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  サウス・スーパー・ハイウエイとブエンディ通りの交差点近辺、あるいはマカティ・アベニューを夜半に車で通りかかると、サンパギータ売りの少女が車から中を覗いて、手にしたサンパギータの首飾りを買って欲しいとねだる。ご承知の通り、サンパギータは国の花で、車の中に飾るといいジャスミンの香りが車中に広がる。こんな夜中にいまだ花を売り歩かなければならない境遇を哀れんで、つい財布の紐が緩む。昨夜、小銭がないのでタクシーの運ちゃんに20ペソを貸して欲しいと言ったら、拒否されてしまった。「花を買ってはいけない」というのだ。「かわいそうだから」というと、「そうではない」という。何か納得できない気持ちで帰ったが、何故いけないか、ジェーンの教えを請うた。 道端で客待ちをする少女達、カメラを構えるとなぜか顔を隠す。ジェーンは彼らが犯罪に寄与していることを自覚しているからだという。  ジェーンいわく、「サンパギータを売っている少女達はシンジケートに組み込まれていて、売り上げは皆バックの黒幕のものになる。彼らは子供達を利用してあくどい商売をしているのだ。また、夜中に車の窓を開けると間髪をいれずに大人が手を車中に突っ込んで、引ったくりやホールドアップをするから、きわめて危険だ。さらに外国人がお金をばら撒くと、この商売を助長することになり、ますます多くの子供たちが利用され、犠牲になる。だから花を買ってはいけない。」と、納得の行く説明をしてくれた。  バクララン教会前では大量のサンパギータを売っている。このおばさんはシンジケートとは関係はないのだろう。また、キアポやデビソリアでよく見かける買い物袋を売る子供達。これはきっと、親の商売のお手伝いjをしているに違いない。  マカティでもカラオケを出ると少女がバラに花を売っている。1本10ペソくらいで仕入れたものを100ペソで売っているのだろう。中で指名するGROにプレゼントをしてやれというところだが、彼らもシンジケートに組み込まれているという。確かに同伴したGROは黙っているだけで買ってやるように勧めない。しかし、バラの花売りの少女は比較的美形が多いのは何故だろう。  パソンタモのカラオケの前でバラの花を売る少女、そいてプエルトガレラのホワイトビーチで手編みのブレスレッドを売る少女。皆可愛い顔立ちをしている。  エルミタやマカティアベニューの繁華街には日中、乳飲み子を抱いてお金をねだるイタ(原住民の一種)のおばさんがいる。哀れそうなやせた顔と眠りこける赤ん坊で同情を引く作戦だが、彼らもシンジケートの一員だという。どこからか調達されてきた赤ん坊は猛暑の中でも眠りこけているが、薬物で眠らされているらしい。彼らにお金を与えることも単にシンジケートを潤わすだけで、犠牲となる赤ん坊を増やすだけだから、やってはいけないという。  島耕作の漫画で、インドではこのような子供達が観光客の同情を引くようにシンジケートに腕を切り落とされようとする場面で島耕作がその子を買い取るという話があった。それに近い状況がフィリピンにもあるようだ。

サンパギータ売りの少女 2012年2月24日


 1.コーン・ビーフ事件 10年近く前になるが、私が退職してフィリピンに住み始めたころの話だ。農場で犬を5 匹飼っていたので、彼らの食事の準備が中々大変だった。安い鶏の頭の部分を買ってきてやわらかくゆでてご飯に混ぜて食べさせていたが、鶏のくちばしを除いたり、私自身が面倒を見ていた。そこで、鶏の頭がいつも手に入るわけではないので、緊急用の犬の食料として大きめのコーン・ビーフの缶詰を5個ほど買って部屋に保管しておいた。隠しておかないと、誰かが知らぬ間に食ってしまうので、いざというとき犬の食料がなくなってしまうのだ。  当時メイド役で、まだハイスクールのデビナが部屋を掃除する際にそれを見つけて、「ダダ(私のあだ名)は食料を部屋に隠している」とジェーンの兄のダシンに告げた。そこでダシンらが「ダダはご馳走を独り占めしようと部屋に隠している」と憤慨しているとジェーンが私に告げたのだ。そこで、私は「それは犬の食料であり、自分のお金で買って保管しておいて何が悪い」と反論した。ジェーンがそのことをダシンに告げたが、ダシンは納得しない。そもそもコーン・ビーフは人間にとってもご馳走であり、それを犬の食料にするなんて言語道断であり、挙句の果てに「犬と人間とどっちが大事なのか」などと、わけの分からぬ議論に発展してしまった。このままでは私に対する恩も尊敬も何もかも消失してしまいかねない危機的状況に陥った。  それ以来、私のは犬のえさの面倒は放棄して、彼らに任せ、部屋に食い物は一切置かないことにした。買ってきた食糧は台所に置いておいて、誰でも好きに食べられるようにしたのだ。おかげ彼らに興味のない日本食などはそのまま何年も忘れ去られてしまうはめになってしまった。    定番のアイスクリームをほおばるKIAN。アイスクリームと聞けば泣く子もだまるKIANなのだ。 2.KIANのフライドチキン事件  KIANはチキンから揚げが大好きだ。先日、おなじみの日本食レストランのSAIKAから鳥から揚げをテイクアウトして、一緒に食べた。手に握り締めて食べているのを、先の部分の肉が落ちそうなので箸でつまんでお皿においてやった。そうしたらKIANが激怒して両手でテーブルをたたいて元へ戻せとわめき散らすく。あわてて骨に肉を刺して戻したのだが、その怒り様は初めて見るものだった。そしてもう一本のチキンのから揚げを頂戴と言ったら、また大きな声でわめいて拒否する。普段は何でも分けて食べるのだが、フライドチキンだけは別格のようだ。こんな横暴な態度は赤ちゃんだけが許される特権なのだろうが、KIANにとっては人生最大の危機だったと見えて、しばらくの間私に対しそっぽを向いていた。       そろそろ赤ちゃんを卒業して子供の雰囲気を出し始めたKIAN。やることなすことにはきりとした意志が伺える。 3.ヤナの日本菓子事件  昨年、KIANのいとこのヤナ(6歳)がマミーと一緒にしばらくマニラに滞在した。その時、私がKIANに日本食材店からお菓子を買ってきてやった。しばらくして、そのまま置いてあるので、封を開けて皆に配った。その後、ヤナがジェーンの部屋でさめざめと泣いていたのだ。ジェーンによると、ヤナがKIAN に買ってやったお菓子を見て、全部自分にくれと申し出て、ジェーンがOKしたのだそうだ。ヤナは学校に持っていって皆に日本のお菓子を見せびらかしたかったらしい。そんないきさつを知らない私は、すでにヤナの持ち物になっているお菓子を開けてしまい、ヤナの希望を打ち砕いてしまったのだ。ならば、「なぜ、私に断らなかったのか、そもそもKIANにあげたものを何故勝手にヤナに与えてしまったのか」と抗議した。しかしジェーンは「一旦、KIANに与えたものは、すでにダダの手を離れてしまったのだから、母親がどうしようとかってだ」と切り返す。私は「ならば、KIANに対する私の気持ちはどうなるのか」と反論したが、理解してもらえない。結局、後から日本の別のお菓子をヤナにあげて、丸く収めるしかなかった。 おいしそうにラーメンをほおばるKIAN。バンクオブコマースがペトロンのガスステーションに移動したので、そこにある日本食チェーン、太った少年、テリヤキボーイで食事をした。普段SAIKA等で食事をしている私にとってはちょっと食べられるレベルではなかった。 […]

食い物の恨みは恐ろしい 2012年2月22日



   ゼネラルへの昇格を目指して、その条件の一つである修士号の獲得のために毎週土日は勉学に通うカーネルだが、この日の土曜日は久しぶりに休みがとれ、皆で豪華ホテルツアーを継続しようということになった。当方もニッパチ(2月と8月閑暇期)のせいか、特に差し迫った用件もない。 New Wolrd Hotelやマンダリン・ホテルあるいはインターコンチネンタル・ホテルなど未探訪のホテルもあるが、やはりシャングリラ・ホテルが一番ということで、再度シャングリラ・ホテルのロビーでランチをとることにした。広々としたところで走り回るのが大好きで、ミルクやオムツなどのお出かけ用具一式の入ったリュックを背負ってロビーを歩き回るKIANはまるでピクニック気分だ。また、ウエイトレスのお姉さんのやっていることに興味を持ってキャビネットの中を覗き込んでなにやら内緒話をしている。  食事はいつもの通り、5人で3皿しか注文せず、後は只のパンでまかなう。今日はKIANの好物のフライドチキン、定番のクラブ・サンドイッチとパンシット(焼きそば)を注文した。ホテルの看板ともいえるパンは中々の美味で、小さなビンに入ったジャムもお土産に格好だ。  クラブ・サンドイッチも具がたっぷりで、なかなかいける。まあ、普通100ペソ程度のサンドイッチが400~500ペソもするのだから、当然かもしてないが。パンシット・カントンがないのでパンシット・ギサド(ビーフン)を注文したが、これは今一だった。  ドリンクも入れて〆て5.5人で3000ペソプラス、決して安いとはいえないが、この豪華な雰囲気の中の食事と思えばリーゾナブルだ(まともに6人分注文したら5000ペソは固いだろうが)。  大好物のフライドチキンを前に大喜びのKIAN。  いつも一番ホテルの食事をエンジョイするのはKIANだ。違った環境では何もかもが目新しい。 テーブルの拭き掃除を手伝うKIAN、そして家ではめったに使わないカラマンシーに興味深々だ。 食事も終わって車を待つ間ロビーを走る回るKIANだが、レストランを紹介する大きなディスプレイの間で立ち止まる。きっとTOY Storyを期待しているのだろう。帰ろうとしたら、KIANはスイッチを切ってディスプレイを消してしまったので、ホテルのボーイがあわてて駆け寄って来てつけ直していた。  

シャングリラホテルで昼食(その2)2012年2月20日


     今や、一人一台にまで普及したテレビやパソコン(ないしテレビゲーム)だが、その影響は1歳児に対しても例外ではない。ヤヤ(子守)が退屈しのぎにテレビを見るので、KIANも一緒にテレビを見ることになる。そしてはじめたのが、このパーフォーマンスだ。音楽がかかると床に寝転んで片足をあげる、きっとテレビのダンサーの真似をしているのだろう。  さらにブルース・リーの空手のテレビを見ると、自分もブルース・リーになった気分でママを相手に空手の試合だ。時にはテレビに向かってもブル-ス・リーの敵に戦いを挑む。また、興奮するとテレビに向かってものを投げつけたりするので、ママはテレビが壊れるのではないかと気がきではない。2歳にもならない子供にとっては現実もテレビ中の出来事もも同じなのだ。 先日韓国料理に招待された際も、湯気の立つ鍋をフーフーしたり、床に寝転ぶパーフォーマンスを見せたり大忙しだった。 KIANにとってパソコンを操ることはまだまだ無理だが、パソコンの前に座ってマウスをいたずらすることは大好きだ。あまりありがたいことではないが、テレビゲームに夢中になる日も近いだろう。  ところで、最近夢中になっているのがToy Storyだ。このアニメに出会ってから、すでに30回以上は見ている。昼も夜も繰り返し見ているので両親もヤヤもテレビの番組を見ることができない。テレビの画面を指差してToy Storyを映写することを要求して、そして歓声をあげながら、夢中になって見ている。どの程度理解しているか分からないが、主人公のカーボーイWoodyになりきっているようだ。その間、ヤヤは他の仕事ができるのでありがたがってはいるが。 この時ばかりはヤンチャなKIANも大人しく真剣にテレビを見つめている。もちろん英語なので会話は理解できないだろうが、そうこうしているうちに英語も理解できるようになってしまうのだろう。  ところで最近、KIANがテレビのビキニ姿のダンサーの踊りを見ているときだった。KIANがママにオチンチンを指差して何かしきりに訴えていた。踊りを見ているうちにオチンチンがが固くなってしまったのだ。KIANにとっては何が自分の体に起きたのか理解できない。ママはおさまるようにフーフーをしてやったのだが、女性の裸をみてオチンチンが勃起するという、動物のオスとしての本能を2歳に満たない子供が発揮したのだ。ちなみに犬は1歳で子供を作り始めるから、別に驚くほど早いわけではない。一方、KIANは多少オカマの気があるのではないかと心配していたが、しっかりと男のようで安心した。  

KIANはToy Storyに夢中 2012年2月17日



2月16日、乾季の真っ只中の大雨だった。午後から客とPRAへ向かうと、あたりは夕方のように暗くなり、強い雨が降ってきた。2時間ほどで雨は小ぶりになったものの、パソンタモは20cmほど冠水して、車は恐る恐ると走っていた。たしかに6月~11月の雨季には日常茶飯事の光景だが、乾季の12~5月はめったに見られない光景だ。今日に限らず、今年は乾季にしては雨が多く、どう考えても異常気象としか考えようがない。 ユーロ圏のギリシャ支援の紆余曲折、イタリアのオリンピック開催立候補の辞退、日本の休眠口座の没収(活用)やマイナンバーによる所得や資産の管理、アメリカの中国への接近と軍事拠点の中国包囲網構想、などなど、今まで耳にしたことのなかったニュースが連日報道されている。あきらかに大きな歴史の変化あるいはうねりの兆候だろう。それと、この異常気象がどのように関わってくるのか定かではないが、3.11のような自然災害が人類の歴史を変える力を持っている事は明らかだ。  こんな世界の動きにかまわず、ここマニラではコンドミニアム建設の槌音が絶えない。高層コンドミニアム建設の波は、マカティの中心街から一歩外れたブエンディア通りの外側に広がり、SMやアルファ・ランドなどの巨大なコンドミニアム群とショッピングセンターが出現しようとしている。マカティ市街地の拡大、オルテガスやボニファシオ・グローバルシティなどの副都心の発展など、メトロ・マニラ首都圏は膨張の一途をたどっている。  自然と共生してきた数千年前までの人類は、3.11あるいはそれ以上の自然の力に柔軟に対応できたであろう。しかし、このような巨大な構造物を作り上げてしまったら、近い将来、3.11をはるかに上回る地球規模の洪水や地震(ないし地殻変動)で、そこには、巨大な廃墟が残るだけだろう。人々はなけなしの財産をはたいて、まるで猿の惑星に出てくる廃墟作りに邁進しているとしか私には思えない。

フィリピンも異常気象(その2)2012年2月17日


  朝、食卓の上においてある赤いバラの花束を見て、今日はバレンタイン・デイであることを思い出した。これは、カーネルがマム・ジェーンに買ってきたものに違いない。  女性がチョコレートを意中の男性にプレゼントするのは日本だけで、海外ではもっぱら男性が赤いバラの花を女性にプレゼントする。この場合、意中の人、というよりも恋人や妻など釣った魚へのえさとしてプレゼントする。これをしなかったら、翌年のバレンタインが来るまで、口をきいてもらえなくなるから、男性も必死だ。したがって、この日、バラの相場が跳ね上がるのは当然の慣わしだ。 朝方、やけに血糖値が高いので、クリニック、PRA、銀行などの用事を歩いて済まそうと思った。アヤラ・アベニューのはずれにある消防署の近くまで来ると大きな花屋が開いている。もちろん売っているのは赤いバラの花だ。消防自動車の赤に赤いバラ、その辺一体は真っ赤だった。 私が40代で現役のころ、バレンタインの日に大量にバラの花を仕入れて、あるカラオケ店のお姉ちゃん全員に配ったことがある。義理チョコならぬ、もてたい一心のいわば義理バラだ。しかし、義理バラという概念はフィリピンにはなくて、あくまでも一発必中の本命バラしかない。もちろん花束は大きければ大きいほどよくて、フィリピン男性は、この日、数千ペソの大枚をたかがバラにつぎ込むのだ。 14日のマニラ新聞はカラオケのコマーシャルでにぎわった。単身赴任の一人身でガール・フレンドもいない寂しい日本人駐在員に、この日だけのにわかガール・フレンドを提供しようという魂胆だ。私も、こんな夜を一人で過ごすのも寂しいと、おなじみのAsianに向かった。9時ちょっと前に入ったのだが、客は私一人でがらんとしている。妻もガールフレンドもいなくて、こんな日に、こんなところにやってくるのは私くらいのものから、ちょっと寂しい思いもした。 それでも9時を過ぎると段々にぎわってきて、馴染みのY子さんを呼んでみたが、休んでいる。こんなかきいれどきに休むなんて、どう見ても本命の彼氏とのデートに違いない。ところで、普段仲良くしている彼女がいるとして、自分が本命かどうかは、この日でわかる。いくら誘ってもデートに応じなかったり、何やかやと言い訳を言ってデートに来なかったとしたら、本命の彼氏が別にいると思って間違いない。バレンタイン・デイは本命の彼氏と過ごすのが鉄則なのだ。もし、この日にデートしそこなったら、その彼女はあっさりあきらめたほうがいい。

2月14日のバレンタインは赤いバラ 2012年2月16日



   1月23日(月)は旧正月(チャイニーズ・ニューイヤー)でフィリピンは祝日だったが、チャイナタウンでは、1月27日(金)になっても、まだまだ旧正月の真っ最中だった。この日の午後は、2組の客を案内してそんなマニラ見物を行った。  まずはじめは、イントラムロスのスペインの街だが、世界遺産のサン・アガスティン教会では、偶然にもミリタリースタイルの結婚式に出くわした。もう少し粘って花嫁の登場を見物したかったが、これからチャイナタウン、グリーンヒル、ボニファシオ・グローバル・シティなどを回るという強行軍だったので、あきらめることにした。  支配者階級であったスペイン系の住民の信仰を集めたサン・アガスティン教会とは逆に庶民の信仰を一手に集める、チャイナタウンの一角にあるのがキアポ教会だ。毎年、1月9日のフィエスタには100万人の人が集まるという。この日、金曜の午後とあってか、教会へ向かう参道、そして教会の周囲は人であふれかえっていた。教会の前面は人々が整然と列をなし、次のミサの順番を待っている。  いつもならばブラック・ナザレのキリスト像を見物するのだが、あまりの人手その場を立ち去るだけで大変の労力を要した。教会前面の右手にはたくさんの占い師(Fortune Teller)がテーブルをおいて店を構えている。  LRT高架鉄道のカリエド駅を過ぎるとサンタクルス教会へでる。そこからビノンド教会までオンピン通りがチャイナタウンの中心だ。サンタクルス教会の入り口には旧正月の飾り物がたれているあたりは、あまりものにこだわらないフィリピン人のおおらかな性格によるものだろう。まさにサリサリでハロハロの世界だ。 オンピン通りには金屋と漢方薬屋、それに中国の飾り物を売る店とレストランくらいしかないと思うくらいだが、旧正月の期間は干支の辰の人形とお持ちを売る屋台が目立つ。さらに干支にちなんでドラゴンフルーツ(赤いサボテンの実)を売っていた。ドラゴンフルーツのとなりに並んでいる黄色い果物は誰に聞いてもわからない(私はあのサプリとして有名なノニの実ではないかと思うのだが)。 この日の締めは中華料理。定番のマカティ、ジュピター通りのルートン・マカオで食事をした。一回の食事で2回満足できるのが売りだ。食べてみて、美味しくてびっくり、そして勘定書きを見て、安くてびっくりの2回だ。 いつも同じメニューを注文するのだが、この日はマム・ジェーンの注文でKIANへのテイクアウト用にチキンのから揚げを注文した。料金は5人で飲み物も入れて2000ペソ足らず、一人400ペソにも満たなかった。日本なら合計で一人分の料金だろうとため息がつく。 

旧正月のマニラ見物 2012年2月14日


  昨年、認知症のお母さんの退職ビザを取得された方がいた。そのとき、「認知症患者の世話が日本では大きな社会問題となっているが、フィリピンではどうなのか」という話になった。そうしたら、マム・ジェーンは「フィリピンには認知症はいないのよ、なぜならその前に皆死んでしまうから」と、こともなげに語った。なるほど確かに認知症のことが話題になったこともないし、見かけたこともない、そもそも年寄りをあまり見かけない。その一方で、うじゃうじゃというほどガキがたくさんおり、街は若者であふれ、うろついている年寄りは我々外国人が大半だ。  いかにもかわいらしいKIANの寝姿。赤ん坊は無邪気なだけだが、周囲をとりこにする力を持っている  フィリピン人の平均寿命は50歳代だというから、確かに長生きをする人は少ないのだろう。したがって認知症患者もいないのだ、となんとなく納得したが、その話を医者にしたら、「そんなはずはない」という。「フィリピンにも年寄りはたくさんいるし、平均寿命が短いのは幼児死亡率が高いからだ。そして日本と同等の割合で認知症患者はいるはずだ」という。しかし、フィリピン人から、「親が認知症で苦労した」、あるいは「苦労している」という話を聞いたことがない。そこで思い出したのが、ジェーンのお父さんの晩年の話だ。彼は下の世話を娘にさせながらタバコが欲しいとねだる。そこで娘は枯葉をまいて火をつけて与えたら、おいしそうに吸っていた、などと笑いながら話していたことがある。話からすると、彼は明らかに認知症だったはずだ。  何が悔しくて泣いているのか、床に伏して思いっきり泣き叫ぶKIAN、こうなったら手がつけられない  しかし、フィリピン人は子育ても同様、肉親の老人の世話できることが幸せであり、役目だと思っている。自分を育ててもらった親の面倒を見ることは自分の子供の面倒を見るのと同様、当然のことで、家族の一員として当たり前の役割なのだ。人間誰しも老いて赤子に帰っていく。これから育って大きくなっていく赤子と、これから小さくなってなくなっていく赤子がいるだけのことだ。だからフィリピン人は認知症の親の面倒を苦労とはとらえない。 思い通りに行かないと泣き叫んで思いっきり不満を主張するKIAN。周囲が何を欲しているか分からなかったり、状況がそれを許さなくてもお構い無しだ。鼻ちょうちんがかわいい。  ならば、日本では何故社会問題となってきているのか。昨今の核家族化で認知症の親を面倒見るだけのゆとりが日本の家族にはない。だから、介護施設や病院に入れることになる。住み慣れた家や家族から引き離された認知症の老人は凶暴化したり、症状が悪化する。介護施設でも厄介者扱いで、挙句の果てにベッドに縛り付けるなどということがまかり通る。一方、家族に囲まれて住み慣れた家に住むフィリピンの認知症のお年よりは、穏やかで家族のお荷物にもならない。単に、最近物忘れがひどくてぼけてきた、程度なのだ。だからまるで赤子のように無邪気で敬愛されるべき存在なのだ。 この誕生ケーキは私のものなのだが、そんなことはお構い無しにろうそくの火を吹き消そうとするKIAN。赤ん坊は何をしても許される。老人も同じことのはずだ。   KIANの成長を見ていると、赤ん坊は、実にわがままで野蛮とさえ感じる。自分の思い通りにならないとすぐに泣き叫ぶ、むやみやたらにものをいじくりまわして壊す、小便も糞も垂れ流しだ。朝も昼も夜もなく、泣きわめいて親を困らす。それでも周囲の大人はKIANの一挙一同に歓声をあげて喜び、いつくしむ。何の知識もなく本能の赴くままに、分けの分からない行動をとる赤ん坊を、人は決して認知症とは呼ばない。赤ん坊なのだから、当たり前なのだ。一方、同じような行動をする認知症のお年寄りに対しても、「年寄りなのだから、当たり前のこと」と、フィリピン人は理解を示す。 階段の途中から下で執務する私に微笑んで手を振ったり、傘をさしてみたり、少々人間的な行動を取り始めたKIAN。その一挙一動が注目と賞賛の的だ。  フィリピンでは認知症を病気ととらえず、自然の老いととらえる。一方認知症になったとしても家族に囲まれているので、あえて患者呼ばわりされるような状況には陥らない。要は、認知症を病気ととらえて、治療するとか入院させるとか、そんな発想はフィリピンにはなくて、一人の人間の誕生から死に至るプロセスの一環として捉えている。すなわち、「フィリピンに認知症はいない」、ではなくて、「フィリピンに認知症患者はいない」、なのだ。 手にするものは何でも携帯と捉えて耳に当てて意味の分からないことをしゃべっているKIAN。年寄りが同じ事をしたら、認知症だとして大騒ぎになってしまうだろう。

フィリピンに認知症はいない? 2012年2月14日



    ゴメス家はクリスマスパーティと大晦日のパーティを一族郎党が集まって一気に執り行うのが恒例だ。深夜12時過ぎに執り行われる2012年最初の食事の準備に娘達は余念がない。 現金と穀物や果物、そして穀物を飾るのが中国式、2012年も豊富に食物とお金が入りますようにとの願いを込める。  食事の準備が一段落ついたところで、ゴメス家の重鎮ジェーンとカーネルが子供達に囲まれて記念撮影だ。  知らぬ間に食べきれないほどの食事が用意される。参加者は30人足らずなので半分以上が残ってしまいそうだが、ご心配は無用だ。使用人などが、家で待つそれぞれの家族にお土産に持って帰って、結局何も残らない。パーティの始まるころに目覚めたKIANは自分を忘れるなと手を上げて存在を主張する。 つい最近まで子供と思っていた年長組みの女の子達(中央の3人)もすでにハイスクールの高学年でそろそろカレッジに入るという。さすがに色気が出はじめている。  パーティの喧騒をよそにそ知らぬ顔を決め込む忠犬アイス、KIANはマイクを独り占めしてなにやらわめいている。        パーティの目玉はなんといってもクリスマスのプレゼント。ジェーンが9月ごろよりデビソリアで買い集めた大量のギフトが、それぞれの子供に持ちきれないくらいに配られる。今年は経費節減の折から、ギフトを包む紙はなんとマニラ新聞、そして今年から、ギフトをそれぞれに渡すのはKIANの役割だ。 12時、2012年を迎えて、家中にばら撒かれる縁起物のコインを拾う段になると、嬌声が行きかう。 そして次は音の出る金物なら何でもいいから、しゃもじやスプーンでたたいて家中をのし歩く。これも中国の習慣だそうだ。ちなみにジェーンのお父さんは福建省出身の純粋な中国人だ。 そして、待望の食事、年越しそばならぬあの甘いスパゲッティはかかせない正月の食べ物だ。  2002年から2004年まで、この農場で私の面倒を見てくれたレガスピのINSALで働いているデビナが駆けつけた(左写真の右から2番目)。当初はまだ小学生だったが、すでにカレッジも卒業して妹を養いながらひとり立ちしている。あのころからボリュームのある子だったが、ちょと度が過ぎているのが気になるところだ。右端のビアンカはデビナの跡継ぎだが、16歳になって大人になりかけている。  最後は家族全員集合の記念撮影で幕を閉める。

クリスマスと大晦日のパーティ 2011 2012年2月12日


    ゲストの帰国予定の関係で、1月2日、早めのマニラ帰還だった。連日の雨の割にはこの日は好天に恵まれ、マヨンの絶景の期待が高かった。席は右側の窓側。連れのゲストは「私はいつも通路側」とちょっとつれない返事だった。  空港には前日レガスピ市の父方の実家に泊まったKIANが見送りに来てくれた。 飛行機はいつも沖へ向かって発進し、Uターンをして、マヨン火山の脇を抜けて北方のマニラへ向かう。この日は期待通りマヨンがその雄姿を惜しげなくさらしていた。  パイロットはこんな時、マヨンの至近距離を飛ぶというサービスをしてくれる。当方は夢中でシャッターを切った。このように機内からマヨンが見れるのはめったにあることではなく、前回は2007年12月、KBSの取材陣の取材旅行以来だと思う。実に4年ぶり3度目のことだ。クリックして拡大して見てほしいが、マヨンの山肌の荒々しさがよく見える。

久しぶりのマヨン火山の絶景 2012年2月12日