KIANがピアノのレッスンを開始したのが、2015年1月、したがって、はや1.5年が経過した。週一回のレッスンはほとんど欠かさなかったものの、家で練習することなどほとんどないので、その上達は、ほとんどなしといっても過言ではなかった。そのKIANが発表会に参加するというのだ。そこで早速、弾いてみなと促すと、そらで2~3曲弾いて見せてくれた。もちろん、ABCDEFGなどの定番ものだが指使いも様になっている。苦節一年半、ここまで来れば演奏が楽しくなって急速に上達するだろう。まさに根気以外の何ものでもないということだ(ただし私の根気)。毎週土曜日、サイカで食事をとり、タイムゾーンで遊ばせて、おまけにレゴのおもちゃを買ってやるというニンジンにりんご、それにトマトまでぶら下げて興味を持たせるという気遣いは不要になったようだ。これで、大枚をはたいたキーボードの投資もいよいよ役に立つときがやってきた。
ピアノ教室(EUPHONY MUSIC CENTER)の入り口。マカティスクエアの中2階の右奥にある
発表会の開始前に記念撮影
この日は60人ほどの生徒が演奏を行うことになっていた。午後一時開始なので、夕方までかかりそうだ。KIANは5番目だったので、早めに終わりそうで、KIANの出演が終わったらさっさと帰るつもりだった。はじまってからわかったのだが、要は、KIANは60人中下から5番目という技量だっただけなのだ。発表会まで約一時間待たされたがKIANはNO.5の札の指定席に座っておとなしく開演を待った。心細いだろうとアティ・キムが傍に行くと、”Stay away”と追い返されてしまったそうで、KIANはやんちゃではちゃめちゃだが、決められたルールは守るという意識が強いようだ。昨日もドンボスコの入学説明会にママ・ジェーンと出席した折、一時間以上の説明会もしっかりと集中して聞いており、説明の内容もしっかり把握していたそうだ。幼稚園のKid Schoolに2年間通っている間にしつけられたらしい。
これから始まる発表会に期待に胸を弾ませていたに違いない
いよいよ本番。2曲演奏して、途中間違えたりもしたが、終わったら大拍手、本人も得意げに”Am I good”と繰り返し聞いていた。もちろん答えは”Very good”だ。ここで否定的なことを言ったら、KIANは二度と鍵盤の前には座らないだろうが、一方のKIANはあがることもなく、終始ご機嫌だった。こんなことを言ってはKIANに失礼だが、「豚もおだてりゃ木に登る」という格言を忘れてはいけない。
いよいよ本番、KIANは堂々とピアノを演奏した
時々間違えたが、パニックになる様子もなく無事にこなした
現在妊娠中のママ・ジェーンが生まれてくる子(クッキー)にもピアノを習わせて兄妹の共演を見てみたいと言い出した。それは大変良いアイデアだ。近い将来二人の共演が実現できたら、すばらしい。そこで割り込んできたのがママ娘のアテ・キムだ。彼女は小さいころピアノを習っており、是非、再開したいと懇願した。私はKIANのためにも姉が一緒にスクールに通ったら大きな励みにもなるだろうし大賛成だ。しかし、ママ・ジェーンは、カーネルに相談すると、あまり乗り気ではなかった。この6月からは大学に復帰する予定のキムにとっては、仕事(ママ・ジェーンの手伝い)と勉学、それにKIANとクッキーの面倒と一人三役の大忙しになることは必須で、確かにそんな余裕はないかもしれない。
その後も延々と発表会は続いたが、最初の10人はKIANと大差のない演奏だった
彼がKIANのピアノの先生だ
昨日、ある若い退職者の母親とお兄さんがフィリピンを訪問され、恒例のサイカ(和食レストラン)でのランチを一緒した。この方は、ギターを演奏し、アマチュアバンドのボーカルをやっていたというミュージュッシャンでもある。さらにお兄さんはピアノを弾くそうだ。私は得意げに、音楽をやるということは、脳の発育を促し、特に小学校時代にやると、頭の回転を早くするということが学術的に証明されている。だからKIANにピアノを習わせているのだと、となりに座っているKIANの頭をなぜながら話した。隣で話を聞いていたお母さんは、とても得意げだったが、そのせいか、この退職者は確かに人格者で賢い。しかし、それ以上に、音楽や美術などのアートを身に付けると人生そのものが潤いのあるものになり、心が豊かになると思う。自分自身はそんな機会を与えられず、受験勉強に明け暮れる子供時代だった。また、自分の子供にも子育てに夢中でかなえることができなかった。今、そんな夢をKIANやクッキーに託したいと思っている。ピアノと公文、そしてドンボスコと忙しくなるKIANだが、私は空手道場への復帰もあきらめたわけではない。
演奏者だけで60人もいるので、聴衆もかなりの数だ
ドラムの演奏にはセミプロのバンドが応援してくれる
発表会が行われたのはEDSA通り沿い、マガリヤネスのアルファランドだった。ここは1989年、私がフィリピンに来たころ、建設中のビルがそのまま20年近く放置され、しばらく前にコールセンターとショッピングモールとしてオープンされたものだ。アルファランドのオーナーとはPRA時代に面識があったが、アヤラ通りとブエンジア通りの交差点の近くにも大型のショッピングモールとコンドミニアムが完成間近だ。今回、初めて訪問したが、気がついてみると、モールの入り口にはPRC(元競馬場)行きのジープが待っており、家までジープで一直線の場所にあることに気がついた。ママ・ジェーンとアティ・キムはグロリエッタに行ったので、子供達とはジープで帰ってきたが、途中KIANは、ドンボスコやサイカを見つけるとうれしそうに大声を上げていた。KIANは只、小学生の二人は、一人6ペソ、私はシニアで7ペソ、全部で19ペソで帰ってくることができた。
ジープの中でもKIANのおしゃべりは止まらず、周囲の客がうれしそうにKIANの話に聞き入っていた
その晩、発表会で味をしめたKAINは得意の踊りを披露してくれた(写真番号をクリックするとURLポップアップするので、それをまたクリックしてください。ダウンロードにちょっと時間がかかります)