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 年末の休みを取ったのが12月20日、それから、しばし世間の情報から遠ざかっていたのだが、1月6日、マニラに戻って戦慄が走った。1ドルが89円、1万円が4600ペソと10%以上の円安となっていたのだ。株高はいいことかもしれないが、年金でフィリピンに暮らす退職者にとっては、一割減収、生活費をそれだ切り詰めなければならない。退職ビザを申請する人も、今まで2万ドル=160万円程度で済んだのが、あっという間に180万円必要になった。 1月6日、ビコールの農場からの帰りの飛行機の中、この時はまだ、円安を知らなかった。  しかし、円安がこれで止まるという保証はどこにもない。逆に、過去20年くらいの間、80円~130円くらいの間を行き来していたと思う。ここ数年、歴史的円高により、1万円が5000ペソをこえ、退職者は大いに円の恩恵を享受した。しかし、これからさらに円安が進むと、年金暮らしの退職者は真綿で首を絞められるような思いをするだろう。一方、預託金2万ドルも、200万円、250万円と、どんどん増加していくことだろう。一方、1ドル=78円程度の時にビザを取った方は、さぞ、ほくそえんでいるにちがいない。 洗濯物のカゴにおさまってご機嫌のKIAN  振り返ってみると、私が、2003年にフィリピンに永住して以来、円高が進み、1万円は5000ペソをあっという間に越え5500ペソまで達し、大いに喜んだものだった。私は退職庁にいて、しきりに退職ビザを勧めていたころで、ドル預金も利子が4~5%ついて、フィリピンが一番魅力的な時だった。しかも、2006年の5月から、預託金が50歳以上、5万ドルから2万ドルに下がったので、申請者が殺到した。(以下の数値は私の記憶あるいは感覚によるもので正確なものではありませんのでご容赦ください。また、ペソはドルにリンクしており、ペソ→ドル→円という順序でレートが決まります) ① 2004~2005年:1ドル=100円=50ペソ、1万円=5000ペソ、1ペソ=2円  1ペソ2円と、とても計算が楽でわかりやすく、物価さ5倍、交換比率が2、すなわち10倍理論(ペソの価格を10倍して、日本の物価と比べるもの。100ペソといわれたら10倍して、1000円と考えて、値段の高低を判断するもの)を提唱した。しかし、その後、円安により、2006年から2007年には、1万円が3700ペソ(最安値)くらいにまで落ち込んで、退職者にとって、氷河期となった。 ② 2006~2007年:1ドル=113円=44ペソ、1万円=3900ペソ、1ペソ=2.56円 1月11日は私の誕生日、円安のおり、300ペソのケーキだけで誕生日会、起きがけのKIANもあまり乗り気ではない  そして、歴史的円高が始まって、1ドルが80円を割って、再び、1万円が5500円に達し、退職者の春がやってきた。しかし、それは自民党が政権を奪還した2012年末までのことで、年末から年始にかけての円安は悪夢の再来となった。 ③ 2012年:1ドル=80円=42ペソ、1万円=5250ペソ、1ペソ=1.9円 ④ 2013年1月11日:1ドル=89円=40.5ペソ、1万円=4550ペソ、1ペソ=2.2円  ここで着目しなければならないのが、②から③に至るとき、急激な円高に隠れて、1ドル50ペソから40ペソ台と、ペソもかなり強くなっていることだ。ここのところ、フィリピン株式市場は史上最高値を連日更新し続けており、昨今の中国の政治姿勢に嫌気がさした企業が、投資先としてフィリピンを見直している、などなど、この先、フィリピンの経済の好調は当分の間続くものと予測される。 姉のKIMに肩こりの薬を塗っているKIAN、腹違いの兄弟だがとても仲がいい  そうなると、退職者にとっては、円安の進行と、ペソ高の進行のダブルパンチとなる恐れがある。仮に、1ドル=40ペソが継続し、円が、1ドル=120円まで下落したとすると、 […]

円安が退職者の懐を直撃 2013年1月13日


マニラ新聞が発行している無料誌ナビ・マニラにビコール・エクスプレスが復活したとの記事が載っていた。ビコール・エクスプレスとは、マニラービコール地方レガスピ市を結ぶ、約500kmのフィリピン唯一の長距離列車。一日たった一本、約12時間かけて走る夜行寝台列車だ。現在は長距離バスに押されて、その存在意義が疑問視されるが、フィリピン国鉄(PNR)の威信をかけての復活だ。   昨年、マニラとラグナを結ぶ通勤列車が、韓国から援助された列車を使って運転されているが、国鉄というにはあまりにもお粗末だった。そのため、日本から援助されたかつてのブルー・トレイン「北陸」を使っての長距離路線の復活はPNRの祈願だった。 ここ数年来、マカティの南、サウス・スーパー・ハイウエイ沿いを走る線路のスコーターが撤去され、通勤列車が走り始めたが、線路はがたがたで、いまだにスコーターの住民の昼寝の場所になったりしている。 ビコール・エクスプレスは、2006年の超大型台風レミンの被害で、鉄橋がいたるところで破壊され、約5年間、不通になっていた。この台風ではビコール地方タバコ市にある我が家も屋根が吹き飛ぶという大変な被害を被った。 レガスピの手前のリガオ、私は、レガスピを訪問することが多いので、まさかこんな状況の線路に列車が走るはずがないと、その復活を信じることができなかった。 レガスピの中心地の近くに駅があるので、今回の訪問を期に立ち寄ってみたが、そこは相変わらずの廃屋だった。 しかしながら、ここでクリスマスの模様しものが開かれるようで、飾り付けがあった。中では公園のように人が散策していた。普通の駅と違って線路はここで行き止まりだから、駅のプラットフォームの端が駅舎となっている。運賃は片道655ペソ、車内は清潔だが、乗り心地は今一、現在脱線横転事故の復旧で運休中だそうだ。 ちなみにビコール・エクスプレスは、ビコール地方の名物料理の名前でもあり、トウガラシとオキアミをココナッツで味をつけた、フィリピン唯一の辛い料理だ。だから、甘党のフィリピン人の中にあって、ビコラノだけは辛党で知られている。

ビコールエクスプレスの復活 2012年12月21日



2014年1月31日追記 2014年1月22日(水)、空港で客を出迎えに行く折、スカイウエイを通ると、その終点にたくさんの椅子が並べられ、なにやら式典が行われる模様だった。翌日のマニラ新聞によると、アキノ大統領も出席して、南北ルソン高速道を結ぶ高架式のスカイウエイ第3期工事(14.8km)の起工式が行われ、2017年4月までに完成する予定だそうだ。総工費は266億ペソ、インドネシアの建設会社、国家建設公社(PNCC)およびサンミゲル社が設立した合弁会社、シトラ・セントラル・エクスプレスウエー社(CCEC)が事業主体となる。 もう一本の連結道、メトロ・エクスプレスウエー・リンクはすでに着工済みで2016年中にも完成する予定なので、この2本の高速道路ができたら、マニラを取り巻くカラバルソン(カビテ、ラグナ、バタンガス、リザール、ケソンの5州)の流通は飛躍的に改善されるだろう。 南ルソン高速道はかつてSouth Super Highwayと呼ばれていた。一方北ルソン高速道はNorth Luzon Express Way,、略してNLEXと呼ばれている メトロマニラの南北を環状に縦断する幹線道路EDSA(エドサ)通りは、朝夕の通勤ラッシュだけではなく、ほぼ一日中渋滞し、マカティからケソンまで10km程度の距離に1j時間以上かかってしまうという、マニラを象徴する悪魔の道路だ。  ここ十数年で、主要な交差点の立体化は完了したが、人口と経済の拡大による自動車の増加で、焼け石に水、高架鉄道のMRTも渋滞緩和に役に立っていない。特に最近整備が完了した、メトロマニラからの南へ走るSLEX(SOUTH LUZON EXPRESS WAY)と北に走るNLEX(NORTHLLUZON EXPRESS […]

メトロマニラ縦断高速道路の着工せまる 2012年12月19日(2014年1月31日改定)


  日本から3組の母と子供達が退職ビザの取得のためにフィリピンを訪問された。総勢8名のいわゆる母子疎開だ。目的は、ずばり、「放射能汚染が蔓延する日本にもはや住む場所はない」と語る。到着早々、皆さんは、始めてのフィリピン訪問と言う話を聞いて、その勇気と決意に驚いた。初めて訪問する国、それも3Kの悪名高いフィリピン(?)で永住することもいとわないという、すべて子供の健康と将来だけが命なのだ。  5人のお子さん連れ、総勢8名の健康診断や銀行手続きなどの申請準備に予想外の時間がかかった。どこか、訪問するたびに、まず、おしっこで、トイレ探しに追われ、喉が渇いたと、ミネラルウオーターの調達に走らなければならない。  到着日の午後は書類の準備と健康診断、そしてPRAのパーティに参加(12.12.12の記念すべき日、別途報告の予定)。翌日は終日マニラ見物。そして3日目は銀行手続きとビザ申請、そしてモール・オブ・エイシア訪問と、連日、夜10時すぎまでの強行軍だった。 マニラ見物の最初の訪問先は、ラスピニャスのサウスビラ・インターナショナル・スクール。母子疎開の先輩の案内で、子供の教育環境とオハナ・コンドやイリジウムなどの住宅環境の視察。先輩のお勧めで、SMサウスモールのMary Graceイタリアン・レストランで昼食をとる。しゃれた店構えは日本のレストランに勝るとも劣らない、それで値段は半分以下と、お母さん達は大満足だ。 次に向ったのがフォートボニファシオ・グローバルシティとアメリカンセメタリー。広々とした芝生に子供達はおおはしゃぎ。そしてマニラ・インターナショナル・スクールや日本人学校の立派さにびっくり。インターの学費、年間160万円にはためいきをつく。彼女達は、放射能汚染で住めなくなった日本を逃げ出す一般庶民だから、企業の援助で、このような学校に通う駐在員子女とはちょっと事情が違う。将来、ご主人も日本に住めなくなると生活の糧を失ってしまうリスクもあるから、財布の紐は固い。フィリピンで外国生活をエンジョイしようなんて気はさらさらなくて、まさにサバイバルの気概を持っている。 お一人がクリスチャンということで、特にイントラムロスや、チャイナタウンの世界遺産の教会群に興味をもたれていた。世界遺産、サンアガスティン教会で、丁度、結婚式をやっていた。この街は歴史地区とはいえ、現役で活動している生きた街なのだ。マプア工科大学などの大学が並ぶ一角は平日のため学生があふれていた。  かのフィリピン近代史の英雄、先代のアキノ元大統領の葬式が行われたのが、クリスチャンの総本山、マニラ大聖堂だ。残念ながらその中には入れなかったが、遠くから記念撮影。そして次に向ったのがチャイナタウン。その一角のビノンド教会は天井の絵画が有名だそうで、そう思って見るとなかなかユニークで見ごたえがある。  キアポ教会周辺の人の洪水にはさすがに緊張、お母さんは子供達の手を固く握り締める。その辺をうろつく犬達に恐怖感を覚えるのは、フィリピンの犬は皆狂犬病にかかっていると信じているからだ。一方、一山5ペソ、10ペソで売っている野菜に、「これなら生活していける」と確信する。しかし、このころすでに暗くなりかけていたので、世界遺産、サンセバスチャン教会は割愛して、本日のフィナーレ、マカティのアヤラトライアングルの電飾ショーに向った。   クリスマスが近いせいか、マカティの渋滞は半端ではない。大分時間がかかったので、5歳のR君は居眠りをしてしまった。アヤラ・トライアングルの地下駐車場でR君をママが抱きかかえると、思わずお漏らし。あわててトイレを探し回る。エレベーターで上がって外に出ると、まさに電飾ショーが始まったところ。クリスマスソングにあわせて公園の木々に取り付けられた電飾が点灯する様子に、皆、感激だ。 8時を回っていたが、貪欲なママ達はさらにグリーンベルトに繰り出す。ぐるっと一回りして、名古屋から出店しているMA MAISONのトンカツを試食。わざわざフィリピンに来てまで日本のトンカツやで食うことはなかろうと、躊躇されていたが、食材が日本から来たものではないことを確認した上で、OKとなった。唯一日本から持ってきているというソース等には皆さん手をつけられなかった。さらに、ジャパニーズ・ライスと表示されていることに敏感に反応していたが、一口食べて、「こんなまずいご飯が日本から来ているはずがない」と確信し、安心して口に運んでいた。  そこのトイレで見つけたのが、モール・オブ・エイシアで和民(わたみ)が開店したというお知らせだ。名前の元祖であるこの私を追っかけて、フィリピンにまできて出店するとはけしからんと思うが、いずれ試しに食べてみたいと思う。ちなみに和民(カズタミ)は私の本名だ。 翌日、PRAでビザ申請を無事に終えて、モール・オブ・エイシアに向った。もちろん、まずはトイレ探し。そして、花火があがるマニラ湾側にいそぐ。途中、スケートリンクを見て、「なんで~~」と思わず絶句。そして広大で人であふれえる屋内の市街に、「日本よりも都会じゃ」と思わず声をうならせていた。 花火見物を満喫して、食事。屋内に9人が座れる席がないので、外のテーブルに座ったが、決して暑くはないし、快適だ。そして、ビール好きの皆さんと、まずは乾杯。そして、「今時、放射能を浴びる心配をしないで、屋外で食事が取れるのが、うれしい」と、まさかの感想をもらす。皆さんは決して東北や関東から来たわけではないのだが、「いずれ瓦礫の焼却などで、全国に放射能汚染は広がり、日本中が放射能汚染地域になる」と信じている。  […]

日本から妻と子がいなくなる 2012年12月15日



   先の選挙で下院議員に当選したフィリピンの英雄マニー・パクヤオ(33歳)が伏兵メキシコのファン・マルケス(39歳)にノックアウトで敗れた。強すぎて戦う相手がいないとまでいわれるパクヤオに果敢にも挑んだ39歳のロートルは一発で大金星をつかんだ。  パクヤオの試合を見ようと、特大スクリーンを設置した無料会場には多くの庶民が集まった。フィリピンではテレビの中継は、試合後、しばらくたってから行われるので、生中継を見るためには有料の会場に行って見なければならないのだ。 ここのところ数戦、微妙な判定で勝利してきたパクヤオは、何が何でもノックアウトを狙って、初めから飛ばした。また、相手はすでに2勝している格下で負けるなどということはありえないと信じていたようだ。しかし、その慢心と油断が、第6ラウンド、カウンター気味に入った右のストレートでマットに沈み、そのまま失神してしまった。この痛恨の一撃でパクヤオの神話は終わりを告げた。 パクヤオの勝利を信じていた観客は、まさかの敗北に、ぼう然としてたちすくんだ。そして、葬式の列のように肩を落として会場を立ち去り、フィリピン国民、皆が喪に服した。 パクヤオのママ・ジョニシアはテレビで「パクヤオに政治に専念して欲しい」と、悲壮な決意を語った。現在奥さんや弟も政治家の道を歩んでいるとのこと。 パクヤオの勝利はフィリピンの国民に希望を与えるものと、ラスベガスからの凱旋の度にマラカニヤンを訪問して大統領に賛美されたものだが、今回はビニャイ副大統領が彼を励ます異例のコメントを発表した。 さらに、先のアメリカ大統領選で敗北したロムニーもテレビに現れ、パクヤオの偉業を賞賛した。まさに世紀の英雄の最期だった。

英雄パクヤオの敗北にマラカニヤンが弔意 2012年12月10日


 マニラ新聞によると、世界の空港を評価するホームページ「スリーピング・イン・エアポート」でアジアのワースト1の空港としてマニラ空港(NAIA)のターミナル1が選ばれたそうだ。世界のワースト1は、各地のワースト1が出揃ってから決めるそうだが、ターミナル1が選ばれる可能性が大きい。もっとも、昨年2011年の世界ワースト1は、このターミナル1だったから、よほどのことがないと、その地位は揺るがないだろう。  私もかねてから、世界でもっとも出迎えが難しい空港ターミナルと評し、その出迎え方法を、拙著「金無し...」やこのブログで繰り返し紹介してきた。ターミナル1との付き合いは1989年以来23年になるが、一向に改善の兆しがない。それどころか、退化していると言える。それに比べて、ターミナル2とターミナル3は結構まともなターミナルで、同じ機関が運営していると思うのだが、どうしてこうも違うのか。入れ物が古くて汚いとそこで働く人々の心まで卑しくなるのだろうか。 出発ターミナルビルの外には荷物検査を待つ長だの列。炎天下では苦行となる。さすが最近は改造して屋内に行列を取り込んだようであるが。  最近でも、空港警備の警官が乗客の荷物検査のおりに、隙を見て荷物の中の金目の物を盗み取るということを日常的に組織ぐるみでやっているのが発覚して、多くの警官が処分された。  私自身、一度、ベレー帽をかぶって、いかにも鼻の下の長いおのぼりさんの顔をして搭乗前の荷物検査に臨んだ。すると係りの人が「かもが来た」と目で合図を送り、別の係りの人が荷物を開け、中をごそごそと探っている。私がタガログ語で応答すると、「何だベテランか」とがっかりしたような顔をして係りの人は荷物のふたを閉めた。  到着客の案内と称して客に声を一生懸命かけているのは、タクシーと称してレンタカーを押しつけて、5倍くらいの運賃をふんだくろうともくろむ係り人だから、決して頼りにしてはいけない。  私が、最近客をターミナル1でご夫婦を出迎えたとき、天井からぶら下がっている看板のSの文字の下で待つようにと指示をして、ひたすら待った。そうすると電話がかかってきて、係りの人に案内されて、すでにパーキングエリアにいるという。係りの人とやらと話したら、私にパーキングエリアに出て来いと言う。顔も知らない客だから、そんなことをしたら、永久に会えなくなってしまう。  腹を立てて、「どうでもいいからSの字の下に客を案内しろ」と怒鳴ってなんとか事なきを得た。きっとこのご夫婦を「いいかも」とばかり、レンタカーか乗用車に乗せて法外な運賃を取ってやろうと、もくろんでいたに違いない。  到着ターミナルの人ごみ。原則としてここには出迎えの人は入れず、道路を挟んだ、出迎え人用の待合所で待たなければならない。だから知らぬもの同士がここで出会うのは至難の業なのだ。  とにかくここでは係りの人が一番やばいのだ。特に声をかけてきたら無視すること。ほいほいとついて行ったら事件に巻き込まれることだってありうる。私は一部のフィリピン人を除いて一般のフィリピン人は人を騙したり、金を不法にせしめようとするようなことは決してない、と思っているが、ことターミナル1については「人を見たら泥棒と思え」の諺どおりで、係りの人の言うことを決して信用してはいけない、頼りにしてはいけない、何か言われても無視することだ。  ターミナル1はPAL、Cebu Pacific、それにANA以外の国際便のすべてが到着するフィリピンの空の玄関だ。外国人は、ここではじめてフィリピン人に出会うことになるのだから、こんな係りの人たちにフィリピンの第一印象を左右されてしまう。これが、どれだけフィリピンのイメージに悪影響を与えているか、アキノ大統領には肝に銘じて欲しい。彼は、自分のお父さんの名前(NAIA=Ninoy Akino International Airport)が冠せられた空港をこんな状態に置いておいて言いと思っているのだろうか。 […]

NAIAターミナル1がアジアのワーストNo.1 空港に選ばれる 2012年10月17日



   ゼスト・エアーという格安の航空会社がマニラとレガスピ間に就航したのは聞いていたが、今回、所要でタバコ市を訪問する折、初めて利用する機会があった。  ゼスト・エアーはターミナル4(従来ドメスティック・ターミナルと呼ばれていたもの)に発着するが、そこにはずらりとゼスト・エアーの飛行機が並んでいた。マニラーレガスピ間が往復で2767ペソと、大手格安空港のセブパシフィックが4000ペソ以上するのと比べて、かなり安い。  マム・ジェーンも一緒に行ったのだが、彼女はゼスト・エアーには絶対に乗らないと言い張って、翌日、セブパシフィックでタバコへ向かった。彼女いわく、ゼスト・エアーは他の航空会社の使い古した超中古機を買って運行しているので、いつ墜落しても不思議ではないと主張する。 そのせいか、内部はがらがらで、これで採算が取れるのかといぶかれるが、乗り心地はセブパシフィックとなんら遜色ない。窓から見えるニューポートシティや滑走路、マカティシティ、そしてグローバルシティもいつもと変わらない(当たり前だが)。  ロビンソンデパートの婦人服売り場には客がいない。いるのは売り子だけだ。これは昔、ここで試着をする若い女性客が消えていなくなる、といううわさが流れた。これはロビンソンのオーナーの息子が半身蛇で若い娘の生き血を吸っていきている、というなんともたわいもないデマによるものだ。 しかし、フィリピン人の多くはこれを信じてロビンソンには足を向けないそうだ。ゼスト・エアーにも同様の現象がおきているのかもしれない。 レガスピに近ずくと緑一面だ。この日は曇り空で、マヨンは厚い雲に覆われていた。レガスピ空港に予定通り降り立ったぜスト・エアーもなかなかの雄姿だ。      レガスピにも最近姿を見せたタクシー、レガスピータバコ間が700ペソの固定料金で、農場のあるサンアントニオは100ペソの割りましとなる。帰りも電話一本で迎えに来てくれるの大変重宝だ。今まで、タバコ市中心街まで、トライシクルで行って、そこからフィルキャブ、さらに空港の近くで再度トライシクルに乗り換えるというわずらわしさから開放された。 帰りも客が少なくて 、チェックインに並ぶ必要もなく、さらに30分も早く出発するという異例の事態だった。帰りも残念ながらマヨンの雄姿を拝むことはできなかったが、レガスピの街並みやボニファシオ・グローバルシティの全景を眺めることができた。 SLEX(南ルソン高速道路)の真上を通過して着陸。いつも地上から飛行機が高速道路のすぐ真上を通過する瞬間を撮影しようとしているのだが、未だに実現していない。 早くぬれ衣を晴らして、格安の飛行機を飛ばし続けて欲しいと思う。

フィリピンの格安航空ゼストエアーに初乗り 2012年9月9日


  8月31日の夜、妻から「あなた、大丈夫」という電話が入った。テレビでフィリピンで大地震が発生し、津波が押し寄せていると報道されていると言うのだ。そんなこととはつゆ知らず、あわててテレビをつけて情報の収集に努めた。 それによるとサマール島の沖合いでマグニチュード7.6の地震が発生し、津波警報が出ているというのだ。日本のテレビでも数時間後に50cm程度の津波が各地を襲うと、番組を中断して速報を継続して流していた。 それからはお見舞いの電話やE-メールが立て続けに入ってきた。当方は何の揺れも感じなかっただけに、少々照れくさい。いずれにせよマグニチュード7.6という数字は先の東北大震災のマグニチュード9に比べたら数千分の一のエネルギーで、交通事故に出会ったのと蚊に刺されたくらいの差がある。日本で番組を中断して速報を流し続けるほどのものでもない。中でもフィリピンに押し寄せた津波が3cmという報道には単位を間違えたのではないかと耳を疑った。そもそも3cmの津波などどうやって計測したのか想像もつかない。 メディアがちょっと過敏になりすぎて、人心をあおっているのではないかと感じられた。

フィリピンでも大地震そして津波発生? 2012年9月9日



8月7日(火)および8日(水)はマニラ首都圏を中心に豪雨に見舞われ、道路のほとんどが冠水し首都機能が麻痺した。所によっては水位が腰まで達して、車の通行を不可能としたが、当方にとっては雨季恒例の道路冠水のちょっと程度の激しいものといった感じで、家に閉じこもっていさえすれば、生活になんら支障を来たすものではなかった。  しかし、この日はビザの取り消し手続きのため、バギオから6時間のみちのりをやってきた客がいた。9時に事務所で会って、早速PRAに向かったが、この日、学校と役所はすべて閉鎖され、PRAの事務所も固く閉ざされたままだった。たかがこんな雨でさっさと事務所を閉めてしまうなんて、全くけしからんとぼやいて見ても始まらない。 PRAのドアは無常にも錠がかけられている  それで、銀行の手続きだけも終わらせておこうと、お馴染みのBank of Commerceに行ったが、なんと、銀行も閉まっている。携帯で支店長に文句を言うと、中央銀行が閉まっているから、とおかしな言い訳をしていた。バギオからまた来てもらうのも心苦しいので、委任状を作成して署名してもらい、あとの手続きは当方が代行することにして、昼食後バギオへ戻ることになった。 頼みの銀行も閉鎖  しかし、そうはどっこい、バスターミナルへ行ってみると、NLEX(北ルソン高速道路)が閉鎖され、北へ向かうバスは全部運休となっていたのだ。 仕方無しに、切符を明日の便に変更して、ホテルへ向かった。 そうこうしているうちに雨は激しさを増し、マカティスクエア近辺は歩道まで水が来ている。道のど真ん中で立ち往生したタクシーを放棄している人もいた。  なんとか、ホテルに送って我が家に戻るころには、すでに道路から車が絶えていた。マカティスクエア近辺は水が出やすいことで有名だが、車道と歩道が区別できず、一帯は湖のようになっている。 水しぶきを上げて走っているのはトラックとジープニーだけで、こんな時でも交通手段として役に立つのがジープニーでまさに庶民の足だ。さらに、こんな時活躍するのがサイドカーをつけた自転車、パジャックだ。エンジンなどという文明の利器は使っていないから水に浸かっても屁のカッパだ。  あとは歩くしかないが、マンホールの穴でも開いていたら、下水に飲み込まれて溺死する危険もあるので命がけだ。  現在、ビザの発行を待っているご一家は、この日勇敢にも、お子さんの入学に必要な出生証明をとりに日本大使館に出かけていった。午前中は良かったものの、パソンタモ沿いのウォルターマートでゆっくり買い物をしている間に、パソンタモ周辺は水に沈んだ。タクシーも走っていない。そこでこのパジャックを使って、当社のゲストハウスのあるプライムシティに決死の覚悟で向かったそうだ。 パジャックは、歩道など道なき道を進んでようやくゲストハウスにたどり着いたそうだが、とんだ冒険にお子さんは大喜びだったそうだ。ゲストハウスの近くの道端では子供や若人が天然のシャワーを楽しんでいた。 […]

大洪水‐頼みの綱は自転車 2012年8月10日


先週の土曜日(21日)、退職者の方がゲストハウスに移るため、マラテに迎えに行った。この日は明け方から強い雨が降っていて、途中道路冠水していると思われたが、試しに出かけてみた。これは、ルソン島の東方沖に発生した熱帯性低気圧(ファーディー)の影響で、ルソン島北部に大雨をもたらし、マニラにも強い雨が降ったもの。この時期は、月に数回、こんな雨が降り、10~11月の雨期明けまで続く。 案の上、主要道路は10~20cmの冠水で、なんとか通れたものの、脇の道路は50cm程度冠水して、車も人もおらず、人々は水が引くまで家に閉じ込められている様子だ。 それでもマラテに近ずくと勇気ある人々が自転車を漕いで商売に励んでいる。乗用車は恐る恐る脇を走る。  ところどころ立ち往生している車や自転車が放置されており、人影は見えない。 こんな時は、トラックやSUVでないと安心して走れない。いつ何時エンジンが止まって、車を放置する羽目になりかねないからだ。 歩道にまで冠水が及ぶと人々はすそを折り曲げて道路を横断するしかない。しかし、そこに口を開けたマンホールがあったりすると一大事、ドブネズミになってしまう。  勢いよく走るトラックが起こす波にふらふらになって走るファストフードのデリバリーのバイク。家に閉じ込められた人々に食料を運ぶ彼らは、転んではならじと必死に走る。倒れてしまったら、ビザやハンバーガーは売り物にならず、配達員が弁償しなければならないから、命がけだ。  こんな時に役に立つのがサイドカーつきの自転車だ。かれらは人力だから、濡れてもへっちゃらで、稼ぎ時とばかりに、街の主要な交通手段になる。  人通りもほとんどない通り。こんな時に出かけていくのは我々ぐらいのもの好きだろう。結局、目当ての場所には近づけず、午後に出直す羽目になってしまった。 ちなみにメトロマニラの唯一の排水先ともいえるパシッグ・リバーは、普段でも満潮時は水位が地面より高くなり、すべての排水路は水門を閉めて逆流を防ぐ。だから、雨と満潮が重なると雨水はたまる一方で、簡単に道路冠水を引き起こす。メトロマニラはほとんど平だが微妙に高低差があって、低いところは簡単に腰ほどの高さまで水が来て動きが取れなくなるので、住宅の選定は雨季にするのが無難だ。

フィリピンは雨季の真っ只中 2012年7月25日