商売がら多くの人と会うせいか、久しぶりに連絡があって、名前を聞いても誰だか見当がつかないことが多々ある。年のせいかとも思うが、10年以上前に社内の人に会いに行くとき、これから会う人の名前が思い出せず、あせったことがある。先日もカラオケで後ろの席に見覚えのある人が座っており、顔は間違いなく知っているが名前もなにもかも思い出せない。その人が声をかけてきて、「元...の...です」と聞いた途端、すべてを思い出した。
何故人は他人の名前を忘れるのか。私は名前がデジタル情報だからではないかと思う。一方顔や景色などの映像、声や匂い、触覚などはアナログ情報だ。ひと目見た顔は忘れない、などと豪語する人がいるように一旦入力されたアナログ情報はそう簡単には忘れない。しかも顔を認識するのに1秒の時間も不要で、一瞬の内に識別できる。さらに同じ人の顔でもうれしいのか、悲しいのか、怒っているのか、複雑な心の内まで識別できる。文字や数字そして名前はデジタル情報なので識別や理解に時間がかかる。これらのデジタル情報を処理するために人類は大脳を発達させたわけだが、未だにこの分野は頭脳にとって苦手のようだ。
(無垢としかいいようなのない赤ちゃんの頭の中は全くのアナログの世界だ。デジタル情報が入ってくるのは幼稚園くらいからだろうか)
動物と人間を比べたとき、アナログ情報を処理するという観点に立つと、そこには人間の優位性はない。例えば、犬の嗅覚は人の数千倍の感度を持ち、夜間の視覚も足元にも及ばない。それぞれの種は生き抜くために必要な能力を磨き、それは人間をはるかに凌ぐ。それぞれの個体に名前などは付け合っていないだろうが、相手あるいは敵を識別する能力に何の疑問を挟む余地はない。一方、人間が動物と差別化できるのはこのデジタル情報の処理能力以外にはないだろう。
しかし、人間にとって数千万年~数億年にわたって動物として培ってきたアナログ情報処理能力と、ここ数万年~数十万年、あるいは、ほんのここ数千年のあいだに氾濫し始めたデジタル情報の処理能力とのあいだには雲泥の差がある。人の脳がデジタル情報をコンピューター並みに処理できるようになるには、まだ、数百万年の月日と数万回の世代交代が必要だろう。そのころ人間は頭でっかちで体の小さい想像上の宇宙人みたいになっていることだろう。
(コンピューターにとっては怒っているのかあるいは悲しいのか、人にとってはいとも簡単なことを判断するのに複雑なプログラムを用意しなければならない。一方、人には生まれたときにすでに脳に組み込まれているのだ。)
ところで言葉はアナログ情報なのかそれともデジタル情報なのだろうか。少なくとも文字はデジタル情報なので、文字で書かれた文章はデジタル情報だろう。一方、声で発音された言葉はアナログ情報ではなかろうか。だから、文章の理解と言葉の理解では使用する脳が違うのだろう。だから本に書かれた英語のフレーズ (デジタル情報)をいくら繰り返してみても会話は上達しないのだ。。色々な記憶術という本を読んでみても、要は、名前などのデジタル情報をアナログ情報に関連付けて人の膨大なアナログ情報処理プログラムに乗せて記憶しているだけなのだ。
(クリスマスになると街は花売りなどの少女が、クリスマスの資金集めに働きに出る。クリスマスの喜びを分けてくださいというわけだが、これらの少女の可愛さなど、コンピューターで判断することは到底できないだろう)
人は6歳になったら小学校、中学校、高校そして大学と16年間も長いデジタル情報の学習コースに乗せられる(フィリピンでは6、4、4ないし5の合計 14~15年)。しかし、人間の頭脳の大半を占めるアナログ情報処理は趣味やスポーツの世界、あるいは世間に出てからの丁稚奉公で学習するものだ。実際問題、教室で習うデジタル情報よりも遊びや趣味の世界で身につけた知識の方が世間で役に立ったというのは誰でも経験していることだ。だからデジタル情報だけに耽るお宅は、人間性というものを学ぶことが出来ず、秋葉原の無差別殺人事件のように時には人間社会の反逆児になりかねない。
(アナログ世界に住むキアンは何の憂いも悩みもなくすくすく育っている。おきている間中静かにしていることはなく、常に手や体を動かしている。この運動により、神経細胞が発達し、やがて器用に歩いたり、手を使えるようになるのだ。まるで赤ちゃんはリハビリテーションを楽しんでやっているようだ)
コンピューターの基本は、ONかOFFあるいは0か1の信号が素子に記録してあるだけで、この素子を8個、16個あるいは32個で一つの文字を表現する。そしてこれを百万個集めたのが1メガで、その千倍、10 億個が1ギガのメモリーだ。そして情報をプロセッサーで色々処理するだけだ。コンピューターはもともとデジタル情報を処理するために開発され発展してきたのだから、文字情報などの処理や記憶はすこぶる早い。しかしながら写真などのアナログ情報はデジタル情報すなわち、0と1の情報に変換して一つ一つの点ごとに記憶するというすこぶる稚拙な方法で記憶する。たかが写真1枚記憶するの数メガの記憶容量を必要とする一方、写真一枚をインターネットで送るのにも随分と時間がかかってしまう。
(鳴いたカラスがもう笑った。あやしてやると目に涙を浮かべながらもお愛想笑いをするキアン。こんなややこしい表情をデジタル情報で処理するなど到底不可能だ)
一方、人は相手を瞬時に見分け、脳に刻み込まれた数千~数万人のデータベースから、過去に会ったことがある人か、そしてその人に関して知っていることを瞬時に引っ張り出してくる。しかも、その人が今どんな感情を持っているのか、この出会いに関してどのように感じているかなど瞬時に判定することさえできる。今のコンピューターでは人の表情を記録して、それが喜んでいるのか、悲しんでいるのか、怒っているかなどを判定することさえ不可能だろう。それもそのはずだ。彼らの頭の中は所詮、0と1しかないのだ。一方、人間の頭脳はどういう仕組みなのかいまだ解明されたとはいえないだろう。人の顔を一瞬に認識し、記憶して、さらにそれに関連するデータや感情を引き出してくることができるようなコンピューターを作るにはまだまだ、長い歳月が必要だろう。また、仮にまた、そんなことがコンピュータに出来る様なったら人類はコンピューターに滅ぼされてしまうかもしれないが。
(何を食べさせてくれるのだろうと期待に胸を含ませるキアン(左)、それが気に入らず顔をしかめるキアン(右)。まずいという表情は万国共通だが、言葉で表現すると似ても似つかないものになる。だから泣き笑いは本能的なもので言葉は学習するものだ。しかも動物に言語はないから、言葉は人間が獲得したデジタル情報処理能力の基礎的なものなのだろうか)
人間の能力の内デジタル情報を処理する能力はアナログ情報処理能力に比べてほんの一部分でしかないはずだ。学校でテストするのはこのデジタル情報処理能力だけだ。だから学校のテストの成績だけで人を評価する現在の世の中は実に不合理で、幾多の才ある人を葬ってしまってきただろうに違いない。もちろんデジタル情報処理能力が高い人はアナログも得意かもしれないが、アナログは得意でもデジタルはいまいちという人も多いはずだ。ちなみにイチローのスイングをコンピュータでやらせたとしたら、野球場と同じ大きさのコンピューターが必要に違いない。フィリピーノは一般に計算が弱いから馬鹿だなんて思う人がいたとしたら、これもまたとんでもない思い違いだ。逆にフィリピン人と同等の英語力を有する日本人が一体どれだけいるか考えて欲しい。