Yearly Archives: 2015


ターボ(TURBO)とは、最近はやったカタツムリの映画の題名だ。エンジンに巻き込まれたカタツムリのテオ君がレーシングカー並みのスピードで走るようになり、ターボと呼ばれて、レースに勝利するという物語だ。映画では、色々な形をしたカタツムリが登場するが、空想のカタツムリだと思っていた。しかし、彼らが、農場にいたのだ。 はじめは、大きなカタツムリを見つけて家に持ち帰ったが、これは、以前にも見つけたことがある。さらに、他にもいないかと探したら、まさにターボがいたのだ。        大小、合わせて4匹のカタツムリを見つけたが、日本で見るのとは、比較にならないくらい大形で、色や形も多様だ。彼らは、親子であろうか、より集まって、ゆっくりと動き回る。小さい子供は親の背中に乗って、そこには、まさに、ターボの世界があった。もちろん、彼らは、決してターボのようにスピーディに走り回ることはなかったが。

ターボ イン フィリピン 2015年2月6日


いよいよ、恒例の年末パーティの日がやってきた。ジェーンの一家だけで総勢21人、それに使用人とその家族で、40人ぐらいの人数になる。クリスマスパーティをかねているから、ギフトは欠かせない。皆に、複数のギフトを用意するのだから、その数は、200個程度になる。最近は、包装用紙代がもったいないので、マニラ新聞がその名誉に預かっている。   膨大なクリスマスギフトに囲まれて、ご機嫌のKIAN。外では、大工さんの子供達が遠慮深げに中を覗いていた。カメラを向けると、はじめは恥ずかしがっていたが、そのうち、無垢な笑顔を見せてくれた。        若者組みは、それぞれがしなを作ってカメラに収まる。花も恥らう10代の若者だ。 ヤヤドナ(KIANの子守兼メイド)とツーショットにおさまる息子。ヤヤは休み中、ずっとファームハウスにとどまって、メイド役をこなしてくれた。どうも父親のいる家には帰りたくないようで、曰く因縁があるらしい。カーネルも、今回はたっぷりと休んで、娘のキムとKIANに囲まれてご機嫌だ。 いよいよ、恒例の撮影会。それぞれのファミリーがおばあさんを囲んで記念撮影だが、子供達との撮影では、KIANは、真ん中に座って、いかにも、私がボスって感じだ。息子も皆に促されてビアンカとのツーショット。 クリスマスギフトを配るのはKIANの役目だ。私には、T-シャツが用意されていた。 その後は、しばらく時間つぶしをして、12時を待つ。そんな時はカラオケが定番だ。 12時になると、新年の無事を祈って、鍋やフライパンをたたいて家中を歩き回って、悪霊払いをする。   そして、いよいよ新年の食事会だ。6時過ぎには簡単に食事を取ったのだが、彼らの食欲はとどまるところを知らない。 それにしても大量の食料だが、残りは、お土産に持って帰らせるから、わざと大量にあまるように用意してあるのだそうだ。 KIANと言えば、好物のパンシット(焼きそば)をほおばるだけだ。

2014 年末パーティ 2015年2月5日



息子が手塩にかけて育てていた黒豚が脱走した。黒豚の放牧地は金網で囲まれているのだが、黒豚が本気で体当たりすれば、ひとたまりもない。また、豚は地面を掘って、何か食べるものを探す習性があるので、フェンスの下も掘ってしまう。特に餌場の近くのフェンスはかなりへたっていた。 ちなみに黒豚のえさは、ぬかで、農場の米の副産物だ。だから、市販の豚の餌よりもかなり安くすむ。ぬかは、玄米を白米に精米する際に出てくるのだから、栄養豊富なはずだ。でも、それだけでは栄養が偏ってしまいそうだが、それは、放牧の良いところで、雑草や土の中の昆虫を食べたりして、元気に育っている。 そんな訳で、黒豚たちがこぞって塀の外へ逃げ出してしまった。目的は、単にえさ探しだから、畑の隅に行って、一所懸命土堀をしている。 すわ一大事とばかり、農夫のダニーを呼びつけた。いつも餌をやっているダニーの掛け声に黒豚は一斉にかけ散じた。ダニーは準備周到にぬかを持ってきており、黒豚たちはすなおにダニーの後を追って、一件落着となった。 まるで飼い犬のようにダニーの後を追って歩き去る黒豚たちは、とても可愛かった。息子が将来、農場経営の柱にしようと目論んでいるだけに、もしものことがあっては、心配したが、杞憂だった。

黒豚が脱走した 2014年2月5日


KIANのいとこのアレインは14歳、ハイスクールの2年生だ(右下の写真の左から2番目)。この日は、年長組の女の子5人が勢ぞろいして、ファームハウスの石畳で親交を深めていた。一方、年少組は、お猿さんの小屋の前に止めてあったトライシクルで遊んでいた。 その時、アレインが学校のクラブで練習している器械体操、床の演技を披露し始めた。色白で細身のアレインの演技は、なかなか見ものだった。それを見たKIANが、我もと闖入し、演技中のアレインを突き飛ばしたのだ。          そこで、アレインとKIANの競演が始まった。KIANにしてみれば、アレインが遊んでいるように見えたのだろう。KIANも開脚には自身がある。アレインのスタイルを真似るが、アレインの足の長さにはかなわない。今度は、ジャンプだが、私のバカチョン・カメラで見事、空中姿勢を収めることができた。 さらにKIANは何を勘違いしたのか。空手の構えを始めた。これが、後日、空手道場に通わせるきっかけになった。

アレインの器械体操にKIANが挑戦 2014年2月5日



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洞窟探検の後は、まずは、レガスピ市のなじみのアリバーレストランでランチ、そして、その後、ジェーンが将来、展望レストランを計画している土地を尋ねた。 レガスピ市の市庁舎の裏手の丘にあるジェーンの土地は、北にマヨン火山、東にレガスピ市を望む絶景だ。この日、マヨン火山は、雲に隠れて見えなかったが、レガスピ市は、ばっちりだった。そこには、ジェーンのもち物であることを示すたて看板が誇らしげに立っていた。 道路を挟んで反対側に1000m2ほどの、小高い土地があって、そこからは360度の景色を楽しめる。西側は広大な椰子の木林が広がっており、ここで、展望レストランとペンションを建設し、この子達に運営を委ねるという算段だ。未来のオーナーはもちろんKIANだ。幼くして、レストランのオーナーを約束された、KIANは幸せ者だ。 この日は、適度な風も吹いて、将来の夢を描きながら、心地の良いひと時を皆で過ごした。  

レガスピの展望レストラン用地訪問 2015年2月5日


ジェーンの勧めで、今日は、皆で近くの鍾乳洞を探検に行った。2~3度、行ったことはあるのだが、KIANにとっては初体験なのできっと喜ぶだろうという主旨だ。農場から車で一時間くらいのところにあるこの洞窟は、Hoyop-hoyopan Cave と呼ばれ、フィリピンでは、あまりおめにかかれない鍾乳洞だ。しかし、山の中腹にあるためか、水はほとんどなくて、美しいとは、ちょっと言いにくい洞窟だ。 農場に遊びに来ていたカレッジグループを伴い、トライシクルでタバコの街に向かったが、途中、年末のパレードに遭遇。ジェーンの長兄、ダシンの家で、教会に出かけていたジェーン一家を待つ。 カレッジが5人、ハイスクールが一人、それにKIAN、私と息子、それにカーネルとジェーンの総勢11人が7人乗りの三菱モンテールでぎゅうぎゅう詰めでで出かけた。年長組みで車はいっぱいだったので、後、7人の年少組みは、割愛された。1時間くらいで、 ホヨップホヨパンというおかしな名前の洞窟に到着。カーネルとジェーンは、どういうわけか車で待っているというので、子供達を伴って、急坂を登ること、約5分、いよいよ洞窟に到着だ。       ホヨップホヨッパンと風が吹き抜けるというような意味らしいが、暗闇に恐れをなしたKIANは、常に抱っこをねだる。私は、写真撮影に忙しいので、もっぱら息子が抱っこ役だ。 洞窟を突き抜けると反対側の斜面に出る。そこからは、マヨンの絶景が拝めるはずだったが、今日は雲って見えなかった。さらに、ちょっと上にある入り口から再び洞窟に入ると、天井にはこうもりがいて、KIANはものめずらしそうに懐中電灯をあてている。 大きな手のように見える鍾乳石には頭をつけて挨拶するKIAN。           洞窟を出ると、おきまりのお土産屋だ。記帳をしてから、皆、キーホルダーなど他愛のないものを買い求めていた。

洞窟探検 2015年2月3日



翌日、一日違いで農場を訪問する息子を出迎えにレガスピ空港に皆で出かけた。しかし、息子からの連絡によると、空港は大混乱で、出発予定になってもチェックインもできず、この日の内に出発できるかどうかも知れず、ただ、ひたすら空港で待っているだけとのこと。それでも、レガスピに遊びに行けると期待している子供達の手前、出迎えを中止するわけにも行かず、とりあえず、大勢で出かけて行った。 二日目の農場といえば、雨がちで、気温も25度を下回り23.5度、寒いというのが実感だった。マヨン火山の中腹にはかすかながら滝が見えた。 カーネルとキムは、あらかじめ送っておいたマウンテンバイクで早朝からサイクリングとしゃれこんだものの、2時間後、帰宅した時、カーネルはへとへとになっていた。一方、18歳の娘のキムはけろりとしていた。      息子が気を入れて作った黒豚の放牧場にも子豚が生まれて11頭にに増え、息子を出迎える準備も整っていた。 定員が7人の三菱モンテーロに子供3人を含めて8人が乗り込み、息子が乗るスペースがなくなっていた。レガスピに到着すると、まずは、おなじみのアリバー・レストランで食事。その後、ガイサノ・モールのゲームセンターで一遊びして時間をつぶした。      息子から、予定の次の便に乗れることになったと聞いて、空港へ向かう。しかし、出発が遅れ、時間がありそうなのでレゴのおもちゃを買って、レストランで組み立てて時間をつぶす。   息子が乗った便がいよいよ到着間近となって、待ち合わせ場所に急ぐ。ティーンエイジャーはいつでもどこでも楽しい。 いよいよ、息子が到着した。息子を見ると、KIANは「クヤ ケイシー」と大声をあげて歓迎。皆で、まずは記念撮影だ。天気男と自称する息子が現れると、まさに虹がでて、息子を歓迎した。 農場に到着すると、恒例のカラオケだ。子供達に人気のクヤ・ケイシを迎えて、皆、楽しそうだ。 後日談だが、この日のセブパシフィックの混乱は尋常ではなくて、人災天災が重なって、怒号が飛び交う状態だったそうだ。チェックインシステムがダウンし、係員の無断欠勤、などなど、カウンターは、ほとんど機能しなかったらしい。そのため、当局は、セブパシフィックに厳重に注意し、罰金刑を課したそうだ。

息子の出迎えも大仕事 2015年2月3日


2014~2015年の年末年始は、土日と祝日が重ならず、実に効率よく配置され、超ド急の大型連休となった。12月20日(土)から帰省ラッシュが始まり、23日(火)あるいは24日(水、クリスマスイブ、祝日)あたりがピークとなり、25日(木、クリスマス、祝日)には、マニラは空になる。 そんな訳で、チケットが安くなり始める25日(木)にビコールへとびだった。車で移動したキム、ヤヤ、双子、ボボイらは、前日の早朝に出発し、無事にダシン(ジェーンの兄)の誕生日(奇しくも24日のクリスマスイブが誕生日)に間に合った。 余裕を見て3時間前に空港に到着するよう、出発したが、スカイウエイに車の影は見えない。しかし、空港は、いつもよりは、かなり混雑していたが、混乱というほどではなくて、粛々と順番を待った。私の荷物だけをチェックインする予定だったが、係りの人が、携帯でチェックインをしていて、荷物さえ預けなければ、そのまま、出発ターミナルに行けるということで、大分時間を節約できた。   空港へ向かうスカイウエイはがらがらだった。まだまだ眠いKIANはカーネルに抱かれてご機嫌。 空港の混在はかなりのものだったが、まだまだ尋常の範囲だった。 この日は、幸い、マヨンが顔を見せていた。半年ぶりのKIANは、大分慣れたせいか、さほど興奮した様子は見せなかった。 年に数回、訪れるビコールだが、マヨンの勇姿を眺めると、故郷に戻ってきた気分になる 空港には前日先行したモンテーロに乗って子供達が迎えに来ていた。KIANの宿敵、いとこのジェルミーは、この年、半分ぐらいをマニラで過ごしていたので、久々の再会というほどのものではなく、感慨も半分だったようだ。 出迎えは、皆でやってくるのがフィリピン風、車に乗り切れないほどの人数だった。途中、バイクの衝突事故に遭遇 一休みして、早速、KIAN憧れの農場を散策、KIANは家畜に餌をやるのが大好きだ。まずは南のライスフィールドに向かう。 テラピアの養殖池ではえさやり、母豚は、いつもちょっと苦手のKIAN ハンモックで一休みして、農場の入り口近くの鶏ファームに向かう子供達。 大型のカビアは先の台風で全滅してしまったが、今は、ネイティブチッキンという普通の鶏を飼っている。バナナ園も、実りが近い 家の近くにはお猿さんを飼っている。残念ながらメスは死んでしまったようで、今は、一匹だけだ。このサルは、女の子と子供を見ると敵愾心をむき出しにする。私が、手を出したり、手をつかんでも全く無視しているのだが、原因は不明だ。 […]

2014~2015、年末年始の農場訪問 2015年2月3日



KIANは、4歳にして、幼稚園に通う傍ら、英語の家庭教師、公文、ピアノ教室と親馬鹿チャンリンの典型みたいな生活をしている。テレビで漫画ばかり見て時間をつぶすよりも、よほどましだと、私と両親は気にかけない。今度は、毎週、土曜日通っているマカティスクエアの2階に極真空手の道場があるのを発見して、早速、様子を見に行った。 MAKATI SQUARE ARENAという、多分、元ボーリング場だったところに各種格闘技の練習場があった。ボクシング、テコンドウ、キックボクシング、それに極真空手の看板を発見。その時は、ボクシングしかやっていなかったが、パンフレットによると、空手教室の入会金が2000ペソ(ユニフォーム代込み)、月謝が、子供は1000ペソ、大人は1500ペソで、なんとか賄えそうだ。ちなみに、日本人の月謝は、何故か倍だ。     道場があるのは、月水金の5時半からと7時からの2回、日曜が10時半から12時までなので、KIANは毎週、日曜に通わせることにした。とにかく、体を動かすのが大好きなKIANだから、きっと、喜ぶだろう。Kidzooonaで毎回、400ペソ払うより、よほど安上がりだ。 それに、空手や柔道などなら、KIANのメタボ気味の体も締まり、礼儀作法も身につけることができるばかりか、自分が強いという自信がついて、精神的に強い人間になれると思う。正直な話、公文やピアノはKIANに、似合っているとはいい難い。しかし、学校の成績ばかりではなくて、格闘技や音楽を身に着けたいというのは、私の、子供のころからのあこがれでもあった。そんなわけで、私(と両親)の期待を一心に背負って、お父さんの後を継いで、未来のフィリピン国家警察長官の道を歩むのがKIANの人生なのだ。そのころは、私は100歳を越えていて、この目で見ることは不可能だろうが。      日曜に出直して、朝からMakati Squareに行ってみると、あいにく、その日はボクシングのコマーシャルビデオの撮影があって、場所が使えないそうで道場はやっていなかった。しかし、極真館フィリピン支部の滝田さんがおられて、簡単な質疑の後、早速、入門することになった。 その時、同行したアテ・キムの目が輝いており、やはり国家警察の幹部を目指す彼女にとって、日本の格闘技は憧れだった。そこで、迷うことなく、姉弟そろって入門の運びとなった。彼女が一緒に通えば、KIANの面倒が見れるし、励みにもなる。現に、ピアノのレッスンに双子の一人、アレクサが参加したら、大いに盛り上がったそうだ。また、夜と日曜なら彼女にとっても時間的にも都合が良くて、KIANも、きっと姉の熱心に励まされて長続きするだろう。帰り際、滝田さんとアシスタントの人が、一声、「オス」と声を発していたのが、いかにもという感じで、日本の雰囲気を感じた。 次の日曜まで待ちきれず、月曜の夜、食事を早々と済まして、道場に向かった。遅れること、約5分、丁度始まるときで、なんとか、フィリピーノタイムの汚名をかぶらずに済んだ。20人ほどが参加していたが、黒帯もいて、少年あるいは若い女性が、きびきびと動いていた。KIANも早速、溶け込んで周囲の動きにあわせて掛け声をあげる。指導者は一人だが、ベテランがキムやKIANを指導してくれて、新人とベテラン、一緒に練習するあたりは、道場の独特な雰囲気を醸し出している。 一時間も経つと、KIANは疲れてしまった、ドクターストップ、私に抱かれて見物に回る。1時間半の練習は、KIANにとってはきついようで、集中力が全く途切れてしまう。しかし、数週間も通えば、ついていけるようになるだろう。姉のキムの集中力はすごくて、1時間半丸まる必死に先生の動きを真似ていた。このことからも、キムが学校の成績が良いというのはよくわかる。 レッスンが終わると、KIANも戻って、礼儀、そして片付け、これが大事なのだ。片付けの段になると、KIANは大喜びで参加していたが、邪魔をしているだけのようにも見えたが。 家に帰ると、KIANは得意になって、空手のレッスンを皆に話し、ビアンカや双子も、空手を習いたいといい始めた。5人となると、さすがに費用が嵩んで大いに躊躇するところだ。

KIANが極真空手に挑戦 2015年1月27日


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昨年、初頭、退職ビザを取得され、後半にフィリピン在住を開始した退職者と食事をする機会があった。用事を終えて、時間が余ったので、ホテルのコーヒーショップで、夕食までの時間調整をした。そこで、コーヒーの支払いに、運転免許証を見せて、シニア・シチズンしての割引を受けたのだ。てっきり、そのホテルは、その方の定宿だったので、特別サービスかと思ったが、その人曰く、どこのレストランでも可能だという。 その証拠に、そのあと、夕食をとったリトル東京のきくふじでも割引を受けることができた。12%程度の割引だったので、多分、VAT(12%)が、免除されたのだと思う。もちろん、彼は、シニア・シチズンシップは持っていない。ちなみに私のSRRVカードを見せたら受け付けてもらえなかった。 ご承知の通り、シニア・シチズンシップという制度は60歳以上の高齢者が、レストラン、薬局、スーパー、映画館、などなど、ほとんどの場所で、5~20%程度の割引を受けることができる制度で、フィリピーノ高齢者の福音となっている。外国人は、原則としてこの恩恵を受けることができないが、市あるいはバランガイで、その判断が違い、居住している場所によっては、SRRVなどの永住ビザを持っている場合に限り、その恩恵にあずかることができる。マカティ市の場合、PRAが間に入って、その取得に動いたが、時のビナイ市長(現副大統領)により、拒否された。 PRAを通じて、なんとか発行してもらえたのが、ブルーカードというナンバー・コーディング(曜日毎に一定の末尾番号の車は、公道を走ることができない制度)の免除だ。これだけでも、仕事上、毎日出かける私には大きい。しかし、運転免許証さえ持っていれば、このシニア・シチズンシップの恩恵に預かれるというのはとても大きい。 しかし、残念なことには、私は、5~6年前にすりに財布をすられて、その際、なくなった運転免許証をほったらかしにしてあって、無免許であることだ。運転は、もうしないと決めていたが、この際、取り直そうかとも思う。 さらに、翌日、別の日本人と食事を取ったら、シニア・シチズンシップ・カードを忘れたと、残念がっていた。その方によると、シニア・シチズンシップは誰でも取れると豪語する。バランガイに申し入れて粘れば、何とかなるという。私の居住するバランガイ・サン・アントニオは、ビナイ一家(副大統領とその息子)が住んでいるので、どうなるかは、わからない。ちなみに、この方はビナイ副大統領と懇意にしているというので、なんとかして欲しいとお願いしたが、たかが、外国人のシニア・シチズンシップの発行に、副大統領が、動くわけにも行かないだろう。  フィリピンの免許証と、話題には関係ないが、街で見かけたど派手のタクシー 話し変わって、運転免許証の効用を発見した方の住居は、郊外なので、車が必須だ。そこで、トヨタの新車も買い求めたのだが、最近のガソリンの値下がりには、メリットを満喫しているという。ちなみ、かつては、ガソリンが50ペソ+、ディーゼルが40ペソ+だった、それが、1月11日にはそれぞれ40ペソ、30ペソを割り込んでおり、さらに、22日には、それぞれ20ペソ、30ペソ台、半ばまで下がった。 原油の価格は、40ドルくらいになっているはずだが、20ドル台になるという話もあるので、それぞれ、20ぺソ、30ペソを割り込むのも時間の問題だろう。こうなると、ガソリン、ディーゼル価格が、昨年の半分以下になるので、当方としてもうれしい悲鳴だ。 この原油価格の下落は、OPECにより、仕掛けられたもので、アメリカのシェールガスの生産を叩き潰す狙いだという。シェールガスの採算ラインは60~70ドルというが、OPECでの原油コストは10ドル台で、まだまだ、余裕があるそうだ。一方、ロシアやベネズエラは経済危機に陥っているという。それにしても、10ドル台の原価のものを100ドル以上で売っていたなんて、なんとも馬鹿にした話だ。いすれにせよ、この世界経済戦争が、どう決着するのか、見ものだ。 原油安が原因かどうかわからないが、フィリピンの株式市場は好調で、23日には、史上初の75000ペソを超えたという。一方、1ドル=45ペソに近づいて、ペソ安傾向が続いていたが、一転して、44ペソに近辺に反転してペソ高傾向になっている。退職者にとっては、円安とペソ高のダブルパンチだ。        1月22日の石油価格               1月11日の石油価格 最後に、この方が、嘆いていたのが、円安だ。年金で暮らす退職者にとって、この円安は、致命的だ。昨年の半ばごろまで、ここ数年、1万円が5200~300ペソを推移していた。しかし、1ドル=120円という水準にいたって、1万円が3700~800ペソになってしまったのだ。なんと一万円につき、1500ペソの目減りで、収入が3分の2くらいになってしまった。 以前、女子大生の卒論のお手伝いで、退職者の聞き取り調査をしたとき、皆さんの生活費は一ヶ月に10万円と口をそろえていた。ペソに換算する52000~3000ペソとなる。これは、フィリピン人なら部長級の給与だから、十分生活できる。しかし、この生活レベルを維持しようとすると、現在のレートで14万円が必要になる勘定だ。 この方にしてみれば、貯金には手をつけないで、年金だけで普通の生活と週一回くらいのカラオケで息抜きができると思っていたものが、4万円がどこかへ行ってしまったことになる。そのため、このカラオケの資金が円安で消えてしまい、夢も希望もないというわけだ。これだけは、神に祈るしかないと悲痛な顔をしていた。 […]

運転免許証でシニア・シチズンシップを享受 2015年1月25日