退職者の一人が農場を訪問した主な理由は、マニラのおおみそかの喧騒を逃れるためだった。マカティのコンドミニアムから眺めると、花火と白煙で街はまるで火の海になるとのことで、室内に流れ込んだ硝煙と喧騒に朝まで悩まされるそうだ。そのため今回は農場で静かな夜を過ごそうという算段だったが、夜も更けてくると、花火の音が激しくなってきた。しかし、周囲100mには家が一軒もない農場では、これらの音も遠くで汽笛を聞くようで、かえっておおみそかの雰囲気が増して心地の良いものだった。タバコの市街地付近ではかなりの花火が上がっており、街の硝煙と喧騒はマニラと同じではなかったかと推察される。
12時になると本来はなべや釜をたたいたり、ラッパを鳴らして、少しでも喧騒を助長し、新年を迎えるのがフィリピン流だ。しかし、今回は件のお客さんがあることから、なべや釜はやめて家から少々離れてラッパを鳴らすだけにした。ラッパが一段落したら年越しそばならぬ、年越しのスパゲッティやそのほかのご馳走を食べる。日本のおせち料理というところだが、ここでは夜中から食事が始まるのだ。何人かの子は眠気なまこで食事に向かっていた。
そして食事のあとはお正月のギフトだ。マニラのデビソリアでしこたま買い集めた安物のおもちゃや衣類、靴などをギフト用の紙にくるんで配る。このときばかりは子供たちの目はらんらんと光っていた。
正月の飾りは13個以上の丸い果物や卵とナッツ、米、それに現金で、ともに収穫と富を象徴するものだ。これにより今年の豊作と収入を祈るのだが、たぶんに中国的影響が強い気がする。そのためか師走のマーケットは果物を売る店がやたらと多かった。1月1日は教会へ行ってミサを行う。そして2日は日本と同様、親戚や知り合いの家を訪問する。この日は二組、20人ほどの客があった。私の相棒は同窓生との食事のあとはダンスに興じていた。
近所を散歩するとバランガイの子供たちが道端でダンスを練習していた。この子供たちから将来有名なダンサーが生まれるかもしれない。ボクシングの英雄、マニー・パクヤオやビリヤードの世界チャンピオン、エフレン・レイエスもこういう巷のチャンピオンから生まれたのだ。