KIANの英語と公文 2015年11月6日 1


KIANは5歳半となり、いよいよ来年は小学校に入学する。ここのところ英会話の上達は目覚しいものがあり、私ごときの英語ではなかなかついて行けない(Nativeとして喋っているのだから当たり前かもしれないが)。数字も公文のおかげで100以上まですらすら数えられ、まさに幼児の域を脱しつつある。

先日も、携帯ゲームに夢中になっているKIANの体をつまんだりしてからかっていたら、KIANは癇癪をおこして「Get out from the room(出て行け)」と怒鳴られた。わたしが、「OK, I will go out(出てくよ)」といったら、思わず自分の言ったことの意味に気が付いて、あわてて私を引き止めて「Joke only(冗談)」と苦笑いをしていた。普段からママ・ジェーンに言われているのをまねしたのだろうが、まるで、大人の会話だ。

しかしながら、家庭教師までつけて、これだけの努力をしているにも関わらず、KIANの文字を書いたり読んだりする力は、いまだにきわめて低いといわざるをえない。ようやく、YES、NO、CAT、DOGなどのきわめて簡単な単語を読んだり書いたりできる程度だ。ただし、JURASSIC WORLDなど、興味のある単語はパソコンにインプットさえできる。これをやらないとお目当てのゲームを開けないからだが、少なくとも文字を書いたり読んだりすることがこれからの人生に重要な役割を担っていることを認識しているようだ。だから、パソコンの画面やちらしや本の文字を指差して、なんと読むのかと頻繁に聞かれる。いったん音声にすれば、簡単に理解できるようだ。人間はそもそも文字を直接理解する能力はなくて、音声にして初めて理解することができるそうだが、まさにKIANを通して実感できる。

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寝る子は育つというがKIANは実によく眠る

一方、公文の数字の勉強は、+1や+2、さらに+3までの足し算ができるようになっている。実に簡単な計算だが、毎日毎日宿題に挑戦して、似たような問題を続けて紙に答えることはできても、言葉でTwo plus Three equal? などと問いかけると答えは返ってこない。

先日、すぐに飽きて公文の宿題に身が入らないKIANに対してママ・ジェーンは愛想をつかし、罵声とピンタを繰り出した。KIANとしては公文があるからママに叱られると解釈して公文に行きたくないと泣き出してしまった。つかさず、私が割って入って、そんなことをしていてはKIANが勉強する興味を失ってしまうから、Home Teacherとしてジェーンを解任し、代わりにアティ・キムが宿題の指導をすることになり、事なきを得た。

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KIANはテレビ漫画とレゴが大好きだ。漫画の英語を理解できるのかと聞くと、自信ありげにYESと答える。私はさっぱり理解できない。

視覚や聴覚による認識や味覚、触覚、嗅覚などのいわゆる五感に関しては、動物そして人間は、生まれたときから、大人と変わりない能力を持っており、特に訓練は必要ない。言葉についても周囲が話している言葉を話すのは、3歳~5歳で十分な会話が可能を身に付け、アナウンサーにでもなるのでなければ、特に訓練は必要としない。

KIANは周囲がタガログないしビコラノ語でありながら、英語で話すことを強要され、若干の注意が必要だった。これは、はじめに国際語である英語を身につければ、マイナー言語であるタガログ語(自国語でありながら)などは、あとから自然についてくるという、フィリピン独特の知恵だ。

だから会話という能力は五感に近い人間ないし動物がが持っている基本的能力であると思う。だから、普通に生活していれば自然に身について、学校の成績がどうのこうのというのは関係がない。五感と言語については人間誰しも遺伝子レベルで一定の能力を持っているものなのだ。

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スマートフォンのゲームに熱中するKIAN、夜は私の部屋でラーメンを食べるのが日課だ。

一方、文字と数字はどうだろうか。アルファベットこそなんとかマスターしたものの、文章を読みこなすのは、小学校とハイスクールの12年間の学習を経ないと一人前になれない。数字の方も、一桁の足し算から二桁の足し算、そして引き算、掛け算、割り算、さらに応用問題など、この先、果てしない道のりが続いている(多くのフィリピン人は九九のあたりでギブアップしてしまうようだが)。

この文字と数字が発明されたのは、人類の歴史上、せいぜい数千年前であり、しかも一部の特権階級もので、一般庶民が読み書きそろばんを習うようになったのは数百年もさかのぼることはない。だから、人間の遺伝子DNAには何も書き込まれておらず、すべて生を受けてから、学校という特殊な環境で十数年かけて獲得しなければならない能力なのだ。

一方、五感の能力を生を受けてから訓練によって獲得しようとしたら、並大抵でない努力と時間が必要だろう(あるいは不可能だろう、リハビリを見てもわかる)。現に、スポーツ選手や芸能人、芸術家などは、この五感のさらなる訓練に大変な努力をして、しかも才能のあるごく少数の人しか世に名を成すことができない。

動物が数億年の歳月を費やして獲得し、人間に引き継がれてきた五感の能力に比べたら文字や数字などは、まさに人間の浅知恵にすぎない。だから学校の成績(文字と数字だけの)で人の能力を判断するなどというのは愚の骨頂なのだ。

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うれしいと大きな口をあけて喜びを表現する。ビーチのベッドで癒しのポーズも様になっている。

文字と数字は人間と動物を区別する重要なファクターであり、これ無しでは、社会生活を真っ当に送ることはできない。しかし、文字と数字だけで社会的なステータスを獲得できるとは思えない。文字と数字は人間の能力の付け足しに過ぎず、ちょっとした努力と忍耐があれば誰にでも備わる能力だ。

一方、行動力、決断力、説得力、指導力、創造力、忍耐力、努力、注意力、分析力、抱擁力、などなど、諸々の力(りょく)、文字と数字だけでは表現できない能力が社会生活には欠かせない。これらの力(りょく)は教室で文字と数字を唱えていても決して獲得できるものではなく、学校の試験で計ることもできない。

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レゴを買ってもらって大事に抱えるKIANと空港の待合所で私を見上げるKIAN

文字と数字は、もともと、動物・人間は備えていないものだから、教室という環境で徹底的に繰り返しの訓練をするしかない。これに脱落したものは劣等性として烙印を押されるが、社会生活においては文字や数字に劣っていても、もろもろの力(りょく)を有していれば、社会で名をなすことも可能だ。

これらの力(りょく)を獲得するためにはどうしたらいいのだろう。これらの構成要素は五感であろうから、生まれつきの能力にも左右されることもあるだろう。しかし、よく遊び、よく学びの諺にあるように、遊びから学ぶことが大きいだろう。しかしテレビやパソコンゲームで遊ぶのはだめ、友達との鬼ごっこやトランプゲーム、そしてレゴやプラモデルなどが小さいうちはいいだろう。さらにスポーツや音楽、あるいはサークル活動などもこの力(りょく)を大いに高めることだろう。

CIMG2745s-2車の中から外を見る無垢な顔がなかなかのハンサムだ。

5歳児の文字と数字の平均的能力がどの程度のものかよく知らないので、KIANが文字や数字について先を行っているのかどうかわからない(あるいはどうでもいい)。学者にでもならない限り、世の中を渡っていくために平均的なレベルにさえ達していればよい。

それよりも、世の中で指導的な地位を占めるためには、幼い内から、力(りょく)を身につけることだ。一方、先日ヤヤを説得して、家に戻したように、大人顔負けの優れた説得能力も身につけているKIANの力(りょく)については、計り知れない可能性を秘めていると確信している。そのためにもっとも重要なことは周囲、家族が限りない愛情を惜しみなく注ぎ込むことだ。


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