shiga


 11月1日はオールセイントデイ(万聖節)で祝日だ。今年は土曜となったので、前日の10月31日が半ドンとなった。別名ハロウィンディとも呼ばれるが、その名のごとく、罪人も含めてすべての死者が聖人となり家族に会うために現世に戻ることが許される日とされている。この日は夕方からすべての人々が故人に会うために墓地を訪れる。そして、故人を囲んで家族団らんのひと時を過ごすために食事の支度までしている。そして翌朝まで墓地で過ごし故人を懐かしむのだ。  この日、ビコール地方アルバイ県、タバコ市の墓地にその様子を見物に出かけた。タバコ市には隣接して3つの墓地がある。ひとつは一般用、二つ目はお金持ち用、そして3つ目は中国人用である。それぞれの墓地の大きさは同じくらいだが、一般用墓地にはよくこれだけの人がタバコに住んでいるかと思うほどの人でいっぱいだ。メインの通路は真ん中にロープが張られ一方通行となり、交通整理がされているほどの人出なのだ。この日は日本のお盆と同じで、マニラなどの都会に出ている人たちが里帰りをしていて、街の人口は数倍に膨れ上がっているのだという。  ご承知のとおり、フィリピンでは土葬だ。なきがらは立派な棺に納められ、かつコンクリート製の箱に入れられて祭られる。普通はコンクリート製なのだが、お金持ちのものは御影石などまるでエジプトの王の棺のようだ。コンクリートの棺は必ずしも地下に埋められず、地面に露出しており、その上に幾段にも積み上げられる。その上では居場所のない子供たちが座り込んでいて、まるで夕涼みをしているようだ。相変わらずのことではあるが、それにしてもやたらと子供と若者が多い。そして普段外を出歩かないような深窓の令嬢が訪れるのではっとするような美女も多い。どこへ行っても老人しか目にしない日本に比べて、フィリピンの将来へ向けての底力を感じられずにはいられない。  一般用の墓地にはコンクリート製の棺が所狭しと立体的に配置されているのだが、お金持ちの墓地には屋根で覆われているもが多く、とても立派なたたずまいだ。その中のひとつに元上院議員でタバコ市のメインストリートの名前にもなっているZIGA(シガと読む)一家の墓があった。また、一般用墓地では自分の事務所の社員のおじいさんのお墓にもしばし見舞うことができた。中国人用の墓地はやはり圧倒的な財力を誇示するものばかりだ。小さいながらも豪邸ともいえるたたずまいで、死後の世界でも優雅に暮らせるようにとの中国的発想なのだろう。 午後7時ともなるとタバコ市のメインストリートは人でいっぱいで、車両の通行は許されない。南のレガスピ市や北の街には、この道を通っていくしかないはずなのだが、問題はないのだろうかと心配になる。また、道路沿いにはどこの国でも同じで、人が集まるところには屋台が並んでいる。焼き鳥やトロトロが多いが、ルーレットのような賭博を公然と行っているところがある。葬式は賭博を開帳することが黙認されているが、この日も特別にOKなのだろう。しかし、年に一度のご開帳では商売にならないと思うのだが。フィリピンの田舎でも段々西欧化の波が押し寄せているのか、Mister Donutの屋台も出ていてそこそこ売れているようだった。

オールセイントデイ 2008年11月3日


 マニラの下町といえばエルミタ地区のデルピラール、マビニ、アドリアチコなどの通りに代表されるが、さらに一歩入ったところにいかにも裏町の風情漂う穴場がある。今回はフィリピン観光省に勤務している月村さんにに案内してもらった「鳥新」というお店を紹介しよう。  アドリアチコ通りにあるパンパシフィックホテルの横の通り、Gen. M. Malvar通りをマニラ湾と反対に角を一つ進むとJ. Bacoboという変わった名前の通りに出る。コンビニのMINI STOPを右に折れると、すぐ左側に鳥新がある。日本語で書かれたちょうちんが二つあるだけなので、うっかりすると見逃してしまう。  周囲はカラオケやレストランが並んでいるが、最近はやりの大型カラオケとはうって変わって、いかにも下町風だ。ハングル文字も幅を効かせており、韓国の通もよく訪れるものと推察される。デルピラやマビニと違い、うっとうしい物売りもいない。しかし人通りは結構あるので、決して身の危険を感じるようなことはない。  「鳥新」の中はいたって簡素で、2人がけのテーブルが二つ、それに5~6人が座れるカウンターだけだ。メニューはそこそこ種類があるが、白板に書かれた「本日のおすすめ」が食欲をさそう。ご主人はもちろん日本人、客もすべて日本人とその連れだ。いかにもマニラに長いといって常連客で占められている。味は完璧に日本のそれだ。日本直輸入とか高級な食材とかは使っていないが、比較的手に入りやすい材料で十分日本食を堪能できる。  ビールをそれぞれ3~4本飲んで、たっぷり食べて二人で1000ペソ足らず。普通の日本レストランならば、その倍はくだらないだろう。マニラに長く滞在するならば、このようなところで日本を味わうのがお利口というものだ。ちなみに、その後、やはり場末風のカラオケ・クラブに行ったが(ATARASHI KOKOROというおかしな日本語の名前だった)、2時間ほどいて、二人で2000ペソに届かなかった。しかも客が少ないから歌い放題だ。これも相場の半分くらいだろうか。エルミタ近辺に宿泊している場合はぜひ試してみてほしい。 写真中央がご主人の高橋さん。

マニラ裏町探訪2008年11月3日



 9月末、引越し準備で事務所が閉鎖されている間を利用して、ビコール・タバコの農場を訪問した。未だ本格的に農場を運営しているというほどではないが、なんとか農場といえる程度に米の栽培や家畜の世話をしている。  先日、2頭の子豚を友人の子供の洗礼式にプレゼントしたため、豚小屋が寂しくなっていたが、今回は10頭の子豚が生まれにぎわっていた。 私にとって子豚が生まれるのは初めてというわけではないが、豚の赤ちゃんはいつ見てもとても可愛い。この母豚は初産であり、10頭の子豚は皆元気で走り回っていた。   ところで放牧養豚というものが取りざたされているが、こんな小さな豚舎に閉じ込めておかないで広い野原で自由に動き回れたら、彼らも幸せだろうと思う。6ヶ月程度の短い一生なのだからせめてその間、生を最大限エンジョイさせたい。生産効率は多少落ちるそうだが放牧されて育った豚の肉は格別においしいという。それに土壌にまかれた糞尿は有機肥料となり土壌も肥える。そこに植えた作物も立派に育ち、糞尿の処理も不要、さらに豚肉もおいしいという、まさに一石3鳥だ。しかし広い土地が必要であり、現在の養豚業は過密飼育が一般的だから無理なことかもしれない。しかし、わが農場は土地が有り余っているので、近い将来是非チャレンジしたいと思っている。 お乳をせがむ生まれたての子豚   農場には豚のほかに、あひる、鶏、テラピア(食用淡水魚)などを飼育しているが、彼らは実に性にあっけらかんとしており、自然の営みが脈々と行なわれていることが観察できる。水田や養魚池には昔懐かしいタニシが棲息している。タニシはアヒルのえさとして、貴重なタンパク源となっており、タニシの多い季節はアヒルも卵をたくさん産んでくれる。そのタニシの卵はピンク色で池の壁や水田の土手に卵を産み付けているが、当然のことながら卵を産む前には交尾を行なう。その現場を養魚池の淵でとらえることができた。 タニシの交尾現場  アヒルの受精卵をゆでて食べるのが有名なフィリピン名物のバロットだ。この農場の卵はすべて有精卵だが、その現場が次の写真だ。アヒルのオスはメスに馬乗りになり、しばらく両足でメスの体を押さえつける。そうこうしているうちに合体ということになるが、いったん合体したらいたってことは早い。この写真ではまるでベテランのオスが若いオスを指導しているようだ。  鶏のメスがひよこを引き連れて歩き回る様は、実に愛らしいものだが、農場では我が家の飼い犬がひよこを襲ってしまうので、小屋に入れている。ひよこを育てているメスは実に凶暴だ。近づくとすかさず攻撃される。卵を温めている間の母鳥の忍耐と努力は賞賛に値するが、その自己の保全を省みない母性も驚きに値する。本能とは言え、自然の営みに感激する。一方、昨今の日本の親殺し、子殺しなど、家庭内での悲劇を耳にするに付け、人の世では、この自然の本能をどこかへ忘れ去ってしまっているのではないかと危惧される。  農場では現在5頭の犬を番犬として飼っている。彼らは家の周囲を自由に徘徊し24時間警護している。食い物さえ与えていれば、昼夜休みもなく働いてくれるのだから、本当にありがたい存在だ。一頭は生まれて間もないが、後の4頭はボスのアイス(オス、5才、ラブラドールの雑種)、その妻のチャコ(メス、5才、シェパードの雑種)、チャコの子供の熊太郎(オス、4才、シェパードの雑種)と熊子(メス、4才、シェパードの雑種)だ。ちなみにアイスは熊太郎と熊子の父親ではない(父親の太郎はアイスとのボス争いで死闘を繰り返すため他へ移した)。子犬の父親はアイスだが、この4頭と子犬でバランスを保っていたのだが、今回異変がおきた。  かつては母親のチャコが娘の熊子を常々威嚇して、母親の威厳を保っていた。ボスのアイスの子を産むのはチャコだけだ。どんなにアイスが熊子に挑んでも熊子は操を守ってきた。きっと母親の男を取るなんてことは許されないということだろう。しかし、今回、娘の熊子が母親のチャコを威嚇して、チャコはキャインキャインと情けない声を娘に対して発していたのだ。まるで主客転倒である。原因は何かわからないが、母と娘の世代交代が実現してしまったのだ。それだけでは終わらない。ボスのアイスが熊子に挑んで熊子はそれを受け入れたのだ。彼らは血がつながってはいないが、たとえつながっていてもこういうことになるのか興味のあるところだ。  合体後の2匹、アイスはまるで何事もなかったように平然とそ知らぬ顔をしている。一方遅すぎた春(?)を迎えた熊子は自分の足をかんだり、なんやかんやと事後処理に忙しい。その後、しばらくの間、アイスが熊子に挑むと、よほど不快な思いをしたのか、熊子はアイスを威嚇して拒否する行動に出ていた。アイスやチャコにはまるで従順だった熊子がボスの女(あるいは妻)になった途端に強くなるものだと感心させられることしきりだった。  メスは後始末にいそがしい  人の手を加えないで複数の犬を飼っていると、犬の社会のしきたりを色々知ることができて興味がつきない。彼らは、赤ん坊の時から育てているので、犬の社会の学習はない。これらすべてのしきたりが本能から来ているのだろうか、一体どうやってこれらのことが世代を越えて伝えられていくのか、もし人間の子供が人間社会から一切隔絶されて育ったとしたら、果たしてどのような社会生活をするのだろうか、などなど思いがめぐる。ついでに少々古い写真だが、我が家の猫の交尾シーンを紹介しよう。わが人生において初めて目撃した動物が正常位で交尾しているという感激的瞬間である。

農場には自然の営みが溢れていた2008年10月25日


 今回は同僚と退職者の日本人二人をスービック(オロンガポ)とクラーク(アンヘレス)に案内した。マニラのパサイ市にあるビクトリアライナーのバスターミナルが出発地点だ。エアコンつきのバスでスービックまで約3時間の道のり。220ペソ足らずの料金はリーゾナブルだ。途中昼食タイムもあって、3時間と 30分くらいでオロンガポのバスターミナルに無事到着した。そこからトライシクルに乗ってスービックのメインゲートへ向う。オロンガポのジープニーは黄色で統一され、街並みもどこか豊かな気がする。これはスービックという広大な経済特別区を隣接しているてめに、かなり潤っているのだろう。  スービック訪問の目的は、将来の安住の地を見つけるために、フィリピンの外国といわれる元海軍基地の整ったインフラと抜群のセキュリティを身をもって体験すること、それとポコアポコ・コンドテルの訪問だ。ポコアポコはスービックの市街地に建設されているコンドミニアムで第一期工事は完売し、第2期工事が販売中。地の利が良く将来の値上がりも期待され売れ行きも好調という。価格的にはマニラと大差なく、プレセールで平米15万円程度と決して安くない。しかし、しゃれたレストランが並ぶ海辺まで歩いて行けて、夜でも安心して歩けるセキュリティの良さが人気の秘密なのだろう。  ポコアポコの訪問で時間をとってしまい、東京23区と同じ広さを持つという広大なスービックをじっくり見学する時間がなくなってしまった。そのため、動物園 (ズービック)、水族館、ゴルフ場、海水浴場などのレジャー施設は次回ということで割愛した。港にはアメリカ海軍の巡洋艦(?)や空母が泊まっており、今夜は数千人の水兵で街があふれ返るだろうとのことだった。  スービックからクラーク(アンヘレス)までは最近開通した高速道路で1時間足らずで行ける。幸い、クラークに行く方に同乗させてもらったが、途中、アメリカ軍の数十台の戦車がスービックからクラークへ輸送中で、巨大な戦車を目の当たりにすることができた。  クラークの入り口に近いフィールド通りは以前にも紹介したが、100軒以上のゴーゴークラブが建ち並ぶ東洋一とも言える歓楽街だ。日が暮れると客引きのゴーゴーガールが店の前に建ち並び一種異様な光景が現れる。この世界的な金融不況をもろともせず、明け方近くまで観光客でにぎわっている。  翌朝、フィールド通りからほど近いダウのバスターミナルへジープニーで向う。ターミナルには各地へ向うバスがしきりなしに発着しているが、マニラの入り口まで100ペソ超、1時間の道のりだ。まさに、「金なし、コネ無し、フィリピン暮らし」を地で行っている気がした。  高速道路の左側にはかつて抗日ゲリラのフグハラハップが立てこもったというアラヤット山が広大な平原にそびえている。マニラまで約80kmの間、山といえるのはこのアラヤット山だけで、ひたすら平野が続いている。ほとんどが水田だが、それでもフィリピンは米の輸入国だというからなんとも不思議だ。  退職者の人がマニラの北方のカラオカンという所に宿を取っているので、高速道路からマニラに入ったところでバスを降り、ジープニーに乗り換えた。ジープニーは一台ごとに行き先が違うので目的の場所に行くジープニーを捕まえるのは容易でないが、回りの人に聞きながらなんとか無事に乗り込んだ。ジープニーの運転手はこの道の達人だ。一人8.5ペソの乗車賃の徴収から、客の指示によりどこにでも客を降ろし、客を拾うのもタクシーのようにどこにでも止まる。ためしに運転手の目線で街を眺めてみたが視界が悪く、私ならこのパワステもない巨体を運転するだけでもやっとだろう。  カラオカンの中心はモニュメントというが、革命組織KKK団を率いた英雄ボニファシオを記念したモニュメントに由来している。カラオカンは比較的貧困な人々が暮らす街だが、高架鉄道のLRTの終点であることから、さらに北へ向う人の集積地でもある。そのため無数のジープニーが発着し、喧騒と混沌が闊歩する街だ。ちなみに花街の女性に住処を聞くと半分以上がカラオカンと答える。  モニュメントを囲むように大きな看板が乱立し、雰囲気を台無しにしている。台風の多いフィリピンではこのような巨大な広告塔は倒壊の恐れがあり、規制する動きがあるが、現在でも高速道路わきには無数の巨大広告塔がまさに幅を利かせている。庶民の足、LRTはここでおしまい。将来的にはさらに北に延長される予定だが、すでにラッシュアワーは超満員なので、この小さな車両で乗客の増加を賄えるのか心配だ。車両を買いまして増便の予定もあるそうだが、資金の手当てがつかないのか、なかなか実現しない。  LRTの高架下には屋台が延々と並びフィリピンらしい光景を作り出している。 北へジープニーで向う人たちが夕餉の支度やお土産を買って帰るのだろうが、その活気には圧倒される。   モニュメントのある大きな交差点付近には若者が何をするわけでもなく寄り集まっている。引ったくりやホールドアップは日常茶飯事でフィリピン人でも安心して歩けないという。しかし、「金なし、コネ無し」諸氏に怖いものはないようだ。

金なし、コネ無し、フィリピン旅行「スービック、クラーク、カオルカン編」2008年10月24日



        フィ リピンでもっとも盛んな庶民の楽しみといえば、国民的スポーツのバスケット、そしてすべてのフィリピン男性を夢中にさせる闘鶏だ。地方に行くと町はずれ にある大きな建物といえば皆闘鶏場。そして闘鶏のある日は、その周辺はトライシクルや車でいっぱいになっている。日本や他のアジアの国でも闘鶏は行 われているが、フィリピンでは桁外れに盛んで、スペイン統治の時代から闘鶏は男性の勇気のシンボルなのだ。 タバコ市の闘鶏場 闘鶏場の周りは近隣から集まるバイクが一杯だ 闘鶏の勇姿はフィリピン男性の心をとりこにする 闘鶏のルールは至極単純で、戦わせる闘鶏のどちらかにお金をかけて、その闘鶏が勝ったら相手から掛け金を受け取るというものだ。まず、二人の男が一羽ずつ闘鶏を抱え、2羽 の闘鶏を近づけたり離したりして士気を高める。その間に、賭けが始まるわけだが、闘鶏場はメロン、ワラ(本来は有ると無いという意味だが、赤コー ナーと青コーナーを指す)の掛け声でウオーンとまるで闘鶏場そのものがうなり声をあげているようになる。闘鶏場の中には賭けを仲介する人がいて、もし 自分がメロンにかけたかったら、同額をワラに賭ける相手を探してくれる。もし自分が勝ったら、少々のチップを仲介者に上げるわけだが、こんなルールで よく混乱がおきず、ちゃんと掛け金を回収できるものと、いつも感心させられる。 闘鶏のリング […]

豆辞典 闘鶏(コックファイティング)への招待


9 月19日、日本で約1000室以上のゲストハウスを経営するOAK HOUSEの山中社長がPASCO社を訪問した。目的はOAK HOUSEにより多くの外人客を呼び込むために、フィリピン=英語圏の人材を使ってより積極的に英語圏の客にマーケッティングを展開しようということ。そのためフィリピンに会社を設立するかあるいは既存のフィリピンの会社と提携するかその辺の可能性を探りにきたというわけだ。PASCO社としても本業の退職者支援は良いとして、副業の建築積算の受注が伸びず従業員があまり気味なので大いに興味がある。安い賃金の利用ということではなく、フィリピン人の英語力を活かして日本の市場に外国人を呼び込むという新しいビジネスモデルだ(もっともコールセンターはフィリピンでも巨大産業に育ちつつあるが)。  まずは神妙にスポンサーの話に聞き入るスタッフ 堅い話はそのくらいにして、パーティ好きの山中さんは早速従業員を集めてパーティを開こうと提案した。パーティで皆を集めて一緒に遊べばPASCO社の社風がつかめるだろうという作戦に違いない。そんなことはお構いなく、ここのところこんな機会のなかったフィリピーノ従業員は乗り乗りで19日(金)の晩から料理作りに励み、翌日の昼には大量の料理が用意された。予算を少々ゆったりといただいたおかげでサンミゲルビールライト4ケース(96本)と大量に仕込んで女性陣も大いに飲んで食ってと楽しんだ。パーティーは同日夜半未明まで続いたのこと。 大量の食い物を前に笑顔あふれるスタッフ フィリピンでもパーティの目玉はカラオケだ。カラオケの機械を借り出して、食事が一段落するとカラオケ大会が始まった。英語とタガログ語だけなので残念ながら日本人は自慢の喉を披露するチャンスがない。もっともビールの飲みすぎでそれどころではなかったが。 そ の夜はさらに幹部連中をマニラ湾の埋立地に最近出現した広大なシーサイドマーケットレストランに連れて行って新鮮な海の幸を満喫した。マーケットで魚介類 を買い、回りのレストランで料理してもらうシステムだが、どうしても材料を買いすぎてしまい余してしまうのが難点だった。しかし、この日は10数 人がパーティ会場に残っており、夜の部の食事として持って帰るという魂胆があったので、心置きなく注文ができた。案の定半分ほどの料理が残ってしまった が、これを文字通り肴にパーティがますます盛り上がったということは想像に難くない。エビやカニ、牡蠣やイカ、それに貝や魚を約10kgも料理して全部で5000ペソ(11000円)程度、10人なら一人500ペソ(1100円)、実際は20人くらいで食べたのだから、一人250ペソ(550円)くらいにしかならない、フィリピンならではの安さに感謝。

OAK HOUSE 山中社長の訪問2008年9月21日



フィリーピーノ・ファミリーのボスは妻であることは再三触れた。一つのファミリーにも母親や子供の妻、など複数の妻がいる。さらに亭主の彼女などというややこしい存在もある。そうなるとこの妻達の間で誰がナンバーワンの地位を獲得するか熾烈な戦いがあるのだ。 仮に母親が死んで娘達の長女あるいは長男の妻がナンバーワンの地位を獲得したとする。しかし、そこに後妻が現れると話が難しくなる。通常、妻に死に別れると娘は父親の女性関係に非常に敏感になる。なぜならば父親に自分より年下の彼女でもできるとナンバーワンの地位はその年下のハナタレ娘に奪われて、年下の継母のこ憎たらしい命令を唯々諾々と聞かなければならなくなってしまうからだ。花街辺りから連れてきた彼女となると教養も品性も娘たちよりずっと下で、それが家族の長として権勢を振るうことになってしまうのが娘達にはとても我慢できないのだ。若い彼女と娘、二人の板バサミになって父親は途方にくれることになる。どっちを取るのよと両方からせまられて苦渋の決断をしなければならないのだ。若い彼女をとれば、家族から見捨てられることは間違いない。財産も当然娘達に奪われるだろう。最近似たような状況で義理の息子を殺してしまい、自分も自殺したという日本人がいた。 ここで問題なのはこの妻の権勢は家庭だけでなく、旦那が経営する商店や会社にまで及んでしまうことだ。妻と長い年月努力を重ねて築きづきあげる会社というのは日本でも同じこと。その妻が死に若い彼女ができたとすると、その彼女ないし妻はナンバーワンの地位を利用して、会社内部で権勢を振るい始めるのだ。日本人の場合、その動きを悟ることは至難の業だ。知らぬ間にすべてのフィリピーノ社員は新しい妻ないし彼女の下僕になってしまうか、ほとんど役にたたない彼女の姻戚連中でしめられてしまう。彼女のいう通りにならない社員は日本人の社長(旦那あるいは彼氏)に悪口を並べて首にしようと画策する。それでもだめなら、私とあいつのどっちを取るのといつもの手で責めてくる。会社のお金も一部の社員と共謀してバンバン使うだろう。もともとビジネスのビの字も知らない人たちがほとんどだろうから、目の前の利益しか見えない。社員は彼女の言いなりだから、気が付いたときにはニッチもサッチも行かない状況に陥ってしまっているというわけだ。 フィリピンに家族やら会社を持っているということがないならば若い彼女や妻と仲むつまじく暮らすことも可能だろうが、自分の置かれた状況を良く吟味してから行動に移ることが肝心だ。もし色々しがらみがあるようだったら、ビアハウスやショークラブあるいはマッサージ等で浮気を楽しむくらいにしておいたほうが無難なようだ。

カカア殿下が会社をつぶす


  フィリピーノに、今なら100ペソ、明日ならば1000ペソ上げるというと、今の100ペソを選択するそうだ。明日のことなど当てにならないし、今確実に100ペソもらったほうがいいという。そして今日の稼ぎを全部使ってしまい、明日は明日の風が吹く、宵越しの金を持たないという江戸っ子気質をもっているのがフィリピーノなのだ。そのため貯金とか備えという概念が希薄で、お金を貯めているフィリピーノはほとんどいない。聞いてみるとほとんどが借金を抱え、それを返すのに汲々としている。これは、亜熱帯という気候が一年中作物をもたらし、備えということが必要のない暮らしを何万年もしてきたことによると私は解釈している。 この預金をしないということについて、最近気が付いたことがある。もし仮に思わぬ大金が転がり込んだとして、それを大事に預金したとすると、早晩姻戚や親しい友人のトラブルや病気やらでなくなってしまうことは目に見えている。もし姻戚にトラブルがあって金を無心されて、金があるのに断ったとする。そうなるとたとえ相手がそのことを知らないとしても、罪の意識に駆られて耐えることができない。あるいはまた、金があるのに助けてくれなかった、あいつは人の心を持たない悪魔のような奴だと逆恨みされてしまうのだ。そして結局は姻戚のためにすべての蓄えを使い果たしてしまうことになる。それならば、いっそ家や車など簡単に換金できないものに使ってしまい、自分の生活をエンジョイしたほうがましということになる。どうもフィリピンでは必要以上の現金を持つということは必ずしも良いことではなく、逆に人間関係を破壊する要因になることが多いようだ。フィリピンに住むならばフィリピン流に「宵越しの金は持たない」といった生活態度を身につけなくてはいけないのかもしれない。少なくともフィリピーノと家計を共にするのであれば「郷に入っては郷に従え」という原則がここでも活きているようだ。 この笑顔に一万年の重みがあるのです   お祭り(フィエスタ)が近づくと、できる限りの借金をして数百人分もの食べ物と飲み物を用意して、不特定多数の客を歓待する。そしてその翌日から1年間、次のフィエスタまで、その借金を返済するためにせっせと働くのがフィリピーノなのだ。言ってみれば先に貯めて使うか、使ってから貯める(返す)のかというだけの差かもしれない。ただ先に使って返済の形をとると利子を払わなければならないとことが違うだけだろうが、借金ならいざとなると踏み倒せるだけ有利かもしれない。いずれにせよ、フィリピーノにとっては、人から借りるのも、自分の貯金を使うのも、どっちにしても大差のないことなのだ。 このように常に金銭的に水平線以下で暮らしているから、フィリピーノはお金を借りることあるいはお金の無いことには慣れている。お金が入ったら持ち前の負の預金と相殺され、あっという間に消えてしまう。したがって、あげようが、貸そうが、預けようが、いずれにせよいったんフィリピーノの懐に入ったらその人のものになってしまい、もはや戻ってこないということが多発するのだ。こと金銭に関しては、あげる、貸す、預けるは、フィリピーノにとってはほとんど同義語だ。すなわち、借りた金を返さない、あるいは預かった金を使ってしまう、そして、それに対して特に罪の意識が希薄なのだ。その辺は、所有という概念が根本的に違うのか、日本人にとっては大変わかりづらいところだ。 水平線以下であろうとあるまいと子供は子供だ 水平線以下の生活に慣れると、まとまったお金が入るとそれを使うことに夢中になる。貯めておこうなどという発想は決して起きない。金がなければないでよし、金があったらなくなるまで使うのがフィリピーノなのだ。だから、いったん金があることを知られるとフィリピーノはあの手この手でその金を使うことを提案してくる。親や兄弟が実に頻繁に病気になったり、甥や姪が入学したり、使う理由は際限なく沸いてくる。金があるのに出さないと恨まれる、かといって出せばきりがない。 俺は金がたくさんあるなどということを絶対にくどき文句にしてはいけない。言質をとられてとことん使わされる。大きなお金は持ってこない、お金が無いのが一番、だまされることも無くフィリピンで安全に生きていくコツだ。本当にフィリピーナに愛されたら、お金なんぞなくても、きっと彼女が養ってくれるだろう。でも無一文で好きになってくれるかどうかは、保障の限りではない。 愛しのフィリピーナ予備軍 そこでフィリピーナと生計を共にすることになった時の注意点。 年金や給与あるいは利子など、月々の決まった収入で暮らす。例え全部使い切ってしまっても来月になればまた入ってくるので安心。 クレジットカードなどで日本の貯金が下ろせるようにしない。日本の金がなくなるまでとことん使われてしまう。彼女にカードを預けて勝手に下ろせるようにするなどもっての他。 フィリピンに大きなお金を持ってこない、また日本にあるお金も内緒にする。日本の資産は不動産など簡単に換金できない資産にしておくことが望ましい。 […]

豆辞典 フィリピーノは宵越しの金を持たない



前回に引き続きターミナル3の開港(その2)、到着ターミナルを紹介する。 今回は空港の東側から着陸したために、マカティ市の東に開発中のボニファシオグローバルシティの全景を眺めることができた。その後ろのビル群がマカティ市の中心街でフィリピンのもっとも近代的な光景をなしている。 全長1kmを超えるであろうと思われるターミナル3は未だそのほんの一部を使っているに過ぎず、ターミナルの端にセブパシフィックの中型機が数機、駐機しているだけだ。 ターミナルビルに入るとゆったりとした通路を経て、自然に荷物の受け取り場に到着する。もともと国際便用に設計されているために、入管や通関のブースがあるが国内便では使用されていない。通関を過ぎるとすぐに広々とした出迎えロビーに出て、出迎えの人に会うことができる。その点出迎えが大変困難なターミナル1とはずいぶん様相を異にする。  ターミナルビルを出ると長いタクシー待ちの行列がある。下手をすると1時間待ちかと覚悟しなければならないほどだが、さらに道路を渡ったところにクーポンタクシーのブースがあり、そこで申し込むとほとんど待たずにマカティまで440ペソで行ける。黄色の空港タクシーなら200ペソ程度ですむが、長いこと待たなければならないことを考えたら安いものだ。ただ、クーポンタクシーの存在がわかりにくいのでどうにかして欲しいものだと思う。  

マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港(その2) 2008年8月19日


 6年越しに開港が遅れていた第3ターミナルがついに開港した。当面はセブパシフィックなどの国内および国際線が供用を開始しているが、ゆくゆくは最新鋭の国際旅客ターミナルとして、現在の第1ターミナルにとってかわるものと期待される。6年前に完成したとはいえ、40年近く経過した第1ターミナルとは比較にならず、高い天井と広々とした空間は成田空港と比較しても遜色がない。旅客もまだわずかで、ほとんど待つことなしに待合室までたどり着ける。レイアウトもシンプルで自然に各種手続きを進めることができ、迷うという心配が全くない。  マニラからのアクセスもよく、サウススーパーウエイの料金所の手前を右折すればすぐにターミナルに到着する。以前のように渋滞や川べりのスラムを経由することもないので違和感無くマカティの近代都市にたどり着くことができる。このアクセスの改善はフィリピンの印象を向上させるのに大いに役立つだろう。特にフィリピン航空を除く国内線ターミナルは狭く、不便で、汚くて、まさに後進国でございます、と主張しているようなものだった。  第 3ターミナルは日本の竹中工務店が請け負っていたものだが、天井の落下事故をきっかけに、構造上欠陥があるとフィリピンの大手設計コンサルタントが指摘し、工事中断に追い込まれて完成が滞っていた。空港公団と竹中工務店が鋭意工事再開と完成に向けて交渉していたが、交渉は二転三転し、つい先日交渉決裂となってしまった。 ところがごく最近アロヨ大統領が早期開港を指示し、外遊の際、強引にターミナルを使用し、あっという間に開港の運びとなった。工事の再開と完成のニュースが無いうちに開港の運びとなってしまったわけで、なにがなんだかわからないけれども、実際に使ってみてなんら支障はないようだ。  まだほとんどのブースは空で、買い物などの楽しみはまだ先の話だろうが、簡単な食事など最低限の店は出ている。待合所もたくさんの椅子がゆったりと配置され、窓からの空港やマカティの景色を味わうことができる。航空便の掲示も見やすく、とにかく通路が広々としているのが休まる。ここではフィリピン独特の喧騒と混沌とは無縁だ。

マニラ国際空港(NAIA)第3ターミナル開港 2008年8月13日