出発したコーリーの棺はロハスボリバード通り、サウス・ルソン・エクスプレス・ウエイを通過して、21km離れたスーカットの墓地に向った。沿道には20万人あるいは30万人ともいわれる人々が小雨の中を見送った。また、全局ぶっ続けで行なわれたテレビ中継を見ていた人は数百万あるいは数千万人に及んだと推定される。   日本ではあまり見かけなくなったが、フィリピンでは霊柩車を先頭に身内や知り合いの人が歩いて墓地へ向うのが習慣だ。マニラ大聖堂からマニラ・メモリアル・パークへの21kmの道のりを数多くの人が歩いた。高速道路へ入れば歩く人々はいなくなるだろうと主催者は見込んでいたそうだが、人の列は絶えることなく、ゆっくりとした行列は8時間後、ようやく墓地へ到着した。一方、エストラーダ前大統領を初めとする多くの次期大統領候補者は車で行列に参加し、車中から手を振り、コーリー人気にあやかろうとしていた。  棺につきそって直立不動の姿勢を続けた軍人は8時間の間、微動だにしなかった。喉の渇きは顔を流れる雨のしずくで癒し、硬直する足の筋肉は指を動かして凌いだという。「耐える」という軍人魂を失っていない軍人もいるようだ。   3~4時間で到着するであろうと見込まれた棺をスーカットで待つ人々は雨の中で4~5時間待つはめになった。さらに墓地では多数の軍人や警官が整列して棺を待ち続けた。アキノ一家はアロヨ大統領の、国葬という申し出を断ったが、国葬以上の国葬といわれた葬儀はアキノ元大統領に対する国民の愛着と畏敬の念を印象付けた。   マニラ・メモリアル・パークには故ベニグノ・アキノ元上院議員が眠っている。コーリーは夫の脇に埋葬されたが、1983年マルコス元大統領に夫を暗殺されて以来、大統領という激務を経て26年ぶりに最愛の夫とすごすことになったのだ。これはフィリピン近代史を飾る英雄の死ともいえ、このような葬儀が行なわれることは2度と無いだろう。  クリス・アキノは会見で、ベニグノ、コーリー・アキノの遺志の正統な継承者は兄のベニグノ・アキノ上院議員と自分だと宣言したそうだ。近い将来、この二人が政権をになうことは、今回のコーリーの死に対する圧倒的な国民の哀悼の意を見ても当然の成り行きだと思う。

巨星逝く、コーリーアキノの死(その3)2009年8月23日


  8月3日(月)、コラソン・アキノ元大統領(通称コーリー)の棺はグリーンヒルからマカティ中心のパセオ・デ・ロハス通りを経て、イントラムロスのマニラ・カテデラル(マニラ大聖堂)に移された。パセオ・デ・ロハス通りとアヤラ通りの交差点にはコーリーの夫のベニグノ・アキノ元上院議員が暗殺された時の銅像が建っているため、わざわざ迂回したのだ。  葬儀の中継のタイトルは「ありがとう(Salamat)、コーリー」だった。これはアキノ大統領が歴代の大統領の様に私利私欲にとらわれること無しに、心から国を憂い、生涯、正義と信念を貫き通したことに対する国民の声だ。   8月4日(火)のテレビはほとんど1日中、告別式の様子を中継していた。その主役は息子のベニグノ・アキノ上院議員と女優で娘のクリス・アキノだ。また、もう一方の歴史上の人物であるイメルダ・マルコス元大統領夫人も姿を見せていた。軍や警察のゼネラル全員、主だった政治家、国中の名士が弔問したが、一般人はマニラ大聖堂を取り囲み、約5時間待ちだったという。コーリーに別れを告げる人の列は朝まで絶える事がなかった。       弔問に現れるかどうか、現れたらアキノ一家が拒否するのではないかと注目されたアロヨだったが、そのようなこともなく、そそくさと祈りを済ませると、たった7分間で教会を離れた。一国の大統領も英雄の前では小さく見えた(もっとも150cmにも満たない小柄な彼女なのではあるが)。アメリカ大統領のオバマもメッセージを送った。  翌5日(水)棺は、21kmはなれたパラニャケ市スーカットのマニラ・メモリアル・パーク移送され埋葬される。この日は国民の祝日となったが、これはコーリーの埋葬に多くの市民が参列し、1986年、マルコスを追いやったエドサ革命が再現されるのを、アロヨが恐れたという話だ。また彼女自身が埋葬にも参加しなかったのは、コーリーは生前、アロヨ大統領の腐敗政治を糾弾していたが、コーリーへの敬愛と回想が渦巻く中で、自分への憎悪が湧き上がる渦中に飛び込む勇気がなかったのだ。(続く)

巨星逝く、コーリー・アキノの死(その2)2009年8月13日



 先日、空港に出迎えに来てほしいという依頼に対して、「JALなどの外国の飛行機が到着する第1ターミナルは出迎えの人と出会うのがきわめて難しいから、空港タクシーのクーポンタクシーかイエロータクシーを使ってホテルに向うのが最も安全で確実」とアドバイスした。  第1ターミナルはターミナルビルを出ると出迎える人や車、タクシーが通過するので、慣れない到着客はそこで出迎えの人を待ってしまう。しかし一般の出迎えの人は特別な許可を取らないと、そこには入ることは出来ず、さらに道路を渡って直進し左右に分かれた斜路をくだらなければならない。そして初めて道路の向かい側に出迎えの人の群れを見ることができるのだ。名札をかかげるという手もあるがお互いに顔を知らないとほとんど出会う術がない。例え知り合いの出迎えでも携帯で位置を確認しながら、無事に出会うまで大変な労力を要する。その間の到着客の不安感は計り知れないものがあるだろう。   お盆休みのせいか3組のゲストがほとんど同時に訪問された。そのうち2組の方がなんとあろう空港タクシーに被害にあってしまったのだ。上記の通りで「出迎えは難しい、空港タクシーが安全で確実」と言った矢先のことだ。金銭被害のみで、たしかに安全、確実にホテルには到着したのだが、このようなことがあるとフィリピンの印象を台無しにするので、当方としては空港の管理者に手紙を書いて善処してもらおうと思っている。 .  ちなみに私が「空港タクシーが間違いない」とアドバイスしたY.Uさんは、その後フィリピン人の知り合いの都合がついて出迎えてもらえることになった。そうしたら、空港で出迎えの人に会えるまで2時間かかってしまい、往生したそうだ。こんな状況の空の玄関では「フィリピンにいらっしゃい」などといえないので、それも含めて空港に善処してほしいと思う。 .  T.Oさんの場合、フィリピン空港専用の第2ターミナルに到着したが、ターミナルビルを出て、インターナショナルとドメスティックの境界にある空港タクシーの案内所にむかった(現在は別の場所に移動しているが、看板はそのままになっているのでわかりにくい)。そこに行って聞いたら、空港のスタッフ(らしき人)がトランシーバーを使って空港タクシーを呼んでくれた。さらに領収書はあとで運転手が渡すということで乗り込んだが、1350ペソを請求された。たかがマカティまでの距離にしては法外で、通常の空港タークシー(クーポンタクシー)なら、440ペソでいけるはずだ。文句をいうと運転手はレンタカーだから高いのだという。しかし、自分は空港タクシーを使うつもりだったのになにか解せない。しかし、2000円足らずのお金で運転手と喧嘩しておかしなことになっても致し方ないので、おとなしく引き下がって支払った。      領収書には1350ペソと書いてあり、さらにその上に550ペソと上書きしてある。本当の値段はよくわからないが、空港スタッフと運転手がグルになって、空港タクシーを捜している到着客にレンタカーを押し付けて法外な料金を騙し取ったことに間違いない。ちなみに領収書に記載されたレンタカー会社の名前は PACIFIC BLUEだった。彼らがその会社と関係があるかどうか定かではないが、税務署に登録された正式な領収書を使っていた。なおクーポンタクシーはボディに青文字で大きく番号がついているので、すぐにわかる。   このレンタカーにはそれがなかったそうなので、正規のクーポンタクシーではない。また、カウンターで車の番号などを記載した紙(クーポン)をくれるので何かあったら後でクレームできる。もしそれがなくてこのような目にあったら、その場で喧嘩しないで車両番号あるいはプレート番号をメモっておくことが重要だ。なお、クーポンタクシーの案内所には行き先ごとの料金表が置いてあるで確かめておこう。ちなみにクーポンタクシーにはメーターがないので、行き先を告げてクーポンに書かれた料金を運転手に支払うが、行き先がそれと異なると追加の料金を支払わされる。(画面をクリックして拡大して見てください)  K.Sさんの場合、第1ターミナルでイエロータクシーを拾ってホテルに向うまでは良かったが、運転手がホテルを見つけることができない。周辺をぐるぐる回ってやっと見つけるまでにゆうに20~30分はかかってしまった。なんとかとどりついてほっとして、料金を聞いたら、4000ペソだという。日本円で8000円になるが、そんなものかと思って支払ってしまった。  これまたとんでもない話で、いくら迷ったとしてもせいぜい400ペソだ。イエロータクシーなら空港からマカティは200~250ペソでくる。一般のタクシーなら100ペソ程度だ。ちなみにイエロータクシーとはまっ黄色なタクシーで空港専用のタクシー。メーターがついていて実際に走行した距離により料金がチャージされるのでメーターを確認して支払おう。ちなみにプレートナンバーはレンタカーのもので、登録はレンタカーとなっているらしい。料金は普通のタクシーの倍位するが、すべて新車で、運転手のマナーもよく、ずるをするようなことは決してない(と思っていたのだが)。この場合も是非プレートナンバーをメモしておいてほしかった。

空港タクシーよ、お前もか 2009年8月13日


  イントラムロスから北へ進むとパシッグ・リバーの向こうはチャイナタウン(ビノンド)だ。さらに北に向うとデビソリアに出る。そこは街中が商店あるいは問屋というフィリピン全土の問屋街として機能している。この日はニノイ・アキノ・デイで祝日ということもあり、街は人で溢れかえり、不況どこ吹く風の活気と喧騒そして混沌に満ちていた。  デビソリは数多くのモールがあるがそこにあるのは1~2坪程度の店が大半で、あらゆる雑貨を扱っている。その中心はトトバン・モールでそこだけは冷房のきいた快適なショッピングが楽しめる。この界隈のお店の総数は万を超えるのではないかと思う。   レクト通りに入るとそこにはジープニーが溢れ通りを渡るのも命がけだ。横丁に入ると道路は露天商が占領し、人とすれ違うのも容易ではない。その両側はすべてモールで衣類や生地そしてウエディングドレスの専門店などが奥深くまで連なっている。    レクト通りの南側は衣類や雑貨が中心だが、北側は野菜などの生鮮食料品を売る店が連なり、かなり様相を異にする。  価格はマカティのショッピングモールあるいは一般の店の半分以下、衣類でもバッグでも2~3百ペソ程度で、500ペソ(1000円)を超えるものはあまり売っていない。この日、私はサムソナイトのポシェットを450ペソで買った(もちろんコピー商品だがちゃんとタグがついていた)。連れの友人はバーバリーの女性用のバッグを400ペソで買った(バーバリーのライセンスを持っている三陽商会のタグまでついてた)。日本ではたとえコピー商品だとしても万単位の値段がするそうで、香港、ソール、バンコックなどと比べてもここが格段に安いという。    トトバン・モールの前には袋を売る人が待ち受けている。買い込んだ物をこの袋に入れて持ち帰ってくださいということだ。買い物が嵩んだときはこの袋が大変重宝する。一つ100ペソ程度で買える。  デビソリアは通りごとに専門が異なり、デパートのように一箇所ですべてを賄うというわけにはいかない。どこで何を扱う店が集まっているか知らないと安い買い物は出来ない。あるビルではすべてがおもちゃ屋というわけで、そこに行く着くにも人ごみをかきわけ、相当のエネルギーと覚悟がなければデビソリアで買い物をしようなどとは思わないほうがよさそうだ。

フィリピン全土の問屋街、デビソリア訪問 2009年8月24日



 8月1日未明、かねてから結腸癌を患い闘病生活を続けていた元フィリピン大統領コラソン・アキノが亡くなった。76歳だった。夫の暗殺を契機に政治家へ の道を歩んだ彼女は、1986年大統領選の不正を訴え、エドサ革命で独裁者マルコスを国外に追放し大統領の座についた、というフィリピン近代史の立役者 だ。   長年マルコスの政敵として活躍した夫、ベニグノ・アキノを暗殺され、悲劇のヒロインから大統領へと転じたコーリーはコファンコ・ファミリーという大富豪の出 でありながら、生来の清廉潔白な性格で多くの支持を集めた。マルコスの負の遺産を一掃し、経済を立て直すほどの政治手腕はもっていなかったが、素人だから こそ出来たという、フィリピンの将来を見据えての数々の法案を制定した。   現在でも、政治的な影響力は絶大なものがあり、エドサ革命2でエストラーダを大統領の座から引きずり下ろし、憲法改正によるアロヨ政権延命の画策を防止することに一役買い、死ぬ間際まで国を憂えるフィリピンの指導者だった。    1日から2日にかけてグリーンヒルで行なわれた通夜に参加した人は、炎天下あるいは雨の中を長蛇の列を作り、夜を徹してコーリーとの別れを惜しんだ。テレ ビのニュースは通夜の模様一辺倒で他のニュースは全く放映されず、通夜の実況中継(写真の男性はエストラーダ元大統領)やコーリーの写真の映像を流し続け ていた。3日朝、遺体はイントラムロスのマニラ・カテデラルに移され葬儀が行なわれる。そして、5日(水)は埋葬で、祝日となる。     テレビ放映の中でも延々と出演し続け、母との思い出を涙ながらに語っていたのがクリス・アキノ、コーリー・アキノの4番目の娘だ。クリス・アキノはフィリ ピンNo.1の女優として人気を誇っているが、自らが司会を務めるバラエティ番組の「ショー・ビズ」の特別番組に出演し、相棒の男性司会者相手に数時間語 り続けた。  […]

巨星逝く コーリー・アキノの死 2009年8月3日


 2ヶ月ほど前にマニラの北120kmにあるターラックに移住した退職者の方がジャンク・ショップを始めるというのでジャンク・ヤードの建設現場を訪問した。ちなみにターラックは昨日なくなった元アキノ大統領の実家のあるところだ。   まだまだ自分は若いのでフィリピンでなにか事業をやろうと思っていたのだが、ジャンクショップをはじめたフィリピン人の知り合いがやたらにはぶりが良いのでこれ しかないと即決した。この方は日本で道路建設に携わった土木屋さんで、現場工事や人夫の使い方、資材の調達、運搬等については腕に覚えがある。事業モデル が単純なので、これならやれると自信を持ったそうだ。  まず、鉄くずなどを保管するヤードの確保に1,000m2の用地を平米500ペソ、50万ペソで購入した。次に鉄くずを集める2トントラックと引き取り 先の工場へ搬送する14トントラックを100万ペソで購入。さらに敷地の造成、舗装、事務所等に50万ペソ、運転資金に50万ペソ、締めて250万ペソ (500万円)の資金を投入する予定だ。   さすがに土木屋さんでやることがしっかりしている。ジャンク・ヤードは砂を50cm程度敷き詰め、その上に10cm程度のコンクリート舗装を行なう。そうし ないと粘土質の地盤は大型トラックの通行で泥沼になってしまう。飲料や洗浄用の水も必要だ。井戸は約60フィート、泥水を循環させ、手掘りで堀進めてい る。これで岩も貫いてしまうらしい。   ジャンク・ショップ経営の採算性の計算は単純だ。10ペソで鉄くずを購入。それを14ペソでマニラの北方のバレンツエラの工場におろす。スモーキー・マウンテンで有名になったようにフィリピンにはゴミを拾い集めて生計を立てている人がごまんといる。まとまった鉄くずの出るウエルディング・ショップ(鉄工所) などからは2トントラックで回収する。この14トントラックには実質25トン詰めるそうで、一回の輸送で10万ペソの粗利が出る(1kg4ペソの粗利なら […]

ジャンクショップの勧め(廃品回収業)2009年8月2日



 高架鉄道(LRT及びMRT)の充実がメトロマニラの地獄の交通渋滞を解消する切り札であることは再三述べてきた。ここ1年アンヘレスに行く用事が増えて、マカティからEDSAを経由してNLEX(北部ルソン高速道)へ向うたびにそのことを強く感じている。そして昨年末、LRTとMRTを接続する EDSA沿いの残りの5kmが着工されたのを見て、フィリピン政府もやる気はあるんだと安堵したものだ。  前回はここに高架鉄道を延ばしてほしいという期待を述べた。その後、インターネットで実際の計画を知ることが出来たが、私の期待と計画はかなり似通っていた(画面をクリックして拡大して見てください)。 1.1.LRT1 -Monumento駅から北、Malabon、Valenzuela方面:Monumentoよりも少々南のBrimentritt駅から北へ向うNR(Northrail)線で、マニラ市外を斜めに縦断している(橙色の線)。 2.MRT- North Avenue駅から北東Quezon City、North Caloocan方面:MRT4として近々着工が予定されているそうだ(緑色の線)。しかしMRT4はNorth Avenueが終点ではなくて、さらにDoroteo JoseでLRT1と接続し、マニラ市街を横断する。そうなれば、ケソンの北方、フェアビューなどへのアクセスは飛躍的に向上するだろう。 3.環状線を横断するLRT2-Santolan駅から東、Marikina、Cainta方面:LRT2の延長は残念ながら計画になかった。 4.LRT1-Baclaran駅から南、Paranaque、Laspinasを経由してカビテ県方面:MRT6として計画されているローカル線だ(紺色の線)。 5.MRT- […]

メトロマニラ高架鉄道の建設状況(その3)2009年7月27日


 パソンタモ通り、マカティ・スクエア向かいの和食レストラン「MARUCHAN」の人気が上昇中だ。リトル東京の瀬里奈と姉妹店だが、店内は瀬里奈に比べてはるかに広々としてゆったりしており、駐車場も大きくて便利だ(なお現在、2013年は、サイカという名前で営業中)。  その人気を象徴するかのように、今日は日本を代表する高級車セルシオが2台も店の前に止まっていた。ちなみにセルシオのフィリピンでの価格は7百万ペソ、 1400万円だそうだ。ベンツやBMWのフル・サイズに匹敵する超高価格車だ。フィリピンでは商社の支店長、大使、JBICの所長などが使えるステイタス・シンボルなのだ。客席や厨房もゆったりして清潔で良く訓練されたウエイトレスが面倒を見てくれる(ウエイトレスさんたちは恥ずかしがって写真のモデルになってくれませんでした)。  昼時ともなると目玉のランチメニュー目当てに多くの客が集まる。ほとんどのメニューが300ペソ以下で、一番高い幕の内弁当でも450ペソだ。  すし定食を頼むと注文ごとに握っているせいか、時間がかかる。出来立でおいしいので、ここ数日で4回も、ここのすしを食べてしまった位だ。下の写真はメンチカツとすし定食。両方ともボリュームたっぷりでおいしかった。しかも280ペソ(560円)という値段がとてもうれしい。ちなみにフィリピンは世界で唯一和食が日本よりやすく食べられるところだと言われる。これらの和食は日本に比べて、味の点で決して劣らず、しかも価格的には半分だ。

MARUCHANが人気上昇中 2009年7月20日



 7月17日は台風イサン(6号)の通過でマニラに強い風邪と雨が降った。マカティのパソンタモ通りは恒例の道路冠水で往生したが、マニラ周辺のパシッグ、マリキナ、タギッグなどでは腰まで冠水するところがあり、4000人の住人が避難するほどだったそうだ。  夜、不用意にも下着のままで外へ出てみると、震えるほどの涼しさであわてて家に戻る始末だった。翌日(今日)のマニラ新聞によると、マニラの最低気温は 23.2度で、フィリピン人にとってはコートを羽織るほどの寒さだ。高原都市バギオでは最高気温でも20度に達しないほどだ。6月から本格的に雨季に入っているフィリピンは10月まで、こんな天気が続く。一方、日本は全国的に35度前後まで気温が上昇し、本格的夏に突入している。日本の夏のシーズンではフィリピンのほうがはるかに涼しくてすごしやすいのだ。洪水騒ぎも限られた地域で起きているだけで、住まいをちゃんと選べば悩まされることもない。  そこで、夏場は避暑地としてフィリピンですごすという逆転の発想が成立する。さらに11月から乾季に入るフィリピンは雨も降らず、涼しめの気候が3月まで続く。そして4、5月はフィリピンの夏でそれなりに暑い。そうなると、日本の寒い冬(12月~3月)は避寒のためにフィリピンですごし、桜咲く4~5月の春、そして10~11月の紅葉の秋は日本ですごすというのがお勧めだ。すなわち、11月の寒くなるころにフィリピンに行き、3月に日本へ帰る、そして6 月に再びフィリピンへ、そして9月の残暑も終わるころに再び日本へ帰るという、年に2回、フィリピンと日本を往復する生活だ。    幸い、フライトも4時間足らず、国内を移動する感覚で暑い夏や寒い冬を避けることができる。退職後、フィリピンと日本の両方に住居を構え、このような渡り鳥生活を楽しむというのはどうだろう。そして介護が必要な年になったら、フィリピンに永住し、心優しいフィリピーナに面倒を見てもらおうという算段だ。

フィリピンー日本、渡り鳥生活の勧め 2009年7月18日


  マニラの北方のブラカン、パンパンガ、ヌエバへシア、パンガシナン各州には関東平野を凌駕する広大な平野が広がり地平線が見えるほどだ。そのほとんどが水田で、この地域は雨を水田にためて稲作を行なうせいか、河がほとんどない。雨が降るときに稲作を行なって、降らなければ休耕させるという自然任せの農業なので、せいぜい二毛作が限界だ。   私の田舎のビコール地方も水田地帯だ。あの細長いルソン島の尾っぽの先端に平野が広がり、稲作が盛んに行なわれている。マヨン火山と水田のコントラストもすばらしく、自然と人との調和を感じる。   ところでフィリピンの稲作はほとんど堆肥を使わない。稲穂は短く刈り取り、残りのワラはたんぼを耕すときにすき込んでしまう。これが堆肥代わりになるのだろう。稲穂はたんぼでモミを機械で分離する。モミは袋に詰めて運び出し、田んぼのあちこちには短めのワラの山が残される。これらはその場で燃やしてしまうだが、これで堆肥を作らせようとする私の企ては、肥料や飼料そして農薬など大企業の製品を使うよう役場に洗脳された農夫のために、いつも頓挫する。モミはそのままでは発芽してしまうので、道路や広場に広げて乾燥させる。そして脱穀するまで袋に詰めて保管する。   さて、このモミ殻が来る日も来る日もたまってしまう精米所は、日本では許されていない焼却処分しか手がない。数百年という長い間、この資源が単に燃やされ続けてきたのだ。このモミ殻を粉砕して固め、炭の代替燃料を製造する技術が日本にある。これをフィリピン各市町村に一台づつ備えて、精米所を巡回し、モミ殻燃料を作ったらどうかと思う。その効果は下記だ。 1.モミ殻は人類がある限り永遠に産出される廃棄物(資源)である   2.精米所にモミとして集積され、改めて集積する手間がかからない 3.機械はトラックに乗る程度の大きさなので、一台で数十箇所の精米所を巡回処理できる 4.生産された製品は燃料として販売できる   5.フィリピンの農村地帯では未だ炭が炊事の主体燃料として使われているので需要はおおいにある 6.炭の生産のために必要とする樹木の伐採による森林の消滅を回避できる […]

モミ殻によるバイオ燃料の製造 2009年7月17日