Monthly Archives: January 2009


  1月26日(月)は旧正月、チャイニーズ・ニューイアーだ。先日の中華街の訪問でその賑わい振りを想像できたので、やはり退職者の方を案内して、その賑わいを視察にでかけていった。タクシーの運ちゃんに渋滞でとんでもないと拒否されたので、仕方なくLRT(高架鉄道)で出かけていったが、返って安く済んで助かった。ちなみに運賃は15ペソだった。カリエド駅が中華街の最寄の駅だが、キアポ教会とサンタクルス教会の中間に位置する。駅から眺めたキアポ教会へ向う通りは人で埋まっていた。  サンタクルス教会の前の広場には馬車が数十台行列をなしていた。きっと、どこかの国の団体さんが中華街中の馬車を借り切って旧正月の見物としゃれ込んでいるのだろう。サンタクルス正面の中華門の通りが金製品を売る店が並ぶオンピン通りだ。ここが中華街の中心であり、色々な催し物もここで行なわれるという情報だった。  通りでは10m位つながった爆竹を鳴らして、ドラゴンがそれにあわせて踊っていたが、爆竹がなり終わるころは煙で前が見えなくらいになる。さらにお店の前でご祝儀目当てに踊るのは日本の獅子舞に似ている。多分このドラゴンが獅子舞の元祖なのだろう。  普段はそんなにないはずなのだが、どういうわけか通りの商店のほとんどが正月の飾りものを売っていた。多分このときだけ商品を代えているのだろう。また、今年は丑年なので、牛をモチーフした飾り物が目玉だ。  飾り物を専門に売る店に入って周囲を見回してみると、実に中国的な飾りものがいろいろ置いてある。したの写真は淡水熱帯魚の王様、アロアナの彫り物。以前パサイ市のカーティマ・マーケットで撮影したアロアナの実物とそっくりだった。   オンピン通りの中ごろの川沿いに香港などでよく見かける屋外中華レストラン街がある。安くてうまくて量が多いという3拍子揃ったレストランで、テレビにも紹介されたそうだ。ここで食べるのは牡蠣のオムレツと蛙の足のフライ、それにカンコンの炒め物と決まっているのだが、この日は退職者の一人が顔をしかめていたので蛙の足は割愛した。   チャイニーズ・ニューイアーに食べるのはTIKOYというお餅。この日はいたるところで大量に売っていた。日本のものと比べてきめが細かく、豆腐の木綿ごしと絹ごしの違いのような感じだ。多少味付けがしてあるが、火を通して食べると薄味でなかなかいける。醤油にも合うようだ。   中華街ではないが、27日、旧正月の翌日、所用でアンヘレスをたずねた折、件のフィールドアベニューの呼び込み嬢が中国服を着ていた。なかなか商才の長けた店だが、ちなみに店の名前はアトランティスという。

中華街の旧正月2009年1月30日


 先日紹介した孫の結月(ゆずき)も6ヶ月になった。久しぶりに写真が送られてきたので、フィリピーノの相棒に見せたところ、感激されてしまった。色白で、キュート、あの赤ちゃん独特のいいにおいがしてくるようだというのだ。ちなみにタガログ語で、マプテ、マガンダ、マバゴと褒め言葉のオンパレードだ。フィリピンの赤ちゃんはどうなのかと聞くと、この赤ちゃんに比べたら雲泥の差だという。この赤ちゃんは目が細くて小さいところがとても可愛いというのだ。日本では目が大きくて可愛いという表現になるのだが、フィリピンでは目が小さくて可愛い、目が大きくてブス、という表現になるようだ。フィリピンにはこんなに可愛い赤ちゃんはいないとまでいい切る。 当方の眼から見ると、確かに可愛いかもしれないが、普通の赤ちゃんに見える。一方フィリピン人の赤ちゃんは意外と色白で、目がパッチリしていてとても可愛いと思うだが、無いものほしさということなのだろうか。  下の写真は昨年の9月初め、お宮参りに参列したときの写真だが、デジタルなのだが、どうしてもメールに添付して送ることが出来ず、今回やっと入手したものだ。インターネットの時代になんともお粗末な話だが、そもそもは私のカメラが寸前に壊れてしまい、しかもスペアのカメラは相棒が田舎に行くので貸してしまっていて、肝心のときに写真が撮れなかったためなのだ。中央が私の3男で結月の父親だが、しばらく前までやんちゃな悪がきと思っていたが、それが父親になってしまったのだ。私も年をとるわけだ。

日比赤ちゃん比較 2009年1月30日



  1月25日退職者の方を案内してタガイタイを訪問した。タガイタイといえばフィリピン8景にも選ばれているタアル火口湖を望む絶景で有名だ。マニラから1時間+という至近距離にあるために休日は車でごった返す。1990年代に始まったリゾートや別荘地の開発ラッシュにより、大きなレストラン街も出現し、人気店には客が溢れかえっていた。    タアル湖に浮かぶ火口の島はつい最近噴火したと見られる跡が見える。もともと海だったものが、噴火により海と遮断され湖となったものだが、外輪山と思われるタガイタイから眺めると、この火山の規模がいかに巨大であったかわかる。湖のほとりには民家やリゾートが点在し、そこから船で島へ渡ることができる。島の中央にはさらに小さな湖があり、その中にさらに小さな島があるそうで、外輪山まで入れると5重構造になっている。また、湖の中には今でも水に沈んだ街が残っているそうで、一度は島へ渡ってみる価値がありそうだ。タアル湖の景色はどこからでも見えるが、老舗タアル・ビスタ・ホテルの庭から見る景色が最高だ。昔は只だったが、最近は駐車場代に100ペソ取られる。   タガイタイは標高700mの高地にあるために比較的涼しく、果物の栽培や牛の飼育が盛んだ。タガイタイに近づくとパイナップルやバナナ、さらによく見るとコーヒー等が栽培されている。かつて私の息子を連れてきたとき、パイナップル畑を見て感激していた。てっきりパイナップルは大きな木になっているのだと思っていたそうだ。 ここで取れる豊富な果物を売るためにタガイタイに向う沿道には無数の直売所が並んでいる。パイナップルを初めとして、バナナ、パパイヤ、マンゴ、さらに世界最大の果物を言われるランカ(ジャック・フルーツ)などが所狭しと並べられている。蜂蜜やお酢などもある。さらに大根や芋などもマニラと比べると只みたいな値段で売っている。ちなみに写真の大きなパイナップルが3個で100ペソ(200円)だ。  高速道路のサンタロサ出口とタガイタイの真ん中くらいの位置にゆでたてトウモロコシを売る店が数十軒並んでいる。かつては固くて甘みも全く無い家畜用 (?)のトウモロコシしかなかったが1990年代の終わりからジャパニーズ・スイート・コーンと称してハニーバンダムのような甘くて柔らかいトーモロコシが売られるようになった。一本10ペソ(20円)と日本に比べて10分の1の値段だったが、今回は4本で50ペソ、一本あたり12.5ペソに値上がりしていた。退職者の方も喜んで食べていた。ちなみにトウモロコシのことをタガログ語でマイスという。  タガイタイのメインロードからちょっと入ったところにマホガニー・マーケットという直売所の集合マーケットがある。目玉は名物の果物や野菜、それに牛肉、最近は果物の苗木や花も売っている。下の写真はなじみの売り子さん。久しぶりだったがちゃんと覚えていてくれた、学校を終えて戻ってきたそうで、2年ぶりの再会だ。右の写真が2年前に盗み撮りしたものだが、今回は照れながらもカメラに収まってくれた。この人の勧める果物はとてもおいしいので安心して買える。以前退職者に頼まれて買って来てあげたら、感激するほどおいしいスイカだったと褒められた。野菜・果物マーケットの外周、肉売り場と道路を挟んで面した店にいる。 タガイタイ名物の一つは牛肉だが、屠殺されたばっかりのものなので、中には肉がぴくぴくと動いていることもある。しばらく冷蔵庫で熟成させて食べる必要があるだろう。また、何らかの方法で柔らかくしないと、固くて食べられない。一度そのことを知らずにステーキにして食べたらあごが痛くなってしまった。

タガイタイ訪問 2009年1月30日


1月21日、テレビはオバマ新大統領の就任式の模様を中継する番組一色だった。米国民のみならず世界中の人々の圧倒的支持を受けての大統領就任だ。一国のトップがこれほどまでに世界中から祝福・注目されて就任するということは前代未聞だろう。それほど現在の経済状況が深刻で皆が救いの神を求めているということだ。47歳の黒人という誰もが考えなかったバックグラウンドを背負っての大統領就任が歴史的事件であるのなら、何か歴史に残ることをやるのではないかという期待がもたれるのも無理の無いことだ。200万人という中都市全体に匹敵する人々が歴史的な事件に参加しようとしてワシントン広場を訪れたそうだ。  アメリカ国民、特に黒人にとっては、奇跡に近い出来事であることは大いにうなずけるところだ。長年虐げられて来た暗い時代に終止符を打つかのように黒人がアメリカを代表する地位についたのだ。   しかし、祝賀ムードに水を差すように、オバマ新大統領の言葉は、国民に自ら、国そして世界に責任と義務を負うことを求めるものだった。一国の首長が頑張ったところでこのアメリカそして世界の経済危機は救えるものではない。それを国民全体が一丸となって困難を乗り越えていくことを求めたのはまさに正解だ。どこかの国のように政敵を罵り合って政権交代に躍起となっている時ではないのだ。 各国首脳の好意的な 反応は、世界的な祝賀ムードで就任したオバマ人気にあやかろうというのか、あるいはとりあえず同調しておこうということなのだろう。ちなみに、このような行動パターンをタガログ語でパキキサマという。  一方、フィリピンの人々の反応はどうだろう。テレビではBARAKO(逞しい)などとコメントし、オバマ新大統領の演説をほめていた。しかし自己責任の国といわれるフィリピンでは、自分の生活は自分で責任をとることは当たり前のことだ。どこかの先進国の様に、問題があれば、国や政府を責めれば何とかなるという発想は無い。派遣切りが問題になれば住処の提供や炊き出しをしてもらえるなどという、声を大にして訴えれば誰かが何とかしてくれるなどいうことは起こりえないのがフィリピンだ。役人はその地位を利用してせっせと私財を蓄えるのが当たり前、国家などは何の役にもたたないと、人口の1割が海外で稼いでせっせと仕送りをして家族を養っているという逞しい彼らは、オバマ大統領の主張する「新しい責任」をすでに実践しているといえるかもしれない。

オバマ大統領の就任式 2009年1月22日



  正月を農場で過ごしたばかりだったが、農場を見学したいという退職者がフィリピンを訪問され、再度農場を2泊3日で訪れることになった。農場は相変わらず雨で今回は一度もマヨン火山を拝むことは出来なかったが、訪問するたびに新たな発見をする。また、今回は退職者の方にちょっぴり農場の日常を体験していただいた。   ハイビスカスといえば赤い花が相場だが、フィリピンではピンクや黄色、白など色々改良されたものが庭を飾っている。庭には鉢物だが黄色いハイビスカスが大輪を咲かせていた。また庭先には美しいチョウチョが飛来した。   農場の周辺を散歩してみると、モウソウ竹のような大型の竹が自然に生えている。これらは建築材料に使えるが、是非農場にも植えて竹炭を作ってみたいと思う。通常バナナは2~3mで実をつけるが、身が固くて料理用に使うサバというバナナは10m近い高さとなり、いかにも熱帯のジャングルを思わせる風情だ。カボスに似たカラマンシーは調味料としてフィリピン料理に欠かせないが、2m位の小さな木に鈴なりになっており、マーケットでは安く売っているのがうなずける。一方この辺の小川はマヨン火山の麓で勾配が急なために日本の小川のようだ。    農場ではキャッサバという芋が収穫時期を迎えていた。収穫方法は幹をつかんで引っこ抜くだけで極めて簡単。退職者の方に体験収穫をしてもらった。このキャッサバは道路淵などいたるところで栽培されており、幹を20cmくらいに切ってななめに挿しておけば肥料もなしに数ヵ月後には収穫できる。もっと大量に栽培し、これで豚などのえさも賄って、さらに豚の糞を肥料にするなど、いずれ農場内で食物連鎖を完結させたいと思っている。現在は豚、闘鶏、テラピアなどの飼育に飼料を買って与えてるが、えさ代が販売価格にさえ追いつかない。それに世界恐慌そして食糧危機にでもなれば、農場の資源を最大限に使わなければ生き抜いていけないなど、自給自足の夢をめぐっていろいろと空想も膨らんでくる。     キャッサバは実をおろしてから液を絞りバナナの皮に包んで蒸して食べるが(この液には毒があって、そのまま食べることはできないそうだ)、まさにちまきといったところだ。ココナッツミルクや砂糖などで味付けをするが、甘さ控えめに作ってもらったら、お餅のようでとてもおいしかった。   一方、5年前に植えたココナッツは早いものは背の高さくらいのところに実をつけていた。若いココナッツの実は中の液を飲むことができるが、大変あっさりしていて、まさにスポーツ飲料の原点ではないかと思う。ココナッツをぐるぐる回して幹から取ろうとしたらありの大群に襲われてしまった。ココナッツの花を包んでいた黒い花弁が彼らの棲家だったのだ。   好奇心の強い退職者は、さらにカラバオ(水牛)の体験乗車を試みた。農場で働いている農夫がいとも簡単に乗るので、やってはみたもののお尻の位置が安定せず、なかなか難しいものであったとのこと。 […]

農場初体験 2009年1月18日


 1月11日は小生の?回目の誕生日だ。この日は友人に誘われてチャイナ・タウンにあるフィリピンで一番古いスペイン/フィリピン レストラン、 Ambos Mundos(アンボス・ムンドス)で昼食をとることにした。そのため12時過ぎ、願い事が何でもかなうといわれるチャイナ・タウンのキアポ教会の前で待ち合わせた。   日曜のミサの時間にぶつかったために、教会の前や横には入りきれない大勢の人々がスピーカーから流れる牧師の祈りに聞き入っていた。キアポ教会と言えば、一昨日のフィエスタでは200万人を超える人々が教会から運び出されたブラック・ナザレの像の行列に殺到したことで話題になったばかり。しかも幸いにも今年は死者がでなかったと関係者は胸をなでおろしていたそうだ。   キアポ教会の周りは野菜や果物、日用品そしてロウソクや怪しげな薬品を売る屋台で一杯だ。さらに教会からPaterno(パテルノ)通りに入るとメガネ、Raon(ラオン)は電気製品など、専門店街が続く。もちろん格安でなんでも揃っている。   キアポ教会からしばらく歩いてTorres(トレス)通りのAmbos Mundosレストランにたどり着いた。入り口には黒豚2頭を置いているのが印象的だったが、創業1888年、120年の歴史をほこるレストランの威厳を感じさせるほどのものではない。前日テレビで紹介されたせいか、店は満員だった。しかし、注文してから1時間近くも待たされ、いささかうんざりした。料理も特に老舗らしさを味わえるものでもなかった。一緒に経営されている1955年創業のWah Sun中国料理店のほうがかえってにぎわっていた。   レストランから程遠くないSta. Cruz(サンタ・クルス)教会はチャイナ・タウンの中心だ。しかしこの地域は地図を見てもチャイナ・タウンとは書いていない。Quiapo(キアポ)、 Binondo(ビノンド)、Devisoria(デビソリア)などの地区を総称してチャイナ・タウンと呼んでいるのだ。 […]

誕生日にチャイナタウンを探訪 2009年1月12日



   1月6日、タガイタイ・シランに近々開業が予定されている介護施設アモーレの里の新年会に参加した。この日はあいにく私の相棒がアンヘレスに行く用事があり、車が使えない。仕方が無いので、バスとジープニーを乗り継いでいくことにした。事前のヒアリングによると直行のバスは無く、まずメトロマニラの南の玄関となっているアラバンまでバスで行き、そこからジープニーを乗り継いで行かなければならないとのこと。アンヘレスで大分ジープニーの修行を積んだので何とかなるだろうとで1時間以上余裕を持って出かけていった。アラバンまではスムーズに行けたが、そこから先は乗り合わせた人にジープニーの乗り代え場所と行き先を聞きながら、手探りの旅となってしまった。   アンヘレスのバリバゴといえば有名なフィールドアベニューのあるところだが、同じな地名のところにタガイタイ等に向うジープニーステーションがあった。ようやくそこでタガイタイに向う最後のジープニーに乗ることができたが、すでに開会の3時をとうにすぎていた。知っているつもりのビニャンやサンタロサも実は高速道路沿いのほんの一部を知っているだけで、おかげ様でアラバンから南の一般道路沿いの多くの街をこの機会に見学することができた。 アモーレの里に到着したのが4時半近く、会はすでにたけなわだったが、おかげ様ですぐに食事にありつくことができた。   地上5階、地下一階の大変立派な建物だが、1階部分の内装が完成しており、モデルルームもできて、開業を待つばかりになっている。野菜畑では立派に野菜が育っている。玄関にはアモーレの里のモットーが掲げられていた.   。   中央通路は広々としていて入居者がくつろげるようになっている。また、クリニック、キオスク、喫茶店、ジム、客室、事務所などが地下に配置される予定だ。  建物の前、屋外にしつらえられた宴席にはすでに40~50名の客が、スタッフによるカルチャーダンスを楽しんでいた。久々のおせち料理やつきたてのもちを楽しんだ後はゲームやビンゴなど皆でを楽しんだ。   5時過ぎ、8名のシスターが到着した。なぜシスターか招待されたのかわからないが、ビンゴの時間になると日本語での数値の読み上げに対して躊躇せず紙に穴を開けている。このシスターは日本語がわかるかと疑問に思って耳をすましていると、日本語で話している。そこで話しかけてみると全部日本人だという。ラグナのドンボスコ校の人だそうだが、確かに良く見ると日本人だ。日本人のシスターがフィリピンにいるなんてはなから思っていないから、てっきりフィリピン人だと思いこんでいた。そうやって見ると日本人もフィリピン人もあまり見てくれには区別がないようだ。    […]

アモーレの里の新年会 2009年1月7日


 退職者の一人が農場を訪問した主な理由は、マニラのおおみそかの喧騒を逃れるためだった。マカティのコンドミニアムから眺めると、花火と白煙で街はまるで火の海になるとのことで、室内に流れ込んだ硝煙と喧騒に朝まで悩まされるそうだ。そのため今回は農場で静かな夜を過ごそうという算段だったが、夜も更けてくると、花火の音が激しくなってきた。しかし、周囲100mには家が一軒もない農場では、これらの音も遠くで汽笛を聞くようで、かえっておおみそかの雰囲気が増して心地の良いものだった。タバコの市街地付近ではかなりの花火が上がっており、街の硝煙と喧騒はマニラと同じではなかったかと推察される。  12時になると本来はなべや釜をたたいたり、ラッパを鳴らして、少しでも喧騒を助長し、新年を迎えるのがフィリピン流だ。しかし、今回は件のお客さんがあることから、なべや釜はやめて家から少々離れてラッパを鳴らすだけにした。ラッパが一段落したら年越しそばならぬ、年越しのスパゲッティやそのほかのご馳走を食べる。日本のおせち料理というところだが、ここでは夜中から食事が始まるのだ。何人かの子は眠気なまこで食事に向かっていた。  そして食事のあとはお正月のギフトだ。マニラのデビソリアでしこたま買い集めた安物のおもちゃや衣類、靴などをギフト用の紙にくるんで配る。このときばかりは子供たちの目はらんらんと光っていた。  正月の飾りは13個以上の丸い果物や卵とナッツ、米、それに現金で、ともに収穫と富を象徴するものだ。これにより今年の豊作と収入を祈るのだが、たぶんに中国的影響が強い気がする。そのためか師走のマーケットは果物を売る店がやたらと多かった。1月1日は教会へ行ってミサを行う。そして2日は日本と同様、親戚や知り合いの家を訪問する。この日は二組、20人ほどの客があった。私の相棒は同窓生との食事のあとはダンスに興じていた。  近所を散歩するとバランガイの子供たちが道端でダンスを練習していた。この子供たちから将来有名なダンサーが生まれるかもしれない。ボクシングの英雄、マニー・パクヤオやビリヤードの世界チャンピオン、エフレン・レイエスもこういう巷のチャンピオンから生まれたのだ。

フィリピンのおおみそかと正月 2009年1月5日



 退職者の二人を案内して闘鶏見物にでかけた。年末ということで普段にも増して人が集まり、闘鶏場はほぼ満員、駐車場には入りきれないくらいのオートバイが並んでいた。ここタバコでも庶民の足としてのバイクが定着している証拠だ。  闘鶏場の控え所には多くの人々が自慢の闘鶏を胸に抱いて出番を待っている。悲しいながら、このうちの半分は1時間もしないうちに生涯を終えることになるのだ。        戦う2羽の闘鶏が出てくるとまず、闘志を掻き立てるために別の闘鶏とにらみ合ったりかみ合ったりさせる。さらに戦う2羽を対面させるあたりから賭けが始まる。まるでせりのような掛け声で場内は騒然となるが、手振り身振りで賭け金と賭ける闘鶏のコーナーを示す。賭けの相手を見つけて金額が折り合うと賭けが成立する。青コーナーはメロン(有る)、赤コーナーはワラ(無い)と呼び、かけ方はいたって単純だ。胴元はいなくてあくまでも客同士1対1の勝負だ。戦いが始まると賭けは終了。あとは勝敗を見守る。勝負がつくと、負けたほうが賭けの相手にお金を渡しておしまいだ。賭け金は1階席が500ペソ以上、2階席が 100ペソ以上だ。なお、掛け金の10%はコミッションとして闘鶏場に支払わなければならない。 1回の勝負で数千ペソのお金のやり取りが行われるからフィリピンでは大変な金額だ。この間、われわれには誰と誰がいくらで賭けが成立したのか皆目見当がつかない。しかし、彼らは試合が終わるとちゃんとお金を渡しあい、何のトラブルも発生していない。コンピューターも使わないで短時間のうちに闘鶏の死を賭したゲームが進行していく様は驚異に値する。もし自分も賭けに参加したいと思ったら隣で大声をあげている人に頼めばよい。メロンに500ペソ、などとだけ告げて、結果を見守る。負けたら500ペソを支払い、勝ったらコミッションを除いた450ペソを回収して渡してくれる。ただしその場合、チップを10%程度渡すことをお忘れなく。    闘鶏はそもそも闘争本能が旺盛でオス同士が出会うとあっという間に喧嘩が始まる。だから2匹のオスは決して一緒にできない。喧嘩の方法は親指にあたる突起で相手を攻撃するものだが、闘鶏ではそこに鋭い刃物を取り付けて戦わせる。だから、出会い頭の一発のけりで勝負が決まってしまうことが多い。負けたほうはもちろんオーナーあるいは負けた相手のオーナーの胃袋に納まってしまう運命だ。   勝ったほうでも傷だらけになることが多いが、その場合は場外の獣医に傷口を縫って治してもらえる。たまには相打ちで引き分けということも有る。また、決定打が出ないままずるずると戦いが続いて双方が疲れてしまい、どうしようもなくなることも有る。その場合は10分の制限時間があり、タイムオーバーの引き分けとなる。 ちなみに場内にはほとんど女性はいない。いてもスナックの売り子ぐらいのものだ。大金を儲けたり、すったりする博打は女性の敵なのだ。一方、バードウオッチングが趣味の退職者は闘鶏を初体験して大変満足した様子だったが、これもバードウオッチングの内なのかと首をかしげていた。

闘鶏入門 2009年1月5日


  タバコの中心はZiga Avenue(シガ通り)というが、その周辺とマーケットには人があふれていた。この街のこんなに人がいたのかと思うほどだが、正月は帰郷ラッシュで人口は倍ぐらいに増えているのに違いない。市営マーケットビルの前の広場はテント作りの屋台がひしめきあっていた。これは入居金が高すぎてマーケットビルに入れない人たちが自衛手段として建てたものか、あるいは、従来屋台のあった場所に新たにマーケットビルを建設中なので、そこから移動したかだろう。いずれにせよ普段の倍近い店が出て年末商戦を繰り広げていた。  タバコ唯一のデパートのLCCにも人があふれていた。教会前にも花火売りの屋台が並び、1年間でたった数日の商戦にかけていた。これらの花火はおおみそかの1時間くらいの間にすべて消費されるのだ。   市庁前や街の主要な場所にはメイヤーの家族を写した大きなポスターが掲げられていた。年末年始の挨拶ということであろうが、下院議員ラグマンの娘のクリセル市長の自己顕示欲は留まるところを知らないようだ。しかもこれは2010年の統一選挙を見据え公費による選挙活動を行うというしたたかな作戦でもある。   教会のクリスマスの飾りはそのまま残されていた。星型の飾りには名前や写真が張られ、日本のお祭りの寄付の名札に似ている。いくばくかの寄付を教会にした人たちが名前を掲げているのだ。また、市庁舎や広場に飾られたクリスマスツリーもそのままだ。一方、セブパシフィックが発着するターミナル3も大きなクリスマスの飾り付けがなされたままだった。  この日は土砂降りの雨降りで、しばし雨宿りを強いられたが、雨の水を使ってシャワーを浴びている子供を目撃した。スコーター(スラム)の子供は水道もないから、このスコールでシャワーを浴びるのだ。   師走となれば人出が多い。人出が多いとそれを運ぶ手段が必要だ。そういうわけでトライシクルやパジャック(サイドアカーをつけた自転車)が列を成していた。心なしか普段より数が多い気がするが、気のせいだろうか。彼らも年越しの金を稼ごうと必死なのだ。 マニラに戻るとターミナル3にはまだ巨大なクリスマスランタンが飾られてた。また、農場ではこのランタンのような花を見つけた。

師走の街には人があふれていた 2009年1月5日