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韓国のガンナム・スタイルが世界的に流行している。ちょっと変わったダンスだが、子供たちが皆、夢中になって踊っている。フィリピンでも今、もっともはやっていると言えるだろう。韓国の大統領選でも、与野党の両候補がガンナム・スタイルを踊って、公衆に親しみやすさを訴えた。  12月20日に来比して、モール・オブ・エイシアで公演が行われることになっていたが、ガンナム・スタイルを踊っているサイ(Psy)本人が2012年12月21日は、マヤの予言する世界終末の日とあって、恐れをなして公演を中止したとのこと。マヤは彼の出現をホース・ダンスと称し、予測していたという(結局12月21日には何も起きなかったが)。  しばらく前に、オチョ・オチョと子供がお尻を突き出して踊る姿が街中を席巻した。2~3年前には、やはり韓国の歌で、「ノバディ・ノバディ・バット・ユー」のくだりで指で相手を指すしぐさがはやった。そして、現在は、このガンナムスタイルが圧倒している。KIANも負けずに、このガンナムスタイルが大好きだ。動画がアップロードできないのがまことに残念だ。 親バカ(あるいは爺バカ)といわれるかもしれないが、私はKIANをテレビに出演させようと思って、その筋に打診している。彼が踊り始めると、聴衆(家族や客)は大喜びで、テレビでもバカ受けすることは間違いない。  たったの2歳で、誰も教えないのに、曲がかかると自然に体が動いてしまうようで、この動きは尋常ではない。KIANは、まだ恥ずかしいと意識がないので、どこへ出してもきっと期待のパーフォーマンすを発揮してくれるだろう。ママ・ジェーンとしては、彼がこれをきっかけに将来、芸能人になったとしても、決してやぶさかではないとコメントしている。

KIANのガンナムスタイル 2012年12月27日


  最近、韓国の大統領選で与党候補のパク・クネが僅差で勝利した。かつて、韓国の独裁政権、朴大統領の娘だ。20代から父親をサポートして政界に入った超エリートだそうだ。   日本では、民主党の総崩れで、自民党が圧勝、安部政権が発足した。政治の話は苦手だが、自民党であろうが民主党であろうが、やることは同じだから、日本の向かう先はなるようになるしかないだろう。それに引き換え、民主国家の首脳は例外なく直接選挙で選ばれるので、意気込みが違う。  先に、アメリカはオバマ大統領が現職の強みで圧勝した。また、中国では習近平が総書記に就任し、トップの座についた。さらに、北朝鮮ではキム・ジョンウンが父、キム・ジョンウィルのあとをついだ。昨年はフィリピンの大統領にコーリー・アキノ元大統領の息子、ノイノイ・アキノが就任し、ロシアのプーチン大統領の返り咲きを含めて、日本を取り巻く国々の首脳がすべて交代した。そこで目立つのが2世首脳が多いことだ。韓国の朴大統領、北朝鮮の金正日、フィリピンのアキノ大統領の父親、ニノイ・アキノはマルコス独裁政権の宿敵だった。 さらに、インドネシアのスカルノ、ベトナムのゴ・ジンジェム、中国の毛沢東、ソ連のスターリンなど、日本を取り巻く国々は、第2次世界大戦後、ほとんどが独裁政権だった。こららの国々は独裁を脱却して以降、著しい経済発展を遂げているが、シンガポールのリー・カンユー、マレーシアのマハティールなどは独裁政権のもとにいち早く後進国・発展途上国を脱却した。さらに、現在、中近東では独裁政権打倒の嵐が吹きまくっており、やがて、発展途上国の仲間入りをするだろう。 幸い、独裁政権の恩恵(?)にあずからなかった日本はいち早く先進国の仲間入りをして、経済発展を遂げた。しかし、成長のピークを過ぎ、さらに3.11の深手を負って日本の経済は急坂を転げ落ちている。そんな状況で、自民あるいは民主どちらにせよ、特に歴史を背負うわけでもないこれらのサラリーマン首脳は、国の発展を背負ってたつ周辺諸国の首脳に立ち向かって、日本の国益を守り、あるいは日本を復興、そしてさらなる発展に導いていけるのであろうか。  一方、フィリピンは株価が毎日のように史上最高値を更新するという状況が続いている。庶民の生活に大きな変化はなく、スコーターは相変わらず健在だが、着実に経済が発展していると感じる。それのもまして、頼もしいのが若者そして子供が国中にあふれていることだ。日本では社会の仕組みからして子育てはできない状況に陥っているが、フィリピンでは、人口抑制法案がやっと通過したくらい、子作りの勢は止まらない。国の基本である人がいなくなったら社会はおしまいだ。フィリピンなら、誰が大統領になろうとも今後、逞しく生き延びていくだろう。そして、日本がフィリピンの後塵を拝する時が、いつか来るかもしれない。

政権交代の行方 2012年12月26日



いよいよ待望の農場生活が始まったKIANだが、11人いる従兄弟たちの訪問が絶えない。それに姉のキムとビアンカを入れて、女9人、男5人、合計14人の子供たちが農場に集う。最年長は17歳、カレッジ1年生のキムとバネサ、最年少は、同い年のジェルミー2歳とKIANだ。子供たちに君臨するのはもちろんKIANだ。  今年、ハイスクールに入学した13歳の従姉のアラインは、その強気の性格で、姉のアライサ(ハイスクール3年、15歳)もかなわない、クラスの嫌われ者だそうだ。しかし、従兄弟達のなかで最も将来が嘱望される美形だが、その強気のアラインもKIANの傍若無人振りには舌を巻いていた。  せっかくの自然に囲まれた農場なのに、子供たちの興味はもっぱらマイクロソフトとのX-BOXだ。アラインとバレリー(ジェーンの長兄ダシンの二女で小学校4年生、10歳)が演じているのがアルペン・スキーだ。二人で、どちらが先にゴールに到着するか競う遊びだが、X-BOXが彼らの動きをとらえて、画面に反映する。ジャンプをしたり、左右に体を動かして、いかにもスキーをしている気分になる。スキーなど見たこともないKIANは、従姉たちが一体、何に興じているのかわけがわからず、ただ、ひたすら観戦するのみだ。 畜産センターに鶏を買いに行った後、鶏小屋の準備などで待たされているとき、姉のキムを後ろに載せて、バイクの運転に興じるKIAN。KIANは車やバイクの運転が大好きだ。窓ガラス越しのKIANは私を見て歓声をあげて喜んでいる。 4日ぶりにヤヤ(子守)が農場を訪問した。久しぶりの再会にうれしさがこみ上げるのか、KIANの笑顔が絶えない。それ以上にうれしいのがヤヤで、重量級のKIANを抱き上げて離さない。  再びX-BOXを楽しむキムと従兄のチャールズ(ハイスクール3年生、15歳、長兄ダシンの長男)。今度は野球ゲームで、ピッチャーと打者が対戦するもの。投球、空振り、走塁など、やはり、本物の野球をやっている気分になれる。このほか、テニス、ダーツ、ゴルフなど、いろいろなスポーツを楽しむことができるすぐれものだ。実際に体を動かして、そのアクションでゲームに参加するなんて、その発想もすごいが、技術の進歩もすごい。今、ブームのアップルが発明したスマート・フォンあるいはアイ・パッドなどと並んで、かつて世界を席巻した日本発の文化、カラオケやウォークマンにも匹敵するものだ。 一方、農場にもインターネットがつながっている。数年前、スマート・ブロが使えるようになったのだが、その遅さに嫌気がさして、断念してしまった。しかし、現在は、その遅さも我慢できる程度に改善され、USBを買って差し込むだけで、30分で10ペソ、あるいは5日間、使い放しで200ペソと、実用に耐えるパーフォーマンスだ。KIANもYouTubeが大好きで、デズニー・ジュニアの動画に夢中だ。 ファームハウスのキッチンの外にはダーティ・キッチンと呼ぶ、第2キッチンが増設されている。メイドなどはそこで食事をするが、普段子供たちもそこで食事をとる。したがって、そこが子供達の憩いの場にもなっている。そこでKIANのガンナムスタイルが始まった。ママ・ジェーンがエキジビジョンと声をかけるとKIANが得意のポーズをとる。お腹の脂肪をタガログ語で「タミ」というが、誰かが、ショー・ミー・タミと声をかけると、KIANをふっくらしたお腹を出して、ベコベコと凸ませたり凹ませたりする。こんなパフォーマンスに大人たちは大喝さいだ。 ファームハウスには8人がけの大きなダイニング・テーブルがおいてあるが、14人の子供たち、それに大人4人を収容するには、もはや小さすぎる。イントラムロスのカーサ・マニラのスペイン時代の屋敷には20人くらい腰掛けられるダイニング・テーブルが置いてあるが、なるほどとうなずける。さらに、ビレッジの豪邸にはダイニング・ルームが二つあって、一つは6人程度の家族用、もう一つは10人以上座れるテーブルがあるが、これまた、うなずける。 この日は、数年間、私と農場で暮したジェーンの従姉の子供のデビナが訪問してくれた(KIANの右)。彼女がハイスクールのころ、私と数年間、農場で暮らしていた。現在、マミーの手伝いは、ビアンカに譲って、まだ21歳、働きながら大学に通い、妹を養う苦労人だ。 赤ちゃんが両目をつぶってウインクするのをビューティフル・アイズと呼んで天使の微笑みとして、大人たちを癒すが、KIANは片目だけをつぶるウィンクができるようになった。ちょっと顔つきは奇妙になるが、その瞬間をとらえることができた。 クリスマスイブの24日は、皆でおでかけ。14人の子供たちが1台の車でギュウギュウ詰めになっておでました。右がビアンカ(ハイスクール4年、つい先日17歳になったところ)、中央がアライサ(ハイスクール3年生、15歳)、左がバネサ(カレッジ1年生、17歳)のハイスクール3人組、ゴメスファミリーの子供たちの第一世代だ。  

子供たちは農場で元気いっぱい 2012年12月25日


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かねてから放牧養豚を目指して、農場の一部を塀で囲んで、準備していたが、いよいよ完成間近となっていた。道路側の柵が少し残っているだけだ。そこで、唯一の雇用人、農場管理マネージャー、ダニーの進言で、鶏を一緒に放牧することにした。地鶏の一種だが、大きいものは4~5kgにもなるカビアーという品種だ。ここでは地鶏のことをNative Chikenと呼ぶが、それはとても小さいが、カビアーのオスは堂々たる体躯を誇っている。 そこで早速、近所の県の運営する畜産センターに行った。そこには奨励品種であるカビアーの雛がたくさん群れていた。「45日」と呼ばれるスーパーで売られる鶏は小さな小屋の中で24時間電燈に温められ、生まれて45日で出荷される。人工の飼料と病気にならないようにビタミンや抗生物質を与えられて育つので、まるで工場で作られる食品のようで、そんなものに栄養滋養などは全く期待できない。  鶏は一日中、地面を突っついて草や昆虫など、いろいろなものを食している。それをやらせないと闘鶏は死んでしまうそうだが、逆に45日は屋外で飼うと死んでしまうそうだ。当牧場のモットーは自然飼育だから、そんな鶏の飼育には興味はない。人間は、自然の中で育った植物や動物を食することによって命の源を吸収するのだから、工場で作られたポテトチップやソフトドリンクばかり与えれた子供がまっとうに育つわけがない。  畜産センターには、その他に、七面鳥、ヤギ、羊、黒豚、などが飼育されていた。普通の豚はやはり屋根のある豚小屋で、人工の飼料を与え、雨の当たらないようにしないと育たないので、まるで45日と一緒だ。早く柵を完成して、2匹の黒豚の走り回る姿を見たいものだ。 ここで飼育されている羊はちょうど出産のシーズンで生まれたばかりの赤ちゃんが、母親の足にまとわりついていた。ちょっと驚いたのがダチョウ(オーストリッチ)が4羽飼育されていることだった。ダチョウの飼育は私も目指したのだが、死なせてしまって挫折した。それよりも黒豚やカビアーの方が堅実ではあると思う。しかし、初めてダチョウを見たKIANのはしゃぎ様は格別だった。 とりあえず7羽のカビアーを買ったが、捕まえるときは大騒ぎだったが、袋に入れられたカビアーは年貢をおさめて静かになり、トライシクルの後ろに括りつけて農場に運んだ。バンコックなどでは、生きたニワトリを市場で売っているが、鶏や豚は生きたまま運べば腐ることはないし、冷凍車なんていらないし、いたって経済的なのだ。 別のエリアに置いてあった鶏小屋を養鶏場に運ぶのは息子とダニーの二人だ。フィリピンの田舎では、民家を人力で運んで引っ越しするのを見かけることがたまにあるが、まさにそのミニ版だ。 翌日、牧場に放たれたカビアーたちは、早速地面をくちばしで突っついて、あの鶏、独特の習慣を一日中繰り返す。これが彼らの命の源なのだ。たったの7羽では、広い牧場のどこにいるのか見つけるのでさえ、容易ではない。そのため、翌日さらに12羽買って、合計19羽とした。オスが3羽にメスが16羽、この後は自力で数を増やして、牧場いっぱいになるまで頑張ってほしい。カビアーの餌は糠などで良いので、いかに餌を只で調達するかがカギだ。  以下、農場の風景を紹介する。    フィリピンに生息するカタツムリは巨大だ。長さは優に7~8cmあるが、これが有名なフランス料理のエスカルゴの原料かどうかは不明。ダニーの話ではこのほかに日本のカタツムリを数十倍にしたようなカタツムリがいて、それは食べられるそうだ。ゲートの近くのランカの木には、たくさんの実がなっている。ランカとは地上最大の果物で、栽培はいたって簡単。農場には数十本のランカの木が植えてある。  ちょっとわかりずらいが、シータオ(ロングビーンズ)と呼ばれる豆の木で、長さは1mくらいになる。バナナの木も大分育って、もうすぐ実をつけるだろう。  タガイタイから買い求めたパイナップルの苗木は実をつけるにはもう少々時間が必要だ。 水田は、田植えを終わったばかり。ビコール地方の12月~1月は、乾期の始まったマニラとは違って、雨がよく降るので、田植えシーズンなのだ。

養豚・養鶏牧場の完成 2012年12月24日



    ちょっと早めのクリスマス、年末年始の休暇を取って、12月20日早朝、ターミナル3からセブパシフィックで旅立った。KIANとママ・ジェーンとの3人連れの旅だ。出発は朝の5時半、まだ薄暗闇だ。ターミナルからン眺めるニューポートシティはクリスマスの飾りで灯りに照らされていた。早朝の6時だというのに荷物検査を待つ人々は空港ビルの外に長蛇の列を作っていた。クリスマス寸前の22日、23日だったら、大変な人だったろうとぞっとする。ボーディングのために飛行機に近づくとKIANはたくさんの飛行機を見てはしゃぐ。あこがれの本物の飛行機だ。 フォート・ボニファシオの遠景。この日はよく晴れて、マカティ、ボニファシオ、オルティガスの高層ビル群が手に取るように眺めることができた。 レガスピ近郊の土地を見に行ったが、マヨン火山、レガスピの街並み、そして海が眺められる絶景の地に住宅開発の波が押し寄せていた。平米100ペソ程度だったであろうが、現在は住宅用地となって、経伊部1500ペソに寝あがっている。さらに斜面であるために、造成費が相当かかりそうだ。 マヨン火山は残念ながら雲で隠れていて見えない。マヨン火山が噴火すると、レガスピ方面は泥流で埋まるが、これだけ離れていれば、天然の花火見物としゃれることができるだろう。パスコの法律顧問のSol(ソール)の旦那に抱かれてガッツポーズをとるKIAN。ちなみにSolはジェーンの同級生だが、すでに4人の男の子をもうけている。皆ご主人と同じ顔で金太郎飴のような子供たちだ。  HIGHLANDSと銘打った住宅地団地だが、まだまだ建設中だ。 この辺は、レガスピの市街地から車で15分程度の場所だが、田舎で路上で牛を見かえる。KIANは、「くさい」と鼻と口を覆っている。 しかし、久しぶりに見る田舎の景色に目を輝かせて車の外を眺めていた。  ココナツ林は、景色は平凡だが、平らで造成が楽そうだ。ここはたったの900平米しかないので、ちょっと使い道に困る。  レガスピの南には海岸沿いに道路ができていた。カメリア・ホームズの大規模な住宅団地が開発されている。この辺にはお店が並んで、夜になると恋人たちでにぎわう新名所だそうだ。 タバコ市のファームに到着すると、早速、従兄弟たちの出迎えだ。皆、歓声をあげて、KIANを抱きしめていた。KIANも半年ぶりにあう、クヤやアテを覚えているようだ。

ビコール訪問 2012年 12月23日


   早いものでKIANも来年の3月には3歳になる。この半年、KIANの会話能力はめざましい成長を遂げ、周囲との会話を楽しんでいる。タガログ語が混じると、すぐにママ・ジェーンのチェックが入るが、自分の意思をしっかりと言葉で告げることができる。そして話題のGANGNAM STYLEを独特のステップで踊って周囲を沸かせる。 先日のPRAのクリスマスパーティでは、いろいろな珍しい催しに目を輝かせる。   保育園で教えてもらうらしいが、食事前のお祈りも英語で暗記しているほどで、KIANの知識は著しく成長をとげている。そんな時、KIANを保育園に通わせることを進言した私は得意げに、{子供がが興味を持っていることにチャレンジさせ、決して「まだ早い」とか、「礼儀が悪い」とか、大人の既成概念で子供を縛ってはいけない、かれらは無限の成長の可能性を持っているのだから}と、しつこく繰り返す。 ポールダンサーには、まさに興味津津だ  一方、 KIANのやんちゃぶりは、ますます磨きがかかり、ママ・ジェーンも手を焼いている。先日、保育園の年上の園児にかみついて血を流させてしまうと事件が起きた。ママ・ジェーンはその園児の母親から抗議を受け、さらに父兄会の要求でKIANが保育園を退学させられるのではないかと心配した。 パーティの最後のダンシングタイムはママが他の男と踊っているのを見て、抗議をしていた   KIANの両親、すなわちママ・ジェーンとカーネルが保育園にお詫びに行くと、意外にも先生は「KIANは、何も悪くない、件の園児がKIANの勉強を邪魔するので、KIANが怒って、かみついてしまったのだ」と必死にKIANを弁護する。 保育園での作品を得意げに披露するKIAN  さらに、先生の言うことを聞かない生徒に対しては、KIANが制裁を加えて、言うことを聞かせるそうだ。先生は父兄の手前、子供を叱ることが難しい。だから、すっかり先生の頼られる存在になっているそうだ。  クラスの嫌われ者のはずのKIANにはクリスマスパーティではクラス全員からプレゼントが寄せられるなど、皆に慕われ、すでにクラスをしっかり束ねてしまっているようだ。   誤ってトウガラシを食べてしまい、その辛さに泣叫ぶKIAN  KIANの性格はどう見てもママ譲りだ。ママ・ジェーンの弟のボボイにジェーンの幼少の頃のことを聞いた。ボボイは、「彼女は中国人の父親に甘やかされて、とんでもない乱暴者で周囲に嫌われていた」と評する。ジェーンの母親(マミー)は必死にその性格を矯正しようとしたらしいが、なかなか思い通りにならなかったらしい。その結果、マミーの劣等生だったはずのジェーンを、今では兄弟、皆が頼りにする、頼もしい姉御に育っているのだ。 […]

三つ子の魂百まで 2012年12月22日



マニラ新聞が発行している無料誌ナビ・マニラにビコール・エクスプレスが復活したとの記事が載っていた。ビコール・エクスプレスとは、マニラービコール地方レガスピ市を結ぶ、約500kmのフィリピン唯一の長距離列車。一日たった一本、約12時間かけて走る夜行寝台列車だ。現在は長距離バスに押されて、その存在意義が疑問視されるが、フィリピン国鉄(PNR)の威信をかけての復活だ。   昨年、マニラとラグナを結ぶ通勤列車が、韓国から援助された列車を使って運転されているが、国鉄というにはあまりにもお粗末だった。そのため、日本から援助されたかつてのブルー・トレイン「北陸」を使っての長距離路線の復活はPNRの祈願だった。 ここ数年来、マカティの南、サウス・スーパー・ハイウエイ沿いを走る線路のスコーターが撤去され、通勤列車が走り始めたが、線路はがたがたで、いまだにスコーターの住民の昼寝の場所になったりしている。 ビコール・エクスプレスは、2006年の超大型台風レミンの被害で、鉄橋がいたるところで破壊され、約5年間、不通になっていた。この台風ではビコール地方タバコ市にある我が家も屋根が吹き飛ぶという大変な被害を被った。 レガスピの手前のリガオ、私は、レガスピを訪問することが多いので、まさかこんな状況の線路に列車が走るはずがないと、その復活を信じることができなかった。 レガスピの中心地の近くに駅があるので、今回の訪問を期に立ち寄ってみたが、そこは相変わらずの廃屋だった。 しかしながら、ここでクリスマスの模様しものが開かれるようで、飾り付けがあった。中では公園のように人が散策していた。普通の駅と違って線路はここで行き止まりだから、駅のプラットフォームの端が駅舎となっている。運賃は片道655ペソ、車内は清潔だが、乗り心地は今一、現在脱線横転事故の復旧で運休中だそうだ。 ちなみにビコール・エクスプレスは、ビコール地方の名物料理の名前でもあり、トウガラシとオキアミをココナッツで味をつけた、フィリピン唯一の辛い料理だ。だから、甘党のフィリピン人の中にあって、ビコラノだけは辛党で知られている。

ビコールエクスプレスの復活 2012年12月21日


2014年1月31日追記 2014年1月22日(水)、空港で客を出迎えに行く折、スカイウエイを通ると、その終点にたくさんの椅子が並べられ、なにやら式典が行われる模様だった。翌日のマニラ新聞によると、アキノ大統領も出席して、南北ルソン高速道を結ぶ高架式のスカイウエイ第3期工事(14.8km)の起工式が行われ、2017年4月までに完成する予定だそうだ。総工費は266億ペソ、インドネシアの建設会社、国家建設公社(PNCC)およびサンミゲル社が設立した合弁会社、シトラ・セントラル・エクスプレスウエー社(CCEC)が事業主体となる。 もう一本の連結道、メトロ・エクスプレスウエー・リンクはすでに着工済みで2016年中にも完成する予定なので、この2本の高速道路ができたら、マニラを取り巻くカラバルソン(カビテ、ラグナ、バタンガス、リザール、ケソンの5州)の流通は飛躍的に改善されるだろう。 南ルソン高速道はかつてSouth Super Highwayと呼ばれていた。一方北ルソン高速道はNorth Luzon Express Way,、略してNLEXと呼ばれている メトロマニラの南北を環状に縦断する幹線道路EDSA(エドサ)通りは、朝夕の通勤ラッシュだけではなく、ほぼ一日中渋滞し、マカティからケソンまで10km程度の距離に1j時間以上かかってしまうという、マニラを象徴する悪魔の道路だ。  ここ十数年で、主要な交差点の立体化は完了したが、人口と経済の拡大による自動車の増加で、焼け石に水、高架鉄道のMRTも渋滞緩和に役に立っていない。特に最近整備が完了した、メトロマニラからの南へ走るSLEX(SOUTH LUZON EXPRESS WAY)と北に走るNLEX(NORTHLLUZON EXPRESS […]

メトロマニラ縦断高速道路の着工せまる 2012年12月19日(2014年1月31日改定)



  件の3組のご家族の到着が一時間半ほど遅れ、昼食、書類の準備やクリニックの受診を終えたときは午後5時を回っていた。それから皆でパラニャケに向かい、渋滞にいらだちながら、デューティフリーショップに到着したときは、すで午後6時、すでに暗かった。パーティは午後4時からなので、すでにプログラムの半ばだ。それからまた、会場探しに苦労して、ようやくたどり着いたときはすでにあらかたのスケジュールを終えショータイムやギフトの交換、さらにラッフルの時間となっていた。 永年継続者(Jubilarian)と称してはいたが、これはまさにクリスマスパーティだ。昨年同様、経費削減で会場費をケチったようで、普段、車やバイクが展示してあるところに、にわか仕立ての会場にギュウギュウ詰めに退職者が座っていた。 私も10年目の表彰があるはずだったのだが、遅れてきたため、もらえるはずのギフトにありつけなかった。みなの興味はギフトの交換やラッフル(くじ引き)に移ってしまっている。KIANもピーターパンの格好で駆けつけたが、おばあちゃんに固く手を握られて、どうしていいか困惑している。KIANは人に拘束されることが大嫌いなのだ。後は、歌やダンスの時間だが、音楽がなり始めると、KIANは自然に体が動いてしまう。 昨年と同じ歌手が出演していたが、KIANは覚えているのかいないのか、早速親しげにツーショット。ポールダンサーはちょっと場にそぐわない気もしたが、KIANは口をぽかんとあけて、何をやっているのだろうかと、眺めていた。 クリスマスの写真撮影用に用意されたサンタは、退屈で居眠りをしている。これも昨年と同様、どこかの学校の音楽クラブ(もしかしたらどこかの施設ののチャリティなのかも知れない)の演奏とダンス。マムジェーンはKIANのためにGANGNAM STYLEをリクエストして、KIANのダンスが披露された。動画のアップロードができないのが残念。

JUBILARIAN AND YULETIDE DAY 2012年12月17日


  日本から3組の母と子供達が退職ビザの取得のためにフィリピンを訪問された。総勢8名のいわゆる母子疎開だ。目的は、ずばり、「放射能汚染が蔓延する日本にもはや住む場所はない」と語る。到着早々、皆さんは、始めてのフィリピン訪問と言う話を聞いて、その勇気と決意に驚いた。初めて訪問する国、それも3Kの悪名高いフィリピン(?)で永住することもいとわないという、すべて子供の健康と将来だけが命なのだ。  5人のお子さん連れ、総勢8名の健康診断や銀行手続きなどの申請準備に予想外の時間がかかった。どこか、訪問するたびに、まず、おしっこで、トイレ探しに追われ、喉が渇いたと、ミネラルウオーターの調達に走らなければならない。  到着日の午後は書類の準備と健康診断、そしてPRAのパーティに参加(12.12.12の記念すべき日、別途報告の予定)。翌日は終日マニラ見物。そして3日目は銀行手続きとビザ申請、そしてモール・オブ・エイシア訪問と、連日、夜10時すぎまでの強行軍だった。 マニラ見物の最初の訪問先は、ラスピニャスのサウスビラ・インターナショナル・スクール。母子疎開の先輩の案内で、子供の教育環境とオハナ・コンドやイリジウムなどの住宅環境の視察。先輩のお勧めで、SMサウスモールのMary Graceイタリアン・レストランで昼食をとる。しゃれた店構えは日本のレストランに勝るとも劣らない、それで値段は半分以下と、お母さん達は大満足だ。 次に向ったのがフォートボニファシオ・グローバルシティとアメリカンセメタリー。広々とした芝生に子供達はおおはしゃぎ。そしてマニラ・インターナショナル・スクールや日本人学校の立派さにびっくり。インターの学費、年間160万円にはためいきをつく。彼女達は、放射能汚染で住めなくなった日本を逃げ出す一般庶民だから、企業の援助で、このような学校に通う駐在員子女とはちょっと事情が違う。将来、ご主人も日本に住めなくなると生活の糧を失ってしまうリスクもあるから、財布の紐は固い。フィリピンで外国生活をエンジョイしようなんて気はさらさらなくて、まさにサバイバルの気概を持っている。 お一人がクリスチャンということで、特にイントラムロスや、チャイナタウンの世界遺産の教会群に興味をもたれていた。世界遺産、サンアガスティン教会で、丁度、結婚式をやっていた。この街は歴史地区とはいえ、現役で活動している生きた街なのだ。マプア工科大学などの大学が並ぶ一角は平日のため学生があふれていた。  かのフィリピン近代史の英雄、先代のアキノ元大統領の葬式が行われたのが、クリスチャンの総本山、マニラ大聖堂だ。残念ながらその中には入れなかったが、遠くから記念撮影。そして次に向ったのがチャイナタウン。その一角のビノンド教会は天井の絵画が有名だそうで、そう思って見るとなかなかユニークで見ごたえがある。  キアポ教会周辺の人の洪水にはさすがに緊張、お母さんは子供達の手を固く握り締める。その辺をうろつく犬達に恐怖感を覚えるのは、フィリピンの犬は皆狂犬病にかかっていると信じているからだ。一方、一山5ペソ、10ペソで売っている野菜に、「これなら生活していける」と確信する。しかし、このころすでに暗くなりかけていたので、世界遺産、サンセバスチャン教会は割愛して、本日のフィナーレ、マカティのアヤラトライアングルの電飾ショーに向った。   クリスマスが近いせいか、マカティの渋滞は半端ではない。大分時間がかかったので、5歳のR君は居眠りをしてしまった。アヤラ・トライアングルの地下駐車場でR君をママが抱きかかえると、思わずお漏らし。あわててトイレを探し回る。エレベーターで上がって外に出ると、まさに電飾ショーが始まったところ。クリスマスソングにあわせて公園の木々に取り付けられた電飾が点灯する様子に、皆、感激だ。 8時を回っていたが、貪欲なママ達はさらにグリーンベルトに繰り出す。ぐるっと一回りして、名古屋から出店しているMA MAISONのトンカツを試食。わざわざフィリピンに来てまで日本のトンカツやで食うことはなかろうと、躊躇されていたが、食材が日本から来たものではないことを確認した上で、OKとなった。唯一日本から持ってきているというソース等には皆さん手をつけられなかった。さらに、ジャパニーズ・ライスと表示されていることに敏感に反応していたが、一口食べて、「こんなまずいご飯が日本から来ているはずがない」と確信し、安心して口に運んでいた。  そこのトイレで見つけたのが、モール・オブ・エイシアで和民(わたみ)が開店したというお知らせだ。名前の元祖であるこの私を追っかけて、フィリピンにまできて出店するとはけしからんと思うが、いずれ試しに食べてみたいと思う。ちなみに和民(カズタミ)は私の本名だ。 翌日、PRAでビザ申請を無事に終えて、モール・オブ・エイシアに向った。もちろん、まずはトイレ探し。そして、花火があがるマニラ湾側にいそぐ。途中、スケートリンクを見て、「なんで~~」と思わず絶句。そして広大で人であふれえる屋内の市街に、「日本よりも都会じゃ」と思わず声をうならせていた。 花火見物を満喫して、食事。屋内に9人が座れる席がないので、外のテーブルに座ったが、決して暑くはないし、快適だ。そして、ビール好きの皆さんと、まずは乾杯。そして、「今時、放射能を浴びる心配をしないで、屋外で食事が取れるのが、うれしい」と、まさかの感想をもらす。皆さんは決して東北や関東から来たわけではないのだが、「いずれ瓦礫の焼却などで、全国に放射能汚染は広がり、日本中が放射能汚染地域になる」と信じている。  […]

日本から妻と子がいなくなる 2012年12月15日