フィリピーノは何故数字に弱いのか 2014年9月13日


フィリピーノの数字の弱さには定評がある。サリサリのお姉さんで、おつりの勘定を暗算でできる人にはめったにお目にかかれない。私の良きアシスタント役として活躍してくれているKIANのお姉さんのキム(18歳)は、大変優秀だが、こと数字の話になると、話題をそらす。

9月12日のマニラ新聞に、この件について、面白い話が載っていた。米紙、ウォールストリート・ジャーナルの記事で、米国の心理学者や教育学者の研究成果だそうだが、要は、英語そのものが数字を理解するのに不向きで、英語圏、すなわち、米英あるいはフィリピンではそれがハンデキャップとなっているというのだ。アメリカ人の数字の弱さは、確かに定評がある。

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お願いするときは、両手をすり合わせて、「プリーズ」と繰り返す。こんな顔をされるとどんなことでも聞かざるをえない。一方、機嫌が悪いと、白目をして下唇をつきだすで、思わず噴出してしまう。

たとえば、11はイレブン、12はトエルブなどの単語だが、日本語などでは十と一あるいは十と二で表現し、これらが二桁の数であることが良く理解できる。さらに17や18はセブンティーンあるいはエイティーンと表現され、70あるいは80のセブンティーあるいはエイティーときわめて取り違えやすく、しかも、十進法の一の位と十の位が、十台とそれ以上では逆転していて、きわめて理解しづらい。

新聞の記事はそこまでだが、さらに九九に至っては、日本の九九と英語のそれでは圧倒的な違いがある。英語では、9x9=81をナイン・タイムズ・ナイン・イコール・エイティーワンなどと長ったらしい読み方をするが、日本語なら九九八十一(ククハチジュウイチ)と数分の一の時間で唱えられる。

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私の執務机の周りで遊ぶのが大好きなKIAN。机の上や引き出しの中のものをいじくりまわして遊ぶのが無常の楽しみらしい。右の写真は、幼稚園の催しもに着けた衣装でご機嫌で帰宅してきたKIAN。幼稚園から帰ってくると、まず私のところに飛んでくるのが日課だ。

フィリピーノは英語で算数の授業を受けるので、まず、十以上の数字、十進法の理解と足算に苦しみ、さらに九九で挫折して、それ以降、大多数の生徒が、一生、算数・数学には無縁の生活を送ることになる。だから、KIANには、数字や九九をを日本語で覚えさせたいと思っているくらいだ。また、一方フィリピンでも普及している公文式ではどのように算数やABCを教えているのか、いたく興味を持っている。場合によっては、公文に通わせることも考えている。

KIANが幼稚園に通い始めてから3ヶ月を過ぎたが、KIANはABCを勉強するのが大きらいで、先生から、このままでは、来年も年少を繰り返さなければならなくなると忠告されている。いわば、留年あるいは落第だ。そんな事態をさけるために、ママ・ジェーンは、家庭教師を雇って、KIANにABCを特訓させようと企てているらしい。私は、頭が良いと評判のKIANがABCがきらいで幼稚園を留年させられ、落第生とレッテルを貼られるかもしれないという馬鹿馬鹿しい現象に腹立ちを覚えている。

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カメラを構えると得意のワッキーフェイスを披露しておどけるKIAN

ちなみに、KIANが数字として認識できるのは三つまでで、それ以上になると、「たくさん」としか認識できないようだ。ABCも、その日習ったアルファベットしか書けない。それよりも、単語を丸のまま読んでくれといい、一つ一つの文字ではなくて、言葉全体を記号として認識しようとしているようだ。

そもそも、人類数百万年の歴史で、数字や文字が発明されたのは、せいぜい数千年前の話で、世界的に数字や文字が普及したのはたかだか数百年の歴史しかない。人類は、数字や文字無しで、脳を発達させ、人類という、他の動物とは極めて異なる類を形成した。その原動力は、二足歩行で自自由になった手を使い、さらに道具を使って脳を飛躍的に発達させたことにある。

だから、脳の発育に数字や文字は不要だ。現にKIANは数字や文字無しに、おもちゃやスプーンを器用に扱い、英語を流暢に話し、タガログ語やさらに日本語まで理解するという、大人顔負けの知恵を持っている。先日、「重い」の意味を聞いたら、「Heavy」と答え、「待って」の意味を聞いたら、「Wait」と正解し、日本語を教えてほしいと要求する。我が家では、英語、タガログ、ビコラノ、そして日本語が飛び交うが、それぞれが、異なる言語で、同じことを違った言葉でしゃべるということをしっかり理解しているのだ。親たちのタガログ語やビコラノでの会話に、英語で割ってはいることもしばしばだ。

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私の部屋で一日の大半を過ごすKIANは、私がいても遠慮はしない。先日は、この姿勢から、にわかに小さなおちんちんを出して、ベッドの上におしっこを撒き散らし始めた。私の顔面も命中させて、大喜びだった。この攻撃には私もたじたじで、一騒動になった。その後も大きな水鉄砲で部屋を水浸しにする気配だったので、「I will threw you from window if you do it」と脅したら、構えだけで水を発射することは、さすがになかった。

子供の脳は、遊びや音楽、そして親兄弟との日常の生活を通じて日夜、飛躍的に発展して行く。それを、子供を机に縛り付けて、1、2、3やABCを繰り返させるなんて愚の骨頂だ。ちなみに、KIANは、ワン、ツー、スリー...テンを諳んじているが、サイコロの目を見せて、いくつかと聞くと、三つまでしか正解は言えない。4つ以上は適当に知っている数字を言うだけだ。しかし、数字や文字は時が来れば、自然に覚えるもので、それよりも、活発に遊んで、歌って、踊って、食べて、寝るのが一番と思う。そもそも、歌や踊りは人類の遥か昔からの楽しみで、歌や踊りを楽しむお祭りのない種族は、存在しない。だから、歌や踊りは、人間としての本能に近いものだと思う。

思い返してみれば、幼稚園にはろくすっぽ行かなかった私は、小学校の低学年で数字と文字を習いはじめた。そして、算数の問題を解いたり文章を書けるようになったのは4年生くらいからだったと思う。それを、幼稚園の年少で、ABCが苦手だから、落第させるなんてことは、百害あって一利なし、子供の健全な成長を妨げる以外の何ものでもない。

結論として、数字に弱いということは、英語圏では、ごく普通のことであり、社会生活を送っていく上で、特に弊害とならないようだが、逆に、得意であったとしたら、大いなるアドバンテージとなる。そのため、KIANを算数好きな子供に是非、育てたいと考えている。

 

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