ある退職者の死の教訓 2009年12月15日


 先日、退職者の方が重い腎臓病を患って亡くなった。

「退職者が回復してもとの健康を取り戻す可能性はない。このまま酸素マスク、点滴などの救命治療を継続して、生き続けたとしても植物人間の状態が続く。そのため、これらの救命治療をやめて自然に任すか、あるいは救命治療を継続するか、決断してほしい。」というのが医者のアドバイスだった。

 ちなみに、フィリピンでは家族の同意があれば、本人がその意思を示すことが出来なくても、これら救命治療を停止して、自然な死を迎えさせることが許されている。日本では、医師も家族も一旦始めた救命治療を停止することは出来ない。もしそれを実行した場合、殺人とみなされるそうだ。だから日本には、意識を失い、死を待つだけしかない多くの人々がこの救命治療のために生き続けている。それには莫大な医療費を要し、健保や家族への大きな負担となっているはずだ。たとえ、本人がそれを望まないとしても、今の法律ではなす術がないそうだ。

 本人としても残された家族に莫大な費用負担を強いるということは決して本望ではないだろう。しかも、もはや手遅れで死ぬべき人間をただ単に生かし続けて死期を遅らせるということが果たして医学のあるべき姿なのだろうか。生は尊いものであることは間違いないとしても、人間あるいは動物として、もはや生きているとはいいがたい人々を医学の力で生かし続けることは、動物社会や過去の歴史の中ではありえないことだ。これらに費やされる社会資源は膨大で、社会を支える人たちに重くのしかかっている。それが、政府の施策だとしても、その原資は税金や保険の掛け金で国民が支払っているものだ。国民の負担が大きくなると、そのしわ寄せは個々の家計に影響し、結果として少子化によって防衛するしかなくなってしまう。

 動物社会において、メスは閉経を迎えると速やかに死ぬという。メスとしての役割を終えたのだ。一方、オスは自分で食料を獲得する力がなくなると死ぬ以外にない。人間はこの原理から除外され、その後、数十年という長い間活き続け、若い世代に負担をかける。長寿というのは喜ばしいとされるが、果たして平均年齢が100歳なんてことになったら、人間社会に次世代をになう子供を作る資源が残っているのだろうか。もちろん、長寿で元気、自らも家庭や社会に貢献しているのなら、大いに結構なことなのだが、自ら生きる力のない人々が生き続ける結果の長寿社会などは決して喜べることではないだろう。

 逆説的な言い方になるが、古い世代が死んでいくことが次の世代を育んで行くということではないだろうか。もし世代交代がなかったとしたら、生物の進化はない。アメーバは細胞分裂だけをして生き続けるので、何億年の間もアメーバのままだという。人間も数百万年の間、世代交代を繰り返し、現代社会があるのだ。老いるものの死と新しい命の誕生こそが種として生きるということではないのか。だから癌などのように、ウイルスや細菌によるものでなく、自分の体そのものの変異による病気は人が死ぬための仕組みなのではないか。それを克服しようとすることはかえって種として生存していくということを否定することになるのではないか。まだ生きるべき人を救う医学は多いに歓迎されるものの、単に寿命を延ばす医療は全く無意味だと思う。

 フィリピンでは金があろうがあるまいが、男と女が愛し合い自然の営みにしたがって子を作り、そして逞しく子育てに励む。避妊は宗教上嫌われ、堕胎は法律で禁止されている。だから妊娠すれば必ず生む。そして親は生まれてきた子供を育てるために必死に働く。どんなに貧しくても子供達に囲まれて皆幸せだ。これが人間そして生きるものの本来の姿があると思う。ここには介護や老人の問題はない。家族がこぞって面倒を見てくれるので、老人は幸せだ。しかし、高額な治療など出来ないから、重い病にかかったら、悲しみに包まれながら死んでゆく。それが自然の摂理なのだと思う。

 日本では新しく生まれる生命を絶つ堕胎は許されているが、自ら生きることが出来ない人を自然に死なせる尊厳死は許されていない。なんという矛盾なのだろうか。フィリピンでは堕胎は殺人という意識を持っているが尊厳死は許されている。老いたものが世を去り、新しい命が誕生するのは自然の摂理であり、浅知恵の人間が棹さすべきものではないのだ。国を支える新しい世代がいなくなったら国は滅びる。フィリピンは貧しい人は多いかもしれないが、とても逞しくて活力あり、未来があると感ずる。

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