Yearly Archives: 2010


 1989年来の古いフィリピン人の友人に会うために、マカティ、グリーンベルトのイタリアネスで朝食を取った。イタリアネスはグリーンベルト2、パセオデロハス通りに近い端にあるが、なかなかの人気イタリア料理店だ。この人と会うときはいつもここと決まっている。それは屋外の席でタバコが吸えるからだ。彼は葉巻をいつも手から離さない。グリーンベルトといえばマカティのど真ん中にありながら、ゆったりとくつろげてすばらしいところなのだが、すべてが高級でお値段が少々高く、つい足が遠のいてしまう。  グリーンベルト3の池がある付近がグリーンベルトの中心だが、イタリアネスはそこからマカティアベニューとは反対側、西へ250mほど行ったところにあり、パセオデロハス沿いにあるマクドナルドのすぐ裏だ。  様々な嗜好を凝らしたお店が並ぶレストラン街を抜け、その終点がイタリアネスだ。朝の10時だというのにそこそこの客がいる。イタアリネスはほとんどの有名モールに出店しているが、その人気の秘密は、注文した料理についてくるホームメイドのおいしいパンが食べ放題のためだ。このブログの第一回目、イメルダ・マルコスと遭遇したのもモール・オブ・エイシアのイタリアネスだった。  私の20年来の知己は、最近大手会計会社の社長を引退し、悠々自適の生活をしているらしい。私より10歳年下だが、私が生涯で尊敬する5人の中の一人とも言える人物だ。1990年代の駐在員時代、毎週一回、ありとあらゆることの相談に乗って貰っていた知恵袋そして百科事典だ。どんなことでも的確なアドバイスを瞬時にくれる、なんとも頼もしい天才といえる人物で、もともと会計士(CPA)だから、会社の経理や運営については誰よりも詳しい。これからも本当に困ったときは相談に乗ってもらうつもりだが、フィリピンにおける生涯の師と仰いでいる人だ。 イタリアネスの食事は朝食でも300~400ペソで、庶民には少々きつい価格だが、いかにも食欲をそそる。たまのデートで振舞うのは良いが毎日というわけにはいかないだろう。 夕食のメニューも食欲をそそる料理が並んでいる。しかし、値段はいずれも一皿400ペソ以上で、ちょっと食欲を減退させる。  

イタリヤネス-グリーンベルト 2010年1月28日


人体生理学を研究している教授が、今、マニラで一番おいしいと称する焼き肉店に連れて行ってもらった。場所はマカティスクエア、クリークサイドの焼き肉「牛門」の下、「牛門」の姉妹店らしい。席は6つほどしかない小さな店で、帰るころには席待ちをしている人たちが大勢いた。休日のせいか家族連れがほとんどだが、事務所が休みの土日に混んでいるという事は人気店の証拠だ。  料理は特に変ったものがあるわけではないが、定番のロースが特においしいという。値段的には普通、飲み物も入れて一人頭1000ペソ程度は覚悟しておいたほうがよさそうだ。(メニューは画面をクリックして拡大してみてください)  

焼き肉「龍苑」の紹介 2010年1月27日



マカティのジュピター通りの中ほどにある中華料理店「ルートンマカオ」は昼時は12時を回るといつも満員の盛況だ。本格的な中華料理店だがとにかく、おいしくて安くて、量が多いという、3拍子揃ったお店だ。 相棒のジェーンは退職者のアシストをしてPRA、銀行、クリニックと回って昼時となると、決まってルートンマカオで退職者と一緒に昼食をとる。100%の日本人が100%満足するお店だ。特に支払いのときになるとその安さに感激する。料理は一皿200~300ペソで、この日、3人で5皿とって、飲み物を入れて1500ペソ足らず、大分余してしまったので、たとえ5人で食べても同じようなものだ。 まず初めに必ず注文するのがほうれんそうのスープ、これをおいしいといわない人はいない。それにウベ芋のコロッケ。これは私好みなだけで、好ききらいがあるようだ。  シーフードバスケットは野菜とシーフードの炒め物、入れ物まで食べることが出来る。シーフードの固焼きそばはルートンマカオの名物だ。 この日のメインディッシュはパタ・ティム。豚のすね肉をトロトロになるまで煮込んで、中華パンと一緒に食べる。見た目よりもあっさりした味で、北京ダックやふかひれスープと肩を並べるといっても過言ではない中華料理の華だ。 パタティムにあわせる中華パンはそれだけでもとてもおいしい。デザートは白ゴマをまぶしたアン入り饅頭だ。 料理の種類は豊富で、高級中華料理店とそん色ない。また、飲茶もあり、横浜中華街と比べて、満足度は10倍くらいだ。マカティ・アベニューにお出での際は是非試してほしい。(画面をクリックして、拡大してみてください)

中華料理店、ルートンマカオの紹介 2010年1月26日


児童養護施設でボランティアをしていて先日亡くなった退職者の影響で、養護施設にいたく興味を抱くようになった。英語ではOrpharnage(孤児院)というそうだが、フィリピンでは避妊が宗教上嫌われ、堕胎は法律で禁止されているから、いやでも望まれない子供がたくさん生まれてくる。大概の場合は家族が、神が授けてくれた天使として育てるのだけれど、売春婦と不特定の客の間に生まれた子供など、親が面倒見ることがままならないケースも多い。そのような子供やストリートチルドレンを預かって育てるのがOrphanageだ。 Tuloy Sa Don Bosco(ドンボスコに来たれ)はアラバンにある、7ヘクタール(7万平米)もの敷地を持つ大きな施設だ。野菜畑や養魚池を持ち、子供達が自然の恵みを得て、伸び伸びと暮らしていると聞かされ、私がタバコの農場に作ろうと心に描き始めた養護施設にイメージが似ているので早速見学に行くことにした。ちなみにドンボスコは有名な牧師で、有名な教会や学校の名前になっている。  中に入ると立派な建物が並び、高級住宅街のようだ。しかし、子供達の姿が全然見えない。それは、日曜の午前中なので、皆教会に行っているためだそうだが、何かフィリピン独特の喧騒とは無縁の世界だ。  そこで教会に行ってみると、養護施設の教会というよりも高級住宅街にある由緒ある教会といった面持ちだ。中世の教会の雰囲気を出すためにレンガを使い、建築的にもすばらしい。中に入ってみると数十人の子供達が大人に混じって牧師の話を聞いていた。入り口には誇らしげに教会建設のために寄付した人たちの名前を刻んだ碑がかざってある。その中にはアヤラ・アラバンビ・レッジに住むフィリピンNO1財閥の総帥、ゾベル・デ・アヤラの名前もあった。 ミサの間、周囲を見学してみた。体育館は大学並みの立派なものだ。サッカー場まである。体育館の通りにはロータリークラブが職業訓練の施設として30万ドルの寄付を行なったという碑があった。 野菜畑もきれいに手入れがされている。しかし、これだけの施設にいる子供達に食べさせるにはいかにも貧弱だ。きっと職業訓練の一環なのだろう。 教会の外にいた人に聞いてみたら、現在施設には50人足らずの子供しかおらず、二つの宿舎はスポンサーがいないので空っぽだという。現在二つのスポンサー(マクドナルドとカルテックス)の寄付で9歳から18歳の子供達が50人ほど暮らしているそうだ。平日は外の子供が勉強や職業訓練に通ってくるそうで、赤ん坊や幼児は対象としていないそうだ。宿舎にはマクドナルドのシンボルマークが飾られている。  教会のミサが終わって子供達が出てきた。こんな施設で生活しているなんて、どこかのエリートの集団かなにかと勘違いしてしまいそうだ。これほど立派な宿舎、教会、教室、体育館を建設したのだから、きっと相当な額の寄付があったのだろう。しかし、それが子供達のために役立っているのだろうか。寄付を集めることが目的となり、何か肝心なことを忘れているのではないか。平日に来れば印象は違うのかもしれないが、いずれにせよ、私が描いている農場の養護施設とは程遠いので、さっさと退散することにした。  外に出てみると、目の前で闘鶏をやっていた。公式のものではないらしいが、そこにはフィリピンらしい活気と喧騒があり、なぜかほっとした。

Tuloy Sa Don Bosco児童養護施設の見学 2010年1月24日



アヤラ・アラバン・ビレッジといえば、フィリピン有数の高級ビレッジとして有名だ。マニラから南に約20kmほどSLEX高速道を下り、アラバン出口あるいはフィルインベスト・コーポレートシティ出口を出て右に進み、2kmほど先の左側一帯がこのビレッジだ。ここはモンティンルパ・シティの一部で、日本の戦犯を収容していたことで有名な刑務所がある所だ。「モンティンルパの夜は更けて」という歌を通じて、団塊の世代以前の方々には懐かしい地名だ。 飛行機からアヤラアラバンビレッジを望む。写真の手前のビル群がフィルインベスト・コーポレートシティ。その向こうゴルフ場を中心に広がっているのがアヤラアラバン・ビレッジだ。(写真の画面をクリックして拡大してみてください)  アヤラ・アラバン・ビレッジの面積は1000ヘクタールを超え、中に18ホールのゴルフ場さらにはラサール大学の付属校などまでがある。駐在員の時代、都合2年ほどこのビレッジに住んで、ここのゴルフ場の会員になっていた。名門ゴルフ場のクラブハウスはいかにも重厚で、お金持ち気分をいやが上にも味わされたものだ。 この日は、EIEN英会話学校の体験宿泊のご夫婦を案内して、フィリピンでの住居、医療の現状を把握するという目的だった。そして初めに向かったのがフィリピン最高級クラスの住居が数千軒建ち並ぶこのビレッジだった。  このビレッジにお住まいの日本人退職者を訪問するというのが、入り口で入門許可をもらうための算段だ。そのため、退職者のかたには、ゲートのセキュリティガードから家の固定電話に電話が入るから、口裏を合わせてほしいと、連絡を入れてあった。しかしながら、急の用事で家を空にすることになってしまって、対応できないというのだ。それでも一か八か、運転手に住所を名前を教えて、入門許可をもらうように指示をした。結果として入門できたのだが、車の中が皆日本人だと言うので敵も油断したようだ。ちなみに、このようなビレッジは入門管理が大変厳重で、容易に中に入ることが出来ないのだ。 ビレッジの中に入って、日本人ご夫婦、そしてEIENのスタッフは、こんなところがフィリピンにあるのかとびっくりしていた。一軒一軒の家も超豪邸といえる立派さだが、それが行けども行けども無数といえるくらい並んでいるのだ。その中でも特に豪邸というので、下の写真の家に行ったが、塀の外からなので残念ながらよい写真が取れなかった。しかし、玄関にはフルサイズのベンツが2台置かれ、想像しがたい贅沢な暮らしをしているのがうかがわれた。 下の写真はここにお住まいの退職者の家だ。家賃は10万ペソ/月。2階にはバストイレ付の大きなベッドルームが4部屋ある豪邸だ。庭にプールがあるのは当然のことだ。  ちょっと古い写真だが、ここにはこんな豪邸はざらにある。そものそも高級ビレッジの原理は簡単で、1区画が1000平米以上に造成して、それを分割することを禁止するのだ。そうすると土地だけでも、現状で10~20百万ペソ、すなわち、2千~4千万円となり、並みの金持ちでは家を建てることができない。1000ヘクタール(1ヘクタールは1万平米)のビレッジにその50%が宅地として、500ヘクタール。それを1000平米で割ると、5000区画、すなわちこんな豪邸が5000軒ある勘定になる。 この周辺はマニラのベッドタウンとして戦後開発され、高級住宅街として多くの日本人を始めとする外国人が暮らしている。アヤラアラバン・ビレッジとアラバン・ザポテ・ロードを挟んだ反対側一帯はBFホームズという広大なビレッジ群だ。その住民を目当てにフェスティバル・モールやタウン・センターなどの高級な買い物、食事どころがある。さらにちょっと先へ行くと巨大なSMサウス・モールもある。 さらにSLEX高速道路に近いところには最新鋭のエイシアン・ホスピタルがあり、ここには生活インフラのすべてが揃っている。退職者がマニラに暮らすとしたら、一押しのエリアだ。 アヤラアラバン・ビレッジに隣接するフィルインベスト・コーポレートシティはマカティ、オルティガスに次ぐ副都心として開発されたが、バブルがはじけた 1990年代の終わり、10棟弱の高層ビルが建設された以降手がつかず、最近ようやく建設の槌音が聞こえ始めた。しかし、マカティの隣のフォートボニファシオグローバルシティはここ10年、目覚しい発展を遂げているために、第4~5番目の副都心に地位を落としているようだ。左写真がマドリガル・ビジネスパークを中心に上方左にアヤラアラバンビレッジ、下方にBFホームズのビレッジ群jを望む。左の赤い屋根がタウンセンター・ショッピングモール。右の写真はフィルインベスト・コーポレートシティ。画面の左にフェスティバル・モールが見える。(写真画面をクリックして拡大して見てください)

フィリピンの高級ビレッジ「アヤラアラバン」2010年1月24日


先日、リトル東京の瀬里奈で食事を終えて、隣の席を見たら、ドラノ観光大臣とよく似た青年が食事をしていた。相棒のフィリピーナにそのことを告げると、「本人よ」と教えてくれた。それにしても30代に見える若者がまさか現職の大臣とはびっくりした。そうなると、一緒に写真を撮るしかないのが相棒のジェーンだ。この日はもう一人のCorporate Secretary(書記役)のソールも一緒だったので、3人が写真に納まった。  ドラノ大臣はセブの財閥の息子で、セブでドラノといえば泣く子も黙るお家柄だそうだ。日本人で、ドラノ一家の女性を嫁にしていて(本当かどうか知らないが)、それを悪用してPRA時代に脅されたことがある。 ドラノ大臣に、近々PRAが観光省の配下になること、PRAの会長、ゼネラル・アグリパイの下で働いていたことがあること、など話をしたが、なかなか気さくな青年だった。ちょっと、ドラノ一家の印象を良くした。  瀬里奈といえば(日本の高級シャブシャブ店とは何の関係もないらしいが)、マカティ・スクエア近辺では高級店として、予約がないとなかなか席がとれないくらいの人気店だ。パソンタモから新宿ラーメンの横の道を入って30m位のところにある。店の前にはトヨタ・カムリなどの高級車がいつもずらりと並んでいる。 この日注文したのは、5点盛り刺身(550ペソ)、冷奴、カナッペ、いわし丸干し、握り寿司、などなど、4人で3500ペソだった。一人1000ペソも見込んでおけば大丈夫だろう。特に刺身は量も多くて満足だった。 瀬里奈の売りはランチタイムのセットメニューだ。350ペソ均一で、海鮮御膳、すし御膳、とんかつ御膳、焼き魚御膳、天ぷら御膳、日替わり御膳など10種類くらいある。時間のないランチタイムにはうってつけだ。中でも私が注文した海鮮御膳は350ペソとは信じがたい質と量だ。先日、退職者をお連れした際もびっくりしていた。天ぷら御膳や焼き魚御膳(写真はさば塩焼きとさんま塩焼き)もまあまあだ。 ただ注意しなければならないのは12時過ぎに行くと予約で満員で席がないこと。11時30分くらいに行けば多分座れるだろう。逆に1時近くに行くのも手だ。  フィリピンは世界で唯一、日本よりも安く日本食が食べられるところだと言われている。一緒に夕食をとった日本人女性は、はじめ、日本の瀬里奈だったら、一人7000円は固いと躊躇していたが、4人で7000円で済んだ。フィリピンでの食事としては決して安くはないが、日本と比べるとかなり安い。しかも、マカティスクエア近辺は日本料理店が20軒もひしめく激戦地なので、ここで勝ち抜いている店はなかなか食べ応えがある。だからドラノ大臣のようなフィリピン人のエリートもやってくるわけだ。(メニューは画面をクリックして拡大してみてください)

瀬里奈でドラノ大臣と遭遇 2010年1月24日



 アラバンにある児童養護施設を見学に行くおり、久しぶりにSLEX(South Luzon Expressway)を通った。SLEXの上を通るSky Wayはマニラからアラバンを結ぶ第2高速道路として着工されたが、資金不足となり、1998年、半分くらい完成したところで中断。マニラから10kmのビクータンまでで仮オープンしていた。2008年初頭に残りの部分が着工されたが、それからはや2年、大きな進捗を見ることがなかった。   それでも久しぶりに通ってみるとかなり進んでいる。MRTとLRT1との接続工事と比べることは亀のようにのろいが、それでも進んでいるという感じが持てる。なにしろ6車線の道路を作るのだから、MRT/LRTの3倍以上の工事量だ。それにしてもこんなものを作らずに、LRTをアラバンさらにはラグナまで延長したほうがどんなに世のため人のためになるだろうと相変わらず思う。   SLEXのアラバン以降の拡幅工事で、長いこと高速道路とはいえない状況が続き、それが一段落したら、今度はSkywayの建設工事で渋滞し、市民の不興を買っていた。今日は日曜のせいか、あるいは脚注工事がほぼ終わっているためか、渋滞はなかった。しかし、横桁の工事も半分くらい、縦桁となるとまだまだ20~30%程度で、この上に路面となる床版をかぶせて、アラバンまでつながるためには、少なくとも後、4~5年はかかるものと危ぶまれる。    アラバンに近づくと、柱脚が丸くなっているのに気がつく。どうもここから構造が変るらしい。それとも6車線が4車線に減るのだろうか。横桁も今まで、道路方向に作って、その後道路と直角になるよう回転させていたものが、そのままの形で作ろうとしている(写真右)。一体どんな構造になるのか、楽しみだ。しかし、私がマニラにいるうちに開通することはないだろうから、この上を走るチャンスはないかもしれない。

スカイウエイの進捗 2010年1月17日


 タバコの農場には現在、5匹の成犬がいて、24時間セキュリティガードとしての役目を果たしている。雑種だがラブラドールやシェーパードの血が混ざった、フィリピン流に言えばメスティーサあるいはメスティーソだ。その中でボスとして君臨しているのが今日の主人公、アイス(オス6才)だ。   2003年3月チャイナタウンのペットショップ街で1ヶ月の子犬を1000ペソで買い求め、タバコへ連れて行った。アイス(オス)、タロー(オス)、チャコ(メス)、ティーナ(メス)の4匹だったが、ティーナはすぐに衰弱して死んでしまった。予防注射やら食事の要領がわからず初めはまごついたが、しばらくして子犬たちのとの新しい生活が始まった。農場の家はほぼ完成しており、子犬たちは家の中で寝て、その外、数匹の犬が家の外にいた。しばらく後、外の犬達は狂犬病で死に絶えてしまったが、予防注射のおかげで子犬たちは皆助かった。    相棒のジェーンの弟、ボボイがアイスを見て、これは純粋な雑種と評した時から、アイスの悲劇が始まった。他の子犬は家の中にいるのに、アイスだけは外に出されたのだ。毎晩、中に入りたがって、ほえまくり、私の怒りを買うことも多々あった。しかし、ある事件がきっかけで彼は無事に市民権を取り戻した。それは、あるときジェーンがアイスを車で轢いてしまったのだ。幸い死には至らなかったが、ほとんど動けなくなってしまった子犬を皆が同情して面倒を見た。それ以来、頭が良くて気が強い性格のアイスは皆に愛され、そしてもう一匹のオス犬の太郎との戦いに勝ち抜き、ボスになっのだ。  当時、農場には猫やウサギ、サルも飼っていた。犬たちは、農場にいる人間には絶対服従なのに他の動物達には容赦ない。結局、これらの動物はすべて犬達に駆逐されてしまった。  犬が良き家族の一員となるためにはしつけが大事だ。やたら可愛がるだけだと、犬は自分がその家のボスであると大いなる勘違いをして、飼い主に吠えたり、噛み付いたり、やりたい放題となり、やがて獣医に安楽死を依頼するはめになってしまう。たとえ小さい愛玩犬でも同じことだ。そこで私は犬の飼いかたの本に学んで下記を実行した。 1. 自分より先に食べさせない。 2. ソファーやベッドなど高くて気持ちの良いところには載せない 3. 耳や尻尾など触られていやなところを触りまくる(敏感な犬は子供が触ると反射的に噛みつく恐れがある) 4. 自分の足や体をまたいだり、交尾の仕草をしたら、それを跳ねのけてやめさせる(これはマウンティングという自分が優位であるという意思表示なのだ) 5. 食事はなるべく自分で与える 6. 毎日、数回、数分間、後ろから羽交い絞めのようにして体を抱え、口を手で握って塞ぐ。これを2~3ヶ月続ける   6番目のトレーニングは犬の最大の武器である口を抑えて、自分が絶対的かつ逆らうことができない主人であることを憶えこませる効果があるそうだ。だから、こうやって育てた犬たちは、私に全体服従で何をしても噛んだり、威嚇して吠えたりするという事はありえない。また、家族や客といるときも、ほえたり、噛んだりすることは絶対にない。それでいて、農場に帰るたびに最大限の歓迎の意をあらわし、全幅の信頼を置いていることを全身で表してくれる。 […]

忠犬アイス物語 2010年1月13日



 パスコの相棒のジェーンが卒業した国立タバコ・ハイスクールは、フィリピンでトップ3を競う屈指の名門ハイスクールだ。他には、フィリピン国立大学 (UP、University of the Philippines)付属ハイスクール、国立リザール・ハイスクールなどがあげられる。ご承知のとおり、フィリピンの学校制度は6-4-4ないし 6-4-5制で、日本の中学と高校をあわせたのがハイスクールで4年制と日本に比べて2年短い。また、大学は文系が4年、理科系が5年で、トータルの教育期間は日本より1~2年短い。その代わり、法学部や医学部は9年と、返って日本より長い。  タバコ・ハイスクールにはタバコ市やアルバイ県に限らずビコール地方全体から生徒が集まってくる。卒業すると多くはマニラのUPやレガスピのBU(ビコール大学)に進むそうで、地元に残っている人は少ない。卒業生には牧師、弁護士、医師、エンジニアー、その他多様な道に進んでいるが、未だに職に就けない人も少なからずいるそうだ。また、海外で働く人たち(OFW、Oversea Filipino Worker)もたくさんいる。  ちなみにタバコ・ハイスクールの全生徒数は8000 人に達し、フィリピン有数のマンモス・ハイスクールだ。ちなみに先生の数は300人程度と、小さな私立ハイスクールの生徒数にも匹敵する。なお、1学年は 38クラスあり、成績の良い順から第1クラス、第2クラスと順に振り分けられ、第1クラスともなると秀才の集団だ。ちなみにジェーンは第4クラスだったそうだ(当時は1学年は24クラス)。写真はタバコ・ハイスクールの校舎とユニフォームを着たジェーンの姪のバネサ。外からはわかりにくいが、学校のキャンパスは大学並みに広大だ。 今年は卒業から15年目で、10年、15年、25年そして50年の節目に行われる学年全体の同窓会の年だ。ジェーンはこの農場を会場として提供することを提案し、約50名の卒業生が集合した。100人以上来るのではないかと予測されたが、意外と低調だった。そのため前日から用意した100人分の料理が半分ぐらい残ってしまうのではないかと心配された。  料理の準備は前日の朝から、夜中まで、ジェーンの家族全員、メイドとその家族、パスコのマッサージ嬢のタンとデバインなどなど、総勢15人くらいでとりかかった。農場で飼っている2頭の子豚を犠牲にして、料理の主要な材料とした。アドボン・バブイ、上海ルンピア、クリスピー・パタそしてレチョンなどの豚肉料理、唯一の野菜料理のチョップソイ、それに定番のスパゲッティやサンドイッチ、さらにゼリーやブコ・パンダン、グラマンなどのデザートと、8人掛けのテーブルに乗り切れないほどの料理の量だった。飲み物はコーラやスプライト、1.5 リッター入りが40本も用意された。お皿は竹で編んだざるにバナナの葉を敷いた伝統的なものを100枚ほど用意した。 […]

国立タバコ・ハイスクールの卒業15周年同窓会 2010年1月5日


しばらく前、NHKで「アンチ・エイジング(老化防止)」と「赤ちゃんは天才」という番組をやっており興味深く視聴した。その番組によるとアンチ・エイジングのために脳を活性化する秘訣は下記の7つに要約されるという。 1. 体をよく動かす:よく歩くことやスポーツ、家庭菜園などの作業 2. 手先を使う:工作や裁縫、料理など 3. 日常の作業を自分でやる:片付けごとや炊事、洗濯などの家事仕事 4. やりなれないことをやる:左手で箸を使う、目をつぶって歩いたり、後ろ向きに歩くなど 5. 会話を楽しむ:若者や子供たちと積極的におしゃべりをする 6. 新しいことにチャレンジする:英会話やパソコン、ボランティ活動など 7. 好きなことを楽しんでやる:趣味や娯楽、カラオケなど    一方赤ちゃんは、あらゆる可能性を秘めた天才だという。サルに育てられればサルになり、狼に育てられれば狼になる。環境から何でも学び、何にでもなれる可能性を持った、まさに万能細胞のような存在だというのである。赤ちゃんは環境に適応し、もともと持っている能力を特化させ、不必要な能力を捨て去り、やがて当たり前の人間になっていく。要は年を経るごとに技能や知識は増えていくものの、可能性という点では老化していく。極論すればエイジング(老化)は生を授かった時から始まっているのだ。  下の写真はパスコの法律顧問のマリソールの子供。マリソールは9年制の法律学科を卒業する寸前に身ごもってしまい、典型的な「できちゃった婚」で、結婚式の前日まで結婚をためらっていたが、今では相思相愛で、3人目の男の子をこの8月に出産した。ちなみに3人の男の子は皆、父親似で、同じ顔をしている。写真は両親と一緒の長男、ジェルミ君6歳。将来はきっと母親の期待を担って弁護士か医者にでもなるのだろう。 生まれたての人間の赤ちゃんは、他の動物が生まれてすぐ歩きはじめる一方、未熟児で生まれるという事情から、しばらくは寝てばかりいる。しかし、1歳になって歩き始めたあたりから、肉体ばかりではなく、目覚しい知能の成長を開始する。そして2歳ともなると流暢に話し始める。私はフィリピンに住んで15年目を迎えるが、3歳児の会話能力には足元にも及ばない。彼らは、誰が教えるでもなく、たったの3年でその土地の言葉を流暢に話すことができてしまうのだ。  私の相棒のジェーンに、3歳になったばっかりの姪の女の子がいるが、名前はヤナという。赤ちゃんの時、数ヶ月間、農場で暮らしていたことがある。しばらく後、母親がダバオで亡くなった。その後、2年ほど父親とダバオで生活していたが、父親に仕事がないのでこのクリスマスに父親と一緒にタバコに戻ってきた。  ヤナはダバオで暮らしていた関係でセブやミンダナオ地方の言葉であるビサヤ語を話す。タバコに暮らすいとこたちはビコール語あるいはタガログ語を話すため、お互いに言葉が通じない。ヤナはそんなことはお構いなしにビサヤ語でまくし立てる。周囲の人たちは、大人も含めてさっぱり理解できないが、雰囲気でなんとかなるようだ。久しぶりのいとこを迎えた子供たちは言葉などお構いなしに皆で、はしゃぎまわっている。私の片言のタガログ語は、なんとか理解してもらえるようで、レベルがあって返って話しやすい。ちなみに、おじいちゃんが中国人のせいかジェーンに似ていてなかなかの美人でもある。 彼女がタガログ語やビコール語を話せるようになるには3ヶ月もあれば十分だろう。なぜなら子供は語学の天才なのだ。最近、フィリピン人の奥さんを持つ日本人の方が、幼い子供を連れて退職者ビザを申請することが多いが、その子供達はすぐにタガログ語を覚えてしまう。父親がたちが何年たっても英語もタガログ語もろくすっぽ話せず、フィリピン人の妻を頼りにしているのとはわけが違う。いずれお父さんが子供に通訳してもらう日が来るだろう。 […]

アンチエイジングの秘訣(赤ちゃんは天才)2010年1月5日